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社会人になってからの勉強 (その3)

2020-08-01 11:23:52 | 勉強
 今回は、設計/製図と、キャド(CAD)の操作について書きます。

【設計と製図は同じでは有りません!】
 多くの方が『設計』と『製図』を混同されます。製図とは図面を作成する事で、設計は仕様/性能、構造/形状、材質などを決定し、性能や強度の計算をする事です。設計者が作成した資料をベースに製図工が図面を作成するのです。中小企業の多くでは、設計者が図面も作成しますが、大企業の多くでは、製図を担当する子会社を持っています。

 ○○機械設計(株)と言う看板を掲げた会社が沢山有りますが、大半はキャドオペレータを派遣したり、社内でキャド(CAD)を使って製図するのが仕事です。 非常に稀ですが、大手機械メーカーで設計をされていた方が、早期退職して起業した会社も有ります。そんな会社では性能計算や強度計算も請け負っています。

(余談) 東京大学には航空宇宙工学科が有りますが、そこの卒業生は(私の知る限り)優秀でした。 その一人が社長の会社は、英語の設計/計算書/報告書/契約書を作成したり、難しい仕事しか受けませんでした。社員は20名程でしたが、大手企業の超ベテラン社員だった方達を高給で集めていた様でした。

(余談) 私は現役の最後・数カ月を某中小企業で勤務しました。そこでは、設計は私一人しかいませんでした。 ブラック企業の典型と言って良い最悪の会社だったので、私は直ぐに嫌になってきました。それを察して社長が設計を募集しました。30歳程のキャドオペレータが応募してきて、私に相談無く採用しました。彼は材料や強度計算などの知識と経験が全く無く、教える必要が有りましたが、傲慢な人柄だったので私は教育を諦めました。 「優秀な代わりが入社されたので、私は辞めさせて頂きます」と言って、サッサと退職しました。

【設計/製図の授業】
 私は大学で機械工学を学びました。機械の設計には勿論・設計/製図は必要ですが、開発や研究にも必要不可欠です。実験装置を作る時も、設計/製図は必要になります。

 私は大学で設計/製図をマスターしました。2年生?か3年生?になると、広い製図室に各自に製図テーブルと脇机が与えられました。 最初・2時間ほどJISの機械製図(JIS B 0001)の講義が有り、その後は、各自に違う仕様が与えられて、ウインチとか遠心ポンプ等を設計するのです。A1サイズの図面用紙を大学が用意してくれていました。計算書を別に作成して期日までに提出しないと、単位が取れませんでした。

 特に設計の時間と言うのは無くて、自分の好きな時間にやるのです。提出期日が近づくと、徹夜する事も有りました。 当時は、どの大学の機械工学科でも同じようだったらしく、ウインチや遠心ポンプを設計する参考書を売っていました。

 4年生になると卒業設計と言うのが有って、自分で機種、仕様を決めて設計しました。私は、新聞か雑誌に写真が掲載された新しいタイプのガソリンエンジンを設計しました。外形写真をベースに、想像を逞しくして設計したのです。部品点数が多くなり、膨大な計算が必要で、予想以上に時間が掛かってしまったので、途中で嫌になった記憶が有ります。

 大学の機械工学科を卒業したら、入社して設計/製図を教えてもらう必要は全く有りませんでした。 (現在は、どうなっているのでしょうか?)

【入社後の設計/製図】
 私は1971年にK社の機械開発部で仕事を始めました。設計が必要な社員には事務机の他に製図テーブルが与えられていましたが、72年に正社員の製図テーブルは撤去される事になりました。 多分、社員が増えて来たのに、事務所のスペースはそのままだった為だと思います。(狭いスペースに、増えた社員を押し込むと言う本末転倒の発想でした。)

 私達の課は、フロアーの片隅に有りました。ベテラン社員達がスチール製の本棚を並べて隠し部屋を作り、そこに私専用の製図テーブルを置いてくれました。私達の課が、別のビルに有ったた設計部に移るまで、2年間・私はその隠し部屋で計画図を作成して、課に派遣されていた超ベテランの製図工に製図して貰いました。

【その後の設計/製図】
 私達の課は最初、本社ビルに有った設計部に、その後・K工場の設計部に移りました。管理職以外には事務机と製図テーブルが与えられました。製図テーブルはA0サイズの図面が描ける広い机でした。 工場の設計部に勤務する様になって暫くすると、正社員の製図テーブルは撤去されてしまいました。 (理由は前述と同じで、スペースが不足したためでした。)

 私は仕方が無いので、A3の方眼紙に計画図を描きました。一枚仕上げるのに最初は倍ほどの時間が掛かる様になってしまいました。 

 東京本社に、各工場の設計担当者が駐在するスペースが設けられていました。私は1980年から4年間ほど、そこで仕事をしました。情報収集、見積積算、見積書/配置図などの作成と顧客回りが仕事でした。設計事務所から(私専用の)製図工を一人派遣してもらって、私が方眼紙に描いた計画図を図面化してもらいました。

 引き合い件数がドンドン増えて、1年後には二人、2年後には三人製図工を抱える事になりました。週に二、三日、遠方に出張していましたので、配置の計画図は出張先のホテル等で作成しました。 大きなアタッシュケースを買って、A3の方眼紙と製図道具一式を入れていたのです。 (今でも、このアタッシュケースを持っていますが、「よくも、こんな重い物を運んだ!」と我ながら感心します。)

(余談 :東京駅前の道路の舗装工事) 東京に長く住んでいる方でも、東京駅前の道路の補修工事を見た事が無いようです。八重洲側の道路の交通量は凄まじいですから、舗装工事は不可欠です。東京駐在の頃は、残業で週に一、二日は最終電車に乗れませんでした。 夜の12時頃になると、大勢の作業者と作業車両が集まって来て、道路のアスファルトを剥がし始めました。朝の6時頃には、白線を引いて、車も人も引き上げ何も無かった様になりました。次の晩は、別の場所を舗装するのです。毎年一回は舗装工事をしていました。

 旧鉄鋼ビルの様に、外壁にタイルを貼ったビルでは、夜中にタイル一枚ずつ木槌(?)で叩いて、浮いていないか?剥がれる恐れはないか?気の遠くなる様なチェックしていました。残業していると、結構気になる音でした!

【キャド(CAD)の歴史】
 キャド(CAD)とは、コンピュータを用いて図面を作成するシステムの事です。キャム(CAM))とは、CADで作成した図面のデータで自動工作機械を動かすシステムの事です。1971年に私が入社したK社の某工場では、大形コンピューターを用いたCAD及びCAMを導入していました。

 1972年にアメリカのIBM社から、専用のパソコン・システムにCADソフト(キャダム :CADAM)を入れた物が発売されました。 1975年頃に私の所属していた課が、某工場の設計部に移ったのですが、その設計部はキャダムを3セット程導入していました。 当時のキャダムは非常に高価で、パソコン、モニター、キーボード、ファンクションキーボードなど一式で700万円ほどもした様です。(キャダムのソフトはロッキード社製でした。)

 普通のパソコン(PC)で使えるCADソフトが各社で種々開発され、少しずつ性能が改善され、ソフトもPCも安価にななってきました。キャダムは非常に優れたソフトでシェアを50%以上持っていたと思いますが、(専用のパソコン・システムが必要で、)普通のパソコンで使用できる様にソフトを修正するのが難しかったのか?キャダムは発売中止なりました。

 私が出向した1996年頃に、やっと一部の中小企業でもCADが採用される様になりました。

(余談 :CAD教室) CAD教室の社長(TN氏)から、「キャドオペレータを育てるのではなくて、設計者を育てる教室にしたい」と相談を受けました。キャドの導入が始まった頃は、キャドの操作が難しいと多くの企業は考えていました。 TN氏は、高校を卒業した男女に1年間掛けて(ノンビリと)キャド操作と製図を教えていたのです。TN氏は大企業で設計をした経験から、「図面を作成する職場に若い子が入ったら、直ぐにキャドを操作して図面が描ける様になる」と思っていたのです。 要するに、自分が経営するCAD教室は必要ないと考える様になっていたのです。

 TN氏は、「設計者を養成する教室では、どんな事を教えたら良いか?」私に相談して来たのです。私は、カリキュラムと、その概要を検討しました。二、三回会って話したら、TN氏と私は、「キャドオペレータを目指す子に、工学を教えても身に付くはずがない」と考えたので、この計画は中止しました。

【三次元キャド(3D-CAD)】
 私が入社した年(1971年)に、K社はボーイング社と技術提携しました。ボーイング社から送って来る図面は全て三次元キャド(3D-CAD)で作成していました。ボーイング社では社員の大半が二次元で描いた図面を理解出来無かった為の様でした。(配管図さえ、三次元で描いていました。)

 K社でも1995年頃には、パソコンに3D-CADを入れて、建設機械の計画図等を描く様になっていました。部品の製作図は今でも二次元ですが、2010年頃になっても、3D-CADデータから二次元の部品製作図を作成するのは難しかった様でした。 それで、3D-CADの計画図で機械の動きをチェックして、OKだったら、2D-CADで計画図を一から描いて、そのCADデータから部品製作図を作っていました。

(余談) 東大の機械工学科を(銀時計をもらって)首席で卒業した社員と数年間同じ課に勤務した事が有ります。彼は二次元で描いた図面が理解出来ず、描く事も出来ませんでした。人事部のミス(?)で、設計に勤務していましたが、設計の仕事が出来る分けがありません!(彼の頭の中を覗いて見たかったです!)

【私とキャド(CAD)】
 私が最初にCADに取り組んだのは2000年で、社員150名程の中小企業の開発部に出向した時です。出向する1年前に、設計課が外国製の非常に珍しい二次元キャド(2D-CAD)を導入し、少し前に開発部も2セット導入していました。開発担当者は私を含めて5名でした。3名は製図テーブルで手描きでしたが、一人(HK氏)はパソコンとCADで設計/製図している事になっていました。

 私はHK氏からCADの操作を教えてもらう事になっていました。この会社は、不思議な事にCADの操作説明書を入手していませんでした。HK氏は、誰かに操作を少し教えてもらった様でしたが、まだ十分使いこなせていませんでした。HK氏は、製図テーブルを撤去されており、CADも旨く使えない状態で、私に教えられる状態では無かったのです。

 私は設計課に教えて貰いに行ったのですが、開発部と設計課は”犬猿の仲”の様な状態で、追い返されました。 私が1996年に出向する時、友人がオートキャド(AutoCAD)とその操作説明書をプレゼントしてくれていました。 その操作説明書を参考に、想像を逞しくして、メモを取りながらCADを操作しました。2週間ほどすると、何とか製図出来る様になりました。

 設計課の若手社員達が、定時後に私の様子を見に来て、「お疲れ様!」とか言って帰る様になりました。 当時、私は54歳の”老人”だったので、若手社員達は多分、「こんな年寄りがCADを使える様になる」とは思っていなかったと思います。 半月程してCADを使って計画図が描ける様になると、設計課の一人が彼らの作った機械要素(ボルト、ナット、配管部品など)のCADデータをCDに入れて持って来てくれました。 結局、私がHK氏にCADを教える事になったのです。

 事情があって、1年もしない内に別の会社に出向しました。そこで使用していたCADは、大手電機メーカーが開発した非常に特殊なCADでした。(手書きの時の様に)最初に図面のサイズを決め、縮尺を決めて作図する方式でした。CADの長所が生かされない、とんでもないCADでした。 調べると、このCADは殆ど売れておらず、開発を中断し、近々(ちかぢか)販売も止める事になっていました。 簡単な操作説明書が有ったので、このCADも使える様になりました。

 完成品の組立図をCADデータで要求する顧客が有ったので、社長を説得してAutoCADを買って貰いました。3年ほどして、別の会社に出向させられたのですが、そこでは、古手の社員は手描きで、若い社員はAutoCADで製図していました。勿論、私はAutoCADを使いました。

 私は50歳の時にK社から出向して、中小企業で10年間働きました。給料はK社から頂いていたのです。K社の定年は60歳で、定年になる1ケ月前に、最初に出向した会社(N社)の社長から、「高給を出すから来て欲しい」と言う電話を頂きました。

 N社に最初に出向した時は、全員手描きで設計していましたが、2D-CADを採用していました。国内の企業が開発したキャドで、手描きに慣れた人が比較的簡単に操作出来る様に工夫したキャドでした。操作説明書が有り、全員使いこなしていたので、私も直ぐに操作出来る様になりました。

 顧客の多くから、コピーした図と一緒にAutoCADデーターを提出する様に要求される様になっていました。AutoCADに変換すると文字等が『化け』てしまい、修正に時間が掛かりました。 それで、結局・私はAutoCADを使用しました。

 私は10年間で4種類の二次元キャド(2D-CAD)が使える様になりましたが、設計事務所から派遣されてきたキャドオペレータは、もっと沢山の種類のキャドが操作出来ました。私の独断と偏見ですが、「キャド教室は不要で、慣れたら誰でもキャドは使える」と思います。特に、二十歳代の若者は、男性も女性も習得するのが早いです。

(余談 :データーの保管) N社では月に一度、CADデーターをCDに記録して、設計室に保管していました。「万一火災が発生したら、貴重なデーターを失ってしまうから、別棟の倉庫に保管しましょう!」と提案したのですが、社長以下誰も賛同してくれませんでした。数か月後に社長の友人の会社で火災が発生して、全てのパソコンとCADデーターを消失してしまいました。 次の日から、CDの記録を2部作って、倉庫と社長の自宅に保管する事になりました。

【世の中の変化】
 現在は手描きで図面を作成している会社は殆ど有りません。通信システムは5Gの時代に入ろうとしていますが、4Gでも多量のデーターを遣り取り出来ます。設計/製図の職場は、ドンドン変わって来ています。その例を以下に書きます。

① 昔は図面のコピーを持参したり、郵送していました。2000年頃から、中小の加工業者でもA1用の大形プリンターを導入する様になってきて、大きな部品の加工の見積を取る時、CADデータを送れば良い様になってきていました。

② 大手企業の山陰地方にある工場から、ダクトを改修したいと電話が有りました。私が勤務していた会社でしか製造出来ない部品(N部品)が必要でした。交通の便が悪く、出張すると一泊二日の旅になるのです。予算を聞くと、とても対応出来ない額でした。然し、その大手企業からは沢山注文して頂いていたので、無下には断れませんでした。

 「N部品だけ作って送ります。ダクトは設計だけしますから、近くの町工場で作って下さい」と回答しました。担当者は不安になって、「打ち合わせに来てください」とか「何とか、ダクトも作って下さい」と懇願しましたが、赤字の仕事は受けられません。 担当者を𠮟咤激励して、私の提案で進めました。電話で遣り取りして、CADデータを送っただけでしたが、旨く行きました。

 この手の注文は毎年・何件も有りましたが、出張して打合せ、ダクトも作り、据付作業員も派遣していましたが、そんな必要は無かったのです。

③ 私が勤務したK社では、1975年頃・数本の電話回線を使ったテレビ電話室が神戸と東京に有りました。私は数回利用しましたが、映像は”ぎこちなかった”です。現在は、スマホで無料のテレビ電話が利用出来ます。人口の密集した地域では、もう直ぐ『5G』の時代になります。 4Kか8Kの大きなモニターを設置したテレビ電話室が各社に普及したら、新幹線に乗って本社の会議に参加する必要は無くなり、遠方の顧客に出向く必要も無くなります。

④ 前にも書きましたが、英語で図面や仕様書などを作成する企業が増えて来ています。 今から20年以上前の2000年頃に、英語の読み書きが出来る国民が多いいフィリピンに、設計事務所を設けた会社が有りました。来日してキャドオペレータになったフィリピン人を支援して、フィリピンの田舎に設計事務所を設立させた企業も有りました。 頭脳明晰な人が、キャドオペレータを続けていると、設計の領域の知識を持つ様になります。私が会ったフィリピン人の社長は、正にそんな方でした。

(余談 :田舎に設けるのがポイント) 日本にも「生まれ故郷を離れたくない」と言う人が多いい地域が有ります。例えば、祭りが有名な岸和田(だんじり祭り)や姫路市白浜町(灘のけんか祭り)。 フィリピンにも田舎に行くと、そんな地域が有るそうです。ケソン市やマニラ市だと、腕が上がると給料の高い会社に移ってしまうようですが、田舎だとそんな心配はしなくて良い様です。

(余談 :スペルミス) 1980年頃、私は輸出案件を年に10件ほど担当しました。大手エンジニアリング会社に英語の図書を提出しました。輸出用の仕様書は事細かく書く必要が有るので、100ページ以上になりました。当時・最も大きかったエンジニアリング会社(CC社)は、提出した図書を入念にチェックして、スペルミスが6カ所も有ると再提出を要求してきました。「今回は3カ所あった」などと電話してきました。 私は英語が苦手でしたが、直ぐに殆どスペルミスが無い仕様書を作れる様になりました。 (種明かし:IBM製の記憶装置付きタイプライターを使っていたからです。前に作った仕様書のコピーを取って、必要な個所のみ修正すれば新案件の仕様書の完成です!)


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