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おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

箒木文学と愛車ヴィッツ

2011年08月25日 06時23分05秒 | 日記
昨日はヴィッツを買って1周年、1年点検にネッツに寄った。

いつの間にか車体にいくつかの傷が入っている。簡易ペイントを購入して塗ったりしたが、その後も小さな傷が入っている

住んでいる家が小さいので、つい駐車場が物置になって駐車スペースが段々と狭くなった。間口7mあるのでゆっくり入れられる構造なのだが、今では注意を要する。

雨続きなので、ここが雨天の室内洗濯干し場にもなっている。

ヴィッツは買ってすぐから高速を走ったり、長く走らせたりするとどこからともなく微かに「シャカシャカ」という音がする。今仏教の本を集中的に読んでいる所為かもしれない。

「釈迦釈迦(シャカシャカ)」

整備士を乗せて確認しようとすると沈黙するので修理のしようもない。

エンジンオイルを換えて、車輪のローテーションを変更し、車を磨き上げて終わり。それでも調子が随分良くなった。

このビッツ、買う時に「値切った」思い切ってこれだけにできたら購入しますというと、担当が所長に相談してきますと、事務所の奥に消えた。

そして「オーケー」が出ましたと顔を綻ばせながら帰ってきた。

随分得したな・・・とその時は思った。しかし、・・・知らなかった車の型が「モデルチェンジの前だった」のだ

今のビッツはこれからすると格好が良くなった。スタイリングがシャープになった。

安くできるはずだしかしもったいぶるなあ・・・エンジの色も今熊本にないから全国に手配して探しますからと時間がかかった。

この色も失敗だった。グレーは陳腐に感じたのだが今グレー(ねずみ色)のヴィッツを見ると「いい!」

後悔先に立たず

車検が済むのを待つ間、ホールで持っていった読みかけの本を開いた。これも再読、箒木の「臓器農場ーORGAN FARM」。箒木は東大の仏文を出ているのだが、その後医学を志して九州大学医学部に入学医師免状を取っている変り種。

小説は推理サスペンスだが、臓器移植という現代医療のリアルな側面を描いている。

大きな病院の中の秘密の場所(そこが「農場」という意味)で、無脳症の赤ちゃんをできるだけ長く生かし、臓器移植の必要が生じた小さな患者に無脳症の赤ちゃんから臓器を摘出して移植するというもの。しかもレシピエントは1800万もの大金を徴収される。

二人の看護婦がこれに気づき、それを知った若く有能で道徳心厚い医師が詮索の行動を一緒する。

病院の経営者、院長・副院長、一部の医者、看護婦がこれに加担しているのだが、その場所は秘密のベールに覆われていた。病院内の礼拝堂の裏、そこは山手にある病院の背後の崖を背中に立っているのだが、隠されたドアを開けると臓器農場は崖を刳り貫いて作られていた。

そこを探り当てた医師が事故を装って殺され、相棒の看護師も自殺に見せかけられて殺される。

そして、魔の手が主人公の看護師に向けられる。・・・

脳=知性・理性・感受性・運動感覚など人間の人間らしさを保持する場所である部位がないのが無脳症患者。人体に頭の大部分が欠落している。見えないし聞こえない喋れない、感知すること、考えること、運動することもできない。

ただ、人工呼吸器によって管を通して短い人生を生きるのみ。病院はこれを生きている?けれど「死」と考える。死体からの臓器移植は問題ないと考えるのだが、悪辣な「裏」があった。

若いカップルに密かに囁きかけて妊娠を促し、途中薬投与して無脳症を作る。生まれたら妊婦に1000万円を報酬として渡していた。生まれた無脳症の赤ちゃんを秘密の場所で保育、臓器移植用とするのだ。

私はもともと脳死移植には疑問を持っている。札幌医科大学で行われた故和田寿郎教授の手術には疑問が渦巻いている。ドナーの救命の可能性は?レシピエントに果たして移植が必要であったのか?

どの時点を不可逆の死と判定するのか?

デカルトの「われ思う故にわれあり」から近代哲学は生まれた。思う=知性を失ったとき人間は人間ではなくなるのか?

目の前でその状態に陥った愛する肉親にとって、管を通してでも息をしている相手が死んでいると納得できるのだろうか?

評論家の柳田の主張を私は支持している。こういう微妙な判断をするときには「二・五人称」の視点がいるとー

一人称だと判断が感情的=主観的過ぎてしまう。三人称だと冷たすぎる、だからその中間に視点を置くというのだ。

医者として箒木はどう考えるのだろうか?