町作り研究会(容子の部屋-別室)

町作り関連。地方新聞トピックス等

地芝居 飛騨座公演

2006-12-04 20:24:32 | 地方新聞

 

  

          飛騨で子ども歌舞伎 華麗な殺陣も

                    

飛騨市内でかつて盛んだった素人芝居を復活させようと「平成の地芝居 飛騨座公演」が3日、同市古川町若宮の市文化交流センターで開かれた。

市内で地芝居や地歌舞伎、剣舞などに取り組む5団体が出演し、観客約750人を沸かせた。  同市では昭和中期まで地芝居や大衆演劇が盛んで、今でも古川町上気多や河合町では続いている。同センターの完成に合わせて素人芝居の文化を復活させようと、市や各団体が実行委員会を設け、公演を企画した。

 河合子ども歌舞伎が「白浪五人男・稲瀬川勢揃(せいぞろ)いの段」、上気多一座が「番場の忠太郎・瞼(まぶた)の母」を披露。かわいらしい児童の演技や華麗な殺陣に、客席からおひねりが飛んだ。市職員らでつくる小枝一座の喜劇物「峠の悪狐(ぎつね)」には船坂勝美市長も出演し、観客を笑わせた。

 船坂市長は「飛騨の名にふさわしい、新しい文化の創造の一つ。来年につながるよう支援してほしい」とあいさつ。年配の観客らは「自分が昔に出ていた地芝居を思い出した」「懐かしい。また見せてほしい」などと復活を喜んでいた。

(中日新聞)

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私の好きな町のニュースが出ていたので早速記事にします。私は以前から古民家を見るのが好きで、あちこち行った中で、この飛騨古川がお気に入りの一つです。

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この写真は一部ですが、ここは重要連投的建造物保存地区に指定され、このように出格子の美しい町屋が軒を連ねております。

古川町では昭和中期まで地芝居や大衆演劇が盛んで、今でも古川町上気多や河合町では続いているとの事です。今回素人芝居の文化を復活させようと、市や各団体が実行委員会を設け、公演を企画したとの事ですが、この町を見ていると、高山とは違った、落ち着きと、飛騨地方の豊富な檜材を使って作られた民家で今もきちんと手入れしながら生活している様が、気の入りここにも2度ほど行ったほどです。

地方はこのような商家や山林地主の旦那衆は嗜みの一つとして 、芸事をする事が多く、ましてここ飛騨地方は幕府の直轄地だっただけに、江戸との交流も盛ん立ったようです。

また、ここの宮大工は京都の寺院を作るのに、活躍しただけに、民家とはいえ粋な作りが見受けられ、山里にしては日本の誇れる建築文化が見られます・・・

城下町として栄えた飛騨高山は出格子の美しい町屋が軒を連ねており、

懐かしさとあたたかさが感じられる日本の伝統的街並みを今に伝えています。

三町は「上一之町」「上二之町」「上三之町」の三つの町筋から成り、

飛騨高山を象徴する風情ある古い町並みを散策できます。

城下町として栄えた飛騨高山は出格子の美しい町屋が軒を連ねており、

懐かしさとあたたかさが感じられる日本の伝統的街並みを今に伝えています。

三町は「上一之町」「上二之町」「上三之町」の三つの町筋から成り、

飛騨高山を象徴する風情ある古い町並みを散策できます。

城下町として栄えた飛騨高山は出格子の美しい町屋が軒を連ねており、

懐かしさとあたたかさが感じられる日本の伝統的街並みを今に伝えています。

三町は「上一之町」「上二之町」「上三之町」の三つの町筋から成り、

飛騨高山を象徴する風情ある古い町並みを散策できます。



 

 

     

       

 


廃物再生 虹色の知恵

2006-12-04 19:28:41 | 地方新聞

 

 

盆地を覆う雲間から、春の日差しが降ってきた。その瞬間、目の前のすすけた黒い石の壁が、虹色に輝き出した。

 「カラミ石」という。鉱山の町・生野の風景に欠かせない名脇役だ。

 熱して液状にした鉱石から銀や銅などを抽出する精錬の際、不要な岩石などが分離する。これがカラミ。

江戸時代は河原などへ捨てていた。ところが一八八〇(明治十三)年から銅の生産が本格化。カラミも急増し、捨て場所に困り始めた。

 数年後、だれか知恵者がカラミを各辺数十センチの直方体に成型し、建材用にと一個二銭で売り出した。安さに加え石の中に残る金属成分の光沢も魅力だったか、家の土台に、塀に、水路にと町のあちこちで使われた。十九世紀末の「リサイクル事業」は当たった。

 第一次世界大戦で銅の需要がさらに高まり、一九二二(大正十一)年、瀬戸内海の香川・直島で大精錬所が操業を開始。生野は鉱石を精錬せず送り出すようになり、カラミ石の生産は途絶えた。  

 一九九八(平成十)年、県は生野の口銀谷(くちがなや)地区を景観形成地区に指定した。カラミ石が風景に独特の彩りを与えていることが理由の一つに挙げられた。「見慣れたものに実は価値があることを、町外の人に指摘され初めて気づいた」

生野生まれの県ヘリテージマネージャー小島修一郎さん(44)は、そのときの驚きを覚えている。  今月、生野は周辺三町と合併し朝来市の一部となった。

(神戸新聞)

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こんな石・・始めてみました。長い事この石の価値にきずかなかったようですが・・
いまは朝来市というそうですが、

市役所など新市の中心部からは遠このような天然の複雑な色をなす資材はこれを使って色んなものが出来そうで・・・楽しみです。

確かにいまはここでしか見られないでしょうが・・・このカラミ石が輝く街並みの魅力は、ここでしか味わえない・・・のではなくてもっと多くの形を変えて様々な作品に生まれ変わって、この不思議な素材を生かしてこの土地が豊かな町になるために色んなアイデアをもっと積極的に行動しは如何?・・・