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青い花

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スローターハウス5

2017-09-02 07:55:05 | 日記
カート・ヴォネガット・ジュニア著『スローターハウス5』

“神よ願わくばわたしに変えることのできない物事を受けいれる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ”

本作はSF小説でありながら、著者カート・ヴォネガット・ジュニアの半自伝的小説でもある。著者が第二次大戦中に体験したドレスデン爆撃を、ビリー・ピルグリムという架空の人物の視点から描いている。
なお、タイトルのスローターハウス5とは、ドレスデンにあった捕虜収容所の名で、第五場という意味だ。

ビリー・ピルグリムは、連合軍によるドレスデン爆撃を体験した戦争被害者であり、トラルファマドール星に拉致された痙攣的時間旅行者でもある。
痙攣的時間旅行者は、精神だけが今いる時間から唐突に離れ、各時代の己の肉体に入り込んでしまうのだそうだ。本書が多くのタイム・リープ小説と異なる点は、主人公が前後に起きる運命を知っていながら、運命を変えようとしないことだ。
ビリー・ピルグリムは、運命を故意に操作することで世界のバランスが崩れるなどと、如何にもSFチックなことを考えているわけでは無い。彼の中にあるのは、運命は変えられないという静かな諦念だ。本書では、彼がいかにして諦めの境地に至ったかが、悲惨な戦争体験と、トラルファマドール星でのSF的体験の双方から描かれている。

連合軍所属の兵士であるビリー・ピルグリムは、ドレスデン爆撃においては加害者の立場でもある。一つの災禍に際して被害者であると同時に加害者でもあるとは、なんと皮肉で悲惨な境遇であろう。
ビリー・ピルグリムは、戦後、ラムファードという老人とこのような会話をしている。

“「あれはやむをえなかったのだ」ラムファードはドレスデン爆撃のことを話題にした。
「わかっています」と、ビリーはいった。
「それが戦争なんだ」
「わかっています。べつに文句をいいたいわけではないのです」
「地上は地獄だったろう」
「地獄でした」
「あれをしなければならなかった男たちをあわれんでくれ」
「あわれんでいます」
「地上にいるあんたは複雑な気持だったろう」
「いいんです」と、ビリーはいった。「何であろうといいんです。人間はみんな自分のすることをしなければならないのですから。わたしはトラルファマドール星でそれを学びました」“

ドレスデン爆撃についてはあまり知られていない。
それは、この爆撃を連合軍側が1963年までひた隠しにしていたからだ。いわば、連合軍側の恥部なのである。
ドレスデン爆撃は、第二次世界大戦末期の1945年2月13日夜から14日朝にかけて、連合国軍(イギリス空軍・アメリカ空軍)によって行われたドイツ東部のドレスデン市への無差別爆撃である。この爆撃により、ドレスデン市街の約85%が破壊された。本書のあとがきによれば、死者の数は3万5千から20万余といわれ、ドレスデン警察の提出した「控えめな推計」である13万5千が公式な数値とされているそうだ。当時のドレスデンは東欧からの難民で人口が平時の二倍に膨れ上がっていたので、正確な犠牲者の数を出すのは困難なのだろう。
この時期、戦局の帰趨は殆ど決まっていた。「ソ連軍の進撃を手助けする」という大義名分をもってしても、戦略的に意味のない空襲であったことは誤魔化せない。しかも犠牲者の多くは非戦闘民であった。この無意味な大量殺戮に、いかなる正義を当て嵌めることが出来るというのだろう?隠したくもなる訳だ。
しかし、著者は、連合軍側の非人道的行為を暴き立て、非難するために本書を書いたのではない。彼は啓蒙活動がしたいわけではない。まして、謝罪なんて望んでいない。それでも、本書の中でビリー・ピルグリムにこう言わせているのだ。

“ただあなたに知っていていただきたいだけです――わたしはそこにいました”

知っている、ということ。
我々が戦争に対してできることは、結局のところ、それしかないのかもしれない。
何故なら、戦争という国家と国家のぶつかり合いにおいて、本当の意味で他者を糾弾できる権利を持つ者など一人もおらず、また、すべての責任を負ってしかるべき者もいないからだ。

“もうひとつ人類学科で学んだのは、この世に、奇矯とか、性悪とか、低劣と言われる人間はひとりもいないということである。わたしの父が、亡くなる少し前、わたしにこういった、「お前は小説のなかで一度も悪人を書いたことがなかったな」”

著者が書かなかったのは悪人だけではない。この物語にはハリウッド的なヒーローは一人も出てこない。そんな人間は、現実には存在しないからだ。
ビリー・ピルグリムは、時間旅行者なので様々な時代と国の人間と関わり合いになるのだが、彼らのすべてが悪人でも善人でもない唯の人である。それは、第二次世界大戦下のドイツ人も例外ではない。
著者は、本書の冒頭で、戦争を始めとするあらゆる殺戮を否定している。それにも関わらず、本書からは激しい感情が排除され、虚無と諦念だけが横たわっている。
戦争を扱った殆どすべての書物と同様、本書でも悲惨な場面が数多く描かれる。しかし、その後に続くのは声高な反戦思想の演説ではない。“そういうものだ”という諦めの言葉だ。一体、本書で何度、“そういうものだ”を目にしたことだろう。
自分が被害者或いは絶対的な正義の立場からものを言うことに何のためらいもない人は幸せだ。しかし、世の中、そんなおめでたい人ばかりではないのだ。この世に、奇矯とか、性悪とか、低劣と言われる人間はひとりもいないということを知り、自分が被害者でもあり加害者でもあることを知る者は“そういうものだ”と静かに諦めるしかないのだろう。


アメリカ兵のビリー・ピルグリムは、捕虜になり、ドレスデンに送られる。
捕虜たちは、収容所のゲートをくぐるとまず、ドイツ人伍長による選別を受ける。伍長によって収容所の台帳に姓名と通し番号に書き込まれることによって、彼らは公式に生者となるのだ。それまでは、彼らは行方不明者であり、死者であったのかもしれないのだ。
台帳に登録されるととともに、ビリー・ピルグリムは、番号とそれが刻印された鉄の認識票を与えられる。この札は生きている間は首にかけておくが、死んだ場合は半分に折られる。折られた札の半分は彼の死体を表示し、もう半分は彼の墓を表示するのに使われる。
生きたまま己の墓標を首にぶら下げて生活することを強いられるというのは、極めて非人道的な扱いであるが、ビリー・ピルグリムを本当の絶望に叩き落すのはドイツ兵ではない。彼が所属している連合軍だ。

第二次世界大戦下のドイツでアメリカ兵として逃げまどい、捕らえられ、収容所送りにされた挙句、味方によるドレスデン爆撃の被害に遭うビリー・ピルグリムの運命の暗転を描く場面と場面の合間に、痙攣的時間旅行者になった彼が、 “そういうものだ”と言う諦念に至る意識の変遷を差し挟んでいる。

ビリー・ピルグリムは、1967年に円盤によって地球から誘拐され、トラルファマドール星の動物園に収監されている。
トラルファマドール星人は「人が死ぬとき、その人は死んだように見えるにすぎない」と語る。彼らによれば、あらゆる瞬間は、過去、現在、未来を問わず常に存在し続けているのである。

ビリー・ピルグリムは、トラルファマドール星人に対し、ドレスデン爆撃の体験を踏まえて、地球人はこの宇宙の恐怖の源に違いなく、他の惑星が地球の脅威にさらされる日が間もなくやってくる、と警告を発する。しかし、トラルファマドール星人は、それに対して笑いをかみ殺すのだ。四次元的知覚を有する彼らは、既に宇宙がどのような過程を経て滅亡するのかを知っているし、それを防ごうとする手立てが必ず失敗することも知っているからだ。時間は、そのような構造になっているのだ。
「すると地球上の戦争を食い止めるという考えも馬鹿だということになる」と途方に暮れるビリー・ピルグリムに対し、トラルファマドール星人は、「ただ見ないようにするだけだ。無視するのだ。楽しい瞬間を眺めながら」と言う。
本書の冒頭で述べられている “偶然の気まぐれによる平和で自由な世界”を楽しむ、我々が出来るのはそれだけと言うことか。

『スローターハウス5』で描かれているのは、運命が完全に決定された絶望の世界なのである。戦争がまだ若かった著者の心に残した爪痕は、かくも深く癒し難い。

著者は冒頭で述べている。

“つぎは楽しい小説を書こう。
これは失敗作である。そうなることは最初からわかっていたのだ。”
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