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ベートーヴェンの年金事情

2024-03-14 21:02:00 | 古典
水曜は次男の検診でした。
レントゲン撮って、順調に回復してるかどうか?
8:00に出たら、20分で着いて…早くつきすぎました。
前回混んでて40分かかったので、早めに行ったら20分で着きました。
レントゲンもサクサク進んで早く終わるか?
9:30診察。
早い!
しかし、「膝蓋骨を押さえているはずの杭(くい)が外れかかっている。」
ので、「これ以上外れたら、取らないといけない」らしい。

取るってまさか「再手術?」
「はい、そうですね。」
「状態見ながらリハビリやってもらって、それから手術するかどうか判断します。」
「それまで頻繁に、1週間に一度位見せてくださいね。」
一度診察室から出され、しばらくしたらまた呼ばれ
「リハビリは90度までにしておくように伝えてださい。超音波あてましょうか?」
「膝蓋骨でそれほど早く治るという報告はないんですが、ここは骨ができやすいところなんで、でもやってみるのもいいかな?どうされますか?」
することにしました。
そして小さな声で
「すみません。」

あれれ!?やっぱり失敗?
レンタル料金3か月5万円…労災申し込み中とサイン書いて放免。

ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

は、生活苦から逃れようとして、ついに誘いのあったカッセル宮廷(ナポレオンの侵攻により1806-1813年の間ウェストファリア王国)
ベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエのヘルクレス
への異動を考え始めます。

ウェストファリア王ジェローム・ボナパルト(ナポレオンの弟)


が彼に「宮廷楽長」として高額(600ドゥカート現3000万円位?)の年金で誘いをかけてきたからです。

ベートーヴェンのカッセル宮廷への転職を思い止まらせたのは、ルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、キンスキー公の3人です。

取りまとめ役はルドルフ大公でした。彼らが拠出した年金総額は3者合計で4000フローリン(5000万円)。

ルドルフ大公はベートーヴェンの終生の友であり、パトロンでした。

1781-1831年神聖ローマ皇帝レオポルト2世の末子。1819年にオロモウツ大司教と枢機卿に選出されました。ベートーヴェンのパトロンおよび弟子として知られています。

ベートーヴェンより18歳若いルドルフ大公に献呈された曲は
『ピアノ・ソナタ第26番(変ホ長調)』(「告別」、Op81a)、
『ピアノ三重奏曲第7番(変ロ長調)』(「大公」、Op97)、『
ミサ・ソレムニス(ニ長調)』(Op123)などです。
ルドルフ大公は1500フローリンの年金を払っていました。

ロプコヴィッツ侯爵もベートーヴェンにとって重要なパトロンでした。

ヨーゼフ・フランツ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ(1772 - 1816年)は、オーストリアのボヘミア系貴族、軍人、芸術愛好家。階級は陸軍少将。侯爵、ザーガン公爵、ラウドニッツ公爵。

彼が契約書にサインしていた額はルドルフ大公の約半額、700フローリン。

ロプコヴィッツ侯爵に献呈された曲は
ベートーヴェン初期の
6つの弦楽四重奏曲(Op18-1~6)、交響曲
『第三番』(「英雄」、Op55)、
『第五番』(「運命」、Op67)、
『第六番』(「田園」、Op68)、
中期の『弦楽四重奏曲第10番(変ホ長調)』(「ハープ」、Op74)、
『ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲(ハ長調)』(Op56)などがあります。

ボヘミア出身の名門貴族フェルディナント・キンスキーは、ベートーヴェンへ最も多額の年金(1800フローリン)を支給していました。

ウィーニッツ・アンド・テッタウ第5王子 フェルディナンド・キンスキー王子(1781-1812年)は、ウィーニッツ・テッタウ(ウィーン ハプスブルク君主国)の第5王子キンスキー王子。

エステルハージ公からの委嘱で作曲された『ミサ曲(ハ長調)』(Op86)は、エステルハージ公の気に入るものとはならず、出版譜はキンスキー公に献呈されています。

ナポレオンのプロイセン・オーストリア侵攻で、激しいインフレが起こり、ウィーンの貴族たちの中には破産する者も現れ始めます。

ロプコヴィッツ侯爵もその1人で1812年にべートーヴェンへの年金支払いができなくなりました。

同じ年、キンスキー公がプラハ郊外で落馬事故で死亡したこともあって、ベートーヴェンの収入は激減します。

そこでベートーヴェンはロプコヴィッツ侯爵を「年金不払い」で訴え、有利な判決を受けました。

3人との契約書には、年金給付に対してベートーヴェンに課せられた義務として、3人の貴族たちの住むウィーン、あるいはオーストリア皇帝の支配地の市に居住すること、

そして仕事や芸術振興の目的で一定期間ウィーンを離れる場合、これら3者に出発の予定を伝え、許可を得ることが必要、と明記されていました。

ベートーヴェンのパトロンたちは、大司教の座に就いた者もいたとはいえ、当時当たり前だった教会音楽への貢献を求めることがありませんでした。

彼ら自身が音楽を趣味とし、音楽の振興に強い関心を持つウィーンやボヘミアの土地貴族でした。

そしてピアノや作曲をベートーヴェンを師として学んでいた生徒でもありました。なので経済的・社会的上下関係としてはパトロンでしたが、芸術分野では師弟関係にありました。

ロブコヴィッツ大公に献呈された
『弦楽四重奏曲第10番(変ホ長調)』(「ハープ」、Op74)
は、1809年に作曲された弦楽四重奏曲です。

第1楽章の随所に現れるピッツィカートの動機から、「ハープ」という愛称を持っています。

大作を書いた後は、作品の規模は縮小し、代わりにロマン的な情緒やのびのびとした感情をたたえる作風へと変化しました。
のびのびと書かれたこの曲はパトロンたちがベートーヴェンに与えた比較的自由な関係によるものだと思われます。



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