おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

日本人のこころ

2010年06月21日 08時42分22秒 | 日記
空は厚い雲に閉ざされているが雨は落ちていない。

昨日は大雨の中、母の三回忌を執り行った。3回忌は死後丸2年目に行う。20年の6月24日だった。学校に連絡があって駆けつけたときにはもう意識がなく、院長が馬乗りになって人工呼吸を行っていた。1時間ほど続いたか、姉と相談して「ありがとうございました。もう結構です。」と救命を諦めた。母は腎臓透析で入院生活をしていたのだが、廊下を歩いていて躓いて肩を骨折。そのい痛みがひどくて、辛がっていた。前日はそれでも話ができたのだが、その朝、急な胃潰瘍出血が起き、意識が無くなったという。母の急な事態の変化に対しては複雑な思いもあるが、病院に対して恨みつらみは一切言わなかった。姉(次女)の高校と大学医学部の同級生でもある。

法事は菩提寺で行った。江戸期から続く古い日蓮宗のお寺。雨の中兄弟姉妹と親戚が県内外から集まった。修築したという本堂でのそれは荘厳であった。










焼香

今、お寺でも檀家の要望に合わせて、法事でも正座を避けて、椅子が用意されている。昔は正座でいざ焼香という時、足が痺れて変な歩き方になったものだ。(ドリフの志村のコントにあったような)
椅子にはファイルが置いてあり、それにはこの日読経されるお経のコピーが入れてある。一緒に読んでくださいと言う。ご住職の後継の息子さんのアイデアだそうだ。なるほど
仏教=宗教の心が日本人から消えかかっている。都会での様変わりはまさに驚異。宗教は心から外に出て行って、特別の儀式用に変わった。それも仏教、神道、キリスト教関係なく。子が生まれると神社に参り、クリスマスではキリスト教に成りすまし、正月は神社に詣で、人が死ぬとお寺に頼む。こんな国民って世界でも珍しい。
私も若い頃は無宗教・唯物論で肩肘張ってきた。しかし、18年前に父親が亡くなってから、死を考えるようになって、宗教を学び直し、仏教について考えるようになった。日蓮の跡を辿る旅をしたり、良寛の五合庵にも足を運んだ。京都の寺を周り、春フルムーンの旅では一等最初に言ったのは西本願寺(妻の実家の宗派)であった。

お寺の雰囲気はだだっ広い本堂ということもあるが静かで、厳かで超自然的な力=霊威を感じる。これがいい。化学方程式に則って、「ああすればこうなる」(養老孟司)式にすべてが実証的に解き明かされて、便利な人工物で埋め尽くされてしまったかに見えるこの世界にあって、宗教は非科学的で前時代的なものとして置き去りにされたかのようだ。霊威を感じるのは意識であり、もちろん感じない人もいるだろう。感じる感じないをととやかく言う必要はあるまいが、感じることの有難さを思う。

読経が終わってご住職の法話=説教があった。お寺によっては、この法話をしない住職もいる。僧侶は檀家に対して、教え導くという宗教家としての役割があるはず。この寺のご住職は声もいいが、お話もよかった。

この後、激しい雨の中、予約している和食の店から車が迎えに来ていたので、これで街に出ておときを頂いた。

県南から来ていただいた叔母達が帰るのに大雨で新幹線不通で難渋したというおまけがついたけれれど、何とか無事に3回忌を終えることが出来た。  南妙法蓮華経