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ドビュッシーの春

2022-05-11 21:10:04 | 近代
淀川の河川敷に行くとシロツメクサの絨毯。


庭石菖


ノビル。

ふきのとう味噌を酢で伸ばしてかけて食べました。
おネギのような、らっきょうのようなさっぱりしたいいお味でした。

クロード ドビュッシー(1862-1918年)フランス共和国サン・ジェルマン・アン・レー生まれ、フランス共和国パリ16区没

陶器店の店主の父と裁縫師の母の元に5人兄弟の長男として生まれます。
1872年パリ音楽院に10歳で入学。
1874年から79年にかけて、学内のピアノ賞に挑戦しますが、思ったような成績を取れず、作曲家に転向します。

1780年18歳でパトロンのメック夫人のお供でピアニストとして旅行し、チャイコフスキーに自身の曲を送りますが酷評されます。
しかし、ロシア音楽に目覚めます。
1882年パリに戻り、ローマ賞に挑戦しだします。
1884年3回目の挑戦でローマ大賞を受賞し、イタリアに留学します。

肌に合わず2年で切り上げて帰ってきます。
実は意中の人マリー ブランシェ ヴァニエ夫人


のためにパリに帰ったとも言われています。

ドビュッシーは、18歳で彼女に出会ってから夢中で不倫関係を結び、この頃の歌曲はほとんど彼女のために書かれています。

22歳、留学中も彼女のことが気になって仕方なかったようです。

そのイタリア留学の間にボッティチェッリのプリマヴェーラ 春

からインスピレーションを受けて交響組曲「春」を書きます。
ピアノ2台と合唱のために書かれ、パリに帰ってから管弦楽曲を書きました。

1887年に芸術アカデミーに提出されますが、サン・サーンスは「管弦楽曲にはふさわしくない嬰ヘ長調」と言い、「漠然とした印象主義」などと酷評し、受理しませんでした。

その後、オーケストラ入りの楽譜は製本所の火災で焼失。
ピアノとヴォカリーズ(歌詞のない合唱)版が残っていて、1913年ドビュッシーの指示によりアンリ ビュッセルがオーケストラ編曲し、初演されました。