報道写真家から(2)

中司達也のブログ 『 報道写真家から 』 の続編です

東ティモール : ラモス・ホルタ大統領襲撃の真相 2

2008年02月27日 11時28分35秒 | 東ティモール

今回もラモス・ホルタ大統領襲撃に関する記事を仮訳して掲載します。出典は同じサイトで、最初の記事は事件からたった二日後、今回の記事は一週間後に掲載されています。

世界中のメディアが何の検証もせず、公式発表を垂れ流す中で、おそらく唯一、継続的な取材に基づいて書かれたレポートであると言えます。

なお、あくまで素人による訳文であり、不備のあることをご了承ください。

公的な「暗殺」説は崩壊した

原文
Official "assassination" claims collapse
By Mike Head
19 February 2008
http://www.wsws.org/articles/2008/feb2008/timo-f19.shtml

2月11日の東ティモールでの事件は ─ 反乱軍アルフレド・レイナドによる、大統領ジョゼ・ラモス・ホルタと首相シャナナ・グスマンに対する 「 クーデター 」 と 「 同時暗殺 」 の企てである ─ という公式説明は、ちょうど一週間後に崩れ去った。先週の土曜(2月16日)にオーストラリアのジャーナリスト Paul Toohey は、それを [ 暗殺の企て ] などと信じている者は、東ティモールにはほとんど誰もいない、と述べている。

いまだ多くが不明瞭なまま残っているが、確かなことが一つだけある。(レイナドによる)企てだという主張は、二人のプレイヤーの権力を強化することに利用されたということだ: グスマンと彼の不安定な連立政府、そして、ケビン・ラッド首相のオーストラリア政府だ。

ラッドは、先週の金曜(2月15日)に東ティモールにやって来るなり、オーストラリアの部隊は無期限に駐留すると宣言した。その前夜、ラッドは、オーストラリア放送協会の”レイトライン”の番組で、東ティモールでの事件は”不透明”だが、彼の訪問はオーストラリア政府が事実を解明する手助けになるだろう、と語った。

しかし、ラッドの短い滞在は真相究明のためなどではない。それは、単に力の誇示のためだった。グスマンとのおざなりな会見の後、ラッドは記者会見を開き、グスマン政府と共に「協力して」やっていくと誓った。彼は、オーストラリア国防長官 Angus Houston と連邦警察長官 Bill Keelty を従えて、「このすばらしい国の民主的に選出された指導者に対して行われた蛮行」を糾弾した。

ラッドは、4時間の滞在の大部分をオーストラリアの軍人や警官との写真撮影に費やした。東ティモール政府が要求する限り、彼らは駐留し続けると彼は発言し、これは「民主的に選出された」ディリ政府からの招請なのだ、と繰り返し強調した。襲撃事件は、グスマン政府へのてこ入れと、政治上、安全保障上のキャンベラへの依存度を高めるために利用されたことは明らかだ。

オーストラリア兵は、ディリ地区と近隣の町の支配権を握り、装甲車でパトロールし、道路に障害を設け、車両を検問し、夜間の外出禁止を強要した。グスマンは、非常事態宣言をさらに10日間、2月23日まで延長した。午後8時から朝6時までの外出禁止とは別に、デモと集会も禁止され、警察権力は強化された。

先週の火曜(2月12日)に急派された340名(海軍戦艦HMAS Perthの乗組員を含む)のオーストラリア軍と警察官の中に、約80名のSAS隊員が含まれていたことは不吉な動きだ。オーストラリアの臨時治安部隊は1100人を超え、SAS部隊は、逃げ延びたレイナドの支持者を追跡捕縛するために、東ティモールの山岳地帯へ送られた。支持者のうち何人かは、レイナドはホルタの住居の外にいた東ティモール兵に”嵌められ”そして殺された、と主張している。メディアの報道によると、臨戦体勢のSAS部隊の編成は、グスマンの要請による。
※ SAS (Special Air Service : オーストラリア特殊空挺部隊)

 レイナドは、ラモス・ホルタとの合意後に殺された

公的発表、およびメディア報道は、「暗殺」計画を誇大に扱いすぎている。実際の標的になった二人 ─ レイナドとラモス・ホルタ ─ は、ほんの四週間前に平和的合意に達していた、というのが真実なのだ。レイナドは、ラモス・ホルタ大統領が銃撃を受ける直前に、彼の住居で殺害された。そして、少なくともその90分前に10キロ離れた地点で、グスマンの車両は、伝えられるところでは、正体不明の襲撃者によって銃撃された。

ラモス・ホルタの友人(匿名)はAP通信に、銃撃戦はラモス・ホルタが毎朝の習慣の散歩から帰る前の約30分間展開された、と語った。ラモス・ホルタは、散歩の途中で銃撃について警告されたが、通りがかった車に乗ることを断り、拳銃を持ったボディガード二人だけに護衛されて、徒歩で家に戻った。この一連の出来事は、エイジ紙に語られた匿名の軍情報によって確認されている。ラモス・ホルタの戻る30分前、夜間警備と交代するために到着した警備員は、レイナドが住居にいることを発見し、レイナドは顔面を撃たれた。

レイナドの遺体の検死は、先週の火曜(2月12日)の埋葬のため、家族に公開された。彼は左目、左胸、首への三発の銃創を負っていていることが明らかになった。彼の護衛の元憲兵レオポルディーノ(Leopoldino)もまた射殺された。オーストラリア北部都市のダーウィンでいまだ重態で入院中のラモス・ホルタは、対照的に、背中を撃たれている。親戚、友人、そしてレイナドの同僚は、ホルタは東ティモール軍すなわちF-FDTLの兵士の待ち伏せ部隊に撃たれたと主張している。
※ F-FDTL( Falintil-Forca Defesa Timor-Leste : ファリンティル‐東ティモール国防軍)

オーストラリアン紙のTooheyによると、2月11日にレイナドと共にいた2人の男はホルタの住居の中に隠れており、彼らはレイナドの養父ビクトール・アウベス(Victor Alves)に、F-FDTL軍が背後からラモス・ホルタを撃った、と語ったという。また、東ティモール生まれのオーストラリア人 Angelita Pires も、レイナドはおびき出されて殺された、と主張しているひとりだが、2月11日の襲撃に関係しているとして昨日(2月18日)突然逮捕された。

レイナドがどのようにしてラモス・ホルタの住居に入ったのか、そして、なぜそこにいたのか、という理由はいまだ定かではない。しかし、彼がホルタの住居にいたのは、大統領とさらなる協議をするために、本人からの明確な、あるいは暗黙の了解があった、というのは十分あり得ることだ。ラジオ・ティモール・レステは、レイナドは襲撃者などではなく、一週間前までラモス・ホルタ家の客人であり、彼は襲撃を止めるために家から走り出たのである、と伝えている。

先週の土曜(2月16日)、エイジ紙とシドニー・モーニング・ヘラルド紙は、1月13日に行われた秘密会合の後、支援者とともに、レイナドとラモス・ホルタが笑顔で並んでいる写真を掲載した。これで銃撃の動機は鮮明になってきた。その会合では、レイナドと約600人の「嘆願者」は二年間の反乱を停止するという合意が成立していたのだ。
※「嘆願者」 : 2006年に国防軍内での”地域差別”の改善要求をして解雇された兵士約600人。

ラモス・ホルタは、ジュネーブの人権対話センターの仲介によって、彼らと協議するため、武器も護衛もなしでモビシの山村までいった。そして、合意が成立した。レイナドと部下は降伏し、自宅軟禁下におかれ、そして殺人と反乱の罪で裁判をおこなう。ただし、5月20日のポルトガルとインドネシア支配からの正式独立6周年記念日に、恩赦によって赦免される。

東ティモールの経済相ジョアン・ゴンサウベス(Joao Goncalves)は、その会合は和やかで友好的であり、協議はほとんど合意された、とフェアファックス所有の新聞に語った。ワインとともにヤギとラムとチキンの昼食をとり、レイナドとラモス・ホルタは握手をして、数日以内に再び会うことを約束して別れた。

この合意の足をひっぱる明らかな動きもあった。伝えられるところによれば、グスマンは、軍を離反し解雇された兵士ガストン・サウシーニャ(Gastao Salsinha) ─ レイナドとの共闘に一定の忠義をまもる ─ との会合を準備していた。首相は、三年分の給与の一括補償、または、軍への復帰を提示したとされている。この提示は、レイナドの孤立化を迫るためだった。

去年の12月に、グスマンは、レイナドにすみやかな降伏を要求する最後通達をつきつけた。レイナドは、1月にDVDによる声明でこれに答えた。その中でレイナドは、グスマンは操られた元首であり、オーストラリア軍の軍事介入を招くことになる、兵士の反乱と暴動の引き金となった「嘆願者の作者」である。そして最終的に、フレテリンのマリ・アルカティリ首相を辞任に追い込んだのだ、と糾弾した。

レイナドの告発は、東ティモールでは広く伝えられているが、オーストラリアのメディアによって遮断され、国外には伝わっていない。アルカティリは、レイナドの告発に答えるよう議会で要求したが、グスマンは拒絶した。地元のレポーターがグスマンを追求したところ、グスマンは、もしこの件を追跡取材したり、レイナドにインタビューしたりすれば、逮捕されることになるだろうと警告した。

レイナドの告発は、真実の響きがある。われわれWSWSは、グスマンやレイナド、ビンセント・ライロス、そして2006年の反乱における他の主要人物との連絡を保持し、記録してきた。アルカティリ辞任の引き金となったのは、アルカティリに対するライロスの申し立てが、豪ABC放送の番組「フォー・コーナー」で取り上げられたことだった。後に、ライロスは、2007年の議会選挙戦のためにグスマンが新設した政党CNRTの世話役になった。

レイナドによる告発は、グスマン ─2006年に大統領の任期を終え、首相に就いた─ を刑事裁判にかけるに十分な潜在力を持つだけだけでなく、フレテリン政府に対する攻撃と追い落としに関するオーストラリアの暗躍についての疑いをも喚起する。

東ティモールでの昨年の大統領と議会選挙の間は、グスマンとラモス・ホルタはレイナドを逮捕させないように努めた。彼らは、フレテリンを完全に権力から放逐するため、議会で多数派を形成しなければならず、そのためには当時の二番目に大きな政党である民主党の支援が必要だった。そして民主党もレイナドも、同じ東ティモールの西半分から支持を得ていたのだ。

レイナドは殺害されたとき、まだ安全保証書を持っていた。オーストラリアン紙は先週、国際治安維持軍(ISF)のオーストラリア人指揮官によって、レイナドの弁護士 Benny Benevides 宛てに書かれた、安全を保証する10月18日付けの書面を引用した。その書面には「貴下のクライアントは、会合の期間に事前合意されたすべての協議内容に彼が応じることを条件として、貴下のクライアントの移動は阻害されることがないことをここに保証する」と定められていた。

ラモス・ホルタはレイナドと会談していた唯一の政治代表ではなかった。オーストラリア部隊の到着で、会合は一時途絶えていたが、ほんのつい最近の2月6日にも、三人の政府議員がエルメラでレイナドと会っていた。政府幹部の誰がレイナドに会うよう指図したかついて、先週、フレテリン議員のドミンゴス・サルメントは、三人の議員からの説明を要求した。

グスマンもまた2月11日の暗殺の標的だったという公式説明に関して、グスマンの車両に対する銃撃のすべてがタイヤにだけなされていることについて、レポーターから疑問が投げかけられている。すると国連の調査団は、襲撃は二人の政府要人の殺害ではなく誘拐が目的だった、と記者への公式説明の切り替えを行った。しかしこうした説明は、当初のものに比べ信憑性が格段に低い。

 グスマンとオーストラリアの戦略的利害

とりわけ2006年のアルカティリの排除以来、2007年にキャンベラの後ろ盾で大統領職から首相職に移行したグスマンは、オーストラリアの政策にとっての要である。2007年の選挙で最多得票を獲得した政党はフレテリンだが、ラモス・ホルタはアンチ・フレテリン共闘の形成のためにグスマンの新党CNRTを誘った。
※ グスマン政権は三党連立 ( CNRT18、社会民主党連合11、民主党8、計37議席 )。最多議席はフレテリンの21議席だが、現在野党。

ラッドの支援にもかかわらず、グスマン政権は不安定なままで、フレテリン党は新しい選挙の要求を加速している。フレテリンは、政府が2月11日の襲撃を阻止できなかったことを糾弾し、アルカテリは、もし私がまだ(首相に)在職していたとしたら、国民は私に辞職を要求しただろう、と語った。フレテリンが、ラモス・ホルタとグスマンの暗殺を100万ドルでレイナドに依頼したとする、非常に疑わしい文書の流布で政治的緊張が高まっている。

グスマンの政府は、庶民の貧困と惨状に対して何の発言をする意思もなく、その能力もないことを露呈したため、グスマンに対する民衆の不満は上昇している。およそ10万人のフレテリン支持者は、いまだ不便な難民キャンプで生活している。
そして、労働人口の80%は、失業もしくは生存最低限の農業従事者である。いわゆる独立から6年、たとえ、ティモール海の底で何十億ドル分もの石油とガスが採掘されていようとも、東ティモールはいまだ地上でもっとも貧しい範疇のままなのである。

1999年のオーストラリアによる東ティモールへの最初の軍事介入に続いて、ハワード政府は、主要海底油田に対するオーストラリアの支配権の拡大を、最終的にアルカティリ政府を追い詰めて受け入れさせた。一方、国際通貨基金(IMF)と世界銀行は、過剰歳出を予防する社会計画として、ティモールの石油とガスの収入を石油預託基金に預けるよう主張した。石油基金は現在、20億ドル以上あるが、十年後に楽観的見積もりの頂点に達したとしても、その年間投資収益は一人あたり2500ドルに達する程度である。昨年、IMFは東ティモールにおける貧困は、今後数年間悪化し続けるだろうと予測した。

オーストラリアの安全保障局は裏舞台で、東ティモールへのさらなる深い介入を求めていた。ハワード政府は、ソロモン諸島地域支援ミッション(RAMSI)の途上で、警察や裁判所、刑務所、国庫などの国家機構の主要部門に対する支配権を巧妙に掌握していた。政府出資のオーストラリア戦略政策研究所(ASPI)は、昨年11月発行の論文「戦略的見通し」で: 「専門性の高い開発の提案や公共サービスの精神を補完する政治的経済的助言、そして国連ミッションやIMFが行う監査などと同様に、警察長官や検事総長、高裁判事のような重要な地位にある海外居住者は、政治的障壁の克服に役立つ」と提案している

オーストラリアン紙の国外編集者Greg Sheridanは、これら新植民地的欲望について先週のコラムで、東ティモールへの介入に関して、より長期的視野を持つようラッド政府に促した。「もし、われわれが、メラネシア圏での新覇権的権力であるならば、われわれは、安全保障、精力的継続的援助の提供、国際秩序の遵守、伝染病拡散の監視など、そしてこの地域での国家運営への長期的投資を図る必要がある」と彼は書いている。しかし、これらの提言には、東ティモール民衆の生活状態の支援や向上に対して何一つ触れていない。ラッドは、先週の金曜(2月15日)、軍の無期限駐留は約束したが、経済援助に関しては、あいまいで不特定な提示をしただけである。1999年以来、ASPIの見積もりによると、キャンベラは東ティモールでの軍と警察の活動に40億ドルを費やしたが、政府開発援助は5億5000万ドルだけである。いかなる場合でも、「援助」の主要目的は、オーストラリアの利益を強化することであり、それはオーストラリアの企業が利潤を追求するのと同じなのである。

オーストラリアの財界と政界のエリートの関心は、資源豊富で、戦略上の要衝である隣国の島の半分に対する支配力を拡大することと、ライバル国家、とりわけ中国からの揺さぶりに対抗することである。ASPIレポートは、「中国が東ティモールに大きな大使館を持つ、主要な援助提供国である」ことを懸念している。2月11日の事件を利用したラッド政府は、ハワード政府が1999年に計画した方針を、基本的に引継いでいることをはっきりと示した。

http://www.wsws.org/articles/2008/feb2008/timo-f19.shtml