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ショパンの療養

2022-07-04 21:12:47 | ロマン派
土曜に買物に出かけた時に通った、いつもの踏切。
この日はいいお天気でした。
以来今度は雨ばかり。
台風4号はアイレー…嵐と言う意味だそうです。

フレデリック・フランソワ・ショパン(1810-1849年)ワルシャワ公国ジェラゾヴァ・ヴォラ生まれ、フランス共和国パリ没

の作曲した前奏曲op28の第15番は、「雨だれ」と呼ばれています。
1839年マジョルカ島で完成しました。
ジョルジュ サンド(1804-1876年)本名はアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパンAmandine-Aurore-Lucile Dupin)、デュドヴァン男爵夫人Baronne Dudevant)という。
フランス共和国パリ生まれ。
軍人貴族と庶民の母とのこども。

フェミニストで、作家。前夫との二人の子どもを持つ母親で、男装をしていたこともあります。

ショパンは、1836年、ポーランド貴族の娘で16歳のマリア ヴォジンツカとの結婚を望んでいましたが、病気(おそらく肺結核)のことがあり、婚約を破棄されます。

マリアからもらった薔薇の花と手紙をひとまとめにして「我が悲しみ」と書いたり、ピアノ曲「別れのワルツ」
練習曲集op25の第2曲を「マリアの肖像」と名付け、他にも歌曲を7曲送っています。

1836年、サンドに出会った頃は「不快な女」男装をしていたことを評しています。

しかし、サンドは現在の相手をショパンのために捨てるべきか?と共通の友人への手紙の中で相談したりし、1838年には、つきあっていることが公然の秘密になっていました。

1838年11月マジョルカ島へショパンと、サンドの息子モーリス(15歳)とソランジュ(10歳)と、病気の療養も兼ねて行きます。

ところが、寒く、天候が悪い上に、はじめに入った宿は結核が理由で追い出されます。
宿が見つからず修道院の軒先を借りると言う始末。

ショパンのピアノはフランス政府によって税関で止められ2ヶ月も使えず、ガタガタのピアノを高い金額で借りて使わなければなりませんでした。
1月5日になって、高い通関料をサンドが払ってようやくピアノが手元にきました。

そこで、「前奏曲集」の数曲、バラード、スケルツォ、ソナタなどの改訂や作曲を行いました。

しかし、悪天候はおさまらずショパンの健康のために、2月13日マジョルカ島を去ります。

ピアノはその時にフランス人夫婦に売り払われました。

「雨だれ」の作曲の経緯はサンドがショパンの死後「我が生涯の物語」に書きましたが、ここに出でくるのがその「雨だれ」かどうかは判然としていません。

その日、身体の調子がよかったショパンを残して、モーリスと私は逗留生活に必要な買い物をするためにパルマに出かけたのです。

豪雨になり、川が氾濫して豪雨のなか、3リュー(12キロ)の道を6時間かかって帰りました。途中で御者に置き去りにされ、いままで聞いたことがないような危険をやっとくぐり抜け、夜遅くになって裸足で帰宅したのです。


 私たちは病人が心配するのを思って、道を急ぎました。ショパンは一種の静かな絶望に陥っていた様子で、涙を流しながら素晴らしいプレリュードを弾いていました。


私たちが入ってくるのを見ると大きな声を出して立ち上がり、取り乱した奇妙な調子で言いました。ああ、きっと死んでしまったと思ったよ!

正気に戻って私たちの様子を知ると、私たちが出遭った危険を思い描いてすっかり気分を悪くしました。あとで打ち明けたところでは帰りを待っている間、私たちが危険に遭っている光景を夢想し、現実との区別がつかなくなって、ピアノを弾いてなんとか気を落ち着け、まどろみながら自分もまた死んでいるのだと言い聞かせていたと言うのです。ショパン湖で溺れている自分の幻影を見たといいます。重い凍りついたような水滴が、規則正しいリズムを刻んで胸の上に落ちていたのです。

実際に屋根の上に規則的な間隔で落ちている雨音に注意を促すと、自分が耳にしたのはこれではないと言いました。私が模範的和音と表現した時は気を悪くして、精一杯抗議しました。ショパンの天才は自然の神秘的な和音に満ちていますが、その和音は崇高さのうちに楽想に置きかえられたもので、外界の音の創意なき模倣ではないのです。

その夜のショパンの作品は、僧院の屋根に音を立てて落ちた雨だれだったとしても、その雨のしずくはショパンのイメージと音楽のなかでは天から彼の胸に落ちる涙に変わっていたのです。