そこはうっすらと暗い駄菓子屋だった。
普通、商品をよく見せるために、店内は明るくしておくはずなのに、そこは不気味なほど暗かった。
まるで色の薄いサングラスを掛けているように見にくい。
こんなに暗くては、目が悪くなってしまいそうだ。
それに、これだけ視界が悪いと、万引きしやすそうでもある。
そうでなくても、商品を陳列するために店内は入り組んでいる。
万引きをする死角はじゅうぶんにありそうだった。
とはいえ、本当に万引きをすると自分が小さい人間であるような気もする。
いくら万引きしやすいからといって、本当に万引きするなんてクズのやることだ。
そう思いつつ、ぼくの欲しいカードのくじを見つけると、そこは完全に死角となっていた。
まるで盗んでくださいと言っているような気さえする位置取り。
もしかしたら、店のおばさんはわざと万引きを誘発させて実は最新鋭の高性能カメラで決定的な瞬間を撮るという趣味があるのかもしれない。
本当なら恐ろしくタチが悪いが、あくまでもぼくの勝手な空想である。
馬鹿な想像をしてしまった、と反省しながら、カードのくじ(紙封筒の中にカードが入っているので中はわからない)をぱぱっと数枚ひいた。
しかし間の悪いことに急にトイレに行きたくなった。
無意識にカードくじを持ったまま、奥のトイレに走る。
(ぼくはどうしてトイレの場所を知っていたのだろう?)
急いでトイレを済ませて、手を洗ってハンカチを取ろうとしたところで、自分がカードくじをポケットに入れて来ていることに気付いた。
とりあえず、枚数を数えてみる。
店の外に出たわけではないから万引きではないよなぁ……?
そんなことを思いながら、一袋ずつ数えていたら。
手が滑ったのか(そんな感じではなかったけれど)、中身のカードが飛び出した。
それが凄いレアカードであることに気を取られているうちに、次々とカードをぶちまける。
魅力的に輝くレアカードの数々。
(この手のくじにこんなに沢山レアなカードが入っているものなのか?)
レアカードの輝き。
それは、魔の光だった。
(薄暗い店内でも凄く輝いていた)
つい、キラキラと光るレアカードだけを集めて、ザコカードと分類してしまう。
自分がこんなにもカードに夢中になる人間だったなんて、と驚く。
取り憑かれたようにレアカードとザコカードを別々に袋に戻し、レアカードの入った袋だけをレジカウンターに持って行こうとした、その時。
「やめなさい」
振り返ると店のおばちゃんが無表情で立っていた。
(どうしてバレたのか?)
ぼくは後ずさりながら言う。
「そうだね、ごめんね、おばちゃん」
「わかってくれたかい」
ぼくはトイレの窓から外に出た。
捕まってたまるもんか。
逃げる逃げる逃げる。
ぼくは(どうしてだろう?)カードを諦め切れなくて逃走した。
ほとんど不可抗力で追われる身となったぼく。
でも、こうなったらもう、とにかく逃げるしかない!
ぼくはすっかりレアカードに目が眩(くら)んでいた。
何年も探し続けた宝をようやく発見したような、何にも変えがたい大切なモノを手に入れたような。そんな感覚が確信としてあった。
このカードは誰にも渡せない!
これはぼくの物だ! ぼくの物なんだ!
信念の炎が燃えたぎる。
それが生涯を賭けた己の使命であるかのような、妙な得心があった。
しかし――
「待てよ、ボウズ」
不意に、大きな力に引き寄せられる。
振り向くと、警察の制服を着た、屈強そうな警官がぼくの腕をつかんでいた。
(こんなに早く追っ手が?)
無理矢理に、パトカーの後部座席に引き入れられる。
(パトカーのサイレンなんて聞こえなかったのに?)
カードを奪われる。
ぼくは警官の目をキッと睨んだ。
「おれは最強のデュエリストになるんだ!」
「な、なんだと……! 本気かっ!?」
「本気だ!」
「……!」
驚愕に歪む警官の顔。
デュエリストとは、カードで決闘(デュエル)を行なう誇り高い者のことで、この世で最も気高い職業とされている。
しかしデュエリストはカードの勝負だけで生きていかなくてはならない。宿も食料も、デュエルで勝ち取るしかないのだ。
最強のデュエリストを目指して行き倒れる者は後を絶たないという。デュエリストとは、生きる伝説なのだ。
世の子供達はみなデュエリストに憧れる。
しかし多くの子供達が、すぐに現実を突き付けられ、安泰な職業、つまり公務員を目指すようになる。
親の反対などもあり、本気でデュエリストになる人間は数少ない。
「夢ばっか見てんじゃねぇ! デュエリストになれるわけねぇ、死ぬだけだぜ」
たいていの大人はそう叱る。
なのに、目の前の警官はじっと視線を交錯させたまま、何かを探るようにしばらく黙っていた。
「………………」
「………………」
無音のぶつかり合い、せめぎ合い。
ぼくは言う。
「あんたにだって、夢はあったんじゃないか?」
「夢……か。夢なんざ、餓鬼の見るもんさ」
「違うね。あんたは逃げてるだけだ」
「逃げたのはお前だろう!」
「そういう意味じゃない。『夢から逃げた』って言ってるのさ。あんた、力はあるのに、どうしてやめちまったのさ。夢を追いかけることを!」
「何だと! 逃げたんじゃない、俺は仕方なく――」
「『仕方なく』? そういうのを言い訳って言うんだぜ! おれは諦めない。何があっても、誰が何と言おうともな!」
「………………」
「………………」
再び交わる視線。正面から、ぶつかり合う。
長い静寂ののち。
警官は口を開いた。
「……なんて烈しい瞳なんだ。真剣と書いてマジ、っつう眼だ。お前、タダモノじゃないな」
「タダモノかどうかは、これから証明して見せるさ。おれは負けない!」
「フン、少々自信過剰だが、それぐらいじゃなきゃ最強のデュエリストにはなれねぇわな! くくく、気に入ったぜ。久しぶりに火が付いた。こいつは返そう」
カードを差し出す警官。
「ありがとう」
しっかりと、ぼくはカードの束を受け取った。
絡み合う視線。
くすぶっていた警官の闘志にも火が付いたようで、瞳がギラギラと燃えていた。
「お前さんのおかげで目が覚めたぜ! 俺も最強のデュエリストを目指す!」
「最強になるのはおれだけどな!」
ガハハハ、とお互い笑い合った。
と、そこで。
「お取り込み中失礼しますが、彼が見逃しても、わたしが見逃してあげませんよ?」
運転席から女の声。
「ちっ。お前は女だから、男の信念ってもんがわからないんだよな」
「理解できなくて結構。法こそが正義ですから」
「信念こそが正義だ!」
急発進するパトカー。重力に押し潰されそうになる。
「おいボウズ、お前の名は?」
「この事態を切り抜けられる自信があるのか?」
「ある。俺に任せとけ」
「そうか、ありがとう。なら、名前はあとでゆっくり名乗らせてもらおう」
「フン、会ったばかりの俺を信じるのかい?」
「デュエリストは嘘をつかないんだぜ!」
手をサムアップにして突き出す。
「上等!」
彼もサムアップを突き出し、こちらの親指に合わせた。
「男ってよくわからない生き物ね。この状況で何ができるって言うのかしら。デュエリストになるためにわたしを殺して逃げるつもりかしら?」
揶揄(やゆ)する女に男が答える。
「忘れたか? こいつは俺の車なんだよ!」
素早く助手席に移り、何かのボタンを押す。
すると、ハンドルやアクセルが出てきて運転席のように変貌した。
「か、改造車!? パトカーを私物化するなんて、規則違反よ!」
「『規則は破るためにある』!」
「はぁ……。馬鹿……」
運転操作の全てを奪われ、がっくりと肩を落として諦める女。
「さすがだな!」と、ぼく。
「いいや、まだだ」
《ウー! ウー!》
いつの間にか、パトカーのサイレンが近づいて来ていた。
『そこのパトカー、止まりなさい!』
拡声器でうるさい野太い声。
前方の信号機は赤。
逃げ場所はない……?
「しっかり捕まってな!」と、男。
車にしがみつけという意味なのだが、皮肉にもその言葉は警察に捕まることを想像させた。
急なハンドルさばきでほとんど直角に曲がり、ギリギリ通れるくらいの狭い路地裏に入る。
少し進んでまたすぐに曲がり、ぐにゃぐにゃと複雑に進んで、やがて車は停まった。
「さて、これでしばらくは大丈夫だろう。無茶な運転をしたが、酔わなかったかい?」
「あ、あぁ、なんとか」
元運転席の女は青ざめてうつむいている。時折、気持ち悪そうに呻いていた。
「………………」
しばらく、無音の緊張感が張り詰めていた。
「ボウズ。パトカーには発信器が内蔵されている。もうすぐ追っ手が来るだろう。その時は、奥の手を使うぜ」
「この辺りにいるはずだ! 捜せ!」
早くも、追っ手はすぐ近くまで迫っている。
「ちっ、もう来やがった! こいつはスペシャルだぜ?」
何かのつまみを回す男。
「静かにしろよ? このパトカーは光学迷彩で透明になれるんだ。何があっても声は出すなよ?」
バックミラー越しにうなずいて見せる。
と、その時。
目の前に追っ手の警官が現れた。
思わず身構えるが、相手はこちらに気付いていないようで、すぐに視線をずらして探し続けていた。
「こちら異状なし!」
彼はトランシーバーでそう連絡し、去っていった。
(いくら光学迷彩でも目の前の物体を識別できないはずはないのだが?)
「よし、こいつは乗り捨てていこう。行くぞ、着いてきな!」
男が小声でそう言って、パトカーから出た。
「騒がれたらマズイ。女も連れて行こう」
男はもはや弱り切った女にさるぐつわを噛ませて、強引に引っ張る。
男に従ってずぅーっと歩いていくと、海の見える場所に出た。
「ここまで来れば安心だ」
「ありがとう」
「礼などいらん。こっちこそ、夢を諦めない熱い魂を教えてもらって、ひどく感謝しているんだ。サンキュー!」
「どういたしまして。
それより、改造した時にどうしてパトカーの発信器を外さなかったんだ?」
「バーカ。俺は警察を抜ける予定じゃなかったんだよ。夢を諦めて公務員に甘んじたんだ。改造したのはただの趣味さ。逃げる時のことなんて想定しちゃいないんだよ。それに、発信器は常にチェックされてるからな。信号が出ていないとすぐバレるんだよ」
「なるほどな」
と、そこで。
不意に人の気配がして、振り返ると老婆が現れていた。
新たな追っ手か……?
老婆は、無言でこちらを見つめている。
いや、女を見ているようだった。
老婆は口を開いた。どうやら、女警官の保護者であるらしい。
彼女に特別な発信機を付けていて、居場所がわかったと言う。
おとなしく引き渡すと、睨むだけで、無言で去っていった。
(老婆は、なぜ通報しない?)
ひやひやさせられる。
しかし、さて、これからどうする……?
目の前に塀がある。
この上に立てば、広大な青い海が見渡せるだろう。
よじ登ろうと伸ばした手は、塀の上に届くが、力が入らない。
「なんだボウズ、こんな塀も登れないのか?」
たくましいボディの男はひょいとまたがるように塀の上に立った。
しかし。
ひょろひょろと動いて、頭からズシーンと地面に落下する。
「だ、大丈夫か? どうしたんだよ」
「ああ……。女が着替えてるのを、見てしまって、クラクラっと来ただけ、さ……」
男はアスファルトを陥没させたまま、そう呟いて静かに目を閉じた。
(勢いよく地面にぶつかったのに、どうして血は流れていない?)
全ての疑問の答え。
全部夢だったから。
普通、商品をよく見せるために、店内は明るくしておくはずなのに、そこは不気味なほど暗かった。
まるで色の薄いサングラスを掛けているように見にくい。
こんなに暗くては、目が悪くなってしまいそうだ。
それに、これだけ視界が悪いと、万引きしやすそうでもある。
そうでなくても、商品を陳列するために店内は入り組んでいる。
万引きをする死角はじゅうぶんにありそうだった。
とはいえ、本当に万引きをすると自分が小さい人間であるような気もする。
いくら万引きしやすいからといって、本当に万引きするなんてクズのやることだ。
そう思いつつ、ぼくの欲しいカードのくじを見つけると、そこは完全に死角となっていた。
まるで盗んでくださいと言っているような気さえする位置取り。
もしかしたら、店のおばさんはわざと万引きを誘発させて実は最新鋭の高性能カメラで決定的な瞬間を撮るという趣味があるのかもしれない。
本当なら恐ろしくタチが悪いが、あくまでもぼくの勝手な空想である。
馬鹿な想像をしてしまった、と反省しながら、カードのくじ(紙封筒の中にカードが入っているので中はわからない)をぱぱっと数枚ひいた。
しかし間の悪いことに急にトイレに行きたくなった。
無意識にカードくじを持ったまま、奥のトイレに走る。
(ぼくはどうしてトイレの場所を知っていたのだろう?)
急いでトイレを済ませて、手を洗ってハンカチを取ろうとしたところで、自分がカードくじをポケットに入れて来ていることに気付いた。
とりあえず、枚数を数えてみる。
店の外に出たわけではないから万引きではないよなぁ……?
そんなことを思いながら、一袋ずつ数えていたら。
手が滑ったのか(そんな感じではなかったけれど)、中身のカードが飛び出した。
それが凄いレアカードであることに気を取られているうちに、次々とカードをぶちまける。
魅力的に輝くレアカードの数々。
(この手のくじにこんなに沢山レアなカードが入っているものなのか?)
レアカードの輝き。
それは、魔の光だった。
(薄暗い店内でも凄く輝いていた)
つい、キラキラと光るレアカードだけを集めて、ザコカードと分類してしまう。
自分がこんなにもカードに夢中になる人間だったなんて、と驚く。
取り憑かれたようにレアカードとザコカードを別々に袋に戻し、レアカードの入った袋だけをレジカウンターに持って行こうとした、その時。
「やめなさい」
振り返ると店のおばちゃんが無表情で立っていた。
(どうしてバレたのか?)
ぼくは後ずさりながら言う。
「そうだね、ごめんね、おばちゃん」
「わかってくれたかい」
ぼくはトイレの窓から外に出た。
捕まってたまるもんか。
逃げる逃げる逃げる。
ぼくは(どうしてだろう?)カードを諦め切れなくて逃走した。
ほとんど不可抗力で追われる身となったぼく。
でも、こうなったらもう、とにかく逃げるしかない!
ぼくはすっかりレアカードに目が眩(くら)んでいた。
何年も探し続けた宝をようやく発見したような、何にも変えがたい大切なモノを手に入れたような。そんな感覚が確信としてあった。
このカードは誰にも渡せない!
これはぼくの物だ! ぼくの物なんだ!
信念の炎が燃えたぎる。
それが生涯を賭けた己の使命であるかのような、妙な得心があった。
しかし――
「待てよ、ボウズ」
不意に、大きな力に引き寄せられる。
振り向くと、警察の制服を着た、屈強そうな警官がぼくの腕をつかんでいた。
(こんなに早く追っ手が?)
無理矢理に、パトカーの後部座席に引き入れられる。
(パトカーのサイレンなんて聞こえなかったのに?)
カードを奪われる。
ぼくは警官の目をキッと睨んだ。
「おれは最強のデュエリストになるんだ!」
「な、なんだと……! 本気かっ!?」
「本気だ!」
「……!」
驚愕に歪む警官の顔。
デュエリストとは、カードで決闘(デュエル)を行なう誇り高い者のことで、この世で最も気高い職業とされている。
しかしデュエリストはカードの勝負だけで生きていかなくてはならない。宿も食料も、デュエルで勝ち取るしかないのだ。
最強のデュエリストを目指して行き倒れる者は後を絶たないという。デュエリストとは、生きる伝説なのだ。
世の子供達はみなデュエリストに憧れる。
しかし多くの子供達が、すぐに現実を突き付けられ、安泰な職業、つまり公務員を目指すようになる。
親の反対などもあり、本気でデュエリストになる人間は数少ない。
「夢ばっか見てんじゃねぇ! デュエリストになれるわけねぇ、死ぬだけだぜ」
たいていの大人はそう叱る。
なのに、目の前の警官はじっと視線を交錯させたまま、何かを探るようにしばらく黙っていた。
「………………」
「………………」
無音のぶつかり合い、せめぎ合い。
ぼくは言う。
「あんたにだって、夢はあったんじゃないか?」
「夢……か。夢なんざ、餓鬼の見るもんさ」
「違うね。あんたは逃げてるだけだ」
「逃げたのはお前だろう!」
「そういう意味じゃない。『夢から逃げた』って言ってるのさ。あんた、力はあるのに、どうしてやめちまったのさ。夢を追いかけることを!」
「何だと! 逃げたんじゃない、俺は仕方なく――」
「『仕方なく』? そういうのを言い訳って言うんだぜ! おれは諦めない。何があっても、誰が何と言おうともな!」
「………………」
「………………」
再び交わる視線。正面から、ぶつかり合う。
長い静寂ののち。
警官は口を開いた。
「……なんて烈しい瞳なんだ。真剣と書いてマジ、っつう眼だ。お前、タダモノじゃないな」
「タダモノかどうかは、これから証明して見せるさ。おれは負けない!」
「フン、少々自信過剰だが、それぐらいじゃなきゃ最強のデュエリストにはなれねぇわな! くくく、気に入ったぜ。久しぶりに火が付いた。こいつは返そう」
カードを差し出す警官。
「ありがとう」
しっかりと、ぼくはカードの束を受け取った。
絡み合う視線。
くすぶっていた警官の闘志にも火が付いたようで、瞳がギラギラと燃えていた。
「お前さんのおかげで目が覚めたぜ! 俺も最強のデュエリストを目指す!」
「最強になるのはおれだけどな!」
ガハハハ、とお互い笑い合った。
と、そこで。
「お取り込み中失礼しますが、彼が見逃しても、わたしが見逃してあげませんよ?」
運転席から女の声。
「ちっ。お前は女だから、男の信念ってもんがわからないんだよな」
「理解できなくて結構。法こそが正義ですから」
「信念こそが正義だ!」
急発進するパトカー。重力に押し潰されそうになる。
「おいボウズ、お前の名は?」
「この事態を切り抜けられる自信があるのか?」
「ある。俺に任せとけ」
「そうか、ありがとう。なら、名前はあとでゆっくり名乗らせてもらおう」
「フン、会ったばかりの俺を信じるのかい?」
「デュエリストは嘘をつかないんだぜ!」
手をサムアップにして突き出す。
「上等!」
彼もサムアップを突き出し、こちらの親指に合わせた。
「男ってよくわからない生き物ね。この状況で何ができるって言うのかしら。デュエリストになるためにわたしを殺して逃げるつもりかしら?」
揶揄(やゆ)する女に男が答える。
「忘れたか? こいつは俺の車なんだよ!」
素早く助手席に移り、何かのボタンを押す。
すると、ハンドルやアクセルが出てきて運転席のように変貌した。
「か、改造車!? パトカーを私物化するなんて、規則違反よ!」
「『規則は破るためにある』!」
「はぁ……。馬鹿……」
運転操作の全てを奪われ、がっくりと肩を落として諦める女。
「さすがだな!」と、ぼく。
「いいや、まだだ」
《ウー! ウー!》
いつの間にか、パトカーのサイレンが近づいて来ていた。
『そこのパトカー、止まりなさい!』
拡声器でうるさい野太い声。
前方の信号機は赤。
逃げ場所はない……?
「しっかり捕まってな!」と、男。
車にしがみつけという意味なのだが、皮肉にもその言葉は警察に捕まることを想像させた。
急なハンドルさばきでほとんど直角に曲がり、ギリギリ通れるくらいの狭い路地裏に入る。
少し進んでまたすぐに曲がり、ぐにゃぐにゃと複雑に進んで、やがて車は停まった。
「さて、これでしばらくは大丈夫だろう。無茶な運転をしたが、酔わなかったかい?」
「あ、あぁ、なんとか」
元運転席の女は青ざめてうつむいている。時折、気持ち悪そうに呻いていた。
「………………」
しばらく、無音の緊張感が張り詰めていた。
「ボウズ。パトカーには発信器が内蔵されている。もうすぐ追っ手が来るだろう。その時は、奥の手を使うぜ」
「この辺りにいるはずだ! 捜せ!」
早くも、追っ手はすぐ近くまで迫っている。
「ちっ、もう来やがった! こいつはスペシャルだぜ?」
何かのつまみを回す男。
「静かにしろよ? このパトカーは光学迷彩で透明になれるんだ。何があっても声は出すなよ?」
バックミラー越しにうなずいて見せる。
と、その時。
目の前に追っ手の警官が現れた。
思わず身構えるが、相手はこちらに気付いていないようで、すぐに視線をずらして探し続けていた。
「こちら異状なし!」
彼はトランシーバーでそう連絡し、去っていった。
(いくら光学迷彩でも目の前の物体を識別できないはずはないのだが?)
「よし、こいつは乗り捨てていこう。行くぞ、着いてきな!」
男が小声でそう言って、パトカーから出た。
「騒がれたらマズイ。女も連れて行こう」
男はもはや弱り切った女にさるぐつわを噛ませて、強引に引っ張る。
男に従ってずぅーっと歩いていくと、海の見える場所に出た。
「ここまで来れば安心だ」
「ありがとう」
「礼などいらん。こっちこそ、夢を諦めない熱い魂を教えてもらって、ひどく感謝しているんだ。サンキュー!」
「どういたしまして。
それより、改造した時にどうしてパトカーの発信器を外さなかったんだ?」
「バーカ。俺は警察を抜ける予定じゃなかったんだよ。夢を諦めて公務員に甘んじたんだ。改造したのはただの趣味さ。逃げる時のことなんて想定しちゃいないんだよ。それに、発信器は常にチェックされてるからな。信号が出ていないとすぐバレるんだよ」
「なるほどな」
と、そこで。
不意に人の気配がして、振り返ると老婆が現れていた。
新たな追っ手か……?
老婆は、無言でこちらを見つめている。
いや、女を見ているようだった。
老婆は口を開いた。どうやら、女警官の保護者であるらしい。
彼女に特別な発信機を付けていて、居場所がわかったと言う。
おとなしく引き渡すと、睨むだけで、無言で去っていった。
(老婆は、なぜ通報しない?)
ひやひやさせられる。
しかし、さて、これからどうする……?
目の前に塀がある。
この上に立てば、広大な青い海が見渡せるだろう。
よじ登ろうと伸ばした手は、塀の上に届くが、力が入らない。
「なんだボウズ、こんな塀も登れないのか?」
たくましいボディの男はひょいとまたがるように塀の上に立った。
しかし。
ひょろひょろと動いて、頭からズシーンと地面に落下する。
「だ、大丈夫か? どうしたんだよ」
「ああ……。女が着替えてるのを、見てしまって、クラクラっと来ただけ、さ……」
男はアスファルトを陥没させたまま、そう呟いて静かに目を閉じた。
(勢いよく地面にぶつかったのに、どうして血は流れていない?)
全ての疑問の答え。
全部夢だったから。
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