goo blog サービス終了のお知らせ 

音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ファーストペンギンで同性愛

2025-02-20 20:52:00 | バロック
夫の買い物。
イワトビペンギン。
実は2匹目。

コウテイペンギンもいます。
他にも小さいペンギンがあちこち…。
なんでやねん!と
かわいいからいいけど。

水曜日午後からヴィオラ金重美代さん、ピアノ坂田恭子さんとカルメン幻想曲の合わせ練習でした。

「もより市で電車待っている間に、安かったから買ってしまったわ。帰りでは絶対無くなると思って!と金重さん。
いいなぁ!
きれい。
練習は真面目にやりましたよ!

ペンギンは、ペンギン目(Sphenisciformes)に属する鳥の総称です。ペンギン科(Spheniscidae)のみが現生しています、

北半球では
ペンギン型キャラクターは、古くは、背が黒色、腹が白色であることから、タキシードまたは燕尾服を着用した紳士になぞらえられることが多かったです。

有機化合物C10H14Oペンギノンは、平面構造式がペンギンに似ていることから名づけられました。


ペンギンは托卵されると同性同士で子給餌を仕合い、卵をかえし子育てを行うことから
同性愛の象徴とされています。

2006年にアメリカで同性愛ペンギンの絵本 And Tango Makes Three が出版され、波紋を呼びました。
この絵本はアメリカのニューヨーク市セントラルパーク動物園に実在した、オス同士のペンギンのカップルを題材にしていまふ。

ペンギンに同性愛行動はほかにも存在しています。

2006年、ノルウェーのオスロ自然史博物館では、世界初の「生物の同性愛」がテーマの展示会が催され、同性愛自体が自然界でも珍しいことではないという事実が研究で確認されています。
同性同士のペアのペンギンは、ドイツの動物園や日本の登別マリンパークニクスなどで存在が確認できます。

ファーストペンギン
集団で餌を求めて海に飛び込む際に、最初に飛び込むペンギンは「ファーストペンギン」と呼ばれます。

転じて「リスクのある新分野に最初に挑戦する人」のことを指します。

17世紀において最も影響力のある作曲家であるアルカンジェロ・コレッリは、枢機卿ピエトロ・オットボーニからの寵愛を受けていたゲイの芸術家の一人でした。

オットポーニが有力者だったため、コレッリはある程度自由にゲイロマンスを楽しむことができていました。

コレッリはカンチェリアという男子音楽学校に滞在していた際に、バイオリニストのマッテオ・フォルナーリと恋愛関係にあったと言われています。
二人の関係は20年にも及んだそうです。

アルカンジェロ コレッリ(1653-1713年)教皇領フジニャーノ生まれ、教皇領ローマ没

若い頃のことは知られていません、
13歳でボローニャに出てきました。
コレッリの経歴が明確になるのは、17歳でアカデミア・フィラルモニカ (1666年に設営された音楽機関)

の会員となってからのことです。
コレッリの家系についてもあまり多くのことは知られていませんが、善にも悪にもつよい個性的な血族であったようです。
コレッリが生まれる20年前、一族のルドルフは町の暴動の首謀者になったかどで処刑されましたが、同じ一族から僧侶、法律家、医学者、詩人などを輩出しています。
彼の実家は裕福だったようですが、後に作曲家の系図に関するいくつかの架空の記述が主張するように、貴族ではなかったことはほぼ間違いありません。

コレッリが生まれる数週間前に父が亡くなっていたため、コレッリは母サンタと彼女の実家で4人の兄弟とともに育てられました。

幼少時はファエンツアの教会で教育を受けたと見られています。

その後ウーゴに渡り、1666年に当時イタリアの器楽音楽発展の最大の拠点であったボローニャに出て、ここでベンヴェヌーティにバイオリン奏法を学び、さらにブルノーニについて音楽家として大成しました。

彼のヴァイオリンの師はジョヴァンニ・バッティスタ・バッサーニ(1657-1716年)という人物であったとされるが、これも伝聞情報の域を出るものではなく、いかなる教育で彼が育ったのかも不明です。

有名な教皇の礼拝堂付き歌手であったマッテオ・シモネッリが彼に作曲を教えました。

コレッリの初期の作品では、みずからフジニャーノ生まれでボローニャの人と呼ばれるアルカンジェロ・コレッリと名乗っていますが、彼が確実にボローニャに滞在したのは1666年(13歳)から1670年(17歳)までの4年間のようです。

コレッリ最初の大きな成功は19歳のときにパリで得たもので、これによって彼はヨーロッパでの評判を得ました。

22歳の歳、1675年に、彼はローマに出てサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会でバイオリン奏者の地位につきました。

1679年、26歳の時に、彼はローマのカプラニカ劇場で友人のパスクィーニの歌劇<義務と愛と慈悲>のオーケストラを指揮しました。

フランスのラゲネは、この時「私はローマでコレッリ、パスクィーニ(1637-1710年)

ガエターニ
の3人が同じオペラで共演するのを聞いたが、この人たちはそれぞれバイオリン、チェンバロ、テオルボにかけては世界の第一人者である。その上、この人たちは1ヶ月か1ヵ月半の間に300から400ピストーラも稼ぐ」と、最大限の賛辞で感想を記しました。

その後、コレッリはパリからドイツへ移ります。
1681年には彼はバイエルン選帝侯のもとで勤めていました。

この前後1680年から1685年の間、彼は多くの時間を友人のクリスティアーノ・ファリネッリ宅で過ごしていました。

この時期が最も脂がのり、1681年の作品1「トリオ・ソナタ集」を皮切りに作品番号を記した代表作を世に放ち、器楽曲の作曲家としての名声を高めていきました。

1685年にはコレッリはローマにいて、そこでスウェーデン女王クリスティーナ

のための祭典での音楽公演を指揮し、またピエトロ・オットボーニ枢機卿(後のローマ教皇アレクサンデル8世)(1610-1691年)

フランチェスコ・トレヴィザーニによるピエトロ・オットボーニ枢機卿の肖像画。イギリス、ダラム州バーナード・キャッスル、ボウズ博物館

の寵臣でした。

1689年から1690年にかけてはモデナに滞在し、モデナ公はコレッリを気前よく遇しました。

1700年にローマで作品5「ヴァイオリン・ソナタ集」を出版すします。
この作品集はヨーロッパ中の宮廷で評判となり、幾たびも再版や再出版が重ねられるベスト・セラーとなりました。

1706年、コレッリはローマのアルカディア・アカデミーの会員に選出されました。
彼はアルコメロ・エリマンテオというアルカディア名を授かりました。
彼は「新しいオルフェウス」、「音楽家の王子」などと呼ばれるようになっていました。
1708年に彼はローマに戻り音楽活動からの引退を宣言し、以後オットボーニ枢機卿の邸宅で暮らしました。同年には、国王の招きでナポリを訪れています。

1713年にコレッリが59歳で亡くなったとき、彼は12万マルクもの大金のほかにブリューゲルやプーサンなど貴重な絵画のコレクション(136枚)とチェンバロ1、バイオリン2、チェロ1、コントラバス1を有していましたが、これが彼の享受した唯一の贅沢でした。

彼は自分の後援者と召使、友人に遺産を譲りましたが、友人は気前よくもその財産をコレッリの親類に返還しました。
コレッリはローマのパンテオンに埋葬されました。

その影響はヴァイオリンにおいてはコレッリの方法を基本奏法とし、指揮法、作曲はヨハン セバスチャン バッハ、ヘンデル、テレマン、ヴィヴァルディ、クープラン、トレッリ、ジェミニーニ、マルチェッロなとま他多数の作曲家にモデルとされました。

ヴァイオリン協奏曲op6No.8で