青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

三角帽子

2020-05-31 09:03:10 | 日記
アラルコン著『三角帽子』には、表題作のほかに、「モーロ人とキリスト教徒」「割符帳(田舎の話)」の計三作の中編短編が収められている。

アラルコン(1833年―1891年)を初めて知ったのは、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の28巻『死神の友達』だった。
この中には、「死神の友達」と「背の高い女」の二作が収められているのだが、「死神の友達」のホラーファンタジーでありながら、妙にユーモラスな語り口に、私はひどく魅了されたのだった。
不運続きの人生に嫌気がさし、自殺しようとしたヒル・ヒル青年の前に現われた死神の、場違いなほど軽い「やあ、友達!」の一言ですっかり参った。
この後、ヒル・ヒルは、親切で人懐っこいが、ストーカー張りにしつこい死神に振り回され続けることになる。そして、物語は予想もしないような壮大な結末を迎えるのだ。

アラルコンが「死神の友達」を書いたのはまだ20代の頃だった。その彼の代表作が、40代で発表した「三角帽子」(1874年)だ。

「三角帽子」は、「死神の友達」同様、故郷グワディクスの山羊飼いが語り継いできた民間伝承を元に描かれている。
山羊飼いが村里の祭りで謡ったこのロマンセ――『市長さんと水車のお神さん』とか『水車の親方と市長の奥さん』などと呼ばれる伝承は、人々の口から口へと伝わっていくにつれ、随分と下世話なエピソードが加えられてしまった(元々下品な想像を誘発するだけのものは孕んでいたのだが)。

アラルコンは、問題のこの珍しい伝承を、卑俗に接触して汚辱される前の、美しく素朴な温か味のある性質に還元して、一本の物語に仕上げて見せた。
「三角帽子」も「死神の友達」も、どこか滑稽味を感じさせる作風であるが、これが元々の伝承に拠るものなのか、アラルコンの気質に拠るものなのかは分からない。
ただ、この喜劇の才能に恵まれた作家が、何を思って政治活動になど手を染めてしまったのか……アラルコンは政治のセンスには欠けていたらしく、青年期と壮年期の二度に渡って大きな挫折を味わっている。特に二度目の失脚は決定的なものだったらしい。
おかげといっては何だが、その後は作家として非常な成功を得るようになり、ついにはその名をスペイン文学史上に永久に残すこととなった。

「三角帽子」は、ファリャのバレエ音楽の元になっているが、そちらの方はまだ聴いていない。
バレエには特に興味がないのだが、この滑稽なのに切ない喪失感を残す物語をどんな感じにバレエ音楽にしたのか、ちょっと舞台を観てみたくなった。


時は1804年よりも後、8年よりは前。
イスパニヤでは、まだドン・カルロス4世の御代であった。アンダルシアのある村に、水車小屋が一軒あった。この水車小屋の夫妻は、村で知らぬ者はいないくらいの有名人だった。

猫背のチビで醜男のルーカスと、肉感的な美女のフラスキータ。
一見、不釣り合いな夫妻であるが、大変仲が良く、特にフラスキータのルーカスへの愛の強さ、激しさは熱狂的といってもいいほどだった。
フラスキータは、彼女の生まれ故郷から、作中で「ナバルラ女」と度々呼ばれている。夫のルーカスは、ムルシヤの出。二人ともよそ者だ。
フラスキータは美しいだけでなく、力持ちの働き者で、家事全般から外装工事、歌や踊り、楽器の演奏など、様々な方面に秀でていた。
夫のルーカスも、外見の不味さを補って余りあるほどの働き者で、気風が良く、頭の回転も速くて、家の中の仕事も女房を良く助けるのだった。

水車小屋は、もう随分前から地元のお歴々たちのお気に入りの行楽地になっていた。
彼らは、フラスキータのファンクラブのようなものだ。
ルーカスは、妻が地元の紳士方にチヤホヤされていても焼餅は焼かない。
むしろ、妻がお歴々の注目を一身に集めているのを喜んで見ている。彼自身と同じように、誰もが彼女を好ましく思っている。そのことが、彼は得意でもあれば嬉しくもあったのだ。
彼は妻の貞操と愛情を信じているし、お歴々が彼女の美貌だけでなく善良な気質をも愛し、不埒な真似を仕掛けないことも信じている。
お歴々は水車小屋を訪れてはフラスキータとの歓談を楽しみ、ルーカスはお歴々からさり気なく商売上の便宜を図ってもらう。
彼らの関係はなかなか良いバランスが取れていたのだった。

ところが、そんな輪を乱すような無粋な真似をする者が現れた。
ドン・エウヘーニオ・デ・スーニガ・イ・ポンセ・デ・レオンというのが、その男の名前だ。マドリードの名門に生まれ、美しい貴婦人を妻に持つ彼は、この市の市長であった。
年がら年中、馬鹿馬鹿しいほど大きな三角帽子と、目も覚めるばかりの緋羅紗の外套を身に着けているのは、それが当時の権威の象徴だからだ。
本人の容姿は、ルーカス以下の醜さで、ルーカスの美点である男らしさは持ち合わせていない。そんな市長さんが、フラスキータにのぼせ上がってしまった。
市長さんはフラスキータが迷惑がっているのも気にせず、ぐいぐい好意を押し付けてくる。これには鷹揚なルーカスも、「惚れかたがよろしくない」といい気がしないのだが、夫婦の間に波風が立つことはなかった。

ところが、フラスキータが自分に靡いてくれないことに痺れを切らした市長さんは、邏卒のガルドゥーニャのアドバイスを受け、とんでもない行動に出るのである。
それは、市長の息のかかったローペス村長を使って、ありもしない犯罪をでっち上げ、重要参考人として邪魔者のルーカスを出頭させる。一方で、市長夫人には、市長は凶悪犯の捜査に加わるから、今夜は家に帰れないと邏卒に伝言させる。上手くアリバイ作りをした市長は、フラスキータが一人でいる水車小屋に押し入るというものである。

なかなかあくどい計画である。
しかし、その計画は、市長さんの期待から大きくコースアウトしたドタバタ劇を引き起こしてしまうのだった。
濡れ鼠の市長さんが寒さに震えていても欠片も情けをかけないフラスキータとか、「市長夫人も美人でござる」と唱えながら鬼の形相で夜道を駆け抜けるルーカスとか、場の空気を読んであっさり市長夫人に寝返る市長さんの腰巾着どもとか。
あらゆる場面と会話が、軽快なテンポで次に繋がっていく構成には、卓越した技巧を感じる。

しかし、何と言ってもこの作品の最高のコメディアンは、諸悪の根源の市長さんだ。
夜道で目が効かず、水路に落ちてずぶ濡れになったところから始まり、フラスキータに突き飛ばされ、倒れている間に彼女に逃走され、水車小屋で緋羅紗の外套と三角帽子を乾かしている間にルーカスにそれらを持って行かれ、仕方がないのでルーカスの服を着て帰宅してみれば不審者として使用人たちに袋叩きに合い、市長夫人には、「三角帽子を身につけていない貴方は市長でもこの家の主でもない」と見放され、最終的には水車小屋にも妻の寝室にも永久出禁を言い渡されてしまう。
策士策に溺れるというか、やる事なす事すべて裏目に出て、一人だけ痛い目にあっているものだから、悪い奴だけど憎めない。
どうかするとゲスな三文芝居に陥りかねない題材で、長閑な笑いを誘う喜劇を書き上げたアラルコンの上品な諧謔は、エミリオ・パルド・バサンをして『スペイン短編の王者』と呼ばれるに相応しいものだ。

さて、彼らはその後どうなったのか。
物語の冒頭で、時代がドン・カルロス4世の御代の終わり頃であるとこが記されている。
それから三年後には、イスパニヤはナポレオン軍に蹂躙され、この物語を覆っている牧歌的な空気は失われてしまった。
市長はナポレオンの支配に屈しなかったために捕縛され、マドリードで獄死した。
市長夫人は再婚もせず子供を育て上げ、晩年は修道院に入った。
ガルドゥーニャはフランス軍に降伏した。
ローペス村長と彼の邏卒は奇襲隊に加わり、バサの戦役で戦死を遂げた。

ルーカスとフラスキータは、とうとう子宝には恵まれなかった。
が、相変わらず彼等らしいやり方で愛し合って、非常な高齢まで生きた。そして、世の中の弊風がどのように変わっても、「三角帽子」に象徴された、懐かしいあの頃を忘れ去ることはなかった。


「割符帳(田舎の話)」は、働き者ばかりの小さな美しい田舎町ロータの老農夫と盗まれた南瓜たちの話。

ある日の早朝、ブスカベアタ爺さんが畑に行ってみると、収穫間際の南瓜が40個も盗まれていた。
犯行現場を見た直後は憤怒に駆られた爺さんだったが、たちまち冷静さを取り戻すと、犯人の行動を推理し始める。
そして、犯人が盗んだ南瓜を今日中にカディスの市場に持って行くだろうとの結論に達すると、我が子のように慈しんで育てた南瓜たちを取り戻すために、さっそく朝九時のカディス行きの船に乗り込むのだった。

ブスカベアタ爺さんは、行動力があるだけでなく、たいそう説得力のある男だった。
爺さんが、すっ呆ける犯人に罪を認めさせる決定的な証拠となったのが、タイトルにもなっている「割符帳」である。このクライマックスに至るまでのテンポが小気味よく、たちまち読み終えてしまえる可愛い喜劇だった。

爺さんは、南瓜の一つ一つに名前を付けるくらい愛情を注いでいた。
レボロンダ、カチゴルディータ、バルリゴーナ、コロダディリャ、マヌエラ……みんな我が子のように大切に育て上げたのだ。だからこそ、爺さんは、カディスまで南瓜にくっついていた蔓を持って来ていた。
それが、爺さんの言うところの「割符帳」に繋がり、犯人が持っていた南瓜が爺さんの南瓜であることの証明に繋がったのだからたいしたものだ。
爺さんが事件を解決できたのは、ひとえに愛の力だったのである。

事件が解決した後の〆が良い。
爺さんは、帰り際にこんなことを言っていたそうだ。

「おらの南瓜どもの市場で美しかつたこたあどうだ!だが、マヌエラだけは持つて歸つて、今晩食べて、種を殘しとくんだつたつけなあ!」

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2 コメント

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Unknown (hayane-hayaoki)
2020-05-31 11:23:31
外国文学、ほとんど読んだことがないのですが面白かったです。
青い花さん、説明が上手でわかりやすかったです。
翻訳モノって、一文が長く、独特な言い回しがわかりにくくて苦手です。
読書好きですが、「ダロウェイ夫人」や「オンザロード」を必死で読んだ覚えがあります💦
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Unknown (mahomiki)
2020-05-31 12:26:32
読んでくれてありがとうございます!

私の読書傾向は4対1くらいで外国作品が多いと思います。
翻訳ものは訳者によって左右されるところが大きいですね。これ原文で読めたらもっと面白いはずなのになぁと思う作品はいくつか思い浮かびます。
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