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音楽の喜び フルートとともに

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ハイドンセット「春」モーツァルト

2022-04-20 20:52:04 | 古典
今日は長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生とチェロ正雄先生、ヴィオラ金重さん、フルート久米のドリームカルテット。


長居公園の植物園も再開していました。新緑が美しい。

ヴァイオリンを持っているパンダさん。
モーツァルトのCdurのフルートカルテットを8月のコンサートで発表することになりました。
なので、集中して練習。

練習後はいちごカーディナル頂いて帰りました。
Cdurのカルテットについては何度も書いているので、ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1753-1792年)神聖ローマ帝国ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没 

の弦楽四重奏曲K.14
これは1781年にハイドンが6つの弦楽四重奏曲(ロシア四重奏)を出版。

これに触発されたモーツァルトが6つの弦楽四重奏曲を書きます。
これを1785年ハイドンに
献呈した、ハイドンセットと呼ばれています。

この頃のモーツァルトは
1778年アロイジア ウェーバーに父の反対で失恋。


1781年25歳のモーツァルトはウィーンで就職に失敗。
1782年にアロイジアの妹コンスタンツェ ウェーバー


と結婚。
レッスンしたり、オペラの仕事を受けたり、楽譜を売ったり、フリーの音楽家として生活していく道を探しています。

1785年ハイドンにこのセットを献呈したのはその就職活動の一貫でした。

ハイドンはこのセットを称賛し、1788年オペラの仕事にモーツァルトを推薦します。

ウィーンのブルク劇場で初演されたこのオペラは、あまり売れませんでしたが、その後ボヘミアのプラハで大ヒットし、作曲家としての名声の第一歩となりました。
このオペラは

「フィガロの結婚」です。

そのきっかけとなった「弦楽四重奏曲」K.14は1782年12月31日とモーツァルトのサインがあり、その頃完成したと思われます。

第一曲は、「春」と呼ばれています。
第4楽章は交響楽41番「ジュビター」の原型が見られます。






森の小鳥

2022-04-19 16:27:37 | 名曲
森の中は山桜が満開でした。



里山で遊ぶのに
いい季節がやって来ました。
小鳥も鳴いていました。
春の小鳥の声

春の小鳥の声

YouTube


フランツ ドップラー(1821-1883年)


の「森の小鳥」op31は
フルート1本と4本のホルンと足踏みオルガンという珍しい編成です。

オーストリア=ハンガリー帝国時代

弟のカールとフルートデュオで世界中を演奏して周りました。

ウィーン音楽院

で、1864-1867年の間でフルート科の教授を務めました。


ラヴェルの戦争

2022-04-18 21:44:05 | 近代
ナガミヒナゲシ
1961年に帰化した植物です。
かわいいけど





増えすぎると駆除しないといけないみたいです。

ジョセフ モーリス ラヴェル(1875-1937年)

フランス共和国シブール生まれ、フランス共和国パリ没

ラヴェルは39歳の時に第一次世界大戦が勃発。兵士に志願しますが、161センチの小柄で、入団条件に2キロ足りなかったと言う理由で落とされます。ラヴェルの才能を惜しんだという説もあります。

諦められずラヴェルは1915年トラックの輸送兵として従軍します。



砲弾をかいくぐって兵站を届ける任務です。
70万人の死者を出したヴェルダンの前まで行きました。

その途中、腹膜炎になり手術をうけました。
終生戦争の傷が癒えることはなかったといいます。

ラヴェルはドイツ、オーストリアの音楽をフランスで上演禁止にする署名を断っています。
その時、
「私は〈我が国の芸術遺産の保護〉のために〈現代のドイツ、オーストリアの作品の上演を禁ずる〉必要があるとは思いません。それどころか、外国の同僚作曲家の創作を計画的に無視し、一種の国民的な同族主義をつくりあげるのは、フランスの作曲家にとっては危険なことです。そうすればすぐに、今はとても豊かなわれわれの音楽芸術も、型にはまった閉鎖的なつまらないものになってしまうでしょう。私にとっては、例えばシェーンベルク氏がオーストリア国籍であることは余り重要ではありません。また、そのことによって氏が価値の低い音楽家だということもないのです。氏の非常に興味ある探求は、連合国およひフランスの音楽家に良い影響を与えるでしょう。それだけではありません。バルトーク氏やコダーイ氏、そして彼らの弟子たちはハンガリー人ですが、私は彼らがそのことを音楽のなかに非常に上手く活かしていることにとても魅せられているのです。私はフランス音楽にどんな価値があろうともフランスでそれに特権を与えようとしたり、外国に宣伝したりする必要はないと思っています」


と説明しています。
戦争中に1917年母親を亡くすと急速に創作意欲を失います。

1927年頃から記憶障害を起こします。
1932年タクシーに乗っていて事故にあいます。
失語症も伴い、オペラ「ジャンヌ ダルク」


の執筆を始めるも「音楽は頭の中に出来上がっているのに、何一つ書くことができない。」状態に陥り、1937年にそれが原因で手術をしますが失敗し亡くなります。

ヴェルヴェデールとラヴェルが名づけたイヴリーヌ県モンフオール=ラモーリの家。




もっとも有名な「ボレロ」、ラヴェル自身の指揮による演奏です。



ラヴェル博物館になっています。



報復殺人ジェズアルド

2022-04-17 20:57:15 | ルネッサンス
お久しぶりの酒屋神社裏の池。
暖かい日和でした。

新緑が美しい! 

タンポポがいっぱい。



ここのはニホンタンポポです。

足を踏み入れるとぽちゃんぽちゃんと湖音がして

亀さんが…。

イタドリを取ってきました。


カルロ ジェズアルド(1566-1613年)

ヴエノーザ?生まれ、ジェズアルド没
イタリア貴族で、聖職者の家系に生まれます。
ミラノ大司教で聖人のカルロ ポッロメーオは叔父、母はローマ教皇ピウス4世の姪です。


1586年いとこで侯爵令嬢のマリア ダヴァロスと結婚。
2年後にアンドリア公ファブリツィオ カラーファと情事を重ねます。

1590年、ジェズアルドは狩りに行くと嘘をつき、ナポリの宮殿に手下を連れて乗り込みます。

妻と愛人の情事を見つけ、寝台の上で二人を惨殺します。

そして報復を恐れジェズアルド城に逃げ帰ります。

この殺人事件は広く宣伝され、トルクァート・タッソーなどミラノ中の詩人により取り上げられました。
貴族による不貞の妻に対する報復殺人は当時珍しくはなかったそうで、ジェズアルドはつかまることはありませんでした。
手下を連れて行ったこと、一騎打ちでなかったことで評判は落ちましたが。

妻殺しのあと、赤ん坊の息子を殺したとか、復讐に現れた義父も殺したという史料も。
武装した兵士に自分を守らせていたそうです。

1594年フェラーラに赴き、大公アルフォンソ2世デステの姪レオノーラと再婚します。
エステ家の宮廷には文化人が集まっていて、仕事がすすみ、初めのマドリガーレ集を出版します。

1595年ジェズアルドに戻り、フェラーラ時代のような文化拠点を作ろうとしますが、豊富な財源で雇い入れることでしか人を集めることができませんでした。

レオノーレは、しばしば実家のエステ家に虐待を訴え、エステ家は別れさせようとしています。

1600年再婚後もうけた息子が早世します。
カプチン会教会にレオノーレと息子と自分を描いた絵画を委嘱しています。

1613年マリアとの長男エマヌエレが亡くなった3週間後に亡くなっています。

後半生はうつ病だったとも言われています。
毎日専用の使用人を雇い、自分を鞭打たせていたそうです。
曲は「苦痛」「死」「恍惚、喜悦」「苦悶」などと言う名前をつけています。

また、半音階を利用する作風は19世紀ロマン派を待つまで現れず、まさに孤独の作曲家といえるでしょう。

「幸せな春よ」はマドリガーレ集1に収録されていて!まだ調性音楽にとどまっていますが、後半に行くほど半音階が使われるようになります。










春の交響楽

2022-04-16 20:56:16 | 名曲
昨夜は夫が出張。息子飲み会で、昼間ハープの練習の後、梅田で阪急百貨店によりました。
スイーツ売り場は盛況でした。
1人で楽しもうと思っていたのに
やっぱり息子の分も思わず買ってしまいました。



チェリーと抹茶。おいしかった~。
今日はこもって楽譜作り。
7つのスペインの歌をフルート譜に。
5月の本番に使いますが、気づいたら後ひと月でした。
まずい!
歌をちょっと器楽風に変えます。

今日は少し肌寒かったけれど、陽射しはすっかり春の陽射し。

ロベルト アレクサンダー シューマン(1810-1856年)

ザクセン王国ツヴィッカウ生まれ、プロイセン王国エンデニヒ没

の交響楽第一番 変ロ長調 作品38は「春」という標題がつけられていました。

楽章ごとにシューマン自身によって標題もつけられていました。
  • 第1楽章 - 春の始まり
  • 第2楽章 - 夕べ
  • 第3楽章 - 楽しい遊び
  • 第4楽章 - たけなわの春
1841年に作曲され、メンデルスゾーン指揮


ライプツィヒゲヴァントハウス管弦楽団によってザクセン王フリードリヒ アウグスト2世


に献呈されました。

初演の時にバルブなしのトランペットとホルンが使われ、倍音しかでないので管の中に手を突っ込んで半音を出すストップ奏法をしなくてはいけないことが分かりました。
ストップ奏法は音程の調整が難しく、シューマンはそのため曲の音の方を変更したそうです。
今もそのまま。
ちなみに勧めたのはメンデルスゾーン。
シューマンは当初「春の交響楽」と呼んでいたそうです。
1840年にクララ ヴィークと結婚し、


人生の春とも言える時期でした。





新世界からボヘミアに向けた曲

2022-04-15 21:08:44 | 名曲

塚口t-raumでハープレッスンでした。
今日は、黒猫さんが門番。
出たかっただけ…。

サルビアなのか?チェリーセージなのか?咲いていました。

ホルンガッハというすごいハープでレッスン。金重さんとの二重奏もレッスン。
ホルンガッハ2台で贅沢なレッスン。
下手でもビンビン響いて気持ちよく練習できます。

アントニン レオポルド ドボルジャーク(1841-1904年)

オーストリア帝国ネルホゼヴェス生まれ、ハンガリー=オーストリア帝国ウィーン没

肉屋と宿屋を営む父親の元、長男として生まれたために、家業を継がせるために修行に必要なドイツ語をズロニチェに学びに行きますが、そこで出会った職業訓練校の校長アントニン リーマンがヴァイオリン、ヴィオラ、オルガン、和声学を彼に教えました。

家業が苦しくなり、父親はドボルジャークを戻そうとしますが、リーマンと伯父が反対し、この伯父が学費を負担しオルガン学校に入学します。

2位の成績で卒業すると、1862年建設のチェコ劇場の


ヴィオラ奏者の職に着きます。
1865年金属細工師チェルマーク家の二人の娘の音楽教師をし、姉のヨゼフィーナに恋をしますが失恋。
そこでいくつかの作曲をします。
この頃から作曲を始めますが、1871年作曲の時間をとるために楽団を辞めます。

1873年「白山の後継者たち」を作曲し、出世作になり、その年、チェルマーク家の妹アンナと結婚します。

1874年プラハの聖ヴォイツェフ教会のオルガニストに就任し、生活が安定します。
ワーグナーの影響に長くありましたが、この頃から離れていきます。

1877年モラヴィア二重奏曲を出すとブラームスが出版社ジムロックに紹介状を書き二人の交流が始まります。

1878年ジムロックは、ブラームスの「ハンガリー舞曲集」に匹敵する「スラブ舞曲集」を依頼、発表すると人気が沸騰し、ヨーロッパ中にドボルジャークの名前が知れ渡りました。

ウィーンや、ロンドンで演奏、1888年にはプラハを訪れたチャイコフスキーと親交を結び、モスクワも訪問しています。

1891年ニューヨーク ナショナル音楽院ジャネット サーバー理事長から院長職就任依頼があり、固辞しますが、当時の年俸の25倍の15000ドルを提示され、13歳を筆頭に6人の子どもがいたので応じます。

サーバーはアメリカの国民楽派確立を目指し、ドボルジャークに期待をかけます。

1893年交響楽第九番「新世界より」を作曲します。

「この曲は、以前のものとは大きく異なり、わずかにアメリカ風である。」と友人への手紙に書いています。

「アメリカの黒人やインディアンの民族の主題を使ったというのはナンセンスで嘘です。私はただアメリカの旋律の精神をもって書こうとしたのです。」

「新世界より」と書いているように、アメリカの黒人の音楽が故郷ボヘミアの音楽に似ていることに感動し、故郷ボヘミアに向けて作られた作品であって、アメリカを直接描いた作品ではありません。

緑色のところがボヘミア

1893年カーネギーホールで初演すると大成功をおさめます。

第2楽章は「家路」として有名になり、歌詞をつけて世界的に流行しました。

1895年ホームシックに陥ったドボルジャークは、世界恐慌の煽りを受けたサーバーが報酬を遅延しだしたのもあり、プラハに帰ります。

プラハ音楽院で教鞭をとり、ウィーン音楽院からも招聘されますが、ボヘミアを離れがたく断ります。

数々の栄誉や報酬を受け取りますが、オペラだけはヒットさせることができず、最後のオペラ「アルミダ」1904年初演も不評。
1905年尿毒症と進行性動脈硬化症を起因とする脳出血で亡くなります。


完成!ナチュラルトランペット

2022-04-14 21:01:02 | 楽器
うちのノースポールもそろそろ終わりを迎えそうです。

ガーベラはまだまだ。

前回バッハデイで作ると約束されていたバロックトランペット。
できたとお知らせ入りました。
なんだか思っていたのとは違います。
バルブが発明されたのは1815 年ナチュラルトランペットはこのようなかたちだったそうです。

ホルンの概念がなく、区分も無かったのです。

300年コロナのペルー、リマの陶器のトランペット。
金管楽器の祖先と捉えた方が良いそうです。
出せるのは倍音だけです。
ヨーロッパでは角笛からトランペットが分かれたのはギリシャ ローマ時代です。
バロックトランペット


まだ、ヴァルブはなく、ホルンとの区別はありません。

セルパンというチューバの祖先が現れたのは14.5世紀、グレゴリオ聖歌が演奏されました。
18世紀には軍楽隊で使われました。


産業革命で金属を加工する技術が上がりビューグルが作成されました。
1813年バルブが発明され

バス オフィクレイドが開発されました。
ドイツのヴィルヘルム ヴィープレヒト

と、楽器製作者ヨハン ゴットフリート モリッツが開発したトランペットだけで軍楽隊が編成されました。


今回作製されたのは、バロック時代に遡るトランペットで、現代の楽器と演奏できるようにバロックピッチ439Hzでは無く、442Hzで演奏できるようになっているものです。

おそらくバッハの時代は、この楽器で演奏されていました。
音を聴くのが楽しみです。
トランペット型ですが、バルブのないバロックトランペットによる演奏です。









悪魔に魂を売り渡した男パガニーニ

2022-04-13 20:52:35 | ロマン派
昨日、プリンシパルの帰り道。

筑前橋からの風景。
今日は、海から上流に向かって流れています。
福岡の筑前藩、黒田藩の藩邸への私設の橋だったそうです。
江戸時代にかけられましたが、台風で破壊され、今の橋は1932年にかけ替えられました。
足元には

ポリゴナムが満開でした。

ヴァイオリンがうますぎて「悪魔に魂を売り渡した。」と言われ、コンサートでは十字を切る人がいたり、足が地についているか?と足元ばかり見る人がいました。

挙げ句の果てに、死後、埋葬を拒否されたので、遺体を防腐処理して各地を36年も転々としました。

ニコロ パガニーニ(1782-1840年)

ジェノヴァ共和国ジェノヴァ生まれ、フランス王国ニース没
5歳からヴァイオリンを始め、12歳で学ぶものが無くなり、新しい技術や特殊奏法を開発しては自作の作品に取り入れ練習していました。

ラ カンノーネ

1743年もグァルネリ・デル・ジェスが製作したヴァイオリンを1802年付与され演奏したところ、演奏に感動した商人リヴロンから与えられます。

パガニーニはこのヴァイオリンに大砲ラ カンノーネと名付け愛用しました。

1820年頃から体調不良で毒素を出すためと称して下剤を飲み始め、1823年梅毒と診断され、水銀とアヘンを飲み始めます。1828 年結核と診断され塩化水銀と下剤を飲み続け、1834年水銀中毒でヴァイオリンが弾けなくなり引退します。

1940年ニースで死去。結核の症状はなく、ネフローゼ、腎不全など水銀中毒だったそうです。

ヴァイオリン協奏曲第1番の第三楽章は、「ラ カンパネラ」
シューベルトは家財を売り払ってまで聴きに行ったそうです。
派手な三楽章ではなく、アダージョで「天使の声を聴いた」と絶賛したそうです。
そして1852 年の改定では「ラ カンパネラ」は削除されています。




パッヘルベルのカノン

2022-04-12 22:05:56 | 名曲
昨日は渡辺橋、サロン ド プリンシパルでアンサンブルレッスンでした。

近くのダイビルは、古い柱門を残した近代建築です。




パッヘルベルのカノン、タウリのカノンのカルテットを練習しました。
榎田先生はバスフルートを、吹いて下さいました。
ヘビースモーカーの先生、間で喫煙休憩があります。
肺活量とロングトーンの長さは関係ない。女性でも空気を貯める2リットルのペットボトルを肺に持っているようなものです。
それを少しずつコントロールしながら吹いていく。
唇を狭めて、細い息で長く吹くことで音質も音量も良くなります。

ヨハン パッヘルベル(1653-1706年)神聖ローマ帝国自由帝国都市ニュルンベルク生没
パッヘルベルの「カノン」は世界一演奏されているカノンです。

実際は、カノン以外にもたくさんの曲を書いています。
しかもカノンはこれ一曲のみ。


ワイン商人の息子として生まれ、ルター派の聖ゼーバルドス教会で音楽を学びます。
学問の才能もあり、普通の大学まで行きますが、経済的理由で1年で退学。
奨学生としてレーゲンスブルクのギムナジウム ポエティクムに入学。
ここで音楽も学びます。

1673年ハプスブルク帝国の中心であるウィーンのシュテファン大聖堂

のオルガニストの地位を得ます。
カトリック教会であり、多民族が入り込んで来る大都会で、ルター派とは違ういろいろな文化に触れたと思われます。
1677年アイゼナハのザクセン公ヨハン ゲオルグ一世

の宮廷オルガニストになります。
ここでヨハン セバスチャン バッハの父親アンブロジウズ バッハと親しくなります。

バッハ家の子どもたちの家庭教師を任されます。後バッハ家とはずっと交流があったようです。

ところが1678年ゲオルグ一世の弟が亡くなると宮廷楽団は縮小。 

エアフルトに移り、ブレイディガー教会のオルガニストになります。

1681年エアフルト市長の娘バルバラ ガブラーと結婚。
1683年伝染病で1人息子と妻共に亡くします。
1684年銅器職人の娘ユーディトと結婚。5男2女をもうけます。
1690年ヴェルテンブルク公国のオルガニストになります。
1年で大同盟戦争が勃発。
1692年アウグスティノ修道会のマルガレーテ教会のオルガニストになります。
1694年かつての教え子ヨハン クリストフ バッハが結婚し、披露宴に作曲して参加しています。
ここでたぶん9歳のヨハン セバスチャン バッハと会っています。

1695年故郷のニュルンベルクに呼び戻されます。
市から日当が出たそうです。
ここで何曲か作曲しています。
1707年ここで亡くなります。

カノンは「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグニ長調」
として作曲されました。
ベルリン美術館に写本が残っています。

ほとんどの彼の作品が演奏されなくなりました。
1968年パイヤール管弦楽団が「カノン」を再発見、録音すると人気が出て、様々な編曲で演奏されるようになりました。
その際ジーグは省かれました。




モーツァルト謎のアイネ クライネ ナハトムジーク

2022-04-11 15:37:05 | 古典
桜も素晴らしいですが雪柳も花盛りです。

美の相乗効果。
どちらが美しいなんて比較する必要も無いのです。

モーツァルトの「アイネ クライネ ナハト ムジーク」
は、日本でもっとも編曲されたりしたのも含めて、演奏されているクラシックだそうです。

1つの小さな夜の音楽と言う意味ですがモーツァルトは楽譜には標題を書き込んでいません。

「音楽の冗談」を書いたあと、5月28日に父親が亡くなり、父親の教えを破りやり過ぎたと思ったモーツァルトは、様式をしっかりと守った音楽「アイネ クライネ ナハト ムジーク」を書いた。という説が長い間支持されてきました。

しかし、モーツァルトは最も多忙で仕事を、掛け持ちしていてそこまで稽えていなかったというのが、最近の説です。
大英博物館に残る記録を見てみましょう。


大英博物館モーツァルト自筆譜面

1787年5月29日から8月10日

プラハでのフィガロの結婚の目覚ましい成功の結果、モーツァルトは1787年1月に妻のコンスタンツェと共にブラハに招待されました。


彼はその機会のために新しい交響曲(プラハ交響曲として知られている)を書き、次のシーズンのために新しいオペラを書くように依頼されました。

ウィーンに戻った後、モーツァルトは財政状況を緩和するために、ラントシュトラーセ郊外のより安い宿泊施設に移動しました。


モーツァルトの父、レオポルドは、彼の子供たちの才能を促進するために多くのことをしましたが、5月28日に亡くなりました。


8月、モーツァルトは彼の最も有名な作品の1つ、アイネクライネナハトムジークを完成させました。彼にはモーツァルトに師事するためにウィーンに来た16歳のベートーベンを含む多くの音楽の生徒がいましたが、ほんの数週間後で去りました。このページのいくつかのエントリは、モーツァルトのさまざまな生徒に関連しています。


1787年5月29日

K521。モーツァルトの弟子の一人であるフランツィスカ・フォン・ジャッキンのために作曲された4つの手のためのCメジャーのピアノソナタを作曲。

彼女はモーツァルトと友好的な関係にあった著名なウィーンの音楽家の一員でした。

1787年6月14日

K522。「音楽の冗談」を意味するEinmusikalischer Spassと呼ばれる六重奏を作曲。

この作品は、おそらくモーツァルトの英語の生徒の一人であるトーマス・アトウッドによる練習に基づいた、無能な作曲と演奏の風刺でした。


1787年6月24日

K524 ピアノ伴奏きの曲、An Chloe(Chloë用)。言葉はヨハン・ゲオルグ・ヤコビによるものです。


1787年8月10日

K525 アイネ・クライネ・ナハトムジーク (「小さな夜の音楽」)と題された弦楽のためのGのセレナーデ。このセレナーデはモーツァルトの最も愛されている作品の1つです。その構成の状況は不明です。カタログには、この作品には元々5つの楽章があったことを示していますが、現在は4つしか知られていません。

さて、本当のところどうなのでしょう?
「アイネ クライネ ナハトムジーク」
「音楽の冗談」
両方並べて見ました。