青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

むずかしい愛

2018-10-19 09:28:46 | 日記
カルヴィーノ『むずかしい愛』は、「ある兵士の冒険」「ある悪党の冒険」「ある海水浴客の冒険」「ある会社員の冒険」「ある写真家の冒険」「ある旅行者の冒険」「ある読者の冒険」「ある近視男の冒険」「ある妻の冒険」「あり夫婦の冒険」「ある詩人の冒険」「あるスキーヤーの冒険」の12編からなる短編集。

12編すべてが三人称で主人公の愛にまつわる冒険を描いている。
それは傍目には冒険と呼ぶのが気恥ずかしいほどの日常のささやかなずれでしかないのだけど、主人公の心には消えない爪痕を残す。
カルヴィーノにとっては不在を語ることこそが愛を語る唯一の方法だ。
『むずかしい愛』に収められた12編はすべてが陰画としての愛、愛の不在を証明するための試みなのかもしれない。
愛は成就したと思った次の瞬間にはもう消えかかっていて、日々の中で残酷に砕け散っていく。無言の悲しみが凝集する。
描かれているのは恋愛の幻滅と倦怠、移ろいやすさだ。恋愛において誰もが感じるコミュニケーションの難しさをカルヴィーノは難しいのではなく、不可能なのだと考えているらしい。
とはいえ、本作の読後感は不思議と悪くないのだった。寧ろ、人は愛がなくても生きていける、愛に囚われて生きなくてもいいのだという、妙な解放感が得られた。


「ある兵士の冒険」は、汽車で未亡人風の女と乗り合わせたある歩兵の物語。

トマーグラが乗っている車室に背の高い豊満な女が入ってくる。その車室はがら空きなのに、彼女は何故かトマーグラの隣に腰を下ろす。
年の頃は30代。彼女の落ち着いた態度と安っぽい香水の匂いは、トマーグラに何かを期待させる。

汽車が揺れるたびに二人の肉体は触れたり離れたりするが、彼女は表情一つ変えない。トマーグラは何とかして彼女にメッセージを伝えてみようと決心する。
トマーグラはズボンのポケットに入れた手を布越しに彼女の太腿に押し付けてみる。そうして、辛抱を重ね、慎重に慎重を期して、徐々に接触を大胆なものにしていく。彼の手はもはや汽車の揺れを言い訳に出来ないほど際どい部分に触れていたが、彼女は不快なそぶりを見せない。

何か決定的な行動に出てみるだけの価値があるような気がしてくるが、相手がポケットの中の探し物をしていると信じているような気もする。或いは他の乗客に配慮して我慢しているのかもしれない。若しくは大騒ぎをする決定的な機会を窺っているのかも。
彼女はバッグの留め金を所在なげに開けたり掛けたりしている。
これは何かのメッセージだろうか。トマーグラは彼女の意図を測りかね、期待と恐怖の間を激しく揺れ動くのだった。


「ある会社員の冒険」は、一夜の不倫に浮かれた会社員が翌日には憂鬱に苛まされる物語。

エンリーコ・ニューイはふとした成り行きから美しい奥方と関係を持った。
浮かれたエンリーコは、カフェや床屋に寄って店員たちに昨夜のアバンチュールを仄めかしてみるが、悉く会話が噛み合わない。消化不良のエンリーコは、誰かに話をすることで自分の幸せな気持ちを伝えたいという欲求に駆られていく。

エンリーコが通りを歩いているとお誂え向きの人物と出会う。
十年ぶりに顔を合わせたその男、バルデッタは、かつてはエンリーコの遊び仲間だった。バルデッタになら、多少大げさに昨夜のアバンチュールを話して聞かせたって構わないだろう。彼はエンリーコが今の気分を思う存分ぶつけるには理想的な人物だった。
ところが、予想に反して既に妻子持ちのバルデッタは、エンリーコの情事になどまるで関心を示さない。バルデッタからひとしきり仕事と家族の愚痴を聞かされ、彼と別れるころには、エンリーコは後悔の念に襲われていた。あのバルデッタとなら穏やかでちょっと皮肉な男っぽい会話が交わせると思っていたのに。

エンリーコは急いで仕事に向かった。
彼は、他人に我が身の出来事を話して聞かせるなんて、まるで子供じみていて、自分の性格にも習慣にもそぐわないことだったな、と考えてみた。そうして自分と折り合いをつけて、自尊心を取り戻してから、勤務に就いた。

勤務中もエンリーコの頭はあの美しい女性でいっぱいだった。誰と何を話していても、うわの空で、現在には何の望みも抱かず、狂おしい愛の記憶に耽っていた。
しかし、それは誰とも共有できない感情だった。
まるで砂漠にいるようだった。経験したことは決して等身大になり得ないのだろうか、自分が到達した充足感を表現するなんてことは、暗示をもってしても、ましてや直截な言葉をもってしても、それに頭の中でだって、どのみち不可能ではないだろうか。
それを思うと、エンリーコの記憶の中で幸福な感覚が一つ一つ消えていくようだった。


「ある写真家の冒険」は、家族の写真撮影に夢中な友人たちを皮肉な目で見ていた独身男が恋人の写真撮影に夢中になる物語。

アントニーノ・パラッジは写真を撮らないせいで、友人や同僚と付き合っていても次第に孤独感を覚えるようになった。
同世代の連中が一人また一人と結婚し、家庭を築いていったのに、アントニーノは相変わらず独身を通していた。

家庭を持つことと写真撮影、この二つの間には対物レンズに対する情熱が、往々にして親になることの副次的な結果としての生理学的ともいえる自然な形で生じるという点において、疑いのない関連が介在している。独身者のアントニーノはそこに偶像崇拝・家庭・狂気という道程の一局面を見ていた。
写真とは一日の移ろいやすい連続性から、時間のコマ切れを取り出そうとする試みなのだ。
生身の人間が撮った自然でさり気ない写真を好むことが、逆にさり気なさを殺し、写された現在を忽ち郷愁を伴う過去にしてしまう。だから写真は撮られた瞬間から追悼の匂いがするのだ。

アントニーノは、ビーチェという恋人が出来ると彼女の撮影の為に機材をそろえる。
彼は写真を撮るという行為に哲学的な意味を探しながら、恋人に様々なポーズを取らせる。彼は彼女の姿が彼の視界に侵入し、視界を覆い尽して、その都度その都度、押し寄せる断片的なイメージで視界を奪い、時間と空間とを一つの完成した形の中に集めてゆくのを感じた。
しかし、彼にとっては単に彼女が問題という訳ではないのだった。
何でもいい、誰でもいい、撮ろうと決めたら、ずっとそれだけを、あらゆる時間を取り続けなければならない、写真が何か意味を持つとすれば、それは想定できるすべての像を取りつくした時なのだった。
彼女は素直に協力していたが、やがて彼のもとを去ってしまう。
吸い殻が山のようになった灰皿、乱れたベッド、彼は彼女の不在を示す物を取り続けた。それは郷愁を伴う愛の亡骸だった。
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