まつなが畑のはたけ日記

農ある生活をするため奈良御所市金剛山の麓に農地を借りスタート
素人農業の何気もない日々の日記

ブログ移転します。

2014年05月07日 23時02分28秒 | Weblog
沢山の方が見られているのに、長い間更新しないで、すみませんでした。
自分の中で大きな変化の時期でした。
ようやく、再スタート出来そうです。

色々な困難はありますが、力強く進んでいきたいです。これからもよろしくお願いします。

新しいブログです。
よろしくお願いします。

まつなが畑 暮らしを紡ぐ販売所

チルチンびと

2014年01月19日 22時04分59秒 | Weblog
年末、年始とブログを書き始めるも、書き終わらず・・・投稿出来ていません。
今日は、チルチンびとにまつなが畑が載りましたのでお知らせします。
と言っても12月10日発売でしたので、随分遅くなってしまいました。季刊誌ですのでまだ書店に置いてあると思います。
もしよければお手に取ってください。


チルチンびと

表紙になっています。
記事は巻頭です。

私たちの活動が一部分ですが見ていただけると思います。



私たちは今年農業を始めるにあたって新たな挑戦として、週2回販売所をします。飲食もできるようにしています。
今は作業小屋を改装中です。
初夏までにはオープンさせたいのですが・・・。
なかなか進まない。。

暮らしを紡ぐネットワーク 冬の集い お知らせ

2013年12月06日 20時28分07秒 | Weblog


冬の集いのお知らせです。

休んでいるせいか?最近頭の中がグルグル・・・。
暮らしネットの原点は私たちの日々の行いです。

そこに集う人々が誰もが共通して感じるものを、特別感なく体現したい。
ここで起こることが、日々の生活からかけ離れたものであっても、
何か安心感であったり、幸福感であったり、郷愁感であったり、それぞれの日々の暮らしに繋がって行くものでありたい。

日常の些細な事に些細な幸福感を感じたり、生きがいを見いだせるなら、無駄な消費に走ることも、多くを求めることも、無くなるかもしれない。
そういう生き方を提案するのではなく、そういう感覚がここにはあるように思う。

今回は皆で釜戸でご飯を炊き、味噌汁を作りましょう。
農業を休んでいるので野菜があまり無いですが・・・。

ですが我が家では野菜を買っていません。
一家族が生きるのに今まで野菜が多すぎたことに気づます。
確かにあれがあれば・・の欲求はありますが、自給の野菜作りならどれだけ楽なんだろうと思います。

色々な目線で農業を見つめ皆さんにお話しすることもありそうです。

最近、会議的なお話しは別日でしています。
この集いでは、出来るだけ決めごとの話しはしないで、行動に集中しそこから生まれるものを大切にしたいと思います。




日時  2013年12月15日(日)  
    10:00~
持ち物 持ち寄りおかず又はおやつ一品

会場  まつなが畑 作業小舎 
     (奈良県御所市僧堂113-2)


 
バスでお越しの場合は近鉄御所駅道を挟んで向いのガソリンスタンド奥の1番のりばから特急新宮駅行き9時47分発のバスで船路駅で下車ください。下車後道を渡り山側に徒歩3分です。
(バス停が分かり難いのでお尋ねていただくことをおすすめします。)
 
参加費 無料 
お申し込み matunagahatake@goo.jp 
      車でお越しの場合のみお申し込み下さい。前日までお申し込み頂けます。


 小冊子 暮らしを紡ぐ 販売 300円(送料別)


暮らしを紡ぐネットワーク 冊子発売

2013年12月04日 21時29分37秒 | Weblog


暮らしを紡ぐネットワークの仲間が綴った文章が冊子になりました。
何気ない日々の暮らしの延長線上にこの冊子はあります。
暮らしネットで起こっている心の繋がりは、ここに集う人々がそれぞれ感じ、それぞれの生活にふと落ち込むものでしたが、そういった感覚を形で示すことが今回出来ました。

ここで起こっている一場面を文章を通して感じていただければと思います。


作ってくださったのはメンバーで、ご夫婦で芸術をされているアートユニット monkey のお二人、製本は皆でしました。
暮らしネットの特徴として、豊かな行いを実際に行動としてするということがあります。
製本もとても楽しい作業で、こうした私たちの行いが特別な事ではなく、当たり前に存在する。その中から創造が生まれてきます。

全てを損得勘定してしまうことで、多くの足元にある事柄を見失っていたように思います。


そうして出来上がった冊子は本当に多くの意味が込められています。
買い手の方を想像することも大切なことですが、何よりも作り手がどれだけ自由に、想うことを的確に文章として発信して、豊かな行いから出来ているか?がこの冊子には求められました。初めての試みにも関わらず、関わった皆が豊かに制作された冊子です。
この冊子に関わった全ての人が「ホントに良いものだ!」と口々に言う、そんな光景を見て物作りの原点を見たようでした。

日々の暮らす中で、時間が空いた時、立ち止まった時、何かが物足りなくなった時、
他の人の暮らしをふと覗くようにこの冊子を読まれては如何でしょうか?



販売価格 300円+送料
発送は郵送になります。

卸販売
10冊以上 150円+送料

1冊21g定形外郵便物です。郵送料計算
1冊の場合120円です。



ご注文はメールでお願いします。冊子注文とお書きのうえ、数量、名前、住所をお知らせください。
メールアドレス matunagahatake@goo.jp

森の集い

2013年11月18日 20時30分22秒 | Weblog
先日森の集いに参加する。
米市農園の洋平君と原子炉実験所の小出さんとの対談。

洋平君はポジティブに小出さんはネガティブに、また光を闇を語ってくれた。
この対極的な二人の対談。多くの人はどう聞いていたのだろう?
どちらの話が好きか嫌いか?またはどちらが正しいか?どちらの見方で放射能を見たら良いか?考えた人は多かったのではないか?

私が思うに光も闇もどちらも人間だろう。
洋平君は同時に深い闇を持っているし、小出さんは大きな光を持っているように感じる。
聞き手が光側なのか?闇側なのか?どういう気質なのかで聞き手の受け取り方は大きくかわるのだろう。

私はどちらかと言えば小出さんの方向にいるから、聞き取り方もそういう風になる。


小出さんは本当に愛情深い人で、私がこう感じることが何よりの贈り物。
そんな言葉の中に「子どもたちには責任が無いから、影響力のある子どもには汚染されていないものを出来るだけ食べさせないようにしなければいけない」と言われていたが私は「ん~」と考えさせられてしまう。

私自身29歳だから小出さんにしては子どもの世代になる。もう私は大人?になるのだけど子どもとして考えても放射能は受け取るべきだと感じるからだ。
生まれて2年後にチェルノブイリで事故があったし、核実験もそこら中であった。そうして私たち世代は育ったのだけど、両親に放射能を気にするべきだったか否かなんて問いたいとも思わない。むしろ汚れている自分がいるからこそ正そうとするのでそれで良いし、自分だけ奇麗でありたいなんて思わない。

私たち自身汚れた大人たちの子ども。
生まれた時は純粋だというのは嘘だと思っている。
そう思う私でも自分の子どもたちにはと選んでしまう自分がいる。

私たち家族は事故前からの生活の在り方から、ここ関西の人たちと比べても放射能汚染が少ない食べ物を口にしている。
で、自分なりに考え20ベクレルを基準と考えているが、100ベクレルが国の基準なので、給食ではそれに近いものを子どもたちが口にする可能性があるということになる。
それもまた今のところ良しと考えている。
小出さんは10ベクレルでも危険だと言うのだから20ベクレルはその倍。100ベクレルなら。
これが私の思う、私たち家族の許容範囲。高いか低いかはそれぞれが考えることで100でも1でもどちらも正しい。いずれにしろ子どもたちには多くの試練と多くの問題をすでに引き継いでいることになる。


人間が汚したものを地球は森は動物は等しく負っていると言うのに、人間は生死の意味を考え、選び生きてしまうどうしよもない動物だとつくづく思う。
こんな自分の醜さもまた人間なのだ。




ここ関西でこうして放射能のことを語るのは、私たちの醜さを曝け出す場だと感じている。
もしこの二人の対談が福島の避難区域や仮設住宅の中だったとすれば、皆はどう感じ、どういう目線で話をきいただろう。

ここ関西ではその醜い自分にすら気付かずに通り過ぎてしまう。

事故当初、早まった米の安全宣言で福島の学校給食に福島の米が使われた。その後汚染米が出て・・と福島の子どもたちは外部被曝も内部被曝もどれだけしたのか分からない。
そして今も通常では考えられない放射線を受け続けている。
だが2年半経って今、福島を離れると言う選択を持っている人は少ないのではないだろうか?

その子どもたち、親たちを目の前に面と向かって私たちは「避難しろ」と言えるだろうか?私たちは何々ベクレル以下の食べ物を選んで食べていると言えるだろうか?
小出さんのように3.11以前から放射能の危険性を訴え、汚染された地に足を運び、その悲しみ、苦しみを知りながら出る言葉と私たちの言葉では同じ言葉であってもあまりにもかけ離れたものだろうと思う。


今も放射能に汚染された地に人、子どもは住んでいる中で、ここ関西に居ることがどれだけ罪深いか?と言うことすら気付かず・・・。私たちは日々過ごしている。





最後に小出さんは「次に繋げるものは」という質問に「放射能で汚れたこの社会」と言う答えだった。私はそれを恨まず受け取りたい。
この汚れた人間に清浄な世界は生きていけない。きっとすぐに人間は汚してしまうだろう。生きることを学ぶ指針として放射能はこれからもまだ必要なのだろう。
多くの人を犠牲に私たちは生きている。この事実を深く受け止めたい。

光も闇も人間。
森も動物も人間も全てのものを等しく本来は受けるもの。

もし私の子どもが放射能で病気になったなら私たち人間の愚かさに嘆くだろう。
でもそれも長い歴史の中で、汚れた人間が子どもを産み、また産むと受け継がれてきたもの。
誰が悪いわけではなく、それが人間と言う生き物なのだと思っている。

そして同時にこの美しい地球に感謝したい。
目に映る山、海、空の普遍的な美しさは福島にもちゃんと存在していた。









福島

2013年11月05日 23時13分15秒 | Weblog

今回で福島は4度目。
非難区域の定義も変わっていて、色々な事が当時から変わっている。

変わっていないのは、そこの人の心と放射能があるという事、以前20k圏の立ち入り禁止区域だった場所はがれきがその当時のままだった。除染した表土やゴミは20k圏に限らずそのまま。結局は色々と変わったのは仕組みだけで何か問題が解決した訳ではない。


上の写真は帰還困難地区内で行われていた除染。山の中の道で8μsv/hの汚染が酷い区域でバスに乗り合わせた誰もがこの無意味な除染に疑問と怒りを覚えたことだろう。
道だけではなく山が汚染されているのだから再びすぐに汚染されてしまう。










私は農民連という組合の会員でそこからの誘いで福島の農民連が主宰のツアーに参加することができた。
今回は原発5kmまで近づく事が出来た。

途中、線量の高い地域ではどんどん線量計の値が上がっていく。
福島市から出発したが大体0.2、0.3μsv/hが続いて0.5μsv/hぐらいになると「高いなぁ」という感覚。
線量計を持って歩いて高い所を探せば福島市でも1.0μsv/hが出るところはある。
一定ではなく、場所によって随時変わるもの。
途中11μsv/hまで一時上がった。

線量について例えば病院などにある放射線管理区域では3カ月の累計1.3㎜svと定められていて時間に換算すると0.6μsv/hになる。
ただ福島の場合、放射線ではなく放射物質が存在しているので体内に取り込み内部被ばくをしてしまう危険性が高くなる。

放射能はどこまでが安全で危険かというのは難しい問題で個人の判断が基準だろうと私は思っている。
農薬や添加物や大気汚染にも発がん性物質は含まれているし、癌以外の健康被害があるものと多様だからトータルで考える必要がある。
難しい問題だが、国の基準は経済の中でどこまで国民を許容範囲させるかで決まっている。



除染した土はまだ持って行くところが決まっていないので震災から2年半経った今もそのままにされている。
除染するたびに放射能廃棄物は増え続けている。福島各地に。


帰還困難区域は住民でさえもこの区域内に入るのは制限されていて、許可なく出入りすることは許されていない。
警備員が検問所には立っている。


途中警察に止められ随分足止めをくらってしまう。
どこかピリピリした雰囲気が伝わってくる。
反原発の活動として入っているということもあるだろう。







誘導され入った場所は受付と出る時、放射能物質が付着していないか調べる場所だろうか?東電社員も沢山いる。
カメラを持って近づくと、皆なんとなく後ろを向く。気持ちが分かる。


道には除染された放射能廃棄物が置いてあった。




田畑は荒れ人は住んでいない。

山を抜け海側へと進むと線量は小数点以下に下がった。大体0.2か0.3ぐらいが多かったように思う。
放射能物質は質量があるので地面へと落ちるのだが、山の谷になっているところなどに溜まりやすいようで、随分地形によって線量は変わる。







原発から5km。奥に鉄塔が見えるのが福島第一原発。線量は低い。

捜索の為、がれきは纏められているが2年半何も変わっていない。
震災が起こった11月、私が南相馬を訪れた時と同じ光景だった。2011年11月

津波、原発事故、健康被害・復興を妨げる放射能、風評被害、差別など、福島は何重にも苦るしみを受けている。今も苦しみ続けていることを忘れてはいけない。








浪江町で牛を飼っている吉澤さん
被曝した牛の殺処分に反対し、牛を飼い経過を見ながら反原発運動をしている。






区域外へ出る時は放射能汚染をされていないか調べる。
これを子どもが、しかも防護服を着た大人にされた事を思うと私たち大人の罪深さを想う。






相馬から作物を作ることが許されていて全量を検査されて出荷されている。
ただ風評被害という逆風は大きい。

果たして「作物を作るな」と私たちは言える立場だろうか?


前日に集会とデモがあった。
7000人。
私は反原発・脱原発の集会、デモに参加するのは初めてだ。
何時も言っているが反でも推進でもない。

しかし、すごい人数だ。





恐らくほとんどが共産党系の組合。
全体からすると福島県民は少なそうで、デモが始まるとほぼ全ての人が歩きだした。
これは、どこの組織に所属していない純粋な一般市民は殆ど参加していなかったということだろう。

これだけ人を集められるその力に驚いた。
もちろん奈良農民連から参加している私たち(2人)もその一員だということになる。


今回福島を訪れて改めて感じたことは、福島で住みたいという人たちに対して、遠く離れた私たちはどういう風にそれを受け止め、関わることが出来るか?ということを考え無ければいけないということ。
日々、放射能被曝と内部被曝の危険性がある福島で、特に影響力の強い子供がそこに居るということはそれなりの、もしかすると関西にいる私たちに比べたらはるかに大きなリスクを背負っているのかもしれない。また福島に居ると言うことはさらに色々な苦難が存在するに違いない。
私たちはそういう方たちにたいしてどう想うのか?というのはとても大切なことで「そこが危険」だと思うことすら罪深く私は感じる。
福島の人たちをこれ以上傷を付けてはいけない。
「自分さえよければ良い」「自分の考えが正しい」という感覚ではなく共同・協力という意識の中でこの問題に向いたい。


ツアーの参加者は恐らく私が最年少だったと思う。
若い人が立ち入らない方が良いという意見も多いが、私は20代、子持ちの人こそ行くべきだと思っている。
それは、これからの社会を担う人間としての責任であり、先の長い私たちにとっては大きな指針になるに違いないと思うからだ。
国はすぐに広島のようにこの地もしてしまうだろう。真実が覆いかぶせられる前にしっかりこの目に焼き付けておきたい。

自分の健康、命欲しさに福島の人、子どもを置き去りにしてはいけない。
今回の積算被曝はたった4.95μsv/hだった。事故を福島で経験して今も通常よりも高い放射能を毎日浴びている方たちにしたら、これぐらいの為に今の現実を見ないという選択は私にはない。
人が生きるのに自分の命、健康が一番ということではないはず。
これからも子どもたち、そしてその子どもたちはこの日本で生きなければいけないのだから。


現実を見ることが出来ないのならそれなりの謙虚さを持って生きなければいけないのではないか。
私たちは福島の人たちに頭が上げられない立場だという自覚が必要だと思う。









無知

2013年09月03日 11時41分33秒 | Weblog


私たち、若い世代の好奇心について宮崎駿監督の言葉が心に残る。

テレビ、インターネット、多くの情報を早く手に入れられる時代において、私たちが欲求してきた事柄が現実になっているこの時代に宮崎駿は若い世代の世界が狭まっているという。
情報は世界を飛び回り、検索すればすぐに海外の情報も知ることが出来るのにである。


農業の世界も6次産業化の時代に入りつつある。これからの農業における競争舞台の一つとなるだろう。
人の需要(欲望)に合わせた農業形態に腑に落ちない部分がありつつも農業における多面的要素を発揮して経営に生かすという必要性も理解出る。

ただその結果、その多くが人を堕落させる要因になりかねないと懸念している。

宮崎駿は若い世代の好奇心が狭まっていると言う。
観光農園へと足を運ぶ人の好奇心とは何か?農家の加工品を買い求める好奇心とは何か?
その中身はそれほど意味を持たない、ちっぽけなものではないだろうか?
今だからこそ、幾らかな意味があるかもしれないが、それが身の回りに溢れればテーマパークとなんら変わりのないものになる可能性だってある、商品として経済の中、競争の中に存在すれば、そこにどれだけの意味がるのか?薄っぺらい思想のもと、薄っぺらい好奇心の集まりでは社会的な存在意義ってどれほどのものがあるのだろうか?
税金さえしっかり払えばこの社会に存在する意義があるような思想では人はどこまででも堕落し続けるだろう。



私たちは無知で何も知らないということすら分かりずらい社会になってきたようにと思う。

私たちは何故生きているのか?死ねば終わりなんて思っているのではないだろうか?
空想の世界は知っていても現実、身の回りの事は何も知らない。
この食べ物がどうやって作られて、どういう人が作っているのか?
この家をどういう人が作って、どういう風に建てられているのか?
靴だって、服だって、車だって、今向かい合っているパソコンも、
物に溢れて、情報に溢れて暮らしているのに私たちは何も知らない。

どうして生きているのか?って事が何も知らない。

外には蛇がいて、蛙がいて、バッタがいて、
どこにそれがいて、どの蛇が毒を持っていて、どこが危険なのか?蛇が蛙を飲み込む瞬間を見たことがあるだろうか?だんだん忘れ去られていく。
必要なくなったかのように蛇が消え、蛙が消え、バッタが消え。

人が生きられない世界であっても生きていけるかのような空想の世界。


情報が溢れるに従い、人々は好奇心をそがれ、想像力をそがれ、すぐ手に入る、手っ取り早い情報に翻弄される。
原発も選挙も。
そして、良いように利用されたことに激怒する。

それは無知であることの現れなのだが。
私たちが日々どのようにして生きているのか?ということをどれだけ知らないのかの現れ。


ゴミを出す時、皆は何を思うだろう?
分別する事が環境に良いとでも思っているのだろうか?
集約して燃やす事がどういうことか分かっているだろうか?
ビニールを自分の庭先で燃やすことと、ゴミに出すこと、どちらが罪深いか?知っているだろうか?

無知である事はどれだけ恐ろしいことか。
それは勉学ではなく、身近にあるものにもっと好奇心と想像力をもって接すること、それが自分の世界を広げる一つの方法になるのではないだろうか?


宮崎駿が何故子供たちに向けてアニメを描くのか?
私はそこに賛同し、農業に向かい合いたい。
そして無知の私は知るきっかけを農業にみる。










内と外の共通点

2013年08月29日 20時20分42秒 | Weblog



先日、お客さんに以前から気になっていた大阪のお店に連れて行ってもらった。

ゆっくりお話しが出来てとても楽しい時間だった。今はこういう時間が嬉しい。
ありがとうございました。


帰り道「私たちは少数派」という言葉が頭に残った。
私は田舎に居れば、そういう気は全然しない。少し社会に出るとそういう部分はあるのだろうけど、考えることなく過ごしていた。
都会に出ればその感覚が少し掴めたきがした。


人はきっとどんな人も共通した部分を持っている。
少数派も多数派も関係なく。
ただ、そこを見ぬふり社会構造になっているから、孤独感であったり、対立する相手を見つけだすことが必要であったりするように思う。


誰もが願う良い世の中ってどういうことだろう?
体罰による自殺、過労死・・・
世間話をする中でフムフムと思うこともある。

体罰で自殺なんて昔は考えられなかった。これは明らかに子供が変わったのだと私も思う。
過労死についても本人の精神の弱さにも原因がある。というのも私はそれなりに理解する。

人が変わった、子供が変わった。私自身もその軟弱に変わってしまった一人。
これは事実のように思う。ただ真実は違う。


「最近の若い者は」とか「最近の子どもは」とか自分たちは違ったかのように言う人は多い。
これは悪くなった事を懸念した発言で、良い世の中を願う発言でもある。
ただこの言葉に社会構造的大きな間違いがある。
正しくは
「何故こう育ったのだろう?」「私たちが何故こう育ててしまったのだろう」が私は正しいと思う。

新聞、テレビなどのメディア、による間違いは他者に原因を全て求めてしまったことにある。
どこかを批判することで自分を正当化することで、支持者を集め勝ち残り、継続をしてきた。
そこには情報までもが競争の上にあるというどうにもならない欠点がある。
そして教育までもが競争の為の教育である以上、敗者は必ず生むことになる。そこを隠し、努力した者、勝ち残った者、が評価されるべきという自由。
敗者は切り捨てられるという恐怖の上にある教育にこの国のどうしよもない原因はあると私は思っている。


本来、自分たちが正せば世の中は変わるものだが、どこか他者に原因を求めることで本当の原因を見失うことになってしまう。
多くの事に疑問を持つ社会では本来解決し良い方向へ向かうべきだが、多くの人が自分自身に原因を見出さなければ良い方向へとは向かうはずがない。
他者批判だけではお互い傷を付け合い潰し合いでしかなく、変わるべきは自分だということに気付かない。

そういう教育、社会の中で人はどんどん弱っていった。

私たちを育てたのは親世代である。
私たちの子どもを育てるのは私たち世代である。

真実というのは原因は他者ではなく、自分たちにあるということ。私の世代は受けた教育の意味と弱ってしまった現実を自覚することが大切だと思う。
自殺させた原因は教師にあっても、その子供を育てたのは誰なのか?今起きている社会を作っているのは私たちなのだ。

私自身が主体的に物事を捉え生きることで社会は変わる。子供たちは変わる。と信じている。
今という時間が子供たちが育っている時間だということを忘れてはいけない。今その時が育つ過程で、今起こっていることが結果なのだ。


宗教観が存在した時代は主体的に物事を捉える感覚があったように思うが、現代では無い。
今と昔では同じ人間でも教育や社会が違えば世界観が違う。だから考え方も感じ方も全てが変わってくるが、不変の価値も存在すると思っている。

それは、夕焼けを見てきれいだという感覚や、人の恩を感じたり、喜び、怒り、悲しみ、楽しみを感じたり。
そういう、人間という肉体、遺伝子に組み込まれた本能という部分にある価値。
これらが人の平和と愛の根源ではないか?
どれだけ正しい仕組みがあっても人が、人として生きられなければ真実というのは何時まででも見えてこないように思える。


こうして農業を休み、段々なにをすべきか見えてくる。
農業で成り立つことや、オーガニックが広まる仕組みも大切だが、何よりも絶対的な価値観を再び気づき取り戻すこと。
主体的にどれだけ生きることが出来るかに尽きるように思う。








暮らしを紡ぐネットワーク 秋の集いのお知らせ

2013年08月20日 08時58分23秒 | Weblog


只今、体調を崩しお休みを頂いている。

もう2カ月ぐらい経つだろうか?その間何度か記事を書いたのだが、どうも投稿に至らず・・・。



予定は来年の3月までの長期休暇。
この休みの間にやりたいことが沢山あったのだが、
やれていないことを思うと「やれずに終わっても良いかなぁ」と身の回りをそぎ落とし身軽にするための休みのような気もする。

猫も2匹とも飼うことになった。
色々思うこともあるけど・・・貧困国からすれば「猫に食わせる食べ物があるなら・・」と聞こえてきそうだ。ある国では超高級食材のマグロも餌になる日本。

猫が来ることで学ぶことが沢山あって、子供たちに多くを与えてくれた。
全てを受け入れて責任を持って飼いたいと思う。







9月 暮らしを紡ぐネットワーク 秋の集いのお知らせです。
今回は、私が農業を休業したということもあり一度全てを無くしてゼロからこのネットワークも見直そうと思います。

その一つにネットワークの冊子を作るということ。
先日その打ち合わせがありました。
文章にする、皆が見れる形にすることでこれからネットワークの中心になるかと思います。
顔と顔を合わせる対話が殆どだったこのネットワークも文字を通して思想であったり、想いであったり、を共有、発信しようという物です。

ブログやフェイスブックなど情報のスピードがどんどん速くなる今、
網目が細かくなり情報が自分たちを通り抜けること無く確実に入ってくる時代の中で、冊子と言う実態ある物を通してスローの中で重みのある情報の発信方法に拘りたいです。

担当は柴田さんご夫婦。
私は全てを任せています。先日は仕組みと言うよりは対話を通して感覚の部分で方向性を見る物でした。
形に囚われない皆が望む共通の部分を文章を通して、色々な意見の中から示せればと思います。


次の集いは、この冊子についての提案が中心になります。





日時  2013年9月8日(日)  
    10:00~
持ち物 マイおにぎりと持ち寄りおかず又はおやつ一品

会場  まつなが畑 作業小舎 
     (奈良県御所市僧堂113-2)


 
バスでお越しの場合は近鉄御所駅道を挟んで向いのガソリンスタンド奥の1番のりばから特急新宮駅行き9時47分発のバスで船路駅で下車ください。下車後道を渡り山側に徒歩3分です。
(バス停が分かり難いのでお尋ねていただくことをおすすめします。)
 
参加費 無料 
お申し込み matunagahatake@goo.jp 
      車でお越しの場合のみお申し込み下さい。前日までお申し込み頂けます。


物々商談会

2013年05月31日 21時21分32秒 | Weblog

今、我が家に居る迷い猫。
一時預かり中。

人間と共存出来ない動物はかわいそうだが始末する事をまずは考える。

アライグマなんかは特定外来種に指定されていて、捕獲後はを義務付けられている。
元々はペットとして持ち込まれた動物。

虐待同然に育てられた家畜も毎日のように食べる人間。
今の社会では動物の扱いは余りにも残酷。


猫も人間と共存できない場合は保健所へと持ち込まれる。
私なら保健所ではなく自分の手でしたいと思う。命の扱いとして。

この子たちはどうも、人に危害を受けたらしく、見つけた時は怯え、攻撃的で噛みついてきた。
このまま、人間に始末されるには余りにも可哀そうで、手袋をして噛みつかせ、私が危害を加えないことを知らせ安心させた。
始末するならその後と思っていた。。

我が家は生きる為に最低限のお金しか稼いでいない。この子たちの分は無いのだが。。
息子、娘が喜ぶ姿を見ていると、そういう気にもなれず、今では情が移ってしまう。
農業をしていると肥料や畑を荒らしたりする天敵だが、子供は子供。




で、
本題。

今度、暮らしネットの集いで行う、物々商談会。
今、我が家では辰巳さんの素晴らしい竹かごと、ノモケマナさんのこれまた素晴らしいパンと物々交換している。
過去も志賀さんのオシャレもんぺやチラシを作る為の版画など野菜で何度か払ってきた。

パンは月一回で今日がその日。
わくわく、嬉しい日だ。



今日のカンパーニュは細長い形。
このでっかさがカッコいい。
パンはでかい方が美味しい。私の持論。
特注で普段の3倍!




贅沢パンのツォプフ。
これがまた美味しい。

野菜がパンになる。素晴らしい。




お金も物も良いバランスで暮らしに入りこむと、心のバランスも取りやすい。
物々交換はまさに心の交換で、数値で計られない為に、それぞれの心が入る。だからこそスムーズにいけばとても気持ちの良い取引だ。

ただ取引にはそれなりの不便さがある。それを改善する為に通貨が生まれた。
そんな通貨も便利な代わりに、人にとって絶対的な信用と価値を勝ち取る可能性を秘めていた。

良くも悪くもその人のあり方で変化してしまう。
物はその物以外には絶対に変化しないので、安物は安物だが、通貨という物を使うことで価値以上の価値を付けることが出来てしまう。

例えば広告。
芸能人に多額の費用を掛けてCMをつくる。
その商品にコストが掛けるのではなく、宣伝にコストを掛ける。真っ当では無い商品をどれだけ真っ当なように見せつけて売るかが今の商売。
段々実体ない中で通貨が動くことで、イミテーションな社会になってしまう。


良い動きをすれば、人にとって有益だが、悪い動きの中ではその信用と価値は人を縛り付けてしまう。

相互扶助の関係から始まった物々交換はもう一度私たちが望む社会と望む物の流れを作り出すきっかけになるはず。
今回の取り組みは面白いことになりそう。



詳細→暮らしを紡ぐネットワーク 夏の集い
日時  2013年6月9日(日)  
    10:00~
持ち物 マイおにぎりと持ち寄りおかず又はおやつ一品

会場  まつなが畑 作業小舎 
     (奈良県御所市僧堂113-2)








「暮らしを紡ぐネットワーク 夏の集い」のお知らせ

2013年05月29日 21時30分07秒 | Weblog


6月9日に集いをします。
最近季節がら?私の頭がどんどん膨らんでいます。(意味不明?)
暮らしネット生産部が立ちあがり、私の考えですが伝えたいこと沢山あります!
今後の方向性を話し合いましょう。

皆さん集まりが何時も遅いです。。
10時にはお話しできるようにしましょう。

というのも、

午後から「物ぶつ商談会」します!
作り手さんが多いこの会、皆さん作っているものを持ってきてください。
まずは、手作りの物を披露する場として、もし、もし、物々交換したいものがあれば交渉をという感じです。
しなくても良いです。
断れることが大切で、これは商談会です。
お互いが納得しなければいけません。
物々交換しない物でも作っている物があれば持ってきてください。
よろしくお願いします。




この暮らしネットの行く先の一つに、お金に良い流れを起こそうという目的がある。
お金は、その人、その人で良い物になれば悪い物にもなる。
私は人の血液のようなものと考えていて、良い流れがあれば健康になるし、悪ければ不健康になる物。溜まってもいけない。

真っ当な物を真っ当な価格で流れること。
社会が本当に必要とされるところへお金が流れるように。

物々交換は厳密に数値化しないことで心や、考え、感覚的な部分で取引が出来る、心の交換。
将来は私自身も物々交換の割合を増やしていきたい。
今は、毎月パンを野菜セットと交換していたり、竹かごも野菜と交換している。
とても気持ちの良い取引だ。税金も掛からないし、お金とは別の部分で身の回りが豊かになる。


お金と物のバランスを個々に取る為の場として暮らしネットの今後の活動を考えたい。




日時  2013年6月9日(日)  
    10:00~
持ち物 マイおにぎりと持ち寄りおかず又はおやつ一品

会場  まつなが畑 作業小舎 
     (奈良県御所市僧堂113-2)


 
バスでお越しの場合は近鉄御所駅道を挟んで向いのガソリンスタンド奥の1番のりばから特急新宮駅行き9時47分発のバスで船路駅で下車ください。下車後道を渡り山側に徒歩3分です。
(バス停が分かり難いのでお尋ねていただくことをおすすめします。)
 
参加費 無料 
お申し込み matunagahatake@goo.jp 
      車でお越しの場合のみお申し込み下さい。前日までお申し込み頂けます。



暮らしを紡ぐネットワーク 4月の集い 簡易かまどワークショップ と 夏の集いのお知らせ

2013年05月24日 20時21分17秒 | Weblog


ゴールデンウィークの祖父の法事、その夜もう片方の祖父が無くなり・・バタバタと時間が経ってしまう。
死と向き合うことが最近多く、祖父の死についても書きたいのだけど、今回は先日、行った簡易かまどワークショップについて。

4月の集いが、5月にずれ込んで先日行うことに。




初めに簡単に自己紹介した後、早速作成に入って、約1時間で完成。
その後、作った釜戸を使って料理をして、皆で食べる。
少しお話して終了。



こうして参加費を頂いて人が集まったのは今回が初めてで何だか何時もにない緊張。
そんな中でしたが、とても楽しい時間にご参加いただいた皆さんに感謝。
ありがとうございました!



今回、釜戸を作って、薪でご飯を炊いて、という食べるという行為に対して多くの作業をする。
私は原点と考えていて、手造りというのは全ての始まりだと。

現代ではボタン一つでご飯は炊けますが・・・薪を使ってご飯を炊く行いに対して、その意味を考えたい。



ボタンを押すという動作も人がする行い。日々私たちはそういう行動をして暮らしている。
それは全て過程としてあって、その結果が目に見える現実。
ボタンを押すことで、電気というエネルギーを使い炊けるご飯、その結果は今ある発電所。町中に張り巡らされた電線。

私たちが日々どう生きているかで社会は出来ている。


原発事故が起きて、多くの人が考え、正しさを求めた。
正しさって何だろうと議論し、考えを出しあった。

でも、その考えも私はずっと後のもの(今ではなく)と思っている。



考えというのは変わるからだ。
時間と共に必ず変わるもの。


勉強した知識や情報って必要だけれども、追い求めても正しさを知ることはできない。
全ては自分の中にあり、全ては行動から生まれる。



生き物は全て何かを行うことで感覚を得る。
植物でも成長という動きの中で日の昇る方向や、蔓を絡める場所を感覚を使って知る。

人間も同じで動かす中で感覚を覚えてきた。
そして、生きる為に必要な物を手を使い作ってきた。

その感覚は必ず考えへと反映する。
体験した感覚から考えは生まれてくる。

例えば戦争を体験した人の感覚と考えが、体験していない人と違うように。
また、戦後その人がどう生きているかでも考えはどんどん変わっていく。
日々の暮らしのどんな些細な行いも自分たちを作っている。
だから日々の事に目を向け、意識することは楽しいし、とても大切な事。


では、
私たちは便利な、ものに溢れた社会にいるが、そんな日々の中で作られる私ってどうなるのか?
その結果が今の社会であり、今の自分。
変えたいのなら、今ある日々に目を向け意識すれば、必ず行動へと向かい、変わるはずだと私は信じている。


全ての原因と結果は自分自身の中にある。



もし、
良い世の中を望むのなら、日々の暮らしの行いに目を向け意識をすることも一つの方法。
それは、必ず良い行いへと向かい、心を育み、良い考えが浮かぶはず。



今回のワークショップは、私なりの提案であり、幸せの運動、幸せな運動です。






※何時もながら写真をあまり撮れず・・下2枚は参加者の岩崎さんがご提供頂きました。ありがとうございます!




(お知らせ)
「暮らしを紡ぐネットワーク 夏の集い」のお知らせ

6月9日に集いをします。
最近季節がら?私の頭がどんどん膨らんでいます。(意味不明?)
暮らしネット生産部が立ちあがり、私の考えですが伝えたいこと沢山あります!
今後の方向性を話し合いましょう。


日時  2013年6月9日(日)  
    10:00~
持ち物 マイおにぎりと持ち寄りおかず又はおやつ一品

会場  まつなが畑 作業小舎 
     (奈良県御所市僧堂113-2)


 
バスでお越しの場合は近鉄御所駅道を挟んで向いのガソリンスタンド奥の1番のりばから特急新宮駅行き9時47分発のバスで船路駅で下車ください。下車後道を渡り山側に徒歩3分です。
(バス停が分かり難いのでお尋ねていただくことをおすすめします。)
 
参加費 無料 
お申し込み matunagahatake@goo.jp 
      車でお越しの場合のみお申し込み下さい。前日までお申し込み頂けます。










暮らしを紡ぐネットワーク 4月の集い 簡易かまど作りワークショップ 火のある暮らしの提案 お知らせ

2013年04月24日 19時12分24秒 | Weblog

4月の集いですが、嫁さんと息子がインフルエンザで・・・告知もできず・・激動の日々を過ごしていました。。
で、
4月の集いですが5月に行います。


作業小屋に設置している釜戸。
餅搗きをするときや、味噌を作ったり、料理したりと使っています。
味噌作り

薪を使っての火はガスとは性質が全く違うもの。

薪を割って、火を付け、ご飯を炊く。
今では手間の掛かる方法かもしれませんが、その豊かな時間にきっと気づくはずです。
そして、そのご飯のおいしさに。



今回は、1斗缶と煙突を使って簡単に作れる、簡易式の釜戸を作ります。
一人一台作って頂き、持って帰ってもらいます。
サイズは1斗缶の大きさで5合の米が炊けます。中華鍋で料理も。
軽いので持ち運びも簡単で、キャンプにも持っていけます。
火が外へ出てこないので比較的安全なものですが火の扱いには十分注意しなければいけません。

火の扱いについての注意事項も含め、使い方をお伝えします。

また
実際に釜戸を使って料理をして、皆で食べましょう。


薪を使って日々料理をするのは難しいことですが、簡単に作れて使える釜戸を通して火を使うことに触れてみませんか?



日時  : 5月19日(日) 10時~
場所  : まつなが畑 作業小舎 
     (奈良県御所市僧堂113-2)


 
バスでお越しの場合は近鉄御所駅道を挟んで向いのガソリンスタンド奥の1番のりばから特急新宮駅行き9時47分発のバスで船路駅で下車ください。下車後道を渡り山側に徒歩3分です。
(バス停が分かり難いのでお尋ねていただくことをおすすめします。)
 
参加費  : 4,000円(講習料、釜戸材料代、食事代)
定員   : 5名
お申し込み: matunagahatake@goo.jp(5月12日までにお申し込みください) 

※子ずれの方、ご家族のご参加も可能ですが、お一人500円の食事代を頂きます。3歳以下無料。
※バスでお越しの場合、釜戸の発送も出来ます。送料は500円です。
     



こうちゃん、まりちゃん、みおちゃん 追い出し会

2013年03月27日 20時34分10秒 | Weblog


今月で1年の研修を終えて、新規就農する研修生のこうちゃん家族の追い出し会。



1年前、1歳の子供を連れて、「夫婦で仕事を辞めました」という彼らを研修生として受け入れることになった。
当然だろうか?
1年では農業は出来るようになるとは思っていなかった。


しかし、今回この追い出し会を通して1年という歳月の結果を見ることが出来た。
もう私から彼らに伝えることはない。
そして、彼らの中に新しく芽生えたその意志は彼らの思想として無限の可能性と世界を作り上げていく。


人が自由を獲得したときの強さを見たような気がする。


必ず農業をしなければいけないということはない。
もし、辞めなければいけないときが来たら潔く辞めればいい。
生きるというのは目的の中にあるのではなく、すべての柵を超えた自由な発想の中にあるのだから。

その自由を獲得するための手段として農業があり、今は農業という目的に向かって精一杯頑張ることが全てだということに彼らは気づいた。
その先にあるさらなる自由を求めて。


今、まりちゃんのお腹には新しい命が宿っている。
これほどの希望があるだろうか?

全ては必然のように彼らは進むべき方向へと自分たちの足で歩みだした。
お腹の中にいる新しい希望、すでにこの世に生を受けているみおちゃんはこれからも彼らを後押しするに違いない。


私は彼らに全く不安や心配がなく安心して送り出せることに感謝している。
これも、今回の追い出し会で初めて気づいたこと。

彼らがとてもたくましく、力強く見えた。





この一年私自身もまた変わった。
研修生を受け入れた結果、多くを学ぶ機会を与えてくれた。
共にした時間はかけがえのないものだ。
1秒1秒が人生で、その時を共に過ごせたことに感謝が尽きない。


彼らをこれからも家族のように見守って行きたい。




今回の追い出し会では餅を搗いて、持ち寄りで、酒を飲んで。。



平飼い養鶏をしている なかやん 焼き鳥をしてくれたり、皆素晴らしい持ち寄りで楽しかった・・おいしかった・・・。



研修生の彼らが実家の香川で連れて行ってくれた廃材天国から学んで換気扇を付けた。
中古のステン棚と元々あった換気扇を使って。
彼らがいたからこそ。

願えば叶う。
これが私の現実論。



釜戸も段々完成形へと向かっている。







今回とっても楽しくて・・・
飲み過ぎたけど・・・

こうして豊かな時間を過ごすことこそ私たちのすべきことだと考えている。

それは家族だけでも良いし、皆と共にでも良い。

今という時間を忘れないということ。


苦しい時も辛い時も今という時間の流れの中にあって、もがき苦しむことも人生。
でも必ず春が来るように抜け出せるときがある。
信じよう。
そして力強く生きよう。


こうちゃん、まりちゃん、みおちゃん。
ありがとう。


くらしを紡ぐネットワーク春の集い と お知らせ

2013年03月15日 20時59分33秒 | Weblog


3月10日くらしを紡ぐネットワークの集いがありました。
新たに2名新しい仲間が増え、今年初めての集いの始まりでした。

この集い、特に何を話そうという目的がある訳ではないので・・・緊張します。。
ノープランでぶっつけ本番。
それぞれが「暮らしを丁寧にしたい」という想いだけでこの場が成り立ちます。

人任せではこの場は成り立ちません。



私が、とにかく想うことを喋る。
皆に振る。
出なければ私が喋る。
出れば、広がり、それぞれが想うことを喋る。

そんな感じでこの会が成立します。


何をしてるんだ?と尋ねられれば、
困るような会ですが、私はとても良い会だと思います。


個性的なメンバーしか集まらないです。
でもどちらにも、どこにも転がらない。
だから良いです。


私は「何でもいいから、皆、豊かに暮らそうよ」と思っているのです。


そんで出てきた会話が、貧乏は良いよ。ということ。
いや、ホント私貧乏なんです。なんて話。

「皆で髪の毛の切りあい会しない?」
「伸びた頃に集まって」
「この人なら任せて良いや、という人その場で見つけて」

皆自分で髪の毛切っていたんです。
こんな話、幸せですね。


この会の活動は私は社会運動と考えています。

幸せな運動であり、幸せの運動です。
現実的、具体的な運動だと考えています。

幸せな人が増えたら世の中変わると思いませんか?

それは日々の何気もない暮らしの中にあるということを私たちは実践し、現実化していきます。


結果、良い世の中になればと願います。


今を鬼にして訴え未来の幸せを願うのではなく、
今を大切に日々を幸せにして未来へ繋げる

方が現実的だと思うのです。

全ては私たちの心の問題。
多くの人の心の映し出しが今、起こっていることなのです。
もし、今の世の中に問題があると思うなら自分が変われば変わります。

それは、都会も田舎も関係なく、農民もサラリーマンも関係なく、どんな条件の人も、どんな職業の人も関係なく、豊かだと思える暮らしが出来れば、心が豊かになれば世の中は変わります。


私は信じます。
そして続けます。






ここから以下2つのお知らせです。

[こうちゃん、まりちゃん、みおちゃん、追い出し会 のお知らせ]

3月26日(火)研修生のこうちゃんご家族の追い出し会をします。
研修が始まり1年。彼らは新規就農をすることを決断しました。まだ就農先が決まっていないのですが、区切り目として今回追い出し会をすることになりました。
どなたでもご参加頂けます。

日時 : 3月26日(火)10時から15時ぐらいまで
持ち物: お酒やおつまみやお菓子や・・・何でも
場所 : まつなが畑 作業小舎 
     (奈良県御所市僧堂113-2)


 
バスでお越しの場合は近鉄御所駅道を挟んで向いのガソリンスタンド奥の1番のりばから特急新宮駅行き9時47分発のバスで船路駅で下車ください。下車後道を渡り山側に徒歩3分です。
(バス停が分かり難いのでお尋ねていただくことをおすすめします。)
 
参加費 : 無料 
お申し込み matunagahatake@goo.jp 
      車でお越しの場合のみお申し込み下さい。前日までお申し込み頂けます。






[定期便のお客様へ 春の端境期野菜セット のお知らせ]

そろそろ数量に限りがありますが野菜セットが作れそうです。
この時期は良い時を過ぎた野菜も入ります。ご理解いただいた上でのご注文をお願いします。
事前にご連絡頂いていない方でご必要な方がおられましたらご連絡頂きますようお願い致します。