まつなが畑のはたけ日記

農ある生活をするため奈良御所市金剛山の麓に農地を借りスタート
素人農業の何気もない日々の日記

内と外の共通点

2013年08月29日 20時20分42秒 | Weblog



先日、お客さんに以前から気になっていた大阪のお店に連れて行ってもらった。

ゆっくりお話しが出来てとても楽しい時間だった。今はこういう時間が嬉しい。
ありがとうございました。


帰り道「私たちは少数派」という言葉が頭に残った。
私は田舎に居れば、そういう気は全然しない。少し社会に出るとそういう部分はあるのだろうけど、考えることなく過ごしていた。
都会に出ればその感覚が少し掴めたきがした。


人はきっとどんな人も共通した部分を持っている。
少数派も多数派も関係なく。
ただ、そこを見ぬふり社会構造になっているから、孤独感であったり、対立する相手を見つけだすことが必要であったりするように思う。


誰もが願う良い世の中ってどういうことだろう?
体罰による自殺、過労死・・・
世間話をする中でフムフムと思うこともある。

体罰で自殺なんて昔は考えられなかった。これは明らかに子供が変わったのだと私も思う。
過労死についても本人の精神の弱さにも原因がある。というのも私はそれなりに理解する。

人が変わった、子供が変わった。私自身もその軟弱に変わってしまった一人。
これは事実のように思う。ただ真実は違う。


「最近の若い者は」とか「最近の子どもは」とか自分たちは違ったかのように言う人は多い。
これは悪くなった事を懸念した発言で、良い世の中を願う発言でもある。
ただこの言葉に社会構造的大きな間違いがある。
正しくは
「何故こう育ったのだろう?」「私たちが何故こう育ててしまったのだろう」が私は正しいと思う。

新聞、テレビなどのメディア、による間違いは他者に原因を全て求めてしまったことにある。
どこかを批判することで自分を正当化することで、支持者を集め勝ち残り、継続をしてきた。
そこには情報までもが競争の上にあるというどうにもならない欠点がある。
そして教育までもが競争の為の教育である以上、敗者は必ず生むことになる。そこを隠し、努力した者、勝ち残った者、が評価されるべきという自由。
敗者は切り捨てられるという恐怖の上にある教育にこの国のどうしよもない原因はあると私は思っている。


本来、自分たちが正せば世の中は変わるものだが、どこか他者に原因を求めることで本当の原因を見失うことになってしまう。
多くの事に疑問を持つ社会では本来解決し良い方向へ向かうべきだが、多くの人が自分自身に原因を見出さなければ良い方向へとは向かうはずがない。
他者批判だけではお互い傷を付け合い潰し合いでしかなく、変わるべきは自分だということに気付かない。

そういう教育、社会の中で人はどんどん弱っていった。

私たちを育てたのは親世代である。
私たちの子どもを育てるのは私たち世代である。

真実というのは原因は他者ではなく、自分たちにあるということ。私の世代は受けた教育の意味と弱ってしまった現実を自覚することが大切だと思う。
自殺させた原因は教師にあっても、その子供を育てたのは誰なのか?今起きている社会を作っているのは私たちなのだ。

私自身が主体的に物事を捉え生きることで社会は変わる。子供たちは変わる。と信じている。
今という時間が子供たちが育っている時間だということを忘れてはいけない。今その時が育つ過程で、今起こっていることが結果なのだ。


宗教観が存在した時代は主体的に物事を捉える感覚があったように思うが、現代では無い。
今と昔では同じ人間でも教育や社会が違えば世界観が違う。だから考え方も感じ方も全てが変わってくるが、不変の価値も存在すると思っている。

それは、夕焼けを見てきれいだという感覚や、人の恩を感じたり、喜び、怒り、悲しみ、楽しみを感じたり。
そういう、人間という肉体、遺伝子に組み込まれた本能という部分にある価値。
これらが人の平和と愛の根源ではないか?
どれだけ正しい仕組みがあっても人が、人として生きられなければ真実というのは何時まででも見えてこないように思える。


こうして農業を休み、段々なにをすべきか見えてくる。
農業で成り立つことや、オーガニックが広まる仕組みも大切だが、何よりも絶対的な価値観を再び気づき取り戻すこと。
主体的にどれだけ生きることが出来るかに尽きるように思う。








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