まつなが畑のはたけ日記

農ある生活をするため奈良御所市金剛山の麓に農地を借りスタート
素人農業の何気もない日々の日記

暑い年

2010年08月31日 04時00分51秒 | Weblog
何とか人参を播き終える。

ラストチャンスである。この時期で果して・・・というところだが芽が出なければこの冬は人参が殆ど無いという事になる。

相変わらず日照りが強く、雨が降らない。
藁を被せて湿度を保つ。

老化が始まった苗もどんどん植えていく。
溝を切って乾きにくい状態を出来るだけ・・・。


播く場所、植える場所が増えれば増えるほど水遣りに時間が取られていく。

こういう時は出来るだけ丁寧に仕事を進めた方が良い。
焦ったところで芽が出なければ、植えた苗が枯れればそれで終わり。


いつもなら9月に入れば菜っ葉の種蒔きを始めれるのだがこの暑さ、播くならそれなりの工夫が必要。
去年はこの時期に播いた菜っ葉はダイコンサルハムシと言う害虫で全滅。全て無くなった。防虫の為の被覆資材をかけても裾が1ミリでも開いていると入ってくる難儀な害虫。農薬には弱く慣行栽培では問題にならないのだが・・・。
それもあって今年は作付けを減らし丁寧に作る予定なのだが暑さで芽が出なければ10月また菜っ葉が無いと言うことになる。


来年は暑い時のための資材を買おうか?灌水の資材は今年は揃えたし・・。とこの気候お金を掛けて対応していくしかない。


森田久美さんのブログを拝見させて頂くと度々グラニテが登場する。
美味しそうだなぁ・・・

ということで赤ワインとスイカのグラニテを作る。

値段

2010年08月28日 04時47分00秒 | Weblog
物の値段を考える。。

我が農園は早くも端境期。
セットの野菜が少なくなる。そして単純に値引きをするという事も今後の継続を考えれば難しい時期にもなってきた。
そこでまずは小売計算する。
すると2000円のセットなのだが2000円以上は入っている。しかし品質はそう良くない。
実質は2000円以下だろう。

セットを作っていて小売計算すれば倍以上する値段のセットを作る時もある。トマトを沢山入れれば結構跳ね上がる。
ただ今年はそう長くなかったし・・・。

ある流通業者に安すぎるとビックリされたことがあったが確かにそこのセットと比べれば常に倍以上入った状態が続いていた。



話は少し変わるがガーナのカカオ。
今月号のDAYS JAPAN。
我が家でチョコレートを買う時はフェアトレードの一つ500円もするもの。年に一度買うか買わないかの最高級品である。改めて現地の情報を読む。遠い国の事実は繰り返し読む事が必要だと思う。

ガーナのカカオ農園で働く子供たち。
貧しさから学校へ行けない子供たちをさらい、安い労働力として売り払う人身売買。子供達が零細な農園で休み無く働く。10歳に満たない子供も10~30キロの荷物を運ぶ。
彼らが収穫したカカオを日本のお菓子メーカーは大量に輸入する。農家の収入はカカオ一袋約8900円が一年に1,2袋というのも珍しくないと言う。
こうして出来た板チョコ幾らだろうか。

また話は変わるが・・
近所のおじさんとの話で専業農家が作るナスは一週間に一度農薬を撒くという。
恐らく自分達は見た目の悪いナスでも農薬をあまりかけないナスを食べるのだろう。
ここら辺で作っている人たちも皆、農薬を少なくして作る。

白菜もいつも言うが出来るまで20回の農薬散布がある。
スーパーに並ぶ野菜は確かに農薬漬け。

でもこれ農家を批判的に思う事が段々無くなってきて都会と言う場所、そこに住む人たちがいるからそういう野菜があるという事だけと思うようになってきた。

その野菜がイヤなら畑の近くに住めば良いと思う。
きっと畑の近くに消費者がいればそんなに農薬を撒く事もしないだろう。


チョコレートにしても野菜の農薬にしてもそれは自分たちの生活の結果である。
私たちの両親が作ってきたこの社会、私の父親は今も大企業のもと働いているがこの社会がこのままでは良いとはどうしても思えない。その世代がそうであったならば私たちの世代はまた違う形を模索する。

もし私の父親がお菓子メーカーのサラリーマンだったとして、ガーナの現状を知っても会社を変えようとか退職しようとは恐らく思わないだろう。いや、多くの人が生活を変えたり、仕事を辞めたりすることはないだろう。
ガーナの悲劇はこうして生まれる。

都会に住むということ、日本に住むという事だけで悲劇は生み出されているということを私たちは知らなければいけない。
私達が生活する上で便利だとか都合が良い物と感じるものの多くは悲劇の結果と知る事。



都会で有機野菜を買うという事。
その高い野菜、誰が買うのだろう。

都会の人たち(消費者)が今の野菜の在り方、値段を決めているなら、有機野菜が高くて当然である。
言ってみれば有機野菜と言うのは良いとこ取りで自分達が作り上げている野菜が納得いかないから、自分はお金があるから農薬が掛かっていないのを食べよう。

都会の健康志向と言うのは自分達が汚しておいて、自分にはお金と時間があるからその汚れを排除します。という感じに思う。

もちろん田舎も都会暮らしと生活がなんら変わらない人は多いけど都会と言う場所がその生活を作り上げている事実。

その便利な社会、物の溢れた社会から身を引き田舎でシンプルな暮らしに移行できる人がどれだけいるかでこの世の中の在り方は大きく変わるだろう。


まつなが畑ではこういう事実を踏まえた上で価格を考える。
野菜の値段を決める時、有機野菜は高くて当然なのだが野菜が食べ物であって欲しいという願い。
時間とお金がある人の嗜好品ではなく。。
このセットから少しでも生活が変わればという願い。
次の世代、子供たちへの期待。

事実と思いの間でお金の価値と言うものが右往左往する。


暑い

2010年08月27日 19時00分35秒 | Weblog
一昨日家族が帰ってきました。

正直に嬉しい・・。


そしてこの暑さと慣れない一人暮らしが祟ってか体調が悪くようやく復活してきました。
今日は整体に行って、しばらく通ってみようかと。。

首の骨が相当曲がっているらしく「昔事故か何かしましたか?」と聞かれる。
後は背骨も曲がっているのだか、どうやら草刈機や鍬で片方の筋肉が張り曲がってきている様子で職業病に近い物がある。





畑は少し前から早くも端境期の様子。
毎年早まっている。


7月終わりから冬野菜の種蒔きが始まっているのだがこの暑さ、芽が出しにくい。
この時期の種蒔きは春とは違い暑さ、害虫に気を使わないといけなく難しい。

もう植えたい苗が出来上がっているのだけどこの暑さ、なかなか植えれずにいる。しかしもう限界なので水遣りを毎日する覚悟で植えようか・・。

そして人参の芽が出ない。
大体ここら辺で種蒔きを20日ぐらいまでには終えるがもう過ぎている。
7月下旬から蒔けるのだが、暑さでいつも芽が出ない。
今年は8月10日まで待った。でも出ない・・。

出来るか分からないが蒔き直そうと思う。


この暑さ何時まで続くのだろう。
このまま気候がずれて秋、冬がちゃんと来れば良いのだがすぐに冬に入ったりするものだから単純に種蒔き時期を遅らせば良いと言う訳にはいかない。



今年はどうも気候に翻弄される。
気候を理由にはしたくないがあまりにも毎年気候が違うと生産はやはり安定しない。

こういう年は長野とかが羨ましい・・・。

もともと鑑賞用として持ち込まれたオクラ。
次々とキレイな花を咲かせる。

料理

2010年08月16日 21時49分24秒 | Weblog
一人、一人分つくる料理。

それなりに楽しんでいる。
普段我が家では肉という物を殆ど使わない。でも何故か冷凍庫には牛肉が沢山ある。。
親戚の伯母さんが「良い肉やったら食べるやろ」と頂いたもの。よく分からないが放牧牛?遺伝子組み換え飼料不使用?良い肉と言うのはどこそこの銘柄牛ではなく真っ当に育てられた牛の肉ということ。

そこで嫁さんから「居ない間に肉を使っておいて」との指令を受ける。
昔は肉料理担当だった私。。

この生活を始めてめっきり料理をすることもなくなり、野菜は沢山あるし、好きな野菜を作るものだから肉は本当必要な時や僅かに使う程度。
そして嫁さんは牛肉は食べない・・・。

そういう事で最近は肉料理。
野菜農家だけどです。


ナスと牛肉のミンチをトマトで煮込んでパスタにしたり、翌日はスパイスを入れてドライカレーにしたり。



チンジャオロースを作るのにオイスターソースを買いに・・・日本最古の自然食品店 慈光
会へ。本、複合汚染にも出てきます!

こんな田舎にも自然食品があって、少し車を飛ばせばグランマルシェで安く良質のワインや輸入チーズ、オーガニックパスタなど輸入食品を買う事もできる。意外と食べ物好きには恵まれた場所。。

そして慈光会で卵と牛乳を買うがオイスターソースはやっぱり色々入っている。何故だろう自然食品店に置いているオイスターソースって必ず色々な調味料が入っている。良いものなのだろうが・・・という事でいつも愛用するのがユウキ食品のもの。かき、塩、砂糖、澱粉だっただろうか。。
スーパーに置いてあるのでよってみるが無く、代わりにコチュジャンを。こちらも米、麹、塩、唐辛子、砂糖。でも浅い味。本来は大豆が原料だから少し違うもの。
そして韓国風冷麺をすることに・・。

麺はカッペリーニで。
ナムルを沢山作って、自家用のマクワ瓜をいれて。

煮込みようの牛肉でダシを取って作る。
ここで気づくのがダシを取ると少しの肉で幅広い料理が出来るという事。
本来料理ってきっとそういう事なのだろうな思う。


と何の報告だろう。。
男一人暮らし料理の偏でした。





そして
嫁さんの料理に思いを馳せる。


嫁さんが以前勤めていた職場は有機野菜の共同購入や自然食品、パン工房が一体となったカフェ。
夢のような場所である。

そのカフェのオーナーは“野菜の声を聞いて料理をする”という。
一般の料理店はレシピを考え材料を仕入れという順番だが、季節季節の材料があり、その状態(声)を見て料理する。
そこに来る殆どの野菜は近郊のものだから、その時期により種類は限られたもの。
それは忙しく畑を見る機会が少ないからこそ培われていく素材を見る目。


そこで彼女は2年ほどだろうか?
これからその日のレシピを任されると言う時に子供が出来て奈良にきた。


その料理が大きく変わったのは農業を始めてから。
ダイレクトにその野菜と関わる事で、野菜を見て思いを馳せる料理から、その場その物の料理となったように思う。
全ては畑の流れのままに料理が出来る。

ある料理経験者が彼女の人参サラダを食べて、人参だけのサラダにトマトと玉ネギを加えればさらに美味しいというアドバイスを頂いたことがある。

しかしその時の人参は冬の最も美味しい時期の人参。
夏に出来るトマトを入れると台無しになってしまうと思うがそれよりも、その物がおいしい時は必ずシンプルに料理する。それが最も美味しいから。
美味しくない人参や夏人参では恐らく作らないだろうと思うが、まだ味が乗り切らない時はレーズンを加えるぐらいはする。


そしてここでは買い求める野菜とは違いひとつの野菜が大量にあったり、B品野菜であったりと、そうしなければいけないときがある。
そういうとき、投げ出さずに料理してしまうからすごい。


またある人に料理してもらったとき、飲食業に携わってきた方だったのだけどその料理を食べたて私は切り方もキレイで美味しいと思ったのだが、嫁さんがボソっと「私なら、この野菜を使うならこうする」と言う。
それが的を射ている。恐らく彼女が作ったほうが美味しいのではと想像する。


レシピを考え作る料理と、素材を見て作る料理はやはり違う。


すべて完璧なもの、イヤ均一なものが揃う世の中であれば素材を見る力は必ず衰えてくる。
私の母が夏大根を作った時「夏の大根なのに柔らかいね」とふと言う。
そんな母もレシピを考えこの食材はここのスーパーが安いとスーパーをはしごする。


「この時期の野菜はこうね」
という感覚が消え逝く時代。
なんと寂しいものか。。。


一人暮らしのつぶやき

2010年08月14日 20時26分15秒 | Weblog
一人暮らし。。

初めてではない。
でも違うのは休みが無かったこと。

目一杯働くと家事が出来ないことに気づく。
溜め込むと休みに消化という事が出来ないことに気づく。。


最近は生活は落ち着いてきたけど、お盆という事もあってか畑には誰も居ない。
という事は誰とも話す機会が無いという事・・・。

今日は隣のおばあちゃんが話しかけてくれたから一度だけ声を発した。
後は食べる時かボーっとしている時ぐらいしか口は開かない。



就農当初は畑で仕事をしていても近所の人と話す事も少なかったから一日で話すという事がグッと減ったことを思い出す。
でも帰れば家族が居た。
ホント家族ってありがたいもの。

結婚する前は一人で居ることがあんなに楽しかったのに。。


それは自由だったから。
でも今も自由。。


そして自由には2種類あることに気付く。


社会の仕組み、いわゆるしがらみの中の自由。
仕事の日があって休みの日がある。
稼いだお金で休みをどう過ごそうか?と考え仕事をする。
イヤイヤそうで無くても必ずくる休み。

それは休みを保障された生活。

アルバイトは仕事の日まである程度自由に選べる。
自由度が大きいがしがらみが少ない分、社会の仕組みの中の保障も少ない。

そしてこの社会で生きていこうと思えば・・・というか一人前に自立する為には正社員(サラリーマン)になること?
であろうがそれは今になって終身雇用と言うのが減っているが長いスパンで仕事をするという形で勤め先に対してある意味の責任が付く。大きなしがらみの中手厚い保障。それが今の世の中で言う安定なのか。。
ただしがらみの中にあって休みと言う自由な日は必ず必要なのである。
一応労働基準法で保護された社会。
こういう中、仕事や休みの時間を含めて“好きな事をする”という自由を多くの人は求め出したように思う。


一方私が今自由であると言うのはもっと大きなしがらみの中での自由なのだ。
全ては地球が回転しているように何もしなくても私達がそこに立つだけで営まれている現象というしがらみ。
仕事を始めれられるのは日が昇る頃、日が沈む頃にはイヤでも帰らなければいけない。


人が決めたしがらみでは無く当たり前にそこにあるしがらみに則すということが私の自由なのだ。
家族を持つという事もその中で生活を営む事も、生きるために食べ物を作る事も決して“好きな事”という表現ではなく全ての事、生きることに則するという自由。
ただただ生きるという事だけで自由を感じることが出来る。




結局何でも良い。
農業でなくても良い。

地球はイヤでも回るのだからそれに則して生きれれば何をやっても良い。



そうして産まれたものは何でもきっと美しい。
器でも、服でも・・。
芯を捕らえホンモノであること。

私も心がけたい。
子供にも教えたい。

力を抜いて生きようと。

イタリア野菜。
どないかして作れんかなぁと思っていたパプリカ。

一般に売られている大型は難しいからイタリア野菜の牛の角のような形のものとトマト?のような形のものに挑戦。

しかしピーマン事態2年続けて病気が出ているからこちらもポツポツ。


ピーマン共に試行錯誤が必要。あと2年ください。。




2010年08月12日 21時59分11秒 | Weblog
出産に立会い、子供と嫁さんを助産所に預けっぱなしで祖母のお通夜、告別式に。

自宅に帰ったら帰ったらで忙しい・・・。


沢山の祝福のメールありがとう。
そして返信できずごめんなさい。。


ここ数日、多くの出来事の中で思うことがあったのだけど綴ることもできずなんだか消化不良。

思うことを書いてみよう。


人それぞれ聞ける音と聞けない音がある。
鳥山敏子さんの本にそのようなことが書かれている。

私も農業を始めて聞けなかった音を聞けるようになったと実感することがある。サラリーマンの時は世界の不幸に目を向けることが出来なかった。それよりも自分のストレスを日々消化することに追われていたように思う。
でも子育てに目をしっかりと向け生活を整える、日々生活の仕事をするようになってから段々世の中に関心を持つようになる。
サラリーマンのように新聞やテレビで情報だけを取り入れ知識として配備する。一般常識としてその範囲だけの単純な思考回路ではない。

心の奥底で捕らえ日々の生活から得られる感性で物事を真摯に受け止め考える。

例えばDAYS JAPANが雑音では無くなったという事。


最近、嬉しい出来事。
引越しして1年の私達なのに隣のおばあちゃんは子供が産まれたことを報告すると涙を浮かべて喜んで下さる。

どうすればこんな素晴らしい音感が育まれるのだろう。


そんなことを数日考える。


やはり
それは日々の生活が身体を作るということに尽きるのでは。

どういう仕事をするか。
どういうくらしをするか。
どういう環境か。
どういう食べ物か。
どういう子育てをするか・・・・

という事ではないか。

そして

私達は貧乏であって良い。
食べていけるのはまだ先でも良い。

それよりも日々の生活の暮らしを整えたいと思う。

親が金持ちだからと言われてもそうできる環境ならそうしたい。

そう思う。






出産前、畑のようちえんに久々に参加する。
夏の活動場所は涼しい金剛山。

そこで気づかされるのは力を抜くということ。
何かしがらみがあるのは大人のほうで子供達は自由そのもの。大人たちがその子供の世界と一体となれるように力を抜くことの必要性。

まずは意識をするところから始まるけれど日々の繰り返しでそれは無意識になる。
身体の動きであってもまずは意識をして外面的な動作を行うが次第に無意識に動かせるようになる。次に力を抜くということをする。すると動きは内面から発せられるようになる。

子供は常に内面からの動きをする。それは感性おもむくままに。

これから必要とするものを沢山吸収しようとする動き。
その時にテレビの画面に映る森ではなく、電子音の小鳥のさえずりではなく、その場所でその空気を感じ、風を感じ、匂いを感じ、音、視覚、霊気みたいなものも感じることが大切になる。
人との関わりもその感情が子供達に受け止められなければいけない。

親が睨みをきかせると子供はすぐに固まってしまう。内面の動きが抑制され段々外面的な動きに。そういう子供を子供らしくない子供と言うのか・・。
親と子は連鎖する。

ここは親の訓練の場のようにも思う。
力を抜いて感性おもむくままに、内面からの動きに集中する。
子供が裸足になると私も裸足になってみる。痛い・・。
子供がリュックを置いて遊びに離れても気にすることをしない。
すっかり忘れてさらに離れようとしたとき「あれ?太陽のリュックは?」と一声掛ける。
すると子供達の中で変化が起こる。
意図的な声かけも決して意識的ではなく無意識に心から「あれ?」っと。「あれ?」の心が通じるように。

でも大人だから命の危険に気を使わなければいけないし、ある程度の誘導も。

いやぁ難しいね。
畑のようちえんの母親というのはすごいわ。。




聞ける音聞けない音と言うのは決して情報量の多さで聞ける量が増えるわけではない。

日々の生活から生まれるものだから、そこにストレスがあると聞くべき音が聞こえなくなってしまうように思う。

特に子供という時期にはストレスは全く必要が無い。

出来るだけ“ない”という生活は溢れる生活では聞こえなかった身の周りの音を聞く事が出来るようになるのではと思う。
それは子供達にとってもっとも大切な事。。




誕生と旅立ち

2010年08月05日 06時35分02秒 | Weblog
8月5日午前7時。
女の子が産まれました。


そして1時間も経たないうちに私の母親の携帯が鳴り入院していた祖母が危篤状態と言う知らせ。
まもなく旅経ちました。





この医療や科学が発達した時代であっても人智が介入できないタイミングと言うものがある。


そして隣のおばあちゃんに産まれた事を報告すると涙を浮かべて喜んでくれる。

そう

そうなのです。

そして畑のようちえんメンバーから祝福のメールが次々に入る。
返信できなくてゴメンなさい。

そうなのです。

私は出産が人生で一番の幸せだと思います。
男であっても。