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日・月・剣ではなく、日・月・星ではないか?・・1 続☆44   2021-07-11

2023年11月16日 | 続☆歴史の中の「経緯」

汝は、大須佐田、小須佐田を極めて開いて作りなさい。

大須佐田ースサノオ

小須佐田ー饒速日?

極めてー窮めて

********

ここに、ニニギに大須佐田と小須佐田(※意味不明)を極めようと、

臣下の神たちに言依り(※前出)させて、

 

「臼杵の平地、大分の平地を開いて水田を固め、
また直入(※現在の竹田市)の荒野、阿蘇の荒野を開いて畑を固め、
ニニギとその妃たち、御子たち、 八百の(※数多い)臣たちとともに、

豊種津物(※豊かな農作物)を作り出して食を安定させよ。
また、その種で、東の端から西の端まで、賄わせるのだ。」

***********

阿蘇豊国王朝

これが、

阿蘇ー富士高天原王朝が富士の噴火で、阿蘇に王朝を移した。

ここで、

豊国(ウガヤフキアエズ王朝の前?)のヒミコと王朝を打ち立てたと思う。

九州に饒速日降臨があったということなので、

富士高天原王朝(饒速日)ー豊国(ヒミコ)(天照)となったと思われる。

************月讀命は八幡紳に変えられた! - ウガヤフキアエズ王朝実在論 (jimdofree.com)

(2)月讀命に関する記述は、現在ではことごとく抹消されていますが、もともとは強い武将として活躍していたのであり、天照大神と二人三脚で日向の国を開拓した英雄だったのです。
だから、神武天皇が東征したときの旗印も「日(天照大神)」と「月(月弓大神)」をシンボル化したものでした。

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ところが、ここに出雲王朝?が出てくる。

おそらく、

阿蘇王国・豊国王国・出雲王国・邪馬台国?(豊国を邪魔だとするー秦王国?)

と、あったと思うのだけど

阿蘇王国の前の富士高天原王国では、スサダミコが、世界中に行っていた。

阿蘇山=阿蘇大神ースサノオ、と、取りたい。

出雲王朝はー前述(どこだったか・・)のこともあり 饒速日がおさめていた=大国主命

スサノオー饒速日が親子?ならば

むしろ、阿蘇出雲王朝があったと思う。

阿蘇出雲王朝にー豊国が入り 

出雲王朝は独立?子会社?として、??????

*********

ここらを、掘り下げてみようと思うと

まだ、判ってないことが多すぎて、つじつまあわせになり、それがあわないwww

別の方向から、アプローチ。

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三種の神器

日ー八咫鏡

月ー勾玉

剣ー草薙の剣

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天照 日ー八咫鏡ー

ツキヨミ 月ー勾玉

すさのお 剣ー草薙の剣

********

3神からみると矛盾がないが

普通、宇宙(そら)(宇(天)ー神 宙(中))を考えると

月・日・星

では、ないだろうか?

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むしろ、

阿蘇大神ー富士山から移る

大山祇命ースサノオ

なのに、

3神にスサノオを入れたことが、トリック?

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前に

八幡神社はスサノオだった。と、思っていた。

と、書いたことがあるが

秦氏(どこの民族か?)が、

スサノオを担いだとおもう。

(本当のスサノオではない。)

**********

そこで、

天照 日ー鏡ー

ツキヨミ 月ー勾玉

星をさがしてこようと思う。

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ところが・・・

ずいぶん前に調べたときと同じ「浮かび」が出てくる。

ー時津風親方ー

なんで、相撲?と思いつつ、前回は不明だったので、

星ー?ー?

剣ー?ー?

本当は星を意味する剣?

七星剣は、妥当すぎるし、後世のもの。

布都御魂(ふつのみたま)?????と、思う。

フツ主

石上(いそのかみ)神宮(奈良県天理市)の神、布都御魂(ふつのみたま)の神格化。石上の神宝を管理した物部(もののべ)氏は、この剣で天皇の生命を増幅するとともに、この神を奉じて大和(やまと)平定の戦いに加わった。熊野(くまの)上陸後に失神した神武(じんむ)天皇を復活させたのもこの剣で、経津主神が出雲(いずも)をはじめ各地に祀(まつ)られ、また『日本書紀』の諸伝で国譲り交渉の主役となっているのはその一端の反映である。な古事記』は、火神殺害条におけるこの神の出現、および国譲り使者条そのほかすべてにおいて経津主神を排しており、剣神として建御雷神(たけみかづちのかみ)を重用するが、これはのちに建御雷神を氏の守護神とした藤原氏の関与による原伝承の改訂である。

********

ここが、まだ、判っていない。

一説、建御雷神=饒速日

物部と藤原とのうらがはっきりわかっていないので、保留。

********

ー時津風親方ー

風(ふう)からも、風(ふう)津御魂ともおもえるので、

(まったく、根拠なしwww)

このさい、風の神?を調べてくることにした。

おまけに、みかけない神なので、なにか、あるかもしれないwww

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この方は本当によく調べている。

土偶は植物の精霊? - ウガヤフキアエズ王朝実在論 (jimdofree.com)

初代・ウガヤフキアエズの命の時代(推定:紀元前6~8世紀頃)に授かったたという「風を招く壺」で、当時の正式名称は「ヤモモニのツボ(八百埴の壺)」、または「ミカザツボ(御風壺)」です。

この壺は、船で航海する際に、無風状態から脱出するためのおまじないとして使われました。

そして、それを伝えたのが風の神様である「シナヅヒコ」であり、白日の国(福岡県)の女に憑依して、「昔から日向の国の住民に伝わっていた伝説の壺を、いまここに再現したので、ウガヤフキアエズの命が国造りの旅へと出航する際のハナムケとせよ」との御託宣でした。

******風の神から一時、離れますが****

管理人様の記事から。

『ウエツフミ』のなかには、「おそらく土偶や埴輪はこういう風に使われたであろう」という記述や、その根本思想である『四元論』を唱えた天皇の逸話まで残されているからです。

このことから、「おそらく弥生人たちは、縄文人たちの自然に対するスピリチュアル的な感性をそのまま継承して、それに名前を付けて神様として完成させたのではないか?」という結論に至りました。

********

代理も、どこかで、書きましたが

縄文人は自然どころか、神道でいうところの、「直霊」(ひ)と意思疎通できたと考えています。

これを、見た、渡来人(弥生人)は、驚き、もものき、さんしょのき・・であったと思います。

そして、渡来人は、管理人様の言うように、

それに名前を付けて神様として完成させた。

この術にたけたのが、藤原不比等だとすれば、

かなりのところに、真実を書き込んでいるとも思えます。

言葉の後ろに隠す・・・

記紀が、事実か、どうかよりも、

この後ろに隠されているものを探し当てると、

「事実」が浮かび上がるのではないか?

と、思うのです。

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大嶽神社(2)おおたけ・シナツヒコは風の神さま・シナツ星とはスピカ星 : ひもろぎ逍遥 (exblog.jp)

*******

シナツ星はスピカ
ところが、この「シナツ」という言葉が『儺の国の星』には星の名前として出ています。
それによると「シナツ星」とは「スピカ星」を指していました。
これはシナツヒコとは関係ないのでしょうか。
そんな疑問が生まれたので、その部分を意訳してみます。

「シナ」には「中間・中」の意味があって、
「行きしな、もどりしな」と言って、「行く途中、戻る途中」の意味で使う。
乙女座のスピカを若狭の三方では「しんじぼし」と呼ぶことを野尻抱影が書いている。
「しんじ」とは古語で彼岸の中日、(春分と秋分)の事である。
昼と夜の長さが同じで、冬と夏が接する時である。
これからスピカを「しなつ星」「ひなかば星」とも言った。

スピカはバビロニヤでは春分を司る女神であった。
身に白絹のひれをかけて、髪には白銀の髪飾りを挿し、手に麦の穂を持つ姿だった。
かつてのバビロニヤでは春分の日を年の始まりとして祝っていた。
かつての栄華を誇った王国も一朝だけ咲く花の夢のようにはかなく消えてしまったが、
このスピカが春分の日の星として礼拝された時代は紀元前666年の頃である。

しかし、歳差運動によってスピカは春分を示さなくなり、今は夏至近くを示す星となった。

そこで新しく付いた名前が「日夏星(ひなつぼし)」「日向星(ひなたぼし)」で、

江戸時代には「始夏星(しなつのほし)」と呼ばれたかもしれない。

野尻抱影が採集した「しんじぼし」という言葉を残す若狭は、
近東や中東の民族特有の面立ちが見られる東の限界地である。
スピカが春分の日の女神であるという幻影が筑紫を通って
若狭まで運ばれた名残の言葉である。
小乗仏教で中時(しんじ)というのにもその名残が残っている。

これは真鍋大覚氏の本をかなり意訳しました。この文から読み取れるのは

紀元前の昔、中東あたりのバビロニア王国が栄えていた頃、
スピカが春分の日と秋分の日に東から昇って、新年を告げる星だった。
スピカは両手に麦の穂を持つ女神として祀られた。
その暦を持った氏族が筑紫や若狭に辿り着き、
スピカをシナツ星とか、シンジ星、ヒナカバ星と呼んでいた。
しかし、歳差運動によって、今では1か月以上もずれてしまって、
春分の日を示さなくなった。

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中国道教の七夕の伝説『牛郎織女』に登場する仙女。

おりひめは、七夕の伝説に登場する女性。漢字では「織姫」

茨城県那珂市静神社の織姫像

 

ひこぼし(彦星)は星の名前。転じて、物の名称等にも使われる。

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香椎宮 (Ⅱ) 古宮とスピカ : ひもろぎ逍遥 (exblog.jp)

「橿日宮(かしいぐう)の社伝によれば、“かし”とはスピカの古語で、春分秋分の象徴としてこれを祀る祠が古宮、即ち日振宮(ひふりのみや)であった。」
(真鍋大覚『灘の国の星 拾遺』)

春分秋分の象徴としてスピカを祀る。 
これはいったいどういう事でしょうか。
 まず、春分と秋分について確認しましょう。 
秋分と春分の日には、太陽は真東から昇り、真西に沈みます。昼と夜が同じ長さです。
辞書を調べると、この日には天皇が皇霊殿で大祭を行っているそうです。
皇霊祭と言います。
天皇は太陽神アマテラスの子孫ですから、太陽を祀るのは大切な儀式です。

それが、春分と秋分に連綿と執り行われている訳です。
仲哀天皇もこの香椎宮にいる時にも、きっと日子として、祭祀をした事でしょう。

 「日振り」とはなんでしょうか。 
「日振り」については、『灘の国の星 拾遺』に説明がありました。まとめてみます。

福岡県那珂川では仲哀天皇の頃から、御火焚(おひたき)の祭事が始まり、今も部落ごとに守られている。太陽暦と陰暦のずれを計算して、太陽暦にする。

氏族が自分たちの部落の行事に適するように編纂した暦を新しく神に供えると同時に、旧の暦を焼き捨てる。
これが御火焚(おひたき)の発祥であり、この名前はギリシア語のキタヒから来ている。それを書いた本の名前がビブリオンで、「日振り」の語源に当たる。

木の幹を小さく割って大小さまざまに一年の月日を並べて、衆議一決するまで立て替え並べ直して、納得の行くまで日取りを組む。これが「日振り」であった。

そして、これが出来上がると、氏族一同に触れて回る。これが「日振れ」である。年ごとの資料は神殿に奉納して子子孫孫に伝える。これが「国繰(くにく)り」であり、「国縫い」であった。

太陽暦と陰暦の差は現代も調整が難しい。  
太陽の運行は正確には一年に365日ではないので、四年に一度、366日の年を作って調整します。
陰暦は月の満ち欠けを基準にしますが、一か月を30日としても、30日×12か月=360日。
6年経つと、一か月の差になります。季節が全く変わります。

この5~6日の差をどうするかは、難問で、国や氏族で個性がありました。
これを専門に計算する人たちが古代にもいました。日本では安倍清明の家系が有名です。

この本の著者の真鍋大覚氏の家系も、暦を伝える家系でした。
(この本には、古代ギリシアなどが出て来て、驚きますが、高松宮宣仁親王の指示によって出来た本で、
那珂川町が出版した本です。)

古代の人々は、氏族によって習慣が違う上に、暦の基準も違いました。
これをどうつき合わせるかは、大切な政治でもありました。
もし、暦がないと、「来年1月1日にまた会おう」と言っても、
太陽暦の人と陰暦の人では、違う日に当たるのです。

暦のすり合わせは、大切なイベント で、古代史を理解する上でも研究の余地があるように思います。
日本の天皇は太陽を観測し、太陽の気を下ろし、暦の設定の任を負っていたと思われます。
あの古宮は「日振り」をするための基準を確認する、そんな神聖な天文観測所だったのです。

香椎宮は何度も炎上して、古代の文献が残っていないそうです。しかし、社伝で言い伝えていたのですね。

「橿日宮の社伝によれば“かし”とはスピカの古語で、春分秋分の象徴としてこれを祀る祠が古宮、即ち日振宮(ひふりのみや)であった。」

スピカは春分の中日と秋分の中日のシンボルでした。
氏によると、星の観測は皇后の神事だったそうです。すると、神功皇后はこの日スピカを観測したのでしょうか。
幸い、現代では星座ソフトでその夜を再現できます。ステラ・シアター・プロを使ってみる事にしました。
調べるには、年月日の入力が必要です。
仲哀天皇が199年にここにいたと言う年代は正しいのでしょうか?
日本書紀の年代はこうです。仲哀天皇の8年正月21日(西暦199年)にここを都と定めた。

同じ9年2月6日(西暦200年)この宮にて崩御。御年52歳。

じつは、199年というのを、古宮で見た時には、
ルナは思いがけず、「え、弥生時代?」とたじろいでしまいました。
日本書紀の年代については、多くの人々が計算をして、疑問視しています。

どうしようかと、困ってしまったのですが、暦法の大家の真鍋大覚氏が年代を訂正していません。
しかも、この年は、太陽暦と旧暦が全く同じ年だったと、確認してあります。
ですから、これに従って、日本書紀の記載通りに調べて行きたいと思います。

ターゲットを設定しました。
仲哀天皇が香椎宮にいたのは199年1月21日から翌年の2月6日まで。わずか一年余りです。
ターゲットになる、春分と秋分の日は199年3月21日と9月21日、だけです。
この二日だけ、仲哀天皇が神事をした可能性があります。

こんなシーンがあったかも。 
天皇が夜明け前からここで待って、真東から昇る太陽を迎える神事をし、夕方になると、真西に沈む太陽を送る。
それから、数分後、皇后が真東からスピカが昇るのを迎えて神事をし、翌朝、真西に沈むのを送る。

古代は太陽の儀式を天皇がして、星の儀式を皇后がし、皇太子が暦の調整をすると真鍋氏は言います。
神事とは、単に日や星をシンボルとして崇めるのではなく、その眼で、実際に観測して確認したという事になります。

 ちょうど、韓国ドラマ「大王世宗」に暦の話が出ていました。 
ルナは50話ごろから見始めたのですが、暦の話が出て来て、驚きました。
自国の暦を持つ事は、隣の国、明からの独立を象徴する事であり、
これが知られたら、戦争にもなりかねないほど、大切な事だったというのです。

日本ではすでに200年には暦を持っていたので、状況が違う訳です。
暦って、国の威信をかけてつくったんですね。なんだか面白くなって来ました。
さあ、199年の春分の日は確認できました。

 では、秋分の日はどうでしょうか。

  199年9月21日 朝6:11 太陽が真東から昇る。
          夜18:01 太陽が真西に沈む。
                 スピカは太陽のすぐ傍に居て、暗くなってしばらく見えていたが、
                 太陽と一緒に沈んだ。
          夜18:36 満月が真東から出る。
      22日 朝6:32 満月が西に沈む。
  
スピカは太陽の傍に移動しているために、夕刻にちょっとだけ見えました。春とは全然違います。
しかし、その代わりに満月が昇って来ました。

「香椎」・「橿日」はともに「かしい」と読みます。
「かし」は古語で、一般的に「星」を指すそうです。すると、「橿日」とは「星と太陽」になります。
この香椎では「かし」といえば、「スピカ」を思い浮かべる氏族がいたのでしょう。
そう、香椎は古代から栄えた港町だったのです。
野尻抱影氏の本には

「昔の航海者は、スピカの近くに月が出ていると、その間隔をはかって
船のいる経度を50キロ以内まで正しく知ることができました。」

と書いてありました。すごい話です。
また、

「スピカと、北斗の柄の第二星ゼータとを結んだ直線を延長すると、北極星にとどきます。

これは北斗七星が見えない時に、北極星を発見する方法の一つです。」


雲の多い日にその雲の切れ間から、スピカを見つけると、
海の只中に居ても、北が分かり、進路が分かるというのです。
少し暗い北極星より、明るいスピカの方に、心惹かれる感じも分かります。

夜にはスピカが、昼には太陽が、方角と時を教えてくれました。
それが「かし・ひ」だったのでしょうか。

香椎を拠点とする海人族たちは、スピカを神として祀ったのでしょう。

*************

創建

日本書紀』『古事記』によると、仲哀天皇8年に天皇は熊襲征伐のための西征で筑紫の行宮の橿日宮(かしひのみや、記:訶志比宮)に至ったが、仲哀天皇9年に同地で崩御したという。香椎宮の社記『香椎宮編年記』によれば、その後養老7年(723年)2月6日に神功皇后神託があったため造営を始め、神亀元年(724年)12月20日に廟として創建されたとする。現在の香椎宮社伝では、仲哀天皇9年時点ですでに神功皇后の手で仲哀天皇廟が建てられたとした上で、さらに養老7年の皇后の託宣により神亀元年に皇后廟も建てたので、これら二廟をもって創建とし「香椎廟」と総称された、としている

後述の通り、創建当初から10世紀中頃まで香椎宮は文献では「廟」すなわち霊廟として記され、他の神社とは性格を異にする

古代に神社と霊廟がどのように区別されていたかは明らかでないが、日本土着の信仰としてではなく、中国・朝鮮の宗廟思想を背景として創建されたする指摘があり、中には異国の祖廟とする説もある。文献では香椎廟と新羅との深い関係が見られ、新羅と事があるごとに奉幣が行われている。ただし日本・新羅間が最も緊張した斉明天皇天智天皇の時期(7世紀後半)に記事は見えず、文献上では神亀5年(728年)11月が初見になるため(『万葉集)、史実の上でもその間の創建とされる

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