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→音楽の喜び フルートとともに
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6月22日(日)フルートアンサンブル「エスカル」の第20回発表コンサートでした。
ピアニストは安達萌さん。
大合奏曲はドボルザークの「セレナーデ第一楽章」と「煙が目に染みる」でした。
パリからお帰りの榎田雅祥先生。
なんだか少しお顔が丸くなられたような。
お嬢様のヴェルサイユ宮殿でのバロックオペラ「プロセルピナ」を鑑賞されて帰国。
「いかがでしたか?」と聴くと「めっちゃくちゃよかったよ〜!」とニコニコ笑顔で応えられました。
そして今回はこのTシャツ!
カメラを向けるとドラえもんと同じポーズをとってくださいます。

このTシャツとってもお気に入りです。
さて、ドキドキの本番は、11番目。
フルートを持って自分の名前と曲目を言って、始めようとすると客席のメンバーが、何かゴソゴソしています。
「え?」と近づくと「…。」聞こえない、
「何ですか?」ともっと近づくとか「楽器!楽器が違うよ。」
えっ、軽い!色も違う。
「失礼しました。」
笑い声が…。
机に並べて置いてあったので人の楽器と間違えて持ってきてしまったのでした。
「失礼しました。」と頭を下げたらくすくすと笑われたので
「すみません。いつもこんな感じなんです。」と言うと爆笑されました。
曲目は「フランチェスカ ダ リミニ幻想曲」
このことでリラックスできたのか、案外曲の方は大きなミスなく吹けました。
他のみんなの曲はフルートとパイプオルガン、コントラバスや、ピッコロ二重奏、フルートトリオ、フルートカルテットなど、フルートな一日。
最後の締めはやはり榎田先生。
ライヒャルトの「ファンタジー メランコリック」なんとモイーズ編曲版ではなくブラジルの友人から取り寄せたライヒャルト原典版。
リハーサルの時、「あれ?違う」と言う点が数カ所あったのですが
榎田先生の説明で氷塊しました。
「最近74歳になってやっぱり基礎に帰らないとな。と思いまして、ライヒャルトの7つのエチュードをやって、やっぱりこの曲と思って、取り寄せました。」
モイーズ版も超絶技巧でしたが、さらにライヒャルト原典版すごいです。
さらに難易度が上がり、モイーズ版にはなかった別バージョンの変奏も最後についています。
これをさらさら吹く74歳って!!
しかし、発表会も終わって、打上の呑み会で「前代未聞!」「大物!」「楽器間違えるなんて信じられへんわ!」「色違うよね〜!」…と1番のエピソードは先生ではなくて私でした。
エッヘン👍…ごめんなさい🙏😭
間違いなく、表の1番はライヒャルト原典版「ファンタジーメランコリック」
しかしこれは、本邦初公開なので動画ありません。
アントニーン・レイハ(Antonín Rejcha 1770- 1836年)ボヘミア王国 プラハ生まれ、フランスパリ没

フランス及びドイツでの活動が長かったことから、フランス名アントワーヌ・ライシャ(またはレイシャ、レシャ、Antoine Reicha)、ドイツ名アントン・ライヒャ(Anton Reicha)でも知られています。
ライヒャはベートーヴェン (1770-1827) と同年生まれで、彼と同じケルンの選帝侯楽団 (Fl) で活躍し、後にパリ音楽院の作曲教授として名声を得、古典派様式の管楽室内楽に優れた作品を残しました。
1770年プラハ生まれ。
1780年10歳のときに孤児となり、ドイツでチェロ奏者で作曲家でもあった叔父ヨーゼフ・ライヒャに引き取られ、ニュルンベルク近郊に移ります。
1785年、レイハはケルン選帝侯マクシミリアンの宮廷楽団のフルート奏者としてボンに移ります。
同じ楽団でヴィオラ奏者だったベートーヴェンと知り合ったのは、このときです。同年、叔父ヨーゼフが指揮するケルン歌劇場管弦楽団に加わります。
このころにはドイツ語だけでなくフランス語も習得していました。
1789年、ベートーヴェンとともにボン大学に入学。しかし、フランス革命軍によってボンが占領され、

『バスティーユ襲撃』
Jean-Pierre Louis Laurent Houel 画 宮廷楽団は解体されたためにハンブルクに移り、ピアノ及び作曲の教師となります。
1801年、ウイーンに移り、ベートーヴェンと再会。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn, 1732- 1809年)

に師事、マンハイム楽派(18世紀のドイツ南西部マンハイムに宮廷を置いたプファルツ選帝侯カール4世フィリップ・テオドール(1724年 - 1799年)の宮廷楽団を中心に活躍した作曲家達を指します。宮廷楽長のヨハン・シュターミッツ(1717年-1757年)が創立者とされています。)やグルック、モーツァルトなどの影響を受けます。
1808年、パリに移ります。このとき38歳。
1817年、パリ音楽院の作曲科の教授になりました。

1829年、フランスに帰化。
1835年、学士院の会員に選ばれます。
1836年、パリで没。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。
ライヒャの『高等作曲教程 Traité de haute composition musicale』(1818年)

は、カール・チェルニー(1791-1857年)

が1835年ごろにドイツ語翻訳し、各国で広く用いられ、作曲理論家としても名声を獲得しています。
レイハの著作は20世紀初頭まで多くの音楽学校で教材として用いられました。
著作では、レイハは多調、四分音など20世紀の音楽を先取りする作風さえ提唱していますが当時は評価されず、21世紀にようやく再評価が進みました。一方、レイハ自身は評価については無頓着でした。
フルートカルテット「シンフォニコ」
第1楽章 Allegro ニ長調 4/4拍子
第2楽章 Andante ト長調 6/8拍子
第3楽章 メヌエット
Allegro vivace ト長調 3/4拍子 (トリオはニ長調 2/4拍子)
第4楽章 フィナーレ
Allegro vivace ニ長調 2/4拍子
なお、副題の「シンフォニコ」が作曲者自身によってつけられたものかどうかは、はっきりしていません。