暇人に見て欲しいBLOG

別称(蔑称)、「暇人地獄」。たぶん駄文。フリマ始めました。遊戯王投資額はフルタイム給料の4年分(苦笑)。

BLUE

2007年01月09日 23時30分30秒 | 感想文
 乙一先生の『平面いぬ。』(新書『石ノ目』の文庫版)に収録されている、「BLUE」という短編を読んだ。
 弟と「BLUE」の最後どうなったんだっけ、と話していて久しぶりに「BLUE」を読み返したくなったのだ。
 この『平面いぬ。』には四つの短編が収録されており、本の裏に「ファンタジー・ホラー四編」と書かれているが、とくにこの「BLUE」と「はじめ」は、ホラーというより切ない物語である。
 いい。いいんだこれが。
 正直言って、あまりぱっとしない感じの作品だと記憶していたけれど、そんなことはない。
 いいんだ、すごく。
 文体は相変わらず淡々として、しかもわざと理科系のカクカクした文章なのだが、物語はなかなかに感動的である。そのギャップがすごくてびっくりした。
 読み終えたとき、こんなに切ない話だったのかっ!!
 と、驚いた。
 もう絶対、実写化というか映像化したらファンタジーすぎて感情移入できないだろうというくらいありえない世界の中で、しかし展開されていく物語は非常に人間味があり生々しいのだ。
 活字での表現を希求される、つまり小説ならではの小説で語られるべき作品だと思う。
 小説、漫画、テレビ、ラジオ、などといった異なる媒体のうち、複数の媒体によって同一作品が表現されることを、メディアミックスなどという。漫画やアニメやドラマをノベライズ(小説化)するとか、そういった、いくつかのメディアを通して公開される形式のことだ。
 漫画がアニメ化されるのはごく自然な成りゆきだと思う。どちらも絵(画)であり、アニメーションは絵の連続なのだから。
 しかし、ドラマが小説になるような、明らかに表現方法の違う媒体でのメディアミックスは、個々の媒体でのオリジナル性を欠く。つまり「〇〇原作」というやつだ。
 たしかに優れた作品はメディア同士の隔たりを超えて表現されるだけの価値がある。
 すでに成功を納めた作品だから売りやすいのだろう。
 しかし、そればかりというのもどうかと思う。
 まるでたらい回しのように同一作品をあらゆるメディアで発表することには、なにかこう、興を醒めさせるような嫌な感じがあるのだ。
 まぁ、原作ファンのひがみだけれどね。
 やたらめったら使い回すのは芸がない。という感じか。
 それは昔から多方面で言われていることでもあるが、やはり改めてそう思うのだ。
 各メディア、各媒体独自の作品、オリジナル作品が、少な過ぎるのではないかという気がする。
 それはまぁ、誰でも知っているようなメジャー作品ばかり見ていれば仕方のないことかもしれない。優れた作品がメディアミックスされさらに大衆に広がりメジャーになるという寸法なのだから。
 それはわかっているのだが、なんだろうな、もうちょっと、マイナーで終わっているオリジナル作品が大衆に受けたらいいのに、と思うわけである。
 その媒体だからこそ表現しうる作品。小説でしかない小説、映像でしか表現できないない映像作品。というような、その分野特有のオリジナル作品ができれば理想だろう。
 今回の「BLUE」は、その理想に近い気がしたので、こんな話になった。
 まぁ、しかし、どこのメディアも、他媒体の作品を自分のとこで表現して、オリジナル性をそごうとか、そういう足のひっぱり合いみたいな側面もあるのだろうけれど。
 難しいところだ。
 だから理想なんだけどね。あくまでも。




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