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宇は宇宙の「宇」 歴史の中の経緯・14

2023年10月19日 | 歴史の中の「経緯」

じつは、饒速日については、

ウガヤフキアエズ王朝の「王」ではなかったか?

と、考えているのです。

 

ウガヤフキアエズという

神武の父になる存在があるのですが・・・

これは、ウガヤフキアエズ王朝を隠しているのではないかと思っています。

 

と、いうのも

ウガヤフキアエズが、北陸、敦賀に住んでいたという話があったりもするのですが、

その近く、三方郡?(いまは、違う)に

ウガヤフキアエズを祭る神社があります。

 

この神社の名前が

宇波西神社といい、

その名前が表すのは、

「宇」が「西」から「波」にのってやってきた。

と、いうことで、

「宇」は神を表します。

そして、祀られているのが

ウガヤフキアエズのわけですが、

この神社の神事に「王の舞」というものがあり

この内容は海幸彦・山幸彦の争いを彷彿させるものです。

 

ウィキから・・・

伝承によれば大宝元年(701年)3月8日、現在の美浜町日向で創建され、上野谷の金向山の麓に遷座した後、大同元年に現在地に遷座した。日向地区の伝承では、この村に住む漁師の六郎右衛門が湖で漁をしていると一匹の鵜が現れ、「湖の底に高貴な方がおられ、救いを求めている」と言った。鵜につれられて湖に入ってゆくと湖底に宝刀があったので、自宅に持ち帰り神棚に祀った。すると六郎右衛門の夢の中に鸕鶿草葺不合尊が表れ、自分を上瀬の畔に祀るように告げ、自分の国の名である「日向」をこの村の名にするように言ったという。宇波西神社の社名は「上瀬」によるものである。また、他の伝承では大宝年間に鸕鶿草葺不合尊が日向から出雲を通り、日本海を渡って当地に現れたとしている。日向地区は、古代に九州の日向国からの移住があったものと考えられており、方言や字名に日向国と共通するものが多い。

 

*九州のほうの日向は「ひゅうが」と読みますが

美浜町日向は「ひるが」と読みます。

他の伝承では大宝年間に鸕鶿草葺不合尊が日向から出雲を通り、日本海を渡って当地に現れたとしている。

時代があわないとおもうのですが・・www

また、宇が西の波にのってというのも、

祭りを見に行っていた時、古老にきかされた覚えがあります。

(神主からじかに聞いたような覚えもある)

日向地区は、古代に九州の日向国からの移住があったものと考えられており、方言や字名に日向国と共通するものが多い。

どちらかというと、こちらの説をとるのですが、

実際にウガヤフキアエズ王朝から(崩壊前に)、逃亡してきたのではないかと思えます。

状況的には

https://ugaya.jimdo.com/より、転載。

大和王朝が成立する前に、

大分を中心に、

ウガヤフキアエズ王朝が存在していた!

別名、「豊国王朝」、「日向王朝」、「高千穂王朝」とも呼ばれる。

 

『上記(ウエツフミ)』という

豊国文字で書かれた謎の古文書。

 

その記述によると、

大和王朝が成立する前の、弥生時代、

豊の国・大分を中心に、

『ウガヤフキアエズ王朝』が存在し、

少なくとも74代にわたり繁栄した、と書かれている。

 

ニニギの命は久住山に天孫降臨し、

その孫である初代・ウガヤフキアエズの命は、

大分の地からほぼ全国を統一して、

各国ごとににタケルと呼ばれる領主を任命していた。

そして、その勢力範囲は、遠く中国大陸や朝鮮半島にまで及んでいたのである。

 

しかし、この王朝は何者かにより滅ぼされ、その記録も抹消された。

******

ニニギノミコト

と、いえば、

天照大神の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫命(萬幡豊秋津師比売命)の子[1]。兄に天火明命(あめのほあかり)がいる[1]。『日本書紀』の一書では天火明命の子とする。

大山祇神の娘である木花之開耶(このはなのさくや)姫を妻とし、火照命(海幸彦)・火闌降命(火須勢理命)、彦火火出見尊(山幸彦)が生まれた[1]

と、いうふうに、言われている。

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この伝えをうのみにすると、

ウガヤフキアエズ王朝は天照大神ではないかと思ってしまう。

だが、天皇の系譜の中に、ウガヤフキアエズはあるが、

ウガヤフキアエズ王朝はない。

 

********

さらに、代理が考えていた

饒速日がウガヤフキアエズ王朝の「王」ではなかったか?に触れる文書がありましたので、

これも、拝借いたします。

神武東征とは?

さてさて、もうお分かりでしょう。

「神武東征」と呼ばれているのは、実は第2代と第3代が揃って東日本を開拓するために、奈良に造られた新しい仮宮へと遷都したことだったのです。(紀元前660年)


これが、第73代ヒダカサヌの「第二次東征」と混同されて、ひとつの物語として伝わっているのです。

そして、西日本を統治した第2代が「神武天皇」と呼ばれ、東日本を統治した第3代が「ニギハヤヒ」と呼ばれたようです。

これで、「富家文書」が伝える「神武天皇とニギハヤヒが一緒になって奈良に攻めてきた」という記述とも一致します。

ですから、この最初の東征は「イワレビコ東征」と呼ぶのが正しいのです。

【考察】ウエツフミでは、第2代が西日本を、第3代が東日本を、それぞれ分割統治したとあるが、話の流れからは、これも逆転して伝わっている可能性が高い。つまり海神系の第3代は宇佐神宮から西日本を、思金系の第2代は大神神社から東日本を統治したとみるほうが自然。

*****

代理は、むしろ、

*****

そして、その約700年後の起源元年頃、今度は第73代ヒダカサヌが、ナガスネヒコと戦って、奈良の橿原宮に遷都してきます。

こちらのほうは、「ヒダカサヌ東征」と呼ぶべきでしょうか?

****

こちらを饒速日と考えていました。

と、言うのも

美穂神社の諸手船神事の中だったか

他の文献だったかに、

国譲りの時に饒速日が美穂の浜にかけつけてきた。

と、言うものがあったわけです。

実際に国譲りがあったとされる年号が判らないので

天皇皇記で考えると

神武天皇即位紀元は、キリスト紀元(西暦)に換算して紀元前660年とされている。明治5年(1872年)の太陽暦導入と同時に、神武天皇即位を紀元とすると定められた。暦の販売権をもつ弘暦者が改暦に伴い明治6年(1873年)に作成した『明治六年太陽暦』の表紙には「神武天皇即位紀元二千五百三十三年」が使用されている[4]

 

すると、こちらのほうが、年代的にあっているということになり、

「神武東征」と呼ばれているのは、実は第2代と第3代が揃って東日本を開拓するために、奈良に造られた新しい仮宮へと遷都したことだったのです。(紀元前660年)


これが、第73代ヒダカサヌの「第二次東征」と混同されて、ひとつの物語として伝わっているのです。

そして、西日本を統治した第2代が「神武天皇」と呼ばれ、東日本を統治した第3代が「ニギハヤヒ」と呼ばれたようです。

 

*****

国譲りもそのころの設定と考えてよいでしょうか?

国譲りに饒速日がかけつけたという記述と

ナガスネヒコの伝説?とが、同じ年代にならなくなるのですね。

 

**********

すると、約700年後の起源元年頃に国譲りがあった。

この頃に、ウガヤフキアエズ王朝は滅亡するわけです。

 

ーーー続くーーー


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