まつなが畑のはたけ日記

農ある生活をするため奈良御所市金剛山の麓に農地を借りスタート
素人農業の何気もない日々の日記

生きる力

2011年04月04日 20時23分10秒 | Weblog
去年の春の寒さを教訓に今年は対策を考えるも次々冷害が出る。
4月に入っても雪が降り、最低気温が氷点下。
夏野菜の苗も気が気ではない。

今年も寒い。
今年だけは早く温かくなって欲しい。被災地を想う。



地主さんが地震のとき仕事でいわき市に居たと今日聞く。
ビックリしたのだがその話しを聞くと胸が痛い。

避難所で水が出ないことでトイレが・・という話しで私の家は汲み取りなので今までピンときていなかったのだが、水洗トイレが流れ無かったら悲惨だ。

便利さという代償がこういう時にも現れてくるものなのだなぁと感じる。


嫁さんの大先生である隣のおばあちゃん。
おばあちゃんは毎朝、被災地の人たちのことを思いお祈りする。
「今の便利な時代に生きた人たちだけじゃなくて、物が少ない世代に生きた人たちや若い人たちと、いろんな世代の人がいるからきっと復興できるんじゃないかなぁと思うのよ。」
とお話してくれた と嫁さん。

今のおじいちゃん、おばあちゃんが居なくなった社会は悲劇かもしれない。

電気がプツンと切れたとき。
水が出なくなったとき。
ガスが使えなくなったとき。
ガソリンが無くなったとき。


こういう時人間はいかに“生きる”という行為を日々していないことに気付く。
便利さというのは生きる行為を捨てているとも言える。


農業でも感じるときが良くある。
効率化、機械化をしていくとき
この石油由来の資材が無くなったら?
燃料が無くなったら?
便利さに共通する部分がある。

農業もどれだけ自然を相手にしていても今の社会の一部なのだから経済活動という物差しから外れることはない。

もし私達が日々“生きる”為に生きれば原発は確実に必要としないだろう。
火力発電所であっても環境に問題にならないぐらいで済むだろう。



私たちは今の社会から抜け出すことは出来ないが“生きる”ことを大切に日々生きたい。
商品としての野菜ではなく、生きる為の野菜でありたい。

これがきっと貨幣価値に勝る価値だと信じる。

札束を幾ら目の前に積まれても、30年経っても「原発はいらない」言い続けられる。
祝島の人たちのその強さを想う。