町作り研究会(容子の部屋-別室)

町作り関連。地方新聞トピックス等

.灘中・高校本館の歴史・・・

2006-12-08 23:16:05 | 地方新聞

 

    

         
        北西角から見た本館。設計は日本建築
         協会の副会長を務めた宗兵蔵の建築事
         務所。2001年、国の登録文化財になった

文化勲章作家の故・遠藤周作、ノーベル化学賞の野依良治氏、料理研究家の程一
彦氏、阪神電鉄株買収で時の人となった村上世彰氏…。彼らが灘中・高校の新入生
として校門をくぐったとき、まず目にしたはずの建物がこの本館だ。

 大正期、阪神間は人口が急増し旧制中学の不足が深刻だった。そこで灘の酒造
家らが出資して一九二七(昭和二)年、灘育英会を設立。翌年、校舎とともに、校長
室や講堂などが入る本館が完成した。鉄筋コンクリート二階建て、延べ床面積約五
百平方メートル。建物下部の横帯や先のとがった窓枠など細部に装飾を凝らした洋
風建築は、住吉川のほとりにモダンな風をもたらした。

(神戸新聞)

        <<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<

今でも進学校として有名な灘中・高校は受験生の憧れの学校のようですが、この学
校は阪神特に灘の辺りの作り酒屋の旦那衆が創設したと記事で読み、当時の資産
家の心意気のようなものを感じました。

この学校のもう一つの誇りはこの校舎ではないかと思います。当時としては最新の
デザインで設計も当時の一流の建築事務所が建てただけに、たびたびの災害に
も本館部分は当時のままなそうです・・・

 太平洋戦争時代、当時の真田範衞校長は他校が空襲から守るため校舎を黒くし
たのを灘校は「やめとけ」と笑って一蹴したそうですが・・・幸い、周辺の学校は空襲
を受他のですが、灘は無事だったそうです・・

また、九五年の阪神・淡路大震災時にも、周囲の民家は軒並み倒壊し、同校の校舎
にもひびが入った程度で・・・本館は補修の必要がなかったと聞きました。

近代建築を誇っていた多くの建物が破壊される中で、この灘校は避難所として多く
の被災者をも受け入れ被災者に感謝されたそうです・・・
昭和二年に作られた建物がこの災害にもびくともしないほど素晴らしい建物だった
と証明して様なものです・・・

だから新入生は 「入学式で講堂に入ったとき、自分は灘に来たんだな、と思ったと
いっていた生徒が居たほど有名な講堂もあります。

  
  二階講堂の壇上。額の「精力善用」
  「自他共栄」の書は灘の校是で、
  嘉納治五郎の直筆

この建物こそが灘の印象」・・・幾多の波乱を越えたこの校舎に新入生も誇りと愛着
をもって、ここから青春の一歩を歩む生徒達に私も心からの乾杯を送ります・・・


参考・・・嘉納治五郎

嘉納治五郎は灘の酒造家・嘉納家の分家に生まれる。
柔道の総本山・講道館を設立し近代柔道を確立する。
教育者としても名高く旧制一高(現・東京大)や東京高等師範学校(現・筑波大)など
の校長を歴任。
郷里の関係者から要請され、旧制灘中の設立時に顧問就任。
真田校長ら多くの教え子を教師陣に招くなど同校の基礎を築いた。・・・とあります。