おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

大雨警報発令中!

2010年06月29日 10時36分56秒 | 日記
大雨洪水警報が発令中!
酷い雨が降り続いている。

熊本県では昭和28年の6月26日に大水害が起こっている。市内に住んでいる頃、勤めていた学校に近い市営団地の4階に6,7年いたけれど、その周囲は低湿地帯で、雨が降るとすぐ道路が冠水した。
車が使えず、徒歩で泳ぐようにして出勤したものだ。勤めていた高校も旧国道3号線の走る京町台地の下にあって、場所としては熊本城まで1キロもない位の住宅地でだが、標高の低い所でここもすぐ冠水した。一度は職員室まで浸水した。この時は机の一番下の引き出しまで水に浸かり、書類が濡れたり、後処理がたいへんだった。


もちろん私立高校なので生徒は県下から通ってくる。バス、汽車など不通になるのでもちろん臨時休校。職員も若手は泊まり込み非常体制。といってもこういう時って、心情的にはワクワクして楽しかった。学校の周りをどこから持ってきたのかゴムボートで一周するような「わさもん」(熊本弁で好き物、変わった物が大好きな者の総称)の先輩もいた。何度かこういうことがあった。それももう20年も前のことだったろう。その後、坪井川の河川改修が進み、坪井・寺原という低湿地帯でも浸水というような事態はなくなった。

南阿蘇に引っ越してきたが、大雨警報が出るのは初めての経験で、ワクワクよりもやはり心配。何といってもここの字名が「上尾崩(かみおくずれ)」なのだ。阿蘇南外輪山の麓、標高440mの場所。おそらく昔々は雑木林か原野だったろう。近所に山女魚釣りに出かける渓流がある。雨が降るとその流れ下る音がゴーゴーと寝室まで届くから恐い。この山の斜面を流れ落ちる川が氾濫し、周囲を巻き込んで大きな土砂崩れが何度もあったのだろう。

想像するに高度成長期以降に別荘地帯として開発され、河川の改修工事(今でも進捗中)と宅地化の造成工事が始まって、居住者が増えてきたのだろう。最近は私たち含めて「人生の楽園=第二の人生」の再出発地としてここを選んで移り住んでいる人が急速に増えている。しかしあちこちに雑木林、クヌギ林、竹林など一杯残っているので、水を溜め込む保水力が大きいと思えるので大丈夫とは思うのだが・・・・・・

昨日も雨が降ったり止んだりの一日だった。
「晴耕雨読」。雨の時には、ページ数を稼ぎたい。温泉に本を持ち込んで読んだ。
先週本屋で買った(古本屋ではないどーっ)中村文則の『掏摸スリ』(河出書房新社)を読んでしまった。帯に第4回大江健三郎賞受賞とあったので、175ページ税別1300円は無職者にとって清水の舞台から飛び降りる覚悟を要したが買ってしまった。要するにスリの男の話なのだ。スリの天才と思える男が母親に万引きをさせられている少年と出会う。その少年に大人らしい?分別で万引きを咎め更正に導くという安直な筋書きではなく、自分の「匠」の技を伝える。この男がその腕を神=大いなる悪の存在に見込まれ、仕事を依頼されのだが、そのエンディングが予想を裏切る展開で、尻切れトンボ。神の書いた筋書き通りに仕事を成功させたのに、最後は腹をドスで刺される。神が書いた筋書きは「死」なのだが、ポケットにあった500円玉がその後のストーリーを予兆する。
本の中で「小さい頃、いつも遠くに、塔があった」(144ページ)と出てくる。この塔が小説のメタファーになっているのだろう。常に自分の存在を見ている「塔」、それは神の存在を示すものかもしれない。

そういえば、目が悪い私は毎日定刻に目薬を点す。その時に目を瞑ると時に目蓋の裏に人の顔が映る事に気付いた。目を瞑っているのだから、現実には存在しないものが見える。ということは意識が作り出している幻影なのだが、良く見ると知らない顔なのだ。意識に残る記憶が作る像であれば、必ず見たことがあるはず。隣の親父さんだったり、TVのタレントだったり・・・しかし、それはどうも時代が違う気がす。るのだ近代以前か、あるいは明治か大正かー少なくとも私が生まれる以前に実在したかもしれない顔なのだ。そうか、これがDNAが運んできた遠い記憶なのかとその時思った。科学で読みきれない何かがきっとたくさんこの世にはある。もしかしたらそれは神かもしれないし・・・