1939(昭和14)年10月14日のニュースはこの心礎 を大阪朝日新聞奈良版で大きく取り上げていたそうです。それほど当時の人にとってはこの 「住吉の野村邸から七千五百貫の巨体をエンヤラヤと古里に向かって旅立った問題の心礎は十四日ついに法隆寺駅に到着した」 と報じたそうです。
この巨石は。四方、高さ1.2メートルので、実際の重さは12トンも在るそうです。これはかつて法隆寺境内で塔の心柱を支えた礎石とみられているそうです。
きっと幕末期から明治初期にかけて動乱が収まらす、明治中期に、近くに住む男爵が庭石にするため持ち下の出は??と言われております。その後、神戸・住吉の実業家に売却されていたのですが・・・法隆寺側からの要望で数十年ぶりに返還されることになり・・・やっともとの地に帰ってきたのだそうです。
このような巨石にとっては、駅から寺まで1.5キロの道程も巨石にとっては7日間も要したそうです。並松(なんまつ)商店街に住む宇野逸雄さん(78)は当時9歳だったそうですが・・男たちがゆっくり石を引いていたのを覚えていて、家の人達は・・「『石が毎晩夜泣きするんで法隆寺へ返される』と聞かされたそうです。
法隆寺に帰還した礎石。普段は見ることができない
この法隆寺は、607年創建の法隆寺が670年に火災で焼失し、現在の伽藍(がらん)は8世紀初めまでに再建されたものだそうです。法隆寺関係者は、近くに創建時の伽藍跡があるのでは??と考えられていたそうです。それがまさしく遺構が出土したのですから驚きです。奈良の人達は、巨石の帰還は、失われた斑鳩(いかるが)の風景を一層重厚にしてくれると喜んでいます。
そもそも、聖徳太子さまが法隆寺を建てたとされる時代には、斑鳩の里は、飛鳥から20キロも離れた辺境の地だったそうです。イカルという体長20センチ余りの野鳥が群れ飛んでいたのが地名の由来という説もあり、きっとのどかなところだったと思われます。
1890(明治23)年には、当時の大阪鉄道が一部開業して、法隆寺駅に降り立った参拝客は、高さ31.5メートルの五重塔を目印に歩いたそうです。 当時の人は「停車場から村の方へ行く半里ばかりの野道などは、はるかに見えているあの五重塔がだんだん近くなるにつれて、何となく胸の踊り出すような、刻々と幸福の高まって行くような、愉快な心持ちであった」と言っていたそうです。現在と違いまたまだ信仰心が生活の中心にあった頃の話しです。
この法隆寺に関心が集まったのは、不幸な事に・・・1949(昭和24)年1月26日早朝に起きた火災で昭和大修理中の国宝金堂が炎に包まれ、阿弥陀浄土図などが描かれた壁画12面すべてが焼損した事です。
今でも、その火原因は解らないそうです。その衝撃と反省から・・翌年には、文化財保護法制定が作られて、二度とこのような痛ましい事故が起きないよう政府も関心を持つ事になったのはせめてもの得点かもしれません。
このような経過を経た法隆寺には、今も焼け焦げた壁画は当時の姿のまま収蔵庫に眠っているとの事です。「悲惨な火災が法隆寺を全国に知らしめ、文化財の大切さを一般に浸透させるのに大きな役割を果たした。皮肉なことですが」と長老の高田良信(りょうしん)さん(67)。金堂修理が終わり、落慶法要が営まれた54年以降、参拝者が急に増えた印象があるという。
それでも法隆寺の存在感は揺るぎない。93年に姫路城とともに国内初の世界文化遺産に登録。97年制定の斑鳩町民憲章は「わたしたちは、聖徳太子ゆかりの斑鳩のまちに住むことを誇りとし、『和』の精神を尊び……」とうたうそうです。
「斑鳩で初めて夕日の美しさを知った」と話す観光客もるそうで、「ここは心を穏やかにし、日本の良さを教えてくれるところ。全国から訪れる人と出会い、私もその素晴らしさに気づきました」 と言っているとか・・
何の変哲もない平屋建てだった法隆寺駅は昨年3月、2階建ての橋上駅に改築された。白壁に塔を思わせる重層の屋根。法隆寺をイメージしたデザインだ。 いまは新緑の山肌に溶け込むようにして、五重塔の最上層がちらりとのぞいた。