【はじめに】
沖縄県知事の玉城デニー(玉城康裕)氏とそのブレインは、「辺野古基地に滑走路を作らせない努力をしている」と支持者達にアピールしてきました。彼らは馬鹿では無いので、法廷闘争で辺野古基地問題を解決出来るとは思っていないと想像します。 支持者を減らさない方法/手段/政策が、他に思いつかないので、法廷闘争を続けてきたと私は思います!
私が玉城デニー氏だったら、「悪法もまた法なり」と言われますから、法廷闘争は止めて→→辺野古基地の工事を早める様に政府に働き掛け→→「普天間基地が返還された後、ドウ活用するか!?」に時間と知恵を使って→→素晴らしい跡地利用計画を立案して→→支持者を増やします。
【普天間基地問題の整理】
終戦の直前にアメリカ軍が高台の農地や山林を接収して、滑走路付きの海兵隊用の基地の建設を開始しました。 基地の周辺には人家が少なかったのですが、土地を接収された農民が、基地の周辺に家を建てて住む様になりました。
普天間基地で働く日本人などが基地の周辺に家を建てて住むようになり→→基地の周辺に民家、商店、学校等が沢山出来ました。 騒音と安全性の問題が深刻化して行ったのです。
日本政府は、「代替基地を日本の金で作るから→→普天間基地を返還して欲しい!」とアメリカに働き掛け、1996年に了解を得ました。 →→辺野古基地に滑走路を付設する事になったのです。
●●●● 接収された土地の地主問題 ●●●●
基地建設の為にアメリカ軍が接収した土地は、地主から沖縄諮詢会(後に琉球政府)が借り上げた事にして、賃料を沖縄諮詢会が支払い→→アメリカ軍に又貸しして→→アメリカが賃料相当額を沖縄諮詢会に与える体制になりました。
1950年代になっても、アメリカ軍は強制的に土地を新たに接収して→→基地を拡張し続けました。 1953年に地主達の団体・沖縄県軍用地等地主会連合会(土地連)が設立されました。
沖縄での大規模な市民闘争の最初は、アメリカ軍が接収した土地を、一時金を支払って永久に使用権を得ようとした事に地主達が反発して起こした闘争だと思います。
普天間基地が返還されても、跡地の利用には地主達を説得して/了解を得ると言う『難題』が有ります。 この問題については次回、私の考えを書くつもりです。
●●●● アメリカ軍の基地の役割が変わってきました! ●●●●
アメリカ軍は当初、『本土決戦』を行う前線基地として利用する為に基地を建設しました。終戦で沖縄基地の役割は終わったはずですが、1950年に朝鮮戦争が勃発し→→沖縄に駐留するアメリカ軍の役割は→→「朝鮮半島の平和を維持する事」になりました。
1964年からアメリカ軍がベトナム戦争に参戦して、沖縄の基地は前線基地として利用される様になりました。 駐留していた兵隊が→→ベトナムで戦い→→麻薬に汚染され/精神的に可笑しくなって→→休養のために沖縄の基地に帰ってきました。 ベトナム戦争は11年間ほども続きましたが、その間にアメリカ兵が沖縄で種々の乱暴/狼藉を働きました。
21世紀になって中国が経済発展し→→急激に軍備増強を行い→→台湾に侵攻する恐れが出てきました。 中国は今でも核兵器を増産している様です。 アメリカ軍基地の現在の役割は、中国の台湾侵攻や太平洋への進出を防止することです。
日本は核兵器を所有する『ならず者国家(中国、ロシア、北朝鮮)』に囲まれています。「アメリカに核の傘を差し掛けて貰う」必要性が、年々高まってきています。
中国経済が悪化してきたら→→国民の不満を抑えるために→→中国が台湾に軍事侵攻する可能性が無いとは断言できません。 現在、台湾に日本人が『15,000人』ほど住んでいる様ですから、台湾有事の時はアメリカ軍の協力を得て、救出する必要が有ります。
●●●● アメリカ・ファーストと基地問題 ●●●●
(トランプ氏が典型ですが)アメリカの共和党は、アメリカ・ファーストを主張しています。トランプ氏が大統領に返り咲いたり、共和党が下院で多数派を続けると→→外国に駐留するアメリカ軍の縮小を始める可能性が有ります。その場合は、日本に駐留するアメリカ軍の多くが、本国に撤退すると予想します。
将来、アメリカの方から「日本に有るアメリカ軍の基地を返還する」と言い出す恐れが有ります。→→基地問題は新たな展開をして→→日本は安全保障を根本的に見直す必要が出てきます→→平和ボケから目覚める必要が有ります!
・・・ 沖縄のアメリカ軍基地に関連する歴史 ・・・
★ 1945年4月 :アメリカ軍が基地建設開始
★ 1945年8月 :アメリカ軍の統治下で沖縄に行政府(沖縄諮詢会)が出来た。→→後に『琉球政府』
★ 1950年6月 :朝鮮戦争勃発
★ 1952年4月 :サンフランシスコ講和条約発効 →→沖縄がアメリカの施政権下に置かれた→→沖縄が『平時』扱いになった。
★ 1953年8月 :沖縄県軍用地等地主会連合会(土地連)設立
★ 1964年8月 :アメリカ軍がベトナム戦争に参戦 →→1975年4月まで続いた。
★ 1972年 :沖縄返還 (佐藤栄作総理/ニクソン大統領)
★ 1978年 :思いやり予算 ・・・基地で働く日本人の給与を日本が負担する事になった。
★ 1995年 :跡地利用特措法(沖縄県における駐留軍用地跡地の有効かつ適切な利用の推進に関する特別措置法)
★ 1996年 :普天間基地返還について日米間で合意 →→辺野古基地に滑走路を設けて代替の基地にする案が浮上し→→日本政府は具体的検討を進め→→2017年4月に辺野古の埋め立てに着手しました。
★ 2009年 :鳩山由紀夫総理が「最低でも県外」と発言した。 →→沖縄で辺野古反対運動が盛り上がる様になってしまいました。
★ 2014年 :翁長雄志が沖縄県知事になる。 ・・・翁長(おなが)氏は県議だった頃は「辺野古推進派」でしたが、野党の支持を得て知事に当選した後は「辺野古反対派」になりました。
★ 2018年 :玉城デニー氏が沖縄県知事になる。 (当選2回)
【普天間基地の基礎データ】
終戦の直前(1945年4月)に、アメリカ軍が本土決戦の為の基地として普天間に飛行場を建設しました。
然し、4ケ月後の8月15日に玉音放送が有りましたから、普天間基地は日本との戦争には殆ど利用出来なかったと思います。
★ 面積 :4.8km2 ・・・畑が主な農地と山林を接収した。
★ 標高 : 95m
★ 地主 :3,818人
● アメリカ軍の海兵隊用の基地
● 滑走路 :2,700m✕1本
【ご参考 :沖縄本島の飛行場】
沖縄本島には現在、3ヶ所に飛行場(❶~❸)が有ります。普天間飛行場の代替えに辺野古基地を埋め立てて飛行場が建設されています。完成したら普天間飛行場は日本に返還される事になっています。
現在、アメリカ軍の専用飛行場は普天間飛行場と嘉手納飛行場の2ヶ所です。普天間飛行場は騒音と安全性が問題になっていますが、嘉手納飛行場の周辺にも民家が密集していますが、大きな問題にはなっていません。 それは、嘉手納飛行場の面積が普天間飛行場の『4.1倍』も有り、民家と滑走路の距離が離れている為だと思います。
❶ 那覇空港と航空自衛隊那覇基地 :1933年に旧日本海軍が作った『小禄飛行場』を→→1945年6月にアメリカ軍が接収し→→拡張しました。
★ 1972年に基地の一部が日本に返還され→→航空自衛隊の那覇基地になりました。
★ 1975年に残りも返還され→→那覇空港になりました。
★ 面積 :那覇空港≒490ha、 航空自衛隊那覇基地≒209ha
★ 那覇市
❷ 嘉手納飛行場 :旧日本陸軍の『中飛行場』を接収して嘉手納飛行場としました。 1945年から連合軍(アメリカ軍、イギリス軍など)が大幅に拡張しました。
★ 面積 :1,985ha
★ 標高 : 44m
★ 沖縄県中頭郡嘉手納町、沖縄市、中頭郡北谷町
❸ 普天間飛行場 :1945年にアメリカが新たに建設しました。
★ 面積 :480ha
★ 標高 : 95m ・・・津波の心配が有りません。
★ 宜野湾市
❹ 辺野古基地(キャンプ・シュワブ) :1945年にアメリカが名護市辺野古周辺に日本人用の収容所を建設しました。
★ 1956年にアメリカが基地を建設(キャンプ・シュワブ)しました。 2,060ha
★ 1995年から普天間飛行場の移転が検討され→→キャンプ・シュワブの周辺を埋め立てて滑走路を建設する案が採用されました。
★ 2010年、時の総理大臣・鳩山由紀夫氏が普天間の移転先を「最低でも県外移設」と発言した為に→→「普天間飛行場の代替えは県外に作れ!」と言う市民運動が盛んになりました。
★ 名護市
沖縄県知事の玉城デニー(玉城康裕)氏とそのブレインは、「辺野古基地に滑走路を作らせない努力をしている」と支持者達にアピールしてきました。彼らは馬鹿では無いので、法廷闘争で辺野古基地問題を解決出来るとは思っていないと想像します。 支持者を減らさない方法/手段/政策が、他に思いつかないので、法廷闘争を続けてきたと私は思います!
私が玉城デニー氏だったら、「悪法もまた法なり」と言われますから、法廷闘争は止めて→→辺野古基地の工事を早める様に政府に働き掛け→→「普天間基地が返還された後、ドウ活用するか!?」に時間と知恵を使って→→素晴らしい跡地利用計画を立案して→→支持者を増やします。
【普天間基地問題の整理】
終戦の直前にアメリカ軍が高台の農地や山林を接収して、滑走路付きの海兵隊用の基地の建設を開始しました。 基地の周辺には人家が少なかったのですが、土地を接収された農民が、基地の周辺に家を建てて住む様になりました。
普天間基地で働く日本人などが基地の周辺に家を建てて住むようになり→→基地の周辺に民家、商店、学校等が沢山出来ました。 騒音と安全性の問題が深刻化して行ったのです。
日本政府は、「代替基地を日本の金で作るから→→普天間基地を返還して欲しい!」とアメリカに働き掛け、1996年に了解を得ました。 →→辺野古基地に滑走路を付設する事になったのです。
●●●● 接収された土地の地主問題 ●●●●
基地建設の為にアメリカ軍が接収した土地は、地主から沖縄諮詢会(後に琉球政府)が借り上げた事にして、賃料を沖縄諮詢会が支払い→→アメリカ軍に又貸しして→→アメリカが賃料相当額を沖縄諮詢会に与える体制になりました。
1950年代になっても、アメリカ軍は強制的に土地を新たに接収して→→基地を拡張し続けました。 1953年に地主達の団体・沖縄県軍用地等地主会連合会(土地連)が設立されました。
沖縄での大規模な市民闘争の最初は、アメリカ軍が接収した土地を、一時金を支払って永久に使用権を得ようとした事に地主達が反発して起こした闘争だと思います。
普天間基地が返還されても、跡地の利用には地主達を説得して/了解を得ると言う『難題』が有ります。 この問題については次回、私の考えを書くつもりです。
●●●● アメリカ軍の基地の役割が変わってきました! ●●●●
アメリカ軍は当初、『本土決戦』を行う前線基地として利用する為に基地を建設しました。終戦で沖縄基地の役割は終わったはずですが、1950年に朝鮮戦争が勃発し→→沖縄に駐留するアメリカ軍の役割は→→「朝鮮半島の平和を維持する事」になりました。
1964年からアメリカ軍がベトナム戦争に参戦して、沖縄の基地は前線基地として利用される様になりました。 駐留していた兵隊が→→ベトナムで戦い→→麻薬に汚染され/精神的に可笑しくなって→→休養のために沖縄の基地に帰ってきました。 ベトナム戦争は11年間ほども続きましたが、その間にアメリカ兵が沖縄で種々の乱暴/狼藉を働きました。
21世紀になって中国が経済発展し→→急激に軍備増強を行い→→台湾に侵攻する恐れが出てきました。 中国は今でも核兵器を増産している様です。 アメリカ軍基地の現在の役割は、中国の台湾侵攻や太平洋への進出を防止することです。
日本は核兵器を所有する『ならず者国家(中国、ロシア、北朝鮮)』に囲まれています。「アメリカに核の傘を差し掛けて貰う」必要性が、年々高まってきています。
中国経済が悪化してきたら→→国民の不満を抑えるために→→中国が台湾に軍事侵攻する可能性が無いとは断言できません。 現在、台湾に日本人が『15,000人』ほど住んでいる様ですから、台湾有事の時はアメリカ軍の協力を得て、救出する必要が有ります。
●●●● アメリカ・ファーストと基地問題 ●●●●
(トランプ氏が典型ですが)アメリカの共和党は、アメリカ・ファーストを主張しています。トランプ氏が大統領に返り咲いたり、共和党が下院で多数派を続けると→→外国に駐留するアメリカ軍の縮小を始める可能性が有ります。その場合は、日本に駐留するアメリカ軍の多くが、本国に撤退すると予想します。
将来、アメリカの方から「日本に有るアメリカ軍の基地を返還する」と言い出す恐れが有ります。→→基地問題は新たな展開をして→→日本は安全保障を根本的に見直す必要が出てきます→→平和ボケから目覚める必要が有ります!
・・・ 沖縄のアメリカ軍基地に関連する歴史 ・・・
★ 1945年4月 :アメリカ軍が基地建設開始
★ 1945年8月 :アメリカ軍の統治下で沖縄に行政府(沖縄諮詢会)が出来た。→→後に『琉球政府』
★ 1950年6月 :朝鮮戦争勃発
★ 1952年4月 :サンフランシスコ講和条約発効 →→沖縄がアメリカの施政権下に置かれた→→沖縄が『平時』扱いになった。
★ 1953年8月 :沖縄県軍用地等地主会連合会(土地連)設立
★ 1964年8月 :アメリカ軍がベトナム戦争に参戦 →→1975年4月まで続いた。
★ 1972年 :沖縄返還 (佐藤栄作総理/ニクソン大統領)
★ 1978年 :思いやり予算 ・・・基地で働く日本人の給与を日本が負担する事になった。
★ 1995年 :跡地利用特措法(沖縄県における駐留軍用地跡地の有効かつ適切な利用の推進に関する特別措置法)
★ 1996年 :普天間基地返還について日米間で合意 →→辺野古基地に滑走路を設けて代替の基地にする案が浮上し→→日本政府は具体的検討を進め→→2017年4月に辺野古の埋め立てに着手しました。
★ 2009年 :鳩山由紀夫総理が「最低でも県外」と発言した。 →→沖縄で辺野古反対運動が盛り上がる様になってしまいました。
★ 2014年 :翁長雄志が沖縄県知事になる。 ・・・翁長(おなが)氏は県議だった頃は「辺野古推進派」でしたが、野党の支持を得て知事に当選した後は「辺野古反対派」になりました。
★ 2018年 :玉城デニー氏が沖縄県知事になる。 (当選2回)
【普天間基地の基礎データ】
終戦の直前(1945年4月)に、アメリカ軍が本土決戦の為の基地として普天間に飛行場を建設しました。
然し、4ケ月後の8月15日に玉音放送が有りましたから、普天間基地は日本との戦争には殆ど利用出来なかったと思います。
★ 面積 :4.8km2 ・・・畑が主な農地と山林を接収した。
★ 標高 : 95m
★ 地主 :3,818人
● アメリカ軍の海兵隊用の基地
● 滑走路 :2,700m✕1本
【ご参考 :沖縄本島の飛行場】
沖縄本島には現在、3ヶ所に飛行場(❶~❸)が有ります。普天間飛行場の代替えに辺野古基地を埋め立てて飛行場が建設されています。完成したら普天間飛行場は日本に返還される事になっています。
現在、アメリカ軍の専用飛行場は普天間飛行場と嘉手納飛行場の2ヶ所です。普天間飛行場は騒音と安全性が問題になっていますが、嘉手納飛行場の周辺にも民家が密集していますが、大きな問題にはなっていません。 それは、嘉手納飛行場の面積が普天間飛行場の『4.1倍』も有り、民家と滑走路の距離が離れている為だと思います。
❶ 那覇空港と航空自衛隊那覇基地 :1933年に旧日本海軍が作った『小禄飛行場』を→→1945年6月にアメリカ軍が接収し→→拡張しました。
★ 1972年に基地の一部が日本に返還され→→航空自衛隊の那覇基地になりました。
★ 1975年に残りも返還され→→那覇空港になりました。
★ 面積 :那覇空港≒490ha、 航空自衛隊那覇基地≒209ha
★ 那覇市
❷ 嘉手納飛行場 :旧日本陸軍の『中飛行場』を接収して嘉手納飛行場としました。 1945年から連合軍(アメリカ軍、イギリス軍など)が大幅に拡張しました。
★ 面積 :1,985ha
★ 標高 : 44m
★ 沖縄県中頭郡嘉手納町、沖縄市、中頭郡北谷町
❸ 普天間飛行場 :1945年にアメリカが新たに建設しました。
★ 面積 :480ha
★ 標高 : 95m ・・・津波の心配が有りません。
★ 宜野湾市
❹ 辺野古基地(キャンプ・シュワブ) :1945年にアメリカが名護市辺野古周辺に日本人用の収容所を建設しました。
★ 1956年にアメリカが基地を建設(キャンプ・シュワブ)しました。 2,060ha
★ 1995年から普天間飛行場の移転が検討され→→キャンプ・シュワブの周辺を埋め立てて滑走路を建設する案が採用されました。
★ 2010年、時の総理大臣・鳩山由紀夫氏が普天間の移転先を「最低でも県外移設」と発言した為に→→「普天間飛行場の代替えは県外に作れ!」と言う市民運動が盛んになりました。
★ 名護市