私たちが失ったもの、豊かさとは?
と数日考える。頭では無く心で。
そして希望とは?
この震災が私達に問いかけた。
私が学生のころは「やりたい事が見つからない」「好きな事が見つからない」と言う声が良く聞こえた。
随分生きることにやる気が無いなぁと感じたものだ。
だが一方で物に溢れた時代こその発想にも思える。
物が無い時代は溢れることに豊かさと希望を持ったように思える。
今それが現実となり便利さも含め皆が求めた豊かさの結果、裏側には不都合な真実と言うものが陰を潜めている。(どの時代も形を変えてあるものだが)
それが今の原発事故であり、環境問題であり、あらゆる社会問題、格差の拡大、虐待、治安の悪化などではないか。
人は前進を経済発展もしくは今の経済の維持としているように見えるが本当にそうなのだろうか?
今回の震災の復興も経済頼みのような気がしてならない。
もちろん間違いではないと思うが今その経済発展を支えた原発が事故を起こし人は何を思い、前へ進む?
人はこの豊かな時代に娯楽は見つけられても希望は見つけづらい。
「無い」と言う時代には反対に希望に満ちていたように思える。そして求めるものは「物から心の時代へ」と変化していく。
では私たちはすべきことは・・。
「在る」ことで失ったならば、「無い」ことで求めれば良い。
溢れたこの時代、物による豊かさは欲となり経済の主役となった今、その行き着く先は?
その欲を制限することで「無い」という状態を作る。
食べ物を無くすという事は難しいけれども、
スーパーで好きな野菜を選んでいた生活から野菜セット定期便と言う選べない形にする。
暖房を使って作った季節外れの野菜を食べない。
便利な物を減らす。
自分のものを減らす。
手持ちのお金を無くす。
保障を無くす。
などなど沢山ある。
私は身の回りのものを削れる今こそしたい。
農業が安定してしまえば今よりも「無い」という状況を作るのは難しくなる。
だから今。
人は無くす事で求めるか?まだ在る事を求めるか?
「やりたい事が見つからない」という人たちを見て、
豊かさとは欲を満たすことでは得られないという事に気づき始めた言葉のように思える。
と数日考える。頭では無く心で。
そして希望とは?
この震災が私達に問いかけた。
私が学生のころは「やりたい事が見つからない」「好きな事が見つからない」と言う声が良く聞こえた。
随分生きることにやる気が無いなぁと感じたものだ。
だが一方で物に溢れた時代こその発想にも思える。
物が無い時代は溢れることに豊かさと希望を持ったように思える。
今それが現実となり便利さも含め皆が求めた豊かさの結果、裏側には不都合な真実と言うものが陰を潜めている。(どの時代も形を変えてあるものだが)
それが今の原発事故であり、環境問題であり、あらゆる社会問題、格差の拡大、虐待、治安の悪化などではないか。
人は前進を経済発展もしくは今の経済の維持としているように見えるが本当にそうなのだろうか?
今回の震災の復興も経済頼みのような気がしてならない。
もちろん間違いではないと思うが今その経済発展を支えた原発が事故を起こし人は何を思い、前へ進む?
人はこの豊かな時代に娯楽は見つけられても希望は見つけづらい。
「無い」と言う時代には反対に希望に満ちていたように思える。そして求めるものは「物から心の時代へ」と変化していく。
では私たちはすべきことは・・。
「在る」ことで失ったならば、「無い」ことで求めれば良い。
溢れたこの時代、物による豊かさは欲となり経済の主役となった今、その行き着く先は?
その欲を制限することで「無い」という状態を作る。
食べ物を無くすという事は難しいけれども、
スーパーで好きな野菜を選んでいた生活から野菜セット定期便と言う選べない形にする。
暖房を使って作った季節外れの野菜を食べない。
便利な物を減らす。
自分のものを減らす。
手持ちのお金を無くす。
保障を無くす。
などなど沢山ある。
私は身の回りのものを削れる今こそしたい。
農業が安定してしまえば今よりも「無い」という状況を作るのは難しくなる。
だから今。
人は無くす事で求めるか?まだ在る事を求めるか?
「やりたい事が見つからない」という人たちを見て、
豊かさとは欲を満たすことでは得られないという事に気づき始めた言葉のように思える。