報道写真家から(2)

中司達也のブログ 『 報道写真家から 』 の続編です

東ティモール : ラモス・ホルタ大統領襲撃の真相 2

2008年02月27日 11時28分35秒 | 東ティモール

今回もラモス・ホルタ大統領襲撃に関する記事を仮訳して掲載します。出典は同じサイトで、最初の記事は事件からたった二日後、今回の記事は一週間後に掲載されています。

世界中のメディアが何の検証もせず、公式発表を垂れ流す中で、おそらく唯一、継続的な取材に基づいて書かれたレポートであると言えます。

なお、あくまで素人による訳文であり、不備のあることをご了承ください。

公的な「暗殺」説は崩壊した

原文
Official "assassination" claims collapse
By Mike Head
19 February 2008
http://www.wsws.org/articles/2008/feb2008/timo-f19.shtml

2月11日の東ティモールでの事件は ─ 反乱軍アルフレド・レイナドによる、大統領ジョゼ・ラモス・ホルタと首相シャナナ・グスマンに対する 「 クーデター 」 と 「 同時暗殺 」 の企てである ─ という公式説明は、ちょうど一週間後に崩れ去った。先週の土曜(2月16日)にオーストラリアのジャーナリスト Paul Toohey は、それを [ 暗殺の企て ] などと信じている者は、東ティモールにはほとんど誰もいない、と述べている。

いまだ多くが不明瞭なまま残っているが、確かなことが一つだけある。(レイナドによる)企てだという主張は、二人のプレイヤーの権力を強化することに利用されたということだ: グスマンと彼の不安定な連立政府、そして、ケビン・ラッド首相のオーストラリア政府だ。

ラッドは、先週の金曜(2月15日)に東ティモールにやって来るなり、オーストラリアの部隊は無期限に駐留すると宣言した。その前夜、ラッドは、オーストラリア放送協会の”レイトライン”の番組で、東ティモールでの事件は”不透明”だが、彼の訪問はオーストラリア政府が事実を解明する手助けになるだろう、と語った。

しかし、ラッドの短い滞在は真相究明のためなどではない。それは、単に力の誇示のためだった。グスマンとのおざなりな会見の後、ラッドは記者会見を開き、グスマン政府と共に「協力して」やっていくと誓った。彼は、オーストラリア国防長官 Angus Houston と連邦警察長官 Bill Keelty を従えて、「このすばらしい国の民主的に選出された指導者に対して行われた蛮行」を糾弾した。

ラッドは、4時間の滞在の大部分をオーストラリアの軍人や警官との写真撮影に費やした。東ティモール政府が要求する限り、彼らは駐留し続けると彼は発言し、これは「民主的に選出された」ディリ政府からの招請なのだ、と繰り返し強調した。襲撃事件は、グスマン政府へのてこ入れと、政治上、安全保障上のキャンベラへの依存度を高めるために利用されたことは明らかだ。

オーストラリア兵は、ディリ地区と近隣の町の支配権を握り、装甲車でパトロールし、道路に障害を設け、車両を検問し、夜間の外出禁止を強要した。グスマンは、非常事態宣言をさらに10日間、2月23日まで延長した。午後8時から朝6時までの外出禁止とは別に、デモと集会も禁止され、警察権力は強化された。

先週の火曜(2月12日)に急派された340名(海軍戦艦HMAS Perthの乗組員を含む)のオーストラリア軍と警察官の中に、約80名のSAS隊員が含まれていたことは不吉な動きだ。オーストラリアの臨時治安部隊は1100人を超え、SAS部隊は、逃げ延びたレイナドの支持者を追跡捕縛するために、東ティモールの山岳地帯へ送られた。支持者のうち何人かは、レイナドはホルタの住居の外にいた東ティモール兵に”嵌められ”そして殺された、と主張している。メディアの報道によると、臨戦体勢のSAS部隊の編成は、グスマンの要請による。
※ SAS (Special Air Service : オーストラリア特殊空挺部隊)

 レイナドは、ラモス・ホルタとの合意後に殺された

公的発表、およびメディア報道は、「暗殺」計画を誇大に扱いすぎている。実際の標的になった二人 ─ レイナドとラモス・ホルタ ─ は、ほんの四週間前に平和的合意に達していた、というのが真実なのだ。レイナドは、ラモス・ホルタ大統領が銃撃を受ける直前に、彼の住居で殺害された。そして、少なくともその90分前に10キロ離れた地点で、グスマンの車両は、伝えられるところでは、正体不明の襲撃者によって銃撃された。

ラモス・ホルタの友人(匿名)はAP通信に、銃撃戦はラモス・ホルタが毎朝の習慣の散歩から帰る前の約30分間展開された、と語った。ラモス・ホルタは、散歩の途中で銃撃について警告されたが、通りがかった車に乗ることを断り、拳銃を持ったボディガード二人だけに護衛されて、徒歩で家に戻った。この一連の出来事は、エイジ紙に語られた匿名の軍情報によって確認されている。ラモス・ホルタの戻る30分前、夜間警備と交代するために到着した警備員は、レイナドが住居にいることを発見し、レイナドは顔面を撃たれた。

レイナドの遺体の検死は、先週の火曜(2月12日)の埋葬のため、家族に公開された。彼は左目、左胸、首への三発の銃創を負っていていることが明らかになった。彼の護衛の元憲兵レオポルディーノ(Leopoldino)もまた射殺された。オーストラリア北部都市のダーウィンでいまだ重態で入院中のラモス・ホルタは、対照的に、背中を撃たれている。親戚、友人、そしてレイナドの同僚は、ホルタは東ティモール軍すなわちF-FDTLの兵士の待ち伏せ部隊に撃たれたと主張している。
※ F-FDTL( Falintil-Forca Defesa Timor-Leste : ファリンティル‐東ティモール国防軍)

オーストラリアン紙のTooheyによると、2月11日にレイナドと共にいた2人の男はホルタの住居の中に隠れており、彼らはレイナドの養父ビクトール・アウベス(Victor Alves)に、F-FDTL軍が背後からラモス・ホルタを撃った、と語ったという。また、東ティモール生まれのオーストラリア人 Angelita Pires も、レイナドはおびき出されて殺された、と主張しているひとりだが、2月11日の襲撃に関係しているとして昨日(2月18日)突然逮捕された。

レイナドがどのようにしてラモス・ホルタの住居に入ったのか、そして、なぜそこにいたのか、という理由はいまだ定かではない。しかし、彼がホルタの住居にいたのは、大統領とさらなる協議をするために、本人からの明確な、あるいは暗黙の了解があった、というのは十分あり得ることだ。ラジオ・ティモール・レステは、レイナドは襲撃者などではなく、一週間前までラモス・ホルタ家の客人であり、彼は襲撃を止めるために家から走り出たのである、と伝えている。

先週の土曜(2月16日)、エイジ紙とシドニー・モーニング・ヘラルド紙は、1月13日に行われた秘密会合の後、支援者とともに、レイナドとラモス・ホルタが笑顔で並んでいる写真を掲載した。これで銃撃の動機は鮮明になってきた。その会合では、レイナドと約600人の「嘆願者」は二年間の反乱を停止するという合意が成立していたのだ。
※「嘆願者」 : 2006年に国防軍内での”地域差別”の改善要求をして解雇された兵士約600人。

ラモス・ホルタは、ジュネーブの人権対話センターの仲介によって、彼らと協議するため、武器も護衛もなしでモビシの山村までいった。そして、合意が成立した。レイナドと部下は降伏し、自宅軟禁下におかれ、そして殺人と反乱の罪で裁判をおこなう。ただし、5月20日のポルトガルとインドネシア支配からの正式独立6周年記念日に、恩赦によって赦免される。

東ティモールの経済相ジョアン・ゴンサウベス(Joao Goncalves)は、その会合は和やかで友好的であり、協議はほとんど合意された、とフェアファックス所有の新聞に語った。ワインとともにヤギとラムとチキンの昼食をとり、レイナドとラモス・ホルタは握手をして、数日以内に再び会うことを約束して別れた。

この合意の足をひっぱる明らかな動きもあった。伝えられるところによれば、グスマンは、軍を離反し解雇された兵士ガストン・サウシーニャ(Gastao Salsinha) ─ レイナドとの共闘に一定の忠義をまもる ─ との会合を準備していた。首相は、三年分の給与の一括補償、または、軍への復帰を提示したとされている。この提示は、レイナドの孤立化を迫るためだった。

去年の12月に、グスマンは、レイナドにすみやかな降伏を要求する最後通達をつきつけた。レイナドは、1月にDVDによる声明でこれに答えた。その中でレイナドは、グスマンは操られた元首であり、オーストラリア軍の軍事介入を招くことになる、兵士の反乱と暴動の引き金となった「嘆願者の作者」である。そして最終的に、フレテリンのマリ・アルカティリ首相を辞任に追い込んだのだ、と糾弾した。

レイナドの告発は、東ティモールでは広く伝えられているが、オーストラリアのメディアによって遮断され、国外には伝わっていない。アルカティリは、レイナドの告発に答えるよう議会で要求したが、グスマンは拒絶した。地元のレポーターがグスマンを追求したところ、グスマンは、もしこの件を追跡取材したり、レイナドにインタビューしたりすれば、逮捕されることになるだろうと警告した。

レイナドの告発は、真実の響きがある。われわれWSWSは、グスマンやレイナド、ビンセント・ライロス、そして2006年の反乱における他の主要人物との連絡を保持し、記録してきた。アルカティリ辞任の引き金となったのは、アルカティリに対するライロスの申し立てが、豪ABC放送の番組「フォー・コーナー」で取り上げられたことだった。後に、ライロスは、2007年の議会選挙戦のためにグスマンが新設した政党CNRTの世話役になった。

レイナドによる告発は、グスマン ─2006年に大統領の任期を終え、首相に就いた─ を刑事裁判にかけるに十分な潜在力を持つだけだけでなく、フレテリン政府に対する攻撃と追い落としに関するオーストラリアの暗躍についての疑いをも喚起する。

東ティモールでの昨年の大統領と議会選挙の間は、グスマンとラモス・ホルタはレイナドを逮捕させないように努めた。彼らは、フレテリンを完全に権力から放逐するため、議会で多数派を形成しなければならず、そのためには当時の二番目に大きな政党である民主党の支援が必要だった。そして民主党もレイナドも、同じ東ティモールの西半分から支持を得ていたのだ。

レイナドは殺害されたとき、まだ安全保証書を持っていた。オーストラリアン紙は先週、国際治安維持軍(ISF)のオーストラリア人指揮官によって、レイナドの弁護士 Benny Benevides 宛てに書かれた、安全を保証する10月18日付けの書面を引用した。その書面には「貴下のクライアントは、会合の期間に事前合意されたすべての協議内容に彼が応じることを条件として、貴下のクライアントの移動は阻害されることがないことをここに保証する」と定められていた。

ラモス・ホルタはレイナドと会談していた唯一の政治代表ではなかった。オーストラリア部隊の到着で、会合は一時途絶えていたが、ほんのつい最近の2月6日にも、三人の政府議員がエルメラでレイナドと会っていた。政府幹部の誰がレイナドに会うよう指図したかついて、先週、フレテリン議員のドミンゴス・サルメントは、三人の議員からの説明を要求した。

グスマンもまた2月11日の暗殺の標的だったという公式説明に関して、グスマンの車両に対する銃撃のすべてがタイヤにだけなされていることについて、レポーターから疑問が投げかけられている。すると国連の調査団は、襲撃は二人の政府要人の殺害ではなく誘拐が目的だった、と記者への公式説明の切り替えを行った。しかしこうした説明は、当初のものに比べ信憑性が格段に低い。

 グスマンとオーストラリアの戦略的利害

とりわけ2006年のアルカティリの排除以来、2007年にキャンベラの後ろ盾で大統領職から首相職に移行したグスマンは、オーストラリアの政策にとっての要である。2007年の選挙で最多得票を獲得した政党はフレテリンだが、ラモス・ホルタはアンチ・フレテリン共闘の形成のためにグスマンの新党CNRTを誘った。
※ グスマン政権は三党連立 ( CNRT18、社会民主党連合11、民主党8、計37議席 )。最多議席はフレテリンの21議席だが、現在野党。

ラッドの支援にもかかわらず、グスマン政権は不安定なままで、フレテリン党は新しい選挙の要求を加速している。フレテリンは、政府が2月11日の襲撃を阻止できなかったことを糾弾し、アルカテリは、もし私がまだ(首相に)在職していたとしたら、国民は私に辞職を要求しただろう、と語った。フレテリンが、ラモス・ホルタとグスマンの暗殺を100万ドルでレイナドに依頼したとする、非常に疑わしい文書の流布で政治的緊張が高まっている。

グスマンの政府は、庶民の貧困と惨状に対して何の発言をする意思もなく、その能力もないことを露呈したため、グスマンに対する民衆の不満は上昇している。およそ10万人のフレテリン支持者は、いまだ不便な難民キャンプで生活している。
そして、労働人口の80%は、失業もしくは生存最低限の農業従事者である。いわゆる独立から6年、たとえ、ティモール海の底で何十億ドル分もの石油とガスが採掘されていようとも、東ティモールはいまだ地上でもっとも貧しい範疇のままなのである。

1999年のオーストラリアによる東ティモールへの最初の軍事介入に続いて、ハワード政府は、主要海底油田に対するオーストラリアの支配権の拡大を、最終的にアルカティリ政府を追い詰めて受け入れさせた。一方、国際通貨基金(IMF)と世界銀行は、過剰歳出を予防する社会計画として、ティモールの石油とガスの収入を石油預託基金に預けるよう主張した。石油基金は現在、20億ドル以上あるが、十年後に楽観的見積もりの頂点に達したとしても、その年間投資収益は一人あたり2500ドルに達する程度である。昨年、IMFは東ティモールにおける貧困は、今後数年間悪化し続けるだろうと予測した。

オーストラリアの安全保障局は裏舞台で、東ティモールへのさらなる深い介入を求めていた。ハワード政府は、ソロモン諸島地域支援ミッション(RAMSI)の途上で、警察や裁判所、刑務所、国庫などの国家機構の主要部門に対する支配権を巧妙に掌握していた。政府出資のオーストラリア戦略政策研究所(ASPI)は、昨年11月発行の論文「戦略的見通し」で: 「専門性の高い開発の提案や公共サービスの精神を補完する政治的経済的助言、そして国連ミッションやIMFが行う監査などと同様に、警察長官や検事総長、高裁判事のような重要な地位にある海外居住者は、政治的障壁の克服に役立つ」と提案している

オーストラリアン紙の国外編集者Greg Sheridanは、これら新植民地的欲望について先週のコラムで、東ティモールへの介入に関して、より長期的視野を持つようラッド政府に促した。「もし、われわれが、メラネシア圏での新覇権的権力であるならば、われわれは、安全保障、精力的継続的援助の提供、国際秩序の遵守、伝染病拡散の監視など、そしてこの地域での国家運営への長期的投資を図る必要がある」と彼は書いている。しかし、これらの提言には、東ティモール民衆の生活状態の支援や向上に対して何一つ触れていない。ラッドは、先週の金曜(2月15日)、軍の無期限駐留は約束したが、経済援助に関しては、あいまいで不特定な提示をしただけである。1999年以来、ASPIの見積もりによると、キャンベラは東ティモールでの軍と警察の活動に40億ドルを費やしたが、政府開発援助は5億5000万ドルだけである。いかなる場合でも、「援助」の主要目的は、オーストラリアの利益を強化することであり、それはオーストラリアの企業が利潤を追求するのと同じなのである。

オーストラリアの財界と政界のエリートの関心は、資源豊富で、戦略上の要衝である隣国の島の半分に対する支配力を拡大することと、ライバル国家、とりわけ中国からの揺さぶりに対抗することである。ASPIレポートは、「中国が東ティモールに大きな大使館を持つ、主要な援助提供国である」ことを懸念している。2月11日の事件を利用したラッド政府は、ハワード政府が1999年に計画した方針を、基本的に引継いでいることをはっきりと示した。

http://www.wsws.org/articles/2008/feb2008/timo-f19.shtml

レイナドにホルタ大統領襲撃の動機はない

2008年02月23日 11時25分37秒 | 東ティモール
2月16日付けのオーストラリアの日刊紙ザ・エイジ(The Age)のウェブ版が興味深い記事と写真を掲載している。

レイナドとラモス・ホルタ大統領は、秘密裏に非常に現実的で有益な話し合いを行っていたようだ。レイナドにとってホルタ大統領は、追跡生活を終わらせるための貴重な存在だった。ラモス・ホルタは、重武装のレイナドとの会合に、護衛もつけず、非武装で向かった。彼らには信頼関係があったと考えていいだろう。

その味方とも言えるラモス・ホルタ大統領を、レイナドが襲撃したり、誘拐したりする動機があるはずがない。

このエイジ紙の記事は、貴重な事実を報じてはいるものの、レイナド個人に対しては、若者のカルトヒーロー、パラノイア、被害妄想、不安症、威信喪失などとこき下ろしている。

この会見後のたった四週間で、レイナドの頭は理由もなくみごとに錯乱して、貴重な味方を銃撃するほどイカレテしまったという印象を、エイジ紙は与えたいのだろう。

誰の利益のために、誰の指図で、誰が、ラモス・ホルタ大統領とレイナド少佐を銃撃したかは、すでに東ティモール人のほとんどが知っている。
しかし、世界の主要メディアのほとんどは、いつものことだが、誰かに都合の悪い真実はみごとに遮断している。



キャプチャー画像 : THE AGE.com.auより
http://www.theage.com.au/news/world/ramos-horta-and-reinado-had-amnesty-deal/2008/02/15/1202760602680.html

(抄訳)
ラモス・ホルタとレイナド、恩赦の取引
これは、ラモス・ホルタが東ティモールの平和的な未来を保障した、と考えた瞬間である。東ティモールの起伏の多い山岳地帯にある古いポルトガルの城塞跡の階段に立ち、大統領は反乱軍リーダー、アルフレド・レイナドと笑顔で握手した。ここでの秘密会合において、二人は、5月20日の東ティモールの独立記念日に、レイナドの殺人と反乱の罪状を赦免する恩赦について協議した。そのあと、二人は上質のワインとヤギ、ラム、チキンが供される宴席にすわった。彼らは、高揚した気分で出発した。

この取引では、レイナドとその部下は恩赦前の裁判中は、ニュージーランド部隊に警備された自宅軟禁に置かれるという、合意がなされた。

ラモス・ホルタ氏は、非武装で、護衛を伴わず城塞へ行った。



東ティモール : ラモス・ホルタ大統領襲撃の真相 1

2008年02月21日 10時56分37秒 | 東ティモール

2月11日に東ティモールで発生したラモス・ホルタ大統領襲撃に関するウェブ記事を訳しました。メディアによる一般報道とは、まったく違った内容が記されていますが、僕自身が東ティモールを観察してきた結果とほぼ一致した内容です。
なお、あくまで素人による訳文であり、不備もあることをご了承ください。

東ティモールの極めて不可解な「クーデター計画」

原文
A very strange "coup attempt" in East Timor
http://www.wsws.org/articles/2008/feb2008/tim-f13.shtml
By Peter Symonds
13 February 2008

東ティモールの首都ディリで、月曜日(2月11日)に起こった出来事に関しては、何も明確になってない。反乱将兵アルフレド・レイナドは、そこで射殺され、この国の大統領ジョゼ・ラモス・ホルタは銃撃によって胸と腹部に重症を負った。最も信憑性のない説明はシャナナ・グスマン首相による、クーデターの試みは阻止された、というすばやい声明だ。そして、グスマンはオーストラリアに軍事的・政治的支援を要請し、非常事態宣言と戒厳令を発令した。

グスマンは、彼と大統領が暗殺の企ての標的だったと主張している。レイナドと武装した部下は、月曜の朝、大統領官邸にやってきた。しかし、暗殺計画にしては、レイナド  ─ オーストラリアで訓練された元少佐 ─  は下調べさえしていなかった。ラモス・ホルタは、二人のボディガードとともに、朝の日課である散歩に出て不在だったのだ。レイナドは、暗殺の準備よりもむしろ、以前からそうしていたように、単に大統領と話をしようとしていたにすぎない、と考えた方が自然だ。

次に何が起こったかについては、さまざまな見解がある。いくつかの報告によれば、レイナドと部下は、警備員から武器を取り上げ、家屋になだれこみ、大統領を探した、となっている。しかし、昨日のオーストラリアン紙は、警備員の方から銃撃が行われたのが事実である、と指摘している: 「隣人とラモス・ホルタ家のスタッフは、レイナドは先に発砲していない、彼らは大統領が在宅かどうかを尋ねるために、ゲートに現れたのだ。そして、いきなり目を撃ちぬかれた、と語った」

散歩から帰ったラモス・ホルタは銃撃に巻き込まれた。彼は、少なくとも二発被弾したが、なんとか住居にたどり着いた。少し後、オーストラリアの軍医は彼の出血を止め、容態を安定させた。大統領は、高度な医療処置のために、空路でオーストラリア北部のダーウィンへ搬送された。大統領は重症ではあるものの、容態は安定していると伝えられている。

いったい誰が誰を暗殺しようとしていたのか。ディリに蔓延する憶測のために、グスマンは、声明を出さざるを得なかった: 「大統領がアルフレドを殺すために彼をおびき寄せた、という噂はやめたまえ。繰り返すが、私もまた待ち伏せをうけ、標的にされたのだ。これはまさに、アルフレドによって計画された作戦であったことを示しているではないか」「確定するまでは、憶測を発表するべきではない」と彼は、メディアへの遠回しの威嚇で締めくくった。

ラモス・ホルタの官邸で起こった出来事は漠然としているのに対して、グスマン暗殺計画の方は詳細だ。グスマンは実際には襲撃されてはいないのだ。グスマン首相は、彼の車列が、ガストン・サウシーニャ(Gastao Salsinha)率いる反乱兵の別働隊による待ち伏せを受けた、と主張している。サウシーニャとは、「嘆願者」と呼ばれている兵士のリーダーで、彼らは、2006年に軍隊内での待遇改善を求める抗議行動によって軍を解雇された。グスマンの車列は、「弾丸の雨」を浴びたにもかかわらず、誰一人負傷していない。しかも、襲撃者は追跡されることもなく、簡単に逃げ延びている。サウシーニャは、オーストラリアン紙のレポーターに対して、この攻撃とはいかなる係わり合いもないし、なぜレイナドが大統領官邸に現れたのかも知らない、と述べた。

大統領と首相の暗殺を試みる、いかなる動機がレイナドにあるのかについて、説得力のある説明はなされていない。2006年にはレイナドのことを、反フレテリン兵士のリーダーの一人として褒め称えたオーストラリアのメディアは、今回は総じて彼のことを、「大胆で愚かな反逆者」または、誇大妄想のランボーと切り捨てた。死亡した少佐は、間違いなく心理的に不安定ではあったが、軍事面では手堅く優れていたことは確かだ。だが、この「暗殺計画」と「クーデター」はひどく不手際で、重要な中枢を押さえるという計画性がない。また、何百ものオーストラリアと外国の部隊・警官を相手にするなど、ありえない筋書きだ。


       いったい誰が得をするのか?


このようなとき役に立つ経験則は、こう尋ねることだ: いったい誰が得をするのか?。この場合、質問はこうなる: レイナドが死んで誰が得をするのか?。グスマンは、オーストラリアの後ろ盾とともに、リストのトップにいる。

2006年に、オーストラリア軍の介入を招くことになる、国防軍の反乱と住民の暴動に対して、グスマンは直接的な責任があるとして、レイナドはグスマンを非難した。ほんの先月のことだ。オーストラリアのメディアは無視したが、ビデオによって流布したメッセージがある。その告発の一部: 「私は目撃者として証言する。シャナナはこの危機の主要な作者だ。彼はこの件について嘘をついたり、否定したりできない。彼は、我々を悪人と呼ぶが、それは彼自身のことだ。彼が我々を創り、我々にこのような行動をとらせた。つまり、彼が、嘆願(反乱のきっかけとなる軍内の差別待遇改善要求)の作者だ。最初に嘆願がなされたのは、彼の支援によるのだ。そして彼のメディアへの無責任なスピーチが、今日に至るまでの住民の衝突と殺害を招いたのだ。そして、彼はそれ以上の多くを知っている。我々は、それについて話し合うつもりだ」

レイナドの「話し合い」の脅迫は、グスマンとキャンベラにとって深い政治的含みを持っていた。2006年5月に、当時オーストラリア首相だったジョン・ハワードは、東ティモールの国防軍は分裂し、警察は崩壊しているので、急増する暴力を止めるためには、オーストラリアの部隊を急派する必要があると主張した。当時の大統領グスマンは、オーストラリア部隊の介入を要請し、そして、マリ・アルカティリ首相とフレテリン政府が、600人の「嘆願者」を解雇したためにこの危機を招いた、として非難した。事態を収拾できない「マルキスト」のアルカティリは辞任せよ、とオーストラリアのメディアはわめき続けた。

アルカティリは断じてマルキストではない。ティモール海に埋蔵されている石油とガスの最も有望な部分をよこせ、というキャンベラの要求に従うことを、彼の政府は拒絶しただけだ。1999年に東ティモールに軍隊を展開したハワード政府は、2001年に小さな国家が誕生すれば、オーストラリアが支配的な役割を演じるだろうと、当然のごとく確信していた。しかし、アルカティリ政府は、旧宗主国ポルトガルや中国、キューバ、ブラジルといった外国と友好関係を築いて、わずかでも独立を維持しようと試みた。2006年5月に、オーストラリアが部隊をすばやく派遣したのは、決して東ティモール人を助けるためではない。それは、アルカティリを首相の座から引きずり落とし、そこにオーストラリアの要求により従順な政治家──とりわけグスマンとラモス・ホルタを就任させるという、ハワード政府の計画の一部によるものだ。

オーストラリア軍を東ティモールへ派遣する口実となった暴動において、2005年にキャンベラで訓練されたレイナド少佐は中心的存在だった。彼は「嘆願者」に加わり、抗議活動をする兵士に対して武力を使用したフレテリン政府を激しく非難した。彼は、グスマンの周りに集まった「コーラス」の一部であり、それは、アルカティリによる非常に懸命な改革に敵対する、教会の指導者、元インドネシア派民兵、ビジネスマンなどからなっていた。彼らは、貧困と失業による広範な憤懣を利用して、若い反政府ギャング団を養成した。

レイナドは騒乱を引き起こす工作に直接かかわった。オーストラリア軍部隊が到着する前日、オーストラリア人カメラクルーに伴われ、混沌と破壊の雰囲気に包まれた彼の部下は、東ティモール政府軍と衝突した。グスマンはこれらの出来事に、全く打つ手がない、と常に主張していた。しかし、増加する証拠は、グスマンと反フレテリンの共謀者、そしてグスマンとレイナドとの関係を示している。

2006年5月以来、キャンベラとディリの政治的共謀によって、彼らが欲していたものを表面的には、すべて手に入れた。軍事介入の2カ月以内に、アルカティリは、辞職を強要するキャンベラの圧力に屈従した。そして、ラモス・ホルタが臨時首相としてアルカティリに取って代った。ホルタとグスマンは、オーストラリア政府の暗黙の支援のもと、昨年の大統領と議会の選挙戦で共闘し、ラモス・ホルタは大統領の座を得た。グスマンは、暴力と投票操作の異議申し立てによって混乱する選挙で苦戦しながら、ようやくのことで首相になった。

根本的な問題はまったく解決されていない。議会選挙で最多議席を獲得したフレテリンは、現グスマン政権(連立与党)の正当性に異議を唱え続けている。公約が守られないことに対する憤懣の増加に直面している不安定な連立に、グスマンは依存している。グスマン政府は、約10万人の難民(主にフレテリン支持者)への米の配給を削減する2008年度予算案を提出した。元フレテリン闘士のための年金やビジネス上の税制優遇措置、他の財政的奨励金も削減される。

ディリは政治的陰謀の巣窟状態のままだ。オーストラリア、ポルトガル、およびマレーシアは、東ティモールの政府と国家機構の中で発言力を増大させるために、この小さな国に保安部隊を保持している。中国とブラジルは、影響力を拡大するために経済援助を提供している。東ティモールの警察と軍隊は、あいかわらず政治党派色が濃く、昨年の選挙時の党派抗争により広範に非難されている。国連のコントロール外にあり、オーストラリア部隊の駐留が続いていることにも敵意を増大させている。

過去20カ月、レイナドは、ある種の解き放たれた大砲だった。彼は殺人と武器の不法所持で告訴されているにもかかわらず、自由な生活を送っていた。彼は、2006年に武器に関する裁判で拘留されていたが、ディリ刑務所から文字通り歩いて出た。そこは、オーストラリアとニュージーランドの部隊によって警備されていたのだ。彼は、さまざまな隠れ家で頻繁にメディアとのインタビューを行ったが、再逮捕を免がれていた。ラモス・ホルタは、選挙で19%を獲得した右派民主党の基盤を安定化するため、つぎの仕事として、公式にレイナド狩りを中止した。

危機が続く最中、先月のレイナドによる脅迫は、2006年にグスマンが果たした役割を暴露した。それは東ティモール政府にとっては将来的な危険をはらみ、オーストラリアにとっては、影響力を弱める政治的な爆弾となった。アルカティリはすばやく、グスマンの辞職を要求し、新たな選挙を求めた。三週間前、ラモス・ホルタは、モビシにあるレイナドの基地で彼と会った。少佐の要求である起訴の取下げによって、少佐のフラストレーションを鎮めようとしたことは疑いない。先週、レイナドが三人の政府議員と会っていたとき、オーストラリア部隊は彼と一触即発の事態になった。その1週間後に、レイナドは死亡した。

いまや、やっかいな反逆者を排除しただけでなく、ディリ政府とキャンベラは、「クーデター計画」を、すぐさまそれぞれの立場の強化に利用した。グスマンは、48時間の非常事態宣言と外出禁止令を布告し、「東ティモールが失敗国家にならないことを保証する」ための安全策を強化すると発表した。

オーストラリアの労働党新首相ケビン・ラッドは、月曜日の朝、グスマンと二度話して、内閣安全委員会の幹部会議を招集し、190人の部隊と連邦警察の急派を、数時間以内に発表した。その部隊は昨日(12日)の午後、東ティモールに到着した。現在オーストラリアは、海軍兵員を含めて1000人の治安維持軍によって、島全体にその影響力を及ぼしている。昨日のオーストラリアの新聞の各社説はすべて、新しい労働党政府は最初のテストに合格したと報じた。

レイナドの死は、グスマンに都合がよいことは間違いない。少佐を殺害する陰謀があったかどうかは、なお調査されるべきである。しかし、確かなことがひとつある: 月曜の出来事を、オーストラリアのメディアと国際メディアが、暗殺計画とクーデターであると、すばやく宣言することによって、この実に不透明な事件に対する、いかなる調査も妨またげてしまったように見えることだ。

http://www.wsws.org/articles/2008/feb2008/tim-f13.shtml


東ティモール : ラモス・ホルタ大統領襲撃の真相 1 : 参考資料

2008年02月21日 10時46分13秒 | 東ティモール
●旧ブログ『報道写真家から』 カテゴリー「東ティモール暴動」より

2006.07.28 レイナド元少佐逮捕に新事実
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/c/5e1d62d9e68c09387f13b76666f41f24

2006.07.26 反乱兵士リーダー、レイナド元少佐逮捕の意味
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/c/5e1d62d9e68c09387f13b76666f41f24

2006.07.21 ティモール海の石油とガスの価値
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/03c705bc471b71a618bd1f7cea9fb20a

2006.07.18 世界が見逃したクーデター
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/380071a383cba22fe0ba2c7dc00b0421

2006.07.15 ギャング団を操る勢力
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/9b4f9012c07d66b1d05af96d1096e376

2006.07.11 東ティモール報道:小出しにされる真実
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/65dcf520483615b130483052528c2eb3

2006.06.27 アルカティリ首相辞任、豪、東ティモール支配に前進
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/6bec4585bcd9081bf24875fc4ae18dd2

2006.06.25 オーストラリアは東ティモールの敵
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/d7390bfb7239450b62ea598d6c05a462

2006.06.01 東ティモールで何が起こっているのか
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/d425e4a09cf0d765358f93007e117223

2006.05.29 石油のためなら国際法も無視
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/b0e4db99598701d7ca944d7caab6c78d

2006.05.26 東ティモールと石油
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/7e7b590506bf7f6d85d60ed994527872

●東ティモールの石油を狙うオーストラリア

2007.09.08 Australia siphoning off East Timor's oil and gas reserves
http://www.thedailystar.net/story.php?nid=3066

2007.08.17 Australia:international oil thief
http://www.greenleft.org.au/2007/721/37445

2006.06.24 East Timor's main enemy Aust: General
http://www.abc.net.au/news/newsitems/200606/s1670775.htm

2006.06.22 Australia - Peacekeeper or Petroleum Predator?
http://ipsnews.net/news.asp?idnews=33714

2004.05.19 Australia rapped over E Timor oil 
http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/3729807.stm

2004.11 オーストラリアに横取りされる東ティモールの石油資源
http://www.diplo.jp/articles04/0411-3.html


●ラモス・ホルタ大統領襲撃 : 一般報道

2008.02.14 東ティモール 『戦い引き継ぐ』気勢と拳
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2008021402087331.html

2008.02.14 襲撃は暗殺ではなく誘拐が目的だった
http://www.25today.com/news/2008/02/1_8.php

2008.02.13 東ティモール、大統領襲撃事件で18人に逮捕状
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2350227/2631775

2008.02.12 増派の豪州軍が12日到着、大統領暗殺未遂の東ティモール
http://www.cnn.co.jp/world/CNN200802120027.html

2008.02.12 E Timor called off hunt for Reinado
http://www.worldpress.org/link.cfm?http://www.abc.net.au/news/stories/2008/02/12/2160982.htm

2008.02.11 東ティモール大統領、銃撃され負傷
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2349378/2626239

2007.03.14 オーストラリア外相の投降要求を拒否 東ティモール反乱軍リーダー
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200703142108323

2007.02.01 反乱将兵なお火種:東ティモール、混乱再発も
http://209.85.175.104/search?q=cache:YK5HNIDUZWEJ:kk.kyodo.co.jp/is/column/risk/risk-070201.html+%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%89&hl=ja&ct=clnk&cd=26&gl=jp

2006.09.01 反乱将校ら57人脱走 政情不安の東ティモール
http://www.47news.jp/CN/200609/CN2006090101002787.html


アメリカ大統領選挙 : 30億ドルの茶番

2008年02月15日 00時34分03秒 | 米大統領選

アメリカはいま、大統領予備選挙で大いに盛り上がっているようだ。
しかし、過去二回の大統領選挙の投票が、疑惑だらけだったという事実は、忘れ去られているかのようだ。
たぶん、忘れているのだろう。

●二大政党制のまやかし

 二大政党といっても財界という党の二つの派閥にすぎないのである。国民の大半は投票にも足を運ばない。わざわざ行くほどの意味があるとも思えないからだ。彼らは社会の動きから取り残され、うまいこと関心をそらされている。
『メディア・コントロール』 ノーム・チョムスキー著

 

 米国は基本的にはひとつの党しかない状態であると、しばしば政治学者によって指摘されてきました。すなわち、民主党と共和党という2つの派閥をもつ財界政党であるということです。
ノーム・チョムスキーへのインタビュー
http://www1.gifu-u.ac.jp/~terasima/interview040102jew040322hate.htm


国家の政治機構を恒久的に掌握しようと思えば、複数政党制を装えばいい、ということだ。それは、それほど難しいことには思えない。

複数の政党を用意(設立または既成政党を乗っ取る、買収する)して、相反する主張や綱領を掲げ、まったく違った信念に基づいた政党に仕立て上げる。そして票田を明確に分ける。企業経営者と労働者、白人とマイノリティ、都市と地方、保守とリベラルといった具合だ。異なる階層や集団の利益を代表しているように見せかけて、実は国民を細かく分断し、対立させ、団結できないようにする。国民の要求はすべて支持政党が代弁・実現すると信じ込ませる。しかし実際は、支持者の要求は、少し、または不完全にしか実現されない。両政党の勢力を拮抗させておけば、要求が実現できないのは相手政党の責任にすることができる。

定期的に政権を交代して、一定の利益の移動や政策の変更を行っておけば、ほとんどの階層や職業、地域から提起される要求や不満を吸収集散することができるだろう。見た目には、複数政党制の議会制民主主義に見えても、中身は一党独裁なのだ。このカラクリは、2000年までは、ほとんどボロを出さずに運営されていた。

過去二回の大統領選挙において、不正が行われたことは明らかだ。自党の候補が二度も不正によって敗北したにもかかわらず、民主党は何の効果的なアクションも起こしていない。クリントン大統領も沈黙を守ったまま、ブッシュへバトンを渡した。本来、民主党は総力を駆使して、事実を解明しなければならないはずだ。

民主党が、事実究明を避けたことは明白だ。それは民主党にとっても不利益になるからだ。不正の事実が明らかになれば共和党が弱体化する。そうなれば、二大政党制というカラクリが成り立たなくなる。すべてのまやかしの前提が崩壊してしまう。事実を究明してはならないのだ。

こうした場合、もっとも効果的な戦術は、双方がまるで何事もなかったかのような顔をすることだ。クリントンもブッシュもゴアもケリーも、共和党も民主党も、今日に至るまで、不正についてまったく言及していない。大手メディアもほとんど触れようとしないタブー中のタブーなのだ。

どのような不正や疑惑も、四年あればたいていの人は忘れてくれる。

●テレビ広告に消える巨額選挙資金

 2007年末までに、民主党および共和党の指名を争う候補者たちはすでに、合わせて5億ドルを大幅に超える資金を調達していた。予備選挙が終わるころには、大統領候補は10億ドルをはるかに上回る資金を集めているであろう。

2007-08年の一般選挙運動期間中の支出は、全体で30億ドル近くになる可能性がある。

在日米国大使館ホームページ
http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-20080123-02.html


全体で30億ドル・・・
一回の選挙のために3000億円以上もの資金を投入するのだ。そんなに金をかけなければ選挙はできないものか?

米国大統領は世界で最も影響力のある指導者というだけでなく、おそらく世界史上で最も影響力のある指導者でもある。従って、米国大統領選挙の結果は世界中の人々に影響を与える。
http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-20080123-02.html


見せかけの二大政党制下では、どちらの党の誰が大統領になっても同じことだ。しかし、表向きは世界の覇権国アメリカの指導者を決める選挙なので、それ相応の儀式でなければならない。他国にマネができるような選挙ではアメリカの威信は保てないのだ。何もない月に人間を送るのと同じだ。どれだけの無駄を行えるかが、本当の国力の誇示なのだ。アメリカはあらゆる場面で浪費しなければならない。どうせ、そのツケは他国が払うのだ。

同時に、莫大な資金が必要な選挙は、二大政党制を強化する。あくまでアメリカの大統領は「二大政党」のどちらかでなければならないのだ。しかし、制度的には小政党(緑の党、リバタリアン党など)や無所属の候補にも機会は平等に与えられている。しかし、選挙資金は、こうした政党や無所属候補が到底集められないほどの巨費に膨らんでいる。もはや、勝負にはならない。事実上、小政党や無所属候補は排除されているのだ。

この莫大な選挙資金がどこで浪費されているかといえば、その大半がテレビ広告に費やされる。2000年は、約6億ドルがテレビ広告に使われた。今回の選挙資金30億ドルも、相当部分がテレビ画面の中に消えていくだろう。しかし、テレビ広告はそれほどの浪費をする価値があるのだろうか。

もし、テレビ広告が巨費を投じるほどの価値があるのなら、投票率に反映されているかもしれない。

●投票率

目もくらむほどの資金が投じられるアメリカ大統領選挙だが、その投票率は、低い。
予備選挙にいたっては、目を瞠るほど、低い。

2月5日のスーパーチューズデーは、異例の高投票率だったことがニュースになった。その最高の数字がたったの16%なのだ。通常はどの予備選挙でも投票率は「一桁台」らしい。テレビが報じるあの熱狂的馬鹿騒ぎからは想像できないほどの低さだ。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080207-OYT1T00465.htm

予備選挙の参加者は米国全有権者の2割程度であり、しかも大勢判明後は候補者選定についての影響力が薄れるため、実質的に候補者選定に関わる有権者は1割にも満たないといわれる。
2004 アメリカ大統領選挙の手続  国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/0456.pdf


一桁台の投票率で、ヒラリーだ、オバマだ、とメディアは騒いでいるのだ。
これが予備選挙の実態だ。
では、一般選挙(本選挙)はどうだろう。

歴代の一般選挙の投票率はだいたい50%をわずかに超える程度だ。60%を超える投票率ははるかベトナム戦争時代までさかのぼらなければならない。ちなみに、中間選挙(上院の三分の一と下院)の投票率はなんと30%台だ。

アメリカ大統領選挙 投票率
2004 -- 55.3
2000 -- 51.3
1996 -- 49.1
1992 -- 55.1
1988 -- 50.1
1984 -- 53.1
1980 -- 52.6
1976 -- 53.6
1972 -- 55.2
1968 -- 60.8
1964 -- 61.9
1960 -- 63.1

National Voter Turnout in Federal Elections: 1960-2006
http://www.infoplease.com/ipa/A0781453.html

「世界史上で最も影響力のある指導者」を選ぶ選挙にしては、アメリカ大統領選挙の投票率はかなり低いと言える。投票率を見る限り、何百億円もかけたテレビ広告の効果はほとんど数字に反映されていないと言える。

テレビ広告は、誰かに向けて打たれているわけではない。
決して、投票してもらうための広告ではないのだ。
各候補がテレビ広告で行っている内容は、ほとんどが単なる中傷合戦だ。
そんなものばかり見せられて誰が投票に行く。

●二大政党にだけ有利な選挙制度

アメリカの大統領選挙は、巨費が必要なだけでなく、予備選、党大会、本選挙という流れで、一年もの期間にわたって展開される。資金集めの準備も含めればおよそ二年という長期戦だ。

1月に始まった予備選挙がすべての州で終わるのは、はるか6月だ。そのあと、党大会が開催され、やっと党の「候補」が決定される。そして、ようやく一般選挙の活動がはじまり、11月に投票となる。

2008年アメリカ大統領選挙の日程
 1月 3日   アイオワ州党員集会
 1月 8日   ニューハンプシャー州予備選挙
 1月26日   サウスカロライナ州予備選挙
 1月29日   フロリダ州予備選挙
 2月 5日   ニューヨーク州、イリノイ州、カリフォルニア州など20 以上の州で「スーパーチューズデ イ」予備選挙
 3月 4日    バーモント州、ロードアイラ ンド州、オハイオ州、テキサス州でミニ「スーパーチュー ズデイ」予備選挙
 4月22日   ペンシルバニア州予備選挙
 6月 3日   モンタナ州、サウスダコタ州、ニューメキシコ州で最終の予備選挙
 8月25-28日 民主党全国大会、ミネアポリス・セントポール (ミネソタ州)
 9月 1- 4日  共和党全国大会、デンバー(コロラド州)
 9月26日   第1回大統領候補討論会(国内政策)
10月 2日     副大統領候補討論会
10月 7日     第2回大統領候補討論会(聴衆との質疑応答)
10月15日    第3回大統領候補討論会(外交政策)
11月 4日    大統領選挙日
12月15日    選挙人団の公式投票

2009年
1月 5日    副大統領が連邦議会で選挙人 票を開票
2009年
1月20日    新大統領の就任式

http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-20080123-02.html

アメリカの大統領選挙は、予備選挙も一般選挙も間接投票になっている。予備選では、「代議員」に投票する。一般選挙では「選挙人」に投票する。

一般選挙における「選挙人」は合計538人。各州の選挙人の数は、州の上院議員と下院議員の数と同じ。選挙人が一番多い州はカリフォルニア州の55人。ついでテキサス州の34人、ニューヨーク州の31人。一番少ないのは、アラスカ州やモンタナ州などの3人。
http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-elec2004college.html

選挙人は、共和党と民主党双方が独自に選出し、名簿を州の選管に提出する。有権者は、この「名簿(選挙人団)」に投票する。しかしながら、投票用紙には大統領候補者の名前しか書いていない。したがって、直接投票だと思っている有権者も多いらしい。ややこしい。

投票の多かった方の候補が、その州の選挙人団を総取りする(勝者独占方式)。つまり、カリフォルニア州だと、勝った方が55人すべてを得る。負けた方は0だ。100万票差でも、1票差でも、勝てば55人すべてを得る(例外的な州もある)。過半数270人を獲得した方が勝つ。

伝統的にどちらかの党が圧倒的に強いことがわかっている州は、投票をするまでもなく票を読むことができる。そうした州では、少数派はもはや投票する意味がない。投票率は必然的に低くなるだろう。

しかし、長期に及ぶ選挙戦や勝者独占方式の間接投票の本質的な意味は、二大政党以外の候補にとって根本的に不利だということだ。小政党や無所属の候補が、一年間もの期間を通じて、全国展開するために必要なマンパワーを維持するのは、かなり困難と言える。

アメリカの選挙制度というのは、破格の集金力と巨大な組織力を持たない候補は、最初から排除されているのだ。
すべては、二大政党のためだけにあるのだ。
つまり、一党独裁は恒久的に維持されるのだ。

●被害者か共犯か

過去二回の大統領選挙で、さまざまな不正が行われていたことは、歴然としている。特に2004年はなんでもありの状態だった。

2000年の選挙では、ジョージ・W・ブッシュ候補とアル・ゴア候補は大接戦を展開した。メディアは最初、ゴア当選と報じ、ついでブッシュ当選と訂正し、さらに「不明」と報じた。フロリダ州での差が僅差であったため、州法の規定で再集計が決まったからだ。そのとき、判別のあいまいな多量の票が存在したため、再集計を手作業で行うかどうかで、ブッシュとゴアは訴訟合戦を行った。

民主党よりのフロリダ州最高裁はゴアの主張を認め、手作業集計を命じた。しかし、共和党よりの連邦最高裁は集計の期限を決めた。結局、期限切れを理由に手作業による再集計は途中で打ち切られた。これにより、537票差でブッシュはフロリダ州の選挙人25を獲得して、大統領選挙を制した。

最終的な選挙人獲得数は、ブッシュ271、ゴア266。無効1。その差はたった5だ。全国総得票数では、ゴアが50万票上回っていた。勝者独占方式によって、こうした逆転現象も起こる。

ブッシュの大統領就任式には、抗議する市民が数万人押しかけたが、なぜかゴアと民主党は、この抗議活動を押さえ込もうとしたようだ。民間人となったゴアは、アップルコンピュータの取締役に就任したり、複数の大学で教鞭をとるなど、政界から離れた。何度か大統領選挙への再出馬が取りざたされたが、2007年末、ノーベル賞受賞の際のインタビューで「もう一度立候補する意志はない」と明言した。

2004年の大統領選挙では、さまざまな不正の疑惑が噴出した。電子投票の操作、票の廃棄、有権者登録の妨害、投票妨害などなど。にもかかわらず、ジョン・ケリーは異議を唱えるどころか、すばやく「敗北宣言」を出して、さっさと姿を消してしまった。不正を追求する市民は置き去りにされた。ケリーによる早すぎる「敗北宣言」は誰の目にも不自然だった。エール大学時代、ブッシュと同じ特権的クラブ「スカル・アンド・ボーンズ」に所属していたジョン・ケリーのこの行動はかなり露骨と言える。

ジョン・ケリーは、ベトナム戦争で受勲した勲章を、除隊後、国会議事堂に投げ返している(オリジナルは保管しているという話もある)。こうした経歴によってケリーは「反戦派」の議員とされ、2004年の大統領選挙では、イラク戦争に反対する市民から期待された。しかし、ケリーが議会でイラク戦争に反対したことはなかった。

つまるところ、ケリーは最初から大統領選挙に負けるために登場したのだ。反戦派的な経歴が、かえってブッシュの対抗馬としては適任だった。世論はとっくにブッシュに背を向けていたので、対抗馬は正反対に見えた方が騙しやすい。迫真の選挙戦を戦ったあと、ケリーはさっさと舞台を降りた。早すぎる「敗北宣言」がなければ、ケリーは危うく勝ってしまっていたことだろう。このときも、民主党は目立った抗議はしていない。

二つの大統領選挙で二大政党制のカラクリがかなり露骨に現れた。白熱しているように見えても、実際は同一政党の派閥間で争っているにすぎないということだ。何かがあれば、いつでもどのような調節も可能なのだ。重要なのは、二大政党制をこそ維持することなのだ。

不正の被害者だと思われていた人物は、有権者を裏切っていたのだ。被害者どころか、彼らは不正の共犯なのだ。

アル・ゴアは、昨年、「地球温暖化の認知を高めた」という理由でノーベル平和賞を受賞した。彼の啓発活動の代名詞ともなったドキュメンタリー映画『不都合な真実』は、イギリスの高等法院によって9つもの科学的な間違いを指摘されている。そのため、イギリスの教育機関では条件付でしか上映できない。その程度のものが代表作でしかないゴアが、ノーベル賞を受賞したのは別段驚くにはあたらない。
いずれ、ジョン・ケリーにもノーベル賞級の見返りがもたらされるのかもしれない。



アメリカ大統領選挙 : 30億ドルの茶番  : 資料編
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo2/e/0aebd5dac9d22fe3e171c7ccd0fe2f4d