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チョット一言

 萩・ 「花燃ゆ」 ツァーに、行ってきました

2015-07-30 | weblog
 台風一過。
 青空が、広がって気温も高目・・・暑いです。
 でも今日は西風が、チョット良い感じです。
 九州北部、梅雨明けしましたァ~~~~。

 先日より頑張っていた、
 「さんさん広場」 掲載の写真の準備も、無事に終わりました。
 これで、些かですが余裕ができました。
 暑くて動きが鈍っています。
 そんな中友人と、山口県・萩市に行っていました。

 NHKの大河ドラマ・・・「花燃ゆ・・・」の、舞台の地です。
 最近は、話題も少し低迷気味ですが、
 御当地での観光客お迎えの力は、強かなものを感じました。
 
 随分以前に来た時よりも、どこも綺麗に整えられていました。

 まずは、萩藩校明倫館へ

明倫館遺構 南門です。
この御門は明倫館の正門として建てられたもので、
明倫館全体からみて南にあたるので南門と名付けられましたが、
通称は、表御門と呼ばれていました。 


萩藩校明倫館は、享保3年(1718)に5代藩主吉元が
毛利家家臣の子弟教育のために萩城三の丸(堀内)に建てた藩校です。
それから約130年後、嘉永2年(1849)に城下の中心地(現在地)へと移転、規模を拡大しました。


約1万5千坪(約5万㎡)もの敷地内に、宣聖殿と呼ばれた聖廟を中心に、
西側に小学舎、手習所などを含めた主として学問習得のための建物、
東側には槍場、撃剣場、射術場などの武芸修練場、後方には水練池、
北方には約3千坪の練兵場が設けられていました。

吉田松陰や楫取素彦(小田村伊之助)もここで教鞭をふるったと、言われています。


遊泳術や水中騎馬が行われた、日本最古のプール
水練池 (旧萩藩校明倫館)です。
藩政時代、遊泳術や水中騎馬が行われた、日本最古のプール。水源は地下水で、
東西39m、南北16m、深さは1.5mで、周囲は玄武岩の切石で築かれています。
水練場を設けた藩校は全国でも会津藩の日新館と明倫館だけといわれ、
藩校の水練池でわが国に現存する唯一のものです。【国指定史跡】になっています。

現在の25mプールより長い感じですネ、レーンは5レーン位は行けそう・・・。
でも、プールと言うよりは池でした。


「文と萩物語 花燃ゆ大河ドラマ館」 です。

明倫館の敷地内に、花燃ゆ大河ドラマ館が開館していました。
ドラマ館では、ドラマで実際に使用された小道具や衣装の展示、
ロケメイキング映像の上映、ストーリーやキャスト紹介のパネル等の展示、
さらには松下村塾セット展示や記念撮影ポイントなど・・・結構、遊べます。



 次は、やはり松下村塾です。
 松下村塾は、幕末期に吉田松陰が主宰した私塾です。
 
 天保13年(1842)に松陰の叔父である玉木文之進が自宅で私塾を開いたのが始まりで、
 後に松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継ぎ、
 安政4年(1857)、28歳の松陰がこれを継ぎ、主宰することになりました。

 久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎など、 
 明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てました。



松下村塾への、入口にある石碑です。

「親思ふ心にまさる親心、けふのおとずれ何と聞くらむ」
この言葉は、有名ですネ。辞世の句・・・と、言われています。


松下村塾、全景です。

木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、当初からあった8畳の一室と、
後に吉田松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成っています。


裏側です。


講義室だった8畳の部屋には松陰の石膏像と肖像画、机が置いてあります。


 当時、この地域が松本村と呼ばれていたことから「松下村塾」という名がつけられました。  
 【国指定史跡】になっています。

大きな石碑が有りました。
「明治維新胎動之地」と、書かれていました。


 萩の産業遺産群も、平成27年7月 「明治日本の産業革命遺産」 として、世界遺産へ登録されました

 萩エリアは時代順に、萩城下町、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、
 松下村塾の5つの資産で構成されます。

 色んな事が重なって、今年の夏は沢山の人が訪れそうな気配です。
 何度訪れても、あつい町のようです。




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