音楽の喜び フルートとともに

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ギターで有名な作曲家

2024-07-01 21:00:00 | 近代
夙川公民館ホールで西宮ギター練習会のコンサートでした。
曇り時々雨。
朝9:15集合。
枚方からだと7:50出発。
なかなかハードです。

出番は3:15以降ですが、早めに行ってお手伝い。それに岡山さんとの合わせできるかな?と思って。

何せ難曲ボルヌの「カルメン幻想曲」

オペラ「カルメン」の曲をうまく繋いて変奏を加えて金属のフルートがいかにいろんなことができるようになったか?をアピールするための音楽です。

超絶技巧。
でも、おもしろくてワクワクします。
もともとはピアノとフルートの為に作られました。

編曲譜面を見つけて岡山さんに送ったら、演奏しにくいところをさらに編曲して作っておいてくれました。
というのもギターを知らない人が作ったようで、曲の途中でG弦を1音下げるなどと書いてあります。

ギター2本置いておいて、替えるしか無い!
置いておくと調弦も狂うし、あまり良くないということで、初めから1音下げた調弦で初め、最後までそれで演奏するという…音が変わらないフルートという楽器をやっている私にすれば発狂ものの編曲です。
が、岡山さん涼しい顔で弾いてくれました。

ジュリアーニの「協奏的大二重奏曲op85」の方は、川原さんと、長い演奏会の最後に演奏させて頂きました。

第1.2.4楽章ですが、最後の最後になってコロナの咳の虫が…。
必死でこらえてなんとかごまかして吹きました。
最後の10小節やばかった!

がなんとか吹ききって川原さん「なんとか行ったね!」とすぐに声かけてくれました。

いろいろご心配おかけしましたが、まあ成功と言っていいかと思います。

この前買ったドレスも着ました!


今回はポンセの特集もありました。
マヌエル・マリア・ポンセ・クエラル(1882-1943年)メキシコ サカテカ生まれ、メキシコメキシコシティ没

サカテカス州フレスニージョで生まれましたが、生後間もなくアグアスカリエンテスへ移りました。
地方の聖堂で教育を受け、16歳で教会の正オルガニストを務めるなど音楽の才能をあらわし、その後18歳からメキシコシティ国立音楽院で学びました。

1905年に渡欧、ボローニャとベルリンに留学し、リストの弟子のマルティン・クラウゼにピアノを師事しました。

1907年に帰国して、母校で教鞭を執り始めます。 
メキシコ革命の混乱を避けて1915年から1917年までキューバに滞在します。

この間にニューヨークで作曲家・演奏家としてデビューを果たしました。
その後メキシコに戻ってフランス出身の女性歌手と結婚します。

1925年から再び渡欧し、パリ音楽院でポール・デュカに作曲を師事、また同地でギター奏者のアンドレス・セゴビアと親交を結びます。
短期間ナディア・ブーランジェにも師事しています。
1933年に帰国し、メキシコ大学や母校で教鞭を執る一方、ピアニスト、指揮者としても活躍しました。

晩年は腎臓病、リウマチに苦しみました。
1948年、ミゲル・アレマン大統領から「芸術科学国家賞」を音楽家として初めて受賞しましたが、間もなくメキシコシティで尿毒症により死去しました。

翌1949年、メキシコ国立芸術院のホールが "Sala Manuel M. Ponce" と命名されました。メキシコシティのパンテオン・シビル・デ・ドロレスに埋葬されています。

ポンセはヤッシャ・ハイフェッツの編曲でヴァイオリン小品として有名になった歌曲『小さな星(エストレリータ)』(Estrellita)の作者として有名です(詞も彼自身による)。

新古典主義様式でヴァイオリン協奏曲やギター協奏曲『南の協奏曲』(Concierto del Sur, 1941年)などの大作も残しました。

ポンセのオリジナルな器楽曲として有名なのはギター作品で、とりわけ、『「ラ・フォリア」を主題とする変奏曲とフーガ』(1929年)や、シューベルト没後100周年を記念する『ロマンティックなソナタ』(Sonata Romantica, 1927年 - 1929年)、『ギター・ソナタ第3番』(Sonata III, 1927年)、『南国のソナチネ』(Sonatina Meridional, 1939年)は、セゴビアの演奏技巧を考慮して作曲されており、ギター演奏家に人気があります。

ポンセはヨーロッパ仕込みの洗練された作風で知られ、創作の素材としてはスペイン征服後の民謡を多く用いました(ピアノ用に2曲残した『メキシコ狂詩曲』(1911年/1913年)など)。しかし、後年には教育用の『20のやさしい小品集』(1939年)において先住民族の民謡を素材として用いています。また、フランス留学後は新古典主義、多調などを取り入れた先鋭的な作風に転じました。

ソナタ第三番は1927年セゴビアのために書かれました。