町作り研究会(容子の部屋-別室)

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町裏浄水場

2006-12-10 15:31:34 | 地方新聞

 

             
            池の水のろ過速度を調整する
             
八角形の節制室。

国宝姫路城の北に、城下の趣とは異なる一角がある。古びた欧風の建物や人工池が二万平方メートル超の敷地に並ぶ。

一九二九(昭和四)年、姫路市の上水道敷設時にできた町裏浄水場(水源地)・・・
当初の姿がほぼ完全な形で残っている近代水道施設だ。

 明治初期、不衛生な飲み水が原因で伝染病のコレラやチフスが全国にまん延し、多くの死者が出た。安全な上水道が必要になり、一八八七(明治二十)年の横浜を皮切りに、函館や長崎などで供給が始まった。

 姫路では一九〇三(明治三十六)年、駐屯する陸軍第十師団が市に敷設を求めたが、採算と水源確保の難しさに阻まれた・・・  ようやく町裏が水源地に決まったのは(大正十四)年。近くの野里小学校で校舎増築中、井戸の湧水(ゆうすい)量が多いと分かったのがきっかけだった。

(神戸新聞)

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日本にはまだ、名城といわれるお城があちこちにありますが、その優雅さといったらなんと言ってもこの姫路城ではないかと私は思います・・・

私の姫路といえばこのお城と書写山の山中のある円教寺・・・が記憶に強く残っております・・
日本の名城ファンはみな知っておりますが・・円教寺の事はそう知られていないかも知れません?・・
是非この地に行ったらこの今は管理するお坊さんが何人か知らないけどいるだけですが・・その建築の見事さで私は声も出ないほどでした・・・この様な大伽藍で素晴らしい寺院建築が良くは解りませんが姫路市の管理と聞きました・・・ここには旧前田藩の墓所もありそのつくりも見事です。

さて本題ですが、日本の水道の歴史は横浜から始まったようで、姫路市には色々な経緯があって、大正十四年と事だそうです。それは、近くの野里小学校で校舎増築中、井戸の湧水(ゆうすい)量が多いと分かったのがきっかけで、浄化した水を蓄え各戸へ送る配水池は、南西の男山を削って造られたのだと聞きました・・・

 当時、 設計者は先進地を何度も視察し、浄水設備だけでなく建物のデザインにも、工夫して八角形の節制室があり、それぞれの角をタイルで角石風に仕上げた物で、上部を巡る立体的な装飾も目を引きます・・・

また、コンクリート製のポンプ室の基礎には、高砂市で採れる竜山石を使用そうです。基礎には、高砂市で採れる竜山を使用そうですを使用そうです・・・

         

         開設時に導入された2台のドイツ
         製送水ポンプ。今なお現役として
         稼働している
                                  

 だから戦時中、米軍の空襲下、水道課員たちは決死の消火活動で市民の水瓶(みずがめ)を守り抜いたと言われてます・・・

戦後は、さらに配水量の大きな浄水場が建設されたものの、今も暮らしを支え続けているようで、堅牢(ろう)なデザインは、その役割の表現として市民に大切に使われているようです。

現在のような 川や地下の水をろ過・消毒して家庭に送る近代水道は、明治以降各地に造られるようになり、主な目的は、伝染病予防、大火の防止、工場や軍への供給。必要から普及が急がれた事を私を含め多くの人はあまり知らないのではないかしら・・・
ここにも明治期の人々が必死になって日本を近代化しようとした先人の努力の一つが残されております・・・