goo blog サービス終了のお知らせ 

音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

フルートの祭典

2025-06-23 21:00:00 | ロマン派
はてなブログでも公開しています。全面引越しはまだ😉💦
→音楽の喜び フルートとともに
https://m-fluteangel16.hatenablog.com/
6月22日(日)フルートアンサンブル「エスカル」の第20回発表コンサートでした。
ピアニストは安達萌さん。

大合奏曲はドボルザークの「セレナーデ第一楽章」と「煙が目に染みる」でした。

パリからお帰りの榎田雅祥先生。
なんだか少しお顔が丸くなられたような。
お嬢様のヴェルサイユ宮殿でのバロックオペラ「プロセルピナ」を鑑賞されて帰国。
「いかがでしたか?」と聴くと「めっちゃくちゃよかったよ〜!」とニコニコ笑顔で応えられました。

そして今回はこのTシャツ!
カメラを向けるとドラえもんと同じポーズをとってくださいます。

このTシャツとってもお気に入りです。

さて、ドキドキの本番は、11番目。
フルートを持って自分の名前と曲目を言って、始めようとすると客席のメンバーが、何かゴソゴソしています。
「え?」と近づくと「…。」聞こえない、
「何ですか?」ともっと近づくとか「楽器!楽器が違うよ。」
えっ、軽い!色も違う。
「失礼しました。」
笑い声が…。
机に並べて置いてあったので人の楽器と間違えて持ってきてしまったのでした。

「失礼しました。」と頭を下げたらくすくすと笑われたので
「すみません。いつもこんな感じなんです。」と言うと爆笑されました。

曲目は「フランチェスカ ダ リミニ幻想曲」
このことでリラックスできたのか、案外曲の方は大きなミスなく吹けました。

他のみんなの曲はフルートとパイプオルガン、コントラバスや、ピッコロ二重奏、フルートトリオ、フルートカルテットなど、フルートな一日。
最後の締めはやはり榎田先生。
ライヒャルトの「ファンタジー メランコリック」なんとモイーズ編曲版ではなくブラジルの友人から取り寄せたライヒャルト原典版。  

リハーサルの時、「あれ?違う」と言う点が数カ所あったのですが
榎田先生の説明で氷塊しました。
「最近74歳になってやっぱり基礎に帰らないとな。と思いまして、ライヒャルトの7つのエチュードをやって、やっぱりこの曲と思って、取り寄せました。」

モイーズ版も超絶技巧でしたが、さらにライヒャルト原典版すごいです。
さらに難易度が上がり、モイーズ版にはなかった別バージョンの変奏も最後についています。
これをさらさら吹く74歳って!!

しかし、発表会も終わって、打上の呑み会で「前代未聞!」「大物!」「楽器間違えるなんて信じられへんわ!」「色違うよね〜!」…と1番のエピソードは先生ではなくて私でした。
エッヘン👍…ごめんなさい🙏😭

間違いなく、表の1番はライヒャルト原典版「ファンタジーメランコリック」  

しかしこれは、本邦初公開なので動画ありません。 

アントニーン・レイハ(Antonín Rejcha 1770- 1836年)ボヘミア王国 プラハ生まれ、フランスパリ没

フランス及びドイツでの活動が長かったことから、フランス名アントワーヌ・ライシャ(またはレイシャ、レシャ、Antoine Reicha)、ドイツ名アントン・ライヒャ(Anton Reicha)でも知られています。

ライヒャはベートーヴェン (1770-1827) と同年生まれで、彼と同じケルンの選帝侯楽団 (Fl) で活躍し、後にパリ音楽院の作曲教授として名声を得、古典派様式の管楽室内楽に優れた作品を残しました。  

1770年プラハ生まれ。
1780年10歳のときに孤児となり、ドイツでチェロ奏者で作曲家でもあった叔父ヨーゼフ・ライヒャに引き取られ、ニュルンベルク近郊に移ります。

1785年、レイハはケルン選帝侯マクシミリアンの宮廷楽団のフルート奏者としてボンに移ります。
同じ楽団でヴィオラ奏者だったベートーヴェンと知り合ったのは、このときです。同年、叔父ヨーゼフが指揮するケルン歌劇場管弦楽団に加わります。

このころにはドイツ語だけでなくフランス語も習得していました。

1789年、ベートーヴェンとともにボン大学に入学。しかし、フランス革命軍によってボンが占領され、 

『バスティーユ襲撃』
Jean-Pierre Louis Laurent Houel 画  宮廷楽団は解体されたためにハンブルクに移り、ピアノ及び作曲の教師となります。   
            
1801年、ウイーンに移り、ベートーヴェンと再会。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn, 1732- 1809年)

に師事、マンハイム楽派(18世紀のドイツ南西部マンハイムに宮廷を置いたプファルツ選帝侯カール4世フィリップ・テオドール(1724年 - 1799年)の宮廷楽団を中心に活躍した作曲家達を指します。宮廷楽長のヨハン・シュターミッツ(1717年-1757年)が創立者とされています。)やグルック、モーツァルトなどの影響を受けます。

1808年、パリに移ります。このとき38歳。
1817年、パリ音楽院の作曲科の教授になりました。

1829年、フランスに帰化。
1835年、学士院の会員に選ばれます。
1836年、パリで没。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。

ライヒャの『高等作曲教程 Traité de haute composition musicale』(1818年)



は、カール・チェルニー(1791-1857年)

が1835年ごろにドイツ語翻訳し、各国で広く用いられ、作曲理論家としても名声を獲得しています。

レイハの著作は20世紀初頭まで多くの音楽学校で教材として用いられました。

著作では、レイハは多調、四分音など20世紀の音楽を先取りする作風さえ提唱していますが当時は評価されず、21世紀にようやく再評価が進みました。一方、レイハ自身は評価については無頓着でした。 

フルートカルテット「シンフォニコ」
第1楽章 Allegro ニ長調 4/4拍子
第2楽章 Andante ト長調 6/8拍子
第3楽章 メヌエット
Allegro vivace ト長調 3/4拍子 (トリオはニ長調 2/4拍子)

第4楽章 フィナーレ 
Allegro vivace ニ長調 2/4拍子

なお、副題の「シンフォニコ」が作曲者自身によってつけられたものかどうかは、はっきりしていません。 



リヒテンシュタイン失われた王国の作曲家

2025-06-16 21:01:00 | ロマン派
はてなブログでも公開しています。全面引越しはまだ😉💦
→音楽の喜び フルートとともに
https://m-fluteangel16.hatenablog.com/
日曜日は大国町の大阪ミュージック倶楽部で全楽章コンサートでした。

ヴァイオリンやヴィオラ、チェロ、フルート、クラリネット、木管五重奏など7組の演奏。

私はフルートで、クーラウの 協奏的大三重奏曲 ト長調 O.119をフルート 角谷雅一さん とピアノの神澤美穂子 さんと一緒に出演しました。

フランクのヴァイオリンソナタや、ゴーベール フルート・ソナタ、モーツァルト 二重奏曲 変ロ長調 K424などなど大曲揃い。

充実のプログラムでした。
写真はラインベルガー 管楽六重奏曲 ヘ長調 Op. 191b。
これがホルンとファゴットがメロディーを朗々と歌う感じで森の中にいるような素敵な演奏でした。


ヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガー(Josef Gabriel Rheinberger、1839-1901年)リヒテンシュタイン ファドゥーツ生まれ、ドイツ帝国ミュンヘン没。

作曲家、オルガン奏者、指揮者、教育者。
5歳より音楽教育を受け、7歳でファドゥーツ・聖フローリン教会


のオルガン奏者となります。
この頃最初の作曲を行いました。

1851年にミュンヘン音楽院に入学。

専攻はピアノ(Emil Leonhardに師事)と音楽理論(Julius Josef Maierに師事)。また他にJohann Georg Herzogにオルガン奏法を師事。

3年間の音楽院のコースを終了した後フランツ・ラハナー
に個人指導を受けます。
1859年にはミュンヘン音楽院でピアノ演奏の教師に就任。
また楽譜出版のペータースより初めての作品出版も行います(『4つのピアノ曲 op. 1』)。

翌年作曲、和声、対位法、音楽史の教授に就任。
1863年聖ミハエル教会のオルガニストに就任(~1867年まで)。

1864年ミュンヘン・オラトリオ協会の指揮者に就任(~77年まで)。

王立歌劇場のコレペティートルも勤めます(~67年まで)。 

1867年4月に女流詩人のフランチスカ(ファニー)・フォン・ホッフナース(1831-1892年)

と結婚。

秋にミュンヘン音楽院が再建されるとオルガンと作曲の教授となり、終生その地位にありました。
音楽教師として非常に優秀だったため、ヨーロッパ及びアメリカから彼を慕って生徒が集まりました。
多くの教え子を世に送りだしました。
リヒャルト・シュトラウスはいくつかの作品のタクトを振りました。また、マックス・ブルッフとは共にとある作曲コンクールの審査員となったことをきっかけにして手紙による交流がありました。

1877年にバイエルン王・ルートヴィッヒ2世(1845-1886年)


によってフランツ・ヴュルナーの後任として宮廷楽長に任ぜられます(~94年まで)。

1878年、『ミサ曲 変ホ長調 op. 109 (Cantus Missae)』をローマ教皇レオ13世に献呈し、聖グレゴリーの騎士に叙せられます。他、1887年ベルリン王立芸術アカデミーの名誉賞を受賞。

1895年バイエルン王室より大十字勲章を授けられ一代貴族に列せられます。

1899年ミュンヘン大学哲学部より名誉哲学博士号の授与、など生前は高い地位と名誉を収めました。 

フランチスカとラインベルガー

1892年妻フランチスカの死去以後は孤独な人生を送りましたが、創作意欲は衰えず、彼自身が亡くなる年まで作曲・出版が続きました。

生存中の最後の出版は『オルガンソナタ第20番 ヘ長調 op. 196 "平和の祭典へ"』。最後の作品『ミサ曲 イ短調 op. 197』はクレドの途中で絶筆となりました。
生前は絶大な人気を誇った作曲家でしたが、死後その作品は急速に忘れられていきました。

作曲家としてはオルガン曲が有名で、20あるオルガンソナタは彼の代表作です。

そのほか宗教曲、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲にも多くの作品を残しています。 合唱曲では、3つの宗教的な歌 op. 69の第3曲Abendlied(夕べの歌)が小品ながら知られています。また九重奏曲 op. 139(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)は比較的演奏頻度が高いです。

日本ではラインベルガー存命中から、彼の初期作品であるピアノのための「バラード ト短調 op. 7-1」が知られており、1897年(明治29年)と1898年(明治30年)には、東京音楽学校に在学中の瀧廉太郎がこの曲を演奏した記録があり、自筆の写譜(2部)も残っています。しかし現代では「九重奏曲」以外の作品が日本で演奏される機会は少ないです。  

管楽六重奏曲 ヘ長調 Op. 191bラインベルガーは
ピアノ三重奏曲を合計4曲出版し、4番をピアノ6重奏曲として編曲しました。これが現在よく演奏されるピアノ六重奏曲 ヘ長調 Op. 191bです。

ラインベルガー作曲 管楽六重奏曲 ヘ長調 Op. 191b


「嵐」チャイコフスキー

2025-06-11 20:55:00 | ロマン派
第2火曜日の午前中は子育てサロン「ぽっぽくらぶ」でした。
火曜日は大雨と聴いていたので、みんなと相談して、朝7:00のニュースで警報が出たら中止とインスタにあげていました。

朝のニュースでは雷注意報のみということで、いろいろ準備して待っていました。
しかし10:00頃から大雨。
警報こそでませんが、小さなこどもは無理よね。って感じで結局10:30まで待って、片付けて、次回の予定、講習会の相談をして解散しました。


お天気には勝てないなぁ〜!
でもかつて一度、まだ警報時の相談をしていなかった頃、暴風雨警報の中、SNSも普及していず、お知らせする方法も無い。

言ってないから仕方ない!と開けたら来てくれた母子がいました。

驚きましたが必要とされているのだなぁと実感しました。

私も男の子2人。
雨の中、どこにも行けず家で頭から湯気立てて遊んでいるので、どこでもいいから外で遊ばせたい!!と思った経験があります。

現在は子育てサロンは警報(暴風、大雨、雷などすべて)が出たら中止です。雨天決行。

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(露: Пётр Ильич Чайковский 英Peter Ilyich Tchaikovsky、1840 - 1893年)

幻想序曲『テンペスト』(露: Буря(嵐))作品18は、演奏会用序曲。シェイクスピアの戯曲『テンペスト』

ジョージ・ロムニー画のシェイクスピア戯曲「テンペスト」第1幕第1場。
に基づいて作曲されました。一部では幻想曲と呼ばれることもあります。

チャイコフスキーは文学にも造詣が深く、文学作品に題材を求めた曲も幾つか残しています。

特にシェイクスピアはチャイコフスキーが非常に敬愛した作家の一人で、幻想序曲『ロメオとジュリエット』につづいてシェイクスピアに題材を得たチャイコフスキーの管弦楽作品の第2作となったこの曲は、1873年8月から10月にかけて作曲されました。


同年の2月に交響曲第2番がモスクワで初演され、ロシア5人組から高い好評を得ます。チャイコフスキーに作曲を勧めたのは、5人組の理論的指導者であった評論家のスターソフ

作曲を勧めたウラディーミル・スターソフ《1873年画》
で、彼はシェイクスピアのほかウォルター・スコットやゴーゴリの作品も候補を挙げました。しかしチャイコフスキーは『テンペスト』の物語に惹かれ、前作『ロメオとジュリエット』に続いてシェイクスピアを選び、3部から成る幻想序曲を書き上げました。

初演は1873年12月19日にモスクワで、ニコライ・ルビンシテイン(1835-1881年)



の指揮によって行なわれ、交響曲第2番に劣らぬ好評を持って迎えられました。

ただ、チャイコフスキーは当初「私の最も輝かしい作品の一つ」と語りましたが、後になるとこの曲に幻滅を感じていたと伝えられています。

しかし、フォン・メック夫人が後年チャイコフスキーを援助したのは、この初演を聴いて感激したのがきっかけだったというエピソードは知られており、また色彩的な響きと抒情的な美しい旋律はリムスキー・コルサコフらも高く評価しています。

曲は、フルートやホルンなどがヘ短調の主和音を奏して始まり、弦と金管によって海が描写され、やがて激しい嵐となります。

シェイクスピアのプロスペローとエアリエル
(画)ウィリアム・ハミルトン

プロスペロー公爵が魔法で嵐を起こして、宿敵の息子ファーディナンドの船を難破させます。

嵐が次第に収まると、チェロが「愛の動機」を奏してプロスペローの娘ミランダとファーディナンドの愛を描き、

シェイクスピアのファーディナンドとミランダ(第5幕)
(画)Edward Reginald Frampton
再び海の描写が戻って、最後は海の静けさを広々と描いて幕をを閉じます。


プッチーニの「菊」

2025-06-02 21:01:00 | ロマン派
うちの庭のアゲラタム今年植えましたが、長いこと元気です。

ラテン語の
a否定 geras古くなる
古くならないと言う意味。

花期が長く、鮮やかな色を保つのでアゲラタムと言う名前がついたそうです。

メキシコ原産、キク科、和名はオオカッコウアザミ。
アザミの一種です。

ヨーロッパへは1789年に中国からキクがもたらされました。

が、人気は出ることなく数十年経過します。
1860年に幕末の日本を訪れたイギリス人のロバート・フォーチュンが、翌1861年に様々な品種をイギリス本国に送ったことで、流行に火が付きました。

以後イギリスを中心に、ヨーロッパ各地でも菊の育種が盛んになりました。

特にイギリスでは、最後のフローリスツ・フラワーの一つとなりました。

その後、西ヨーロッパでは切り花用や修景用など、生産園芸分野での育種が進み、スプレーギクなどが生まれています。


ジャコモ・プッチーニ(1858 - 1924年)トスカーナ大公国ルッカ生まれ、ベルギー ブリュッセル没



弦楽四重奏曲「菊(クリサンテミ)」SC 65は、1890年にイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の息子であったスペインの故アメデーオ1世
へのオマージュとして書いた弦楽四重奏のための器楽前奏曲です。

プッチーニは1884年に『ヴィッリ』、1890年にオペラ『エドガー』を作曲していました。
が、このオペラは成功しませんでした(プッチーニは1905年のブエノスアイレスでの最後の上演まで何度も改訂し、最終的にこの作品は修復不可能だと宣言しました)。

『エドガー』の初演が失敗に終わった数か月後、プッチーニは『マノン・レスコー』の執筆に取りかかりました。

1890年、44歳の若さでアマデオ1世


が肺疾患で突然この世を去りました。
アマデオ1世の死に深く心を痛めたプッチーニは、突然のインスピレーションで、たった一晩でこの作品を書きました。

白い菊(イタリア語でクリサンテミ)は、イタリアでは葬儀や墓にのみ用いられます。ヨーロッパに菊がもたらされた30年でこの風習は根付いたと思われます。

『クリサンテミ』は1890年1月26日に初演されました。上演が成功した後、プッチーニは『マノン・レスコー』

マノン・レスコーとその恋人デ・グリュー、ルイジアナの海岸に漂着(1896年)、アルバート・リンチ作
に『クリサンテミ』のテーマを取り入れました。




デンマーク国歌になったオペラ

2025-05-28 21:00:00 | ロマン派
火曜日午後から、フルート角谷雅一さんとピアノのKさんとクーラウのトリオop119をKさん宅で合わせ練習しました。

時間をとるのは2回目。
6月15日に全楽章演奏の会で演奏します。

全部すると20分ほど、長いですが楽しい曲で、体感ではあっという間に終わります。
今回はロマン派なのでキラキラな音で吹きたいのでパウエルゴールドシルバーキーで吹きます。
二人とも巧者なので合わせるのも楽しいです。

フリードリヒ・ダニエル・ルドルフ・クーラウ( Friedrich Daniel Rudolf Kuhlau、1786 - 1832年)
ドイツ ニーダーザクセン州ユルツェン郡、リューネブルク生まれ、デンマーク王国コペンハーゲン没


7歳の時、氷の上で滑って転倒し、右目を失いました。

父、祖父、叔父は軍のオーボエ奏者でした。クーラウは貧しい家庭に生まれましたが、両親はなんとかピアノのレッスン代を払っていました。

1802年にハンブルクに移り、そこで学者CFGシュヴェンケに師事しピアノを学び始めました。

後期古典派から前期ロマン派にかけてのデンマークのピアニスト兼作曲家です。

デンマーク黄金時代の中心人物で、デンマーク国民ロマン主義の真に最初の作品で、絶対王政への秘められた賛辞でもあった『エルフの丘』の音楽によって、デンマーク文化史に不滅の名を残しています。

1804年、クーラウはデビューを果たし、コンサートピアニストとして活動を開始しました。

この頃から、生計を立てるために歌曲や室内楽の作曲を始めました。

クーラウ自身はフルートを演奏しませんでしたが、生涯を通して多くの作品を作曲しました。

1810年、北ドイツの多くの小公国や公爵領を圧倒していたナポレオン軍への徴兵を逃れるため、コペンハーゲンへ亡命しました。

ナポレオン軍の戦い左から右、上から下:アウステルリッツ、ベルリン、フリートラント、アスペルン=エスリンク、モスクワ、ライプツィヒ、パリの戦い

同年、クーラウはピアノとフルートのための最初の作品を出版しました。クーラウは1811年、コペンハーゲンでピアノ教師兼作曲家として生計を立てました。
1812年にはデンマーク宮廷の無給音楽家に任命されました。

1813年にはデンマーク国籍を取得しました。

ジングシュピール『盗賊の城』の成功を受け、1816年には王立劇場で高給取りの声楽教師となりました。

1817年から1820年にかけてのクーラウの作品はあまり注目を集めませんでした。
オペラ『魔竪琴』は台本の賛否両論により失敗に終わりました。

1821年と1825年にクーラウはウィーンを訪れ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンと親交を深めました。

1820年ベートーヴェン
ベートーヴェンの影響は、クーラウの後期の作品、例えばジングシュピール(ドイツ語圏の音楽劇現代のオペラ)『エルフの丘』に顕著に表れています。 

この作品はデンマーク王室への賛辞として広​​く知られており、デンマーク黄金時代(19世紀前半)を代表する作品です。
1828年、クーラウは名誉教授の称号を授与されました。

『エルフの丘』( Elverhøj)は、ヨハン・ルートヴィヒ・ハイベルグ(1791 - 1860年)デンマークの詩人

による喜劇で、序曲と付随音楽はフリードリヒ・クーラウ(作品100)が担当し、デンマーク初の国民劇とされています。 

『エルフの丘』は、
フレゼリク6世(1768 - 1839年)

が娘のヴィルヘルミーネ・マリー(1808-1891年)

とフレゼリク・カール・クリスチャン(後のフレゼリク7世)(1808- 1863年)

の結婚式のために委嘱し、結婚式の5日後の1828年11月6日に初演されました。


初演以来、この劇はデンマーク王立劇場


で1,000回以上上演されています。

この作品は、エルフの王に関する民間伝承を題材とした2つの伝統的なバラード曲の歌詞と旋律を組み合わせたものです。

ハイベルクは、エルフの王の伝説をステヴンス(デンマーク南部シェラン島南東岸のシェラン地方)に当てはめました。

これに、入れ替わった子供たちというモチーフが加えられました。クリスチャン4世(1577年4月12日 - 1648年2月28日)



は、謎を解き明かす探偵のような役割を担っています。

使用された 2 つのバラードは、「Jeg lagde mit hoved til Elverhøj (私はエルフの丘に頭を横たえた)」で始まるElvehøj ( DgF 46B) と、
「Herr Oluf han riding saa vide」(Oluf 卿は遠くまで乗りました) で始まる Elveskud (DgF 47B) でした。

これらのバラードはUdvalgteに登場していました。 Danske Viser fra Middelalderen ( 1812)。

この作品には、デンマーク国歌となった「 Kong Christian stod ved højen mast(邦題:クリスチャンの背骨は高く聳え立つ)」が含まれています。
この曲は、ヨハネス・エーヴァルトが全く別の劇のために書いた歌詞に、既に歌われていた旋律をクーラウが編曲したものです。

しかし、「エルフの丘」は、この国歌のロマンチックな人気に大きく貢献したと考えられています。
「エルフの丘」序曲


他人の楽しみを楽しみましょう。チャイコフスキー

2025-05-26 21:01:00 | ロマン派
土曜日の夜。
懸案の子育てサロンの交流会のための製作試作。
革細工をしようかな?と思っています。

簡単で安く1人300円くらいで収めたい。
型紙を切って今回は一部ボンドを使って使えるか試してみます。


穴を開ける道具はサイズ違い2本セットで100円で売ってました。

ダイソーのねじ式カシメを使ってみます。

手でつけられるスナップボタンをつけて出来上がり。
ボンドは使えるけれど、くっつくのに時間がかかる。速いのですが、講習会の時間内にできるかな?

それからハトメ。

工具はいるけれど1つなら共用してもらえば使えるかも。

キーホルダー化完了。
日曜日も雨。
梅雨入りは沖縄だけだそうですが、梅雨を思わせるお天気です。
雨をぶっ飛ばすスカッとする曲と言えば、チャイコフスキーの交響曲第4番第4楽章。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky、1840-1893年)
ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没
1877年チャイコフスキー、アントニーナ・ミリューコヴァと結婚
交響曲第4番ヘ短調 作品36は、チャイコフスキーが1877年から翌1878年にかけて作曲した交響曲です。

1877年にヴェネツィアを訪れたチャイコフスキーは、当地の風光明媚なスキャヴォーニ河岸にあるホテル・ロンドラ・パレス(当時はホテル・ボー・リヴァージュ)にてこの曲を書き上げました。

ホテルの壁面には「ロシアの偉大な作曲家、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーが、1877年12月2日から16日まで滞在し、ここで4番目の交響曲を作曲した」と彫られた碑文が掲げられています。

1877年5月ごろ、チャイコフスキーはアントニーナ・イヴァーノヴナ・ミリューコヴァ(Antonina Milyukova, 1849-1917)から告白の手紙を受け取った。何度か手紙が送られ、会ってくれなければ自殺すると脅されたチャイコフスキーは、彼女に愛することはできないと告げます。

しかし、熱烈な求婚を受けたチャイコフスキーは、肉体関係を持たないことを条件にアントニーナと結婚しました。

が、この結婚はうまくいかずにすぐに破綻しました。
結婚生活はわずか80日で終わり、いっしょに暮らしたのは33日だけでした。

交響曲第4番は、作曲された時期のチャイコフスキーの私生活からの影響を明白に示していると考えられています。

アントニーナとの結婚騒動と同時期に、メック夫人がパトロンになったことにより、経済的な余裕が生まれました。

これによってチャイコフスキーは作曲に専念できるようになり、大作を創作する環境が整いました。

この曲は感謝の意を表して、メック夫人に捧げられました。

ナジェジダ・フィラレートヴナ・フォン・メック(1831- 1894年夫の鉄道王カール・フォン・メックが亡くなり莫大な遺産を手にしました。14年、年間6000ルーブル(1,320万円~1,620万円)チャイコフスキーに寄付していました。

なお、メック夫人からの匿名希望を受けて、献辞は「最良の男友達に」とされました。

なお、1878年3月1日づけの手紙の中で、チャイコフスキーはメック夫人にあてて、この交響曲に関する説明を試みています。

「…第4楽章
自分自身の中に喜びの理由が見つからないなら、他の人を見てください。
人々のところへ行ってください。
彼がいかに楽しみ方を知っているか、
喜びの感情に完全に身を委ねているかを見てください。祭りの民衆の陽気さを描いた絵。

あなたはやっと自分自身を忘れて、他人の喜びの光景に夢中になっていたとき、落ち着きのない運命が再び現れ、あなたにそれを思い出させます。

しかし、他の人はあなたのことを気にかけていません。彼らは振り向いてあなたを見ることも、あなたが孤独で悲しいことに気づくこともしませんでした。

ああ、彼らは本当に楽しんでいる!

彼らの感情がすべて自発的でシンプルであることが、どれほど幸せなことか。

自分を責めて、世の中のすべてが悲しいなどと言わないでください。シンプルですが強力な喜びがあります。
他の人の楽​​しみを楽しみましょう。まだ生きることは可能です。…」

初演は1878年2月10日サンクトペテルブルクで、ニコライ・ルビンシテインの指揮により行われました。

初演時にチャイコフスキーはフィレンツェに滞在していて、電報で初演の報告を受けました。

1881年にユルゲンソン社から楽譜が出版されています。

第4楽章
Finale: Allegro con fuoco
ヘ長調、自由なロンド形式。 

全体の構造はA-B-A-C-B-A-C-B-主想旋律(ファンファーレ)-Coda

この楽章の第2副主題(C)はロシア民謡『白樺は野に立てりVo pole bereza stoqla』によります。

チャイコフスキー交響曲第4番第4楽章 指揮ムラヴィンスキー





ビゼーとコマ遊び

2025-05-23 20:42:00 | ロマン派
21日に弘法市で買った鳴り独楽。
インドネシアのジョグジャカルタから買ってきて売っているそうです。
子どもを預かった時に一緒に遊ぼうと思っています。

回すとぼーっと音がします。
「これは回すの難しいから、動画撮っていき。」と回しているところの動画も撮らせてくれました。
子どもは難しいの好きなんですよ。いつまでもトライしてたりして、竹笛も一緒。
いつまでも吹いています。

日本にも同じような独楽があります。

平安中期の『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』、そこには、当時の名前と形について、こう記されています。

―独楽(こま)の和名は≪古末都玖利(こまつくり)≫いい、孔が開いたものである。ー

残念ながら『和名類聚抄』にいう≪古末都久利≫は、その実物も絵図も遺されていませんが、上下を板でふさいだ竹筒に穴を開け、長い心棒を刺しただけの素朴な造形ではなかったかと考えられています。

江戸時代後期、京阪地方の祭礼で売られた竹独楽、また江戸の庶民には「唐独楽」とか「ごんごん独楽」とか呼ばれてで親しまれました。

「唐」と冠されるところには、江戸庶民がこの竹鳴り独楽は大陸から伝わったと認識していたことを表しています。

こま遊び
明治初年の錦絵。こまを回して互いにぶつけ合い、先に回転が止まったほうを負けとする当独楽に興じる子供たちを描いている。こまは平安時代の貴族の手からしだいに民間の子供の遊び道具に移行し、江戸時代に庶民の間に広まった。『子供遊勇当独楽』国立国会図書館所蔵Image 1 of 5


松井源水の曲独楽
刀の刃先の上でこまを回す源水。『職人尽絵詞』 第2軸(部分) 原図は、鍬形蕙斎(北尾政美)画、杏花園(蜀山人)詞書国立国会図書館所蔵
Image 2 of 5

松井源水と家族 曲独楽師


貝独楽
貝独楽は、巻き貝の殻の中に溶かした鉛や砂を入れてつくったもの。茣蓙の上で貝独楽を打ち合わせて勝負する「ばいまわし」も大流行しました。『絵本御伽品鏡』 長谷川光信画 1739年(元文4)刊国立国会図書館所蔵
Image 3 of 5

独楽①〈慕帰絵〉
[初出の実例]「長講堂の大庭に、独楽(コマ)廻して遊びける童の内に」(出典:太平記(14C後)三九)

ヨーロッパ大陸では
独楽、唐独楽は古い歴史を持ちます。ひねりゴマが最も簡単なこまで、これが初めであると考えられています。

エジプトでは紀元前1500年ごろの独楽が発見されていますが、これは木製で円柱の下を逆円錐に削ったもので、ぶちゴマと考えられています。

古代ギリシャにもぶちゴマやひねりゴマに関する記述が見られます。

ぶちゴマは、胴を横から鞭で叩いて回す独楽です。
回し始めの時には先ず紐を巻いてそれを引くことで回すものがあり。これが紐で回す投げゴマの起源と思われます。

ヨーロッパでは17世紀頃から投げゴマに関する記述や絵が見られるようになります。そこで見られる独楽は投げゴマとぶちゴマが半々程度です。

『L’enfant au toton』Jean-Baptiste-Siméon Chardin (1735年)

ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国ブージヴァル没
『子供の遊び』(こどものあそび、Jeux d'enfants)は、ジョルジュ・ビゼーが作曲したピアノ連弾のための曲集、および管弦楽組曲です。
管弦楽版の題名は小組曲『子供の遊び』です

1871年にピアノ連弾のための曲集として作曲されました。
翌1872年、ビゼーは全12曲のうちから5曲を選んで管弦楽のために編曲し、「小組曲」としました。
「小組曲」は1873年の3月2日にパリのオデオン座でエドゥアール・コロンヌの指揮によって初演された。

当初は全10曲の予定でしたが、後に第7曲「シャボン玉(ロンディーノ)」、第8曲「隅取り鬼ごっこ(スケッチ)」が追加された形で、現在の全12曲からなる曲集として出版されました。

ビゼーは、「隅取り鬼ごっこ」を一時は終曲にと考えたことがあり、また、この曲を管弦楽版の終曲にと管弦楽編曲も行ったことがありますが、最終的には同曲を現在の第8番にし、管弦楽版「小組曲」に入れることも見送りました。

編曲に際して曲順も入れ替わって、順に元の第6曲、第3曲、第2曲、第11曲、第12曲となっています。

1.ラッパと太鼓(行進曲) Trompette et Tambour (Marche)
2.お人形(子守歌) La Poupee (Berceuse)
3.こま(即興曲) La Toupie (Impromptu)
4.小さな旦那様、小さな奥様(二重奏) Petit mari, petite femme! (Duo)
5.舞踏会(ギャロップ) Le Bal (Galop)

管弦楽版こま(即興曲) La Toupie (Impromptu)




シュトラウスの薔薇

2025-05-21 21:00:00 | ロマン派
月曜から8月の講習会の製作で頭いっぱい…ですが、火曜日午後は塚口t-raumでハーブのレッスンです。

t-raumは薔薇が花盛りでした。


1ヶ月に一度なので韓国のお土産もお渡ししてませんでした。
ソウルの植物園で買ったしおり。
以前私が買ったしおりを「かわいい」と気に入って下さったのですが、同じものがもう売ってなくてずっと頭に残っていました。

かわいいって感じではないですが、気に入ってしまって、これを見た途端、先生の顔が目に浮かび、買ってしまいました。


レッスンはバッハのメヌエットとヘンデルの「私を泣かせてください」
7月の発表会で弾きますが、目が悪くて105%拡大コピーをしましたが、t-raumの個室の明かりが暗くて指番号が読めない。 

1はわかるけど、2と3の見分けがつかない。
覚えて弾けばいいのですが…。

あちこち事故りまくり。
「ここは2の方がいいですね。」と先生にっこりと笑いながら、レスポンスのいい指使いを考えてくださって大きく書いて下さったのですが、今度は脳の方が追いつかない。
まあ、7月なのでゆっくり練習します。


ヨハン・シュトラウス2世(1825-1899年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没


『南国のバラ』(なんごくのばらRosen aus dem Süden)作品388は、ヨハン・シュトラウス2世が1880年に作曲したメドレー形式のウィンナ・ワルツ。作曲者の「十大ワルツ」のひとつに数えられています。
イタリア国王ウンベルト1世(1844-1900年)


はこのオペレッタを大変気に入り、やがてそのことがヨハン2世の耳にも伝わりました。

ヨハン2世は即座にこのオペレッタに登場するモチーフを編曲し、地中海沿岸に位置する南国イタリアを思わせる『南国のバラ』という題名のワルツにし、これをウンベルト1世に献呈しました。

1880年11月7日に弟エドゥアルト・シュトラウス1世(Eduard Strauß(ss) I., 1835- 1916年)

の指揮するシュトラウス管弦楽団によって、ウィーン楽友協会(1812年に設立された、オーストリア・ウィーンにあるクラシック音楽関係者による団体)において初演されました。



ワルツの主題は、オペレッタ『女王のレースのハンカチーフ』の第1幕「Trüffel-Couplet」("Stets kommt mir wieder in den Sinn")、ハインリヒ・ボーアマンが1879年に作曲した「セルバンテス」という題名の喜劇の草稿によります。

彼はフランツ・フォン・スッペ
のためにその素材を台本にまとめましたが、スッペはその設定を拒絶し、素材はシュトラウスに渡りました。

このワルツのタイトルは、セルバンテスの第二幕のアリア「野バラの咲くところ」に由来しています。
第2幕の三重唱「野ばらが花開くところ」(Wo die wilde Rose erblüht)

やロマンス("Lichter Glanz erfüllt sein Gemüt")(この2曲は同じメロディが使われています)、

第2幕フィナーレの"Hell wie ein Strahl"、
https://youtube.com/watch?v=GSFmp1hV8u8&si=JzawLb_ZljmWNYWV第3幕フィナーレの"Eine Königin liebt dich"
などから取られており、ワルツの題名は第2幕の三重唱に触発されています。

ワルツ「南国の薔薇」


シューベルトとレニャーニ

2025-05-16 20:53:00 | ロマン派
火曜日紙本桜士さんのラジオトークRadiotalkの番組「トクトクトーク」の収録をしました。

人気ゲストは重要無形文化財能楽師の辰巳満次郎さんや、映画監督でピアニストの岡本美沙さん、他にもメディア関係の本を出版されている方とかすごい人が出演されています。

「そんなところに、出てもいいのですか?」と聴くと
「いいんです。フルートやクラッシック音楽の楽しさを僕も伝えたいと思っているので!」
と紙本さんが言われるので、恥を忍んで出演させて頂きました。
もっとりっぱなふさわしい先生方がいらっしゃると思うのですが…。

12分番組で2、3分の音楽を流します。
クラッシックの曲は長い…それに録音あまりしないので。

スマホで会場録音OKのところで撮った最近のものを、YouTubeにあげて、12分32秒から流してください。
みたいなことになっています。

もうちょっといい音でと思うのですが…ごめんなさい。
2本撮りです。

The雑談って感じで、あちこちとんてますが、ぜひお聴きください🙏

シューベルトの「アヴェ・マリア」編
#Radiotalk #トクトクトーク! つながる つなげる Radio https://radiotalk.jp/talk/1308637:embed

レニャーニ「二重奏」編
#Radiotalk #トクトクトーク! つながる つなげる
#Radiotalk #トクトクトーク! つながる つなげる Radio https://radiotalk.jp/talk/1308960



ベーム式と歌口工房TAKAMURA

2025-05-15 20:53:00 | ロマン派
水曜日午後から樟葉でピアノKさん、フルートの角谷雅一さんと久米でトリオの合わせでした。

角谷さんはフルートのコレクターでもあるので毎回おもしろいフルートを持って来られます。
今回は冒頭写真のケース。
K2 COLORADO STATE Collegeのロゴ。

その中には

カール・ハマーシュミッツのフルートということでしたが、私は初めてみました。
どういう工房なのか?調べてみましたが

Karl Hammerschmidt
カール・ハマーシュミット・アンド・サンズ社。

カール・ハマーシュミットは1870年代初頭から木管楽器の製作を始めました。

当初はシェーンバッハで、後にヴァルツケンロイト・バイ・フライセンでカール・ハマーシュミット&ゾーネ社として活動しました。

シュヴァーベンのブルクアウへの移転は1940年代半ば以降と思われます。

1800年代後半にマーチング専用の2オクターブのC管フルートを作っていたこと。
わかったのはこれくらい。

角谷さん、Cキーが破損激しく、ボタンを貼って使っているそうです。

ボタン。
楽器収集する人は、ボタン使うことがセオリーなのかも…私も榎田先生にバスフルートのキーが遠くて届きにくいと訴えたら、「ボタン貼っときなさい。」と言われて貼ってました。

角谷さん「ブサイクだから、もうちょっときれいにする予定だけどね。」だそうです。

カール・ハンマーシュミッツ吹かせてもらいました。

柔らかないい音。 
上のCから下のCまできれいになりました。
ハマーシュミッツはレスポンスが良いことで有名だったそうです。

ただし、現状ではDやCなどキーを押さないといけないところは調整が必要です。
角谷さん、ご自分で調整されるのでこれからが楽しみです。

練習はフレンチバロックの巨匠マラン・マレの組曲Gmoll

この2本で。
パウエルにパウエル木製頭部管と歌口工房TAKAMURA、

日本が誇るTAKAMURA YOSHIOさん作の薩摩黄楊の頭部管とパウエル洋銀で演奏します。

TAKAMURA YOSHIO
1956年、東京に生まれる。

1975年、国立音楽大学に入学。フルートを故、木下芳丸氏に師事する。

1979年、同大卒業後、音楽教室講師等を経て某フルートメーカーに入社。

約15年間組み立て作業に携わった後、歌口課に異動してすべての機種の頭部管製作に従事する。

2013年7月17日、退職し自宅で頭部管製作を始める。

現在自宅の片隅の秘密基地様の仕事場で作業を続けています。
ー歌口工房ホームページより

テオバルト・ベーム(1794-1881年)バイエルン選帝侯領ミュンヘン生まれ、ミュンヘン没

ドイツ人の発明家、音楽家。
従来のフルートの楽器としての性能を向上させました。

「ベーム式フルート」を完成させました。
フルート奏者としても一流で、バイエルン王国の宮廷音楽家として活躍しました。さらに、作曲家としても、フルートのための作品を残しました。

テオバルトは、父から貴金属の加工法を学びましだ。
その技術を応用して木製のフルートを自作し、18歳の時にはオーケストラに入団できる程に上達し、21歳で宮廷管弦楽団の首席奏者となりました。

1831年にロンドンで、チャールズ・ニコルソン(1795年 - 1837年)によるフルート演奏を聴いたことをきっかけにフルートの本格的な改良に着手し、翌年にいわゆる円錐ベーム式フルートを発表しました。

円錐ベーム式フルート(Gisクローズ式)

1832年のフルート大改良の時から、理想に向かって幾多の困難を乗り越え、ついに1847年『フルートの構造とその改良について』の論文を発表し、音響学上、機械工学上、科学的原理に基づいた「理想的なフルート」を完成させることに成功しました。 

その後もフルートの材料として、熱帯産の硬い木材、銀、金、ニッケル、銅など様々な素材を試していきました。
さらにフルートの構造に関して、音孔の大きさや位置に関する検討も行いました。

50歳を過ぎてからミュンヘン大学

大学中央図書館
で音響学を学んだ後、今日のフルートとほぼ変わらない金属製のフルートを開発して1847年に特許を取得し、1851年にはロンドン万博にて一般公開されました。

ロンドン万博1851年

この時に出展されたフルートは1851年のロンドンで開催された、国際博覧会にて最高賞を受賞し、音色、音程、機構の三拍子揃った改良フルートの優秀性が認められました。

1871年にはベーム式フルートの音響学的、技術的、芸術的な側面について解説した
『"Die Flöte und das Flötenspiel"(フルートとフルート奏法)』を出版しました。

彼は作曲家としてフルートのために60曲余りの作品を残しました。

24の練習曲は、ベームが改良フルートのために書いた、中・上級練習曲です。
全調24曲から構成され、『Caprice』と題され、各々に特徴ある音形、要素を駆使した旋律的な練習曲です。

「改良フルート」の機能を十分に発揮でき、また、芸術的に演奏技術を習得できるようにと、1851年から翌年にかけて、作曲されたものと考えられます。
現在でも世界各国で活用されています。

テオバルト・ベーム『24のエチュード』19番 
演奏TAKAMURA YOSHIO
自身製作の木製頭部管で