われわれが現実だと信じているものの大半は現実ではない。
意図的につくられた仮想現実の中でわれわれは暮らしている。
メディア報道を現実の忠実な投射だとわれわれは信じている。
しかし、メディアの役割とは、現実を仮想現実に加工することだ。
それは現実の臨場感を残した別の何かだ。
いま、中東諸国の暴力的な再編が進行しているが、世界のメディアは中東での出来事を、まるで自然発生的な成り行きであるかのように報じ、論評している。しかし、少し角度を変えれば、意図された作為の痕跡が浮かび上がって見える。だが国際社会は、そ知らぬ顔で、まるで自然発火した山火事に対して全力で対処しているかのように振舞っている。可燃物を密かに用意し、着火したのが誰であるかは煙の向こうに透けて見えている。これほど露骨で強引な蛮行がまんまと通用するのは、メディアが演出する綿密な仮想現実のおかげだ。
仮想現実はわれわれの意識を巧みに誘導し、操作し、条件付けている。メディアを通して何かを説明されると、われわれはいとも簡単に納得し、受け入れてしまう。カダフィ大佐は残忍な独裁者だとメディアが伝えれば、迷いもなく受け入れる。イランが核兵器を開発しているとメディアが言えば、鵜呑みにしてしまう。地球温暖化は二酸化炭素が原因だと説明されると、そのメカニズムが即座に頭に入る。われわれはメディアが伝える内容を無批判に際限なく受け入れるよう条件付けられている。したがって、その真偽を確かめようとはしない。
われわれは生まれたときから仮想現実の中で生きている。仮想現実は点描のようなものだ。個々の報道はそれほど明確な意味を持ってはいない。それは人の意識の中で折り重なることによってはじめて像を結ぶ。そして、意識に多大な影響を与える。
われわれの思考や判断は仮想現実を土台として組み立てられている。どれほどの知識を有していても、歪んだ土台では自由な発想はかなわない。結局われわれは羊の群れのように、草原に放たれても、牧羊犬によって自在に操られ、柵に誘導される。
重要なのは、われわれは仮想現実の住人にすぎないことを認識できるかどうかだ。それができれば、現実に触れることは容易だ。
ただし、現実を知ったからといって得をすることはない。仕事やビジネス、金儲けに役立つことはない。それどころか、うんざりするような現実を直視する不快感を味わい続けることになる。
それに比べれば、仮想現実の中で生きている方がずっと楽だ。大問題が勃発しても、それは放っておいても解決するようになっている。われわれはハラハラドキドキするだけの観客でいいのだ。サダム・フセインが「大量破壊兵器」を製造して、人類に脅威を与えても、有志連合軍がやってきて粉砕してくれるのだ。そしてまた一人独裁者が打倒されたとメディアが宣言すれば、胸のすくような気分を味わえるのだ。国際社会とメディアが、悪だと断罪する者はすべて地上から駆逐される。仮想現実の住人は、常に勧善懲悪のハッピーエンドを楽しめるのだ。
しかし、仮想現実の世界では一大スペクタクル物語に見えても、国際社会が実際に演じているのは陳腐極まりない学芸会にすぎない。大統領や国務長官といった面々が大真面目で学芸会を演じ、誰かを悪役に仕立て上げ、大手メディアが深刻な表情で事態を伝えると、学芸会が現実のように見えるのだ。その陳腐な学芸会の末に、本物の爆弾が生きている人間の頭上に投下される。メディアはそれを自由への崇高な行為と称える。仮想現実ではハッピーエンドでも、現実世界では罪もない大勢の人々の凄まじい血が流れている。
メディアは決して事実や真実を伝える機関などではない。メディアは恒常的に情報の操作や加工を担当とする部門だ。メディアにはそのための組織的記憶やノウハウが蓄積されている。現実を切り刻み、すり潰し、練り合わせ、引き伸ばし、成型し、焼き上げる。ニーズに合わせて現実をいかようにも加工する極めて優秀な情報の加工部門なのだ。
本当の現実を知りたければ、仮想現実の影響から逃れなければならない。しかし、仮想現実はすでにわれわれの精神の土台を構成している。生まれたときから空気のようにわれわれにまとわりついているのだ。服を着替えるようにはいかない。既存の知識は何の役にも立たない。それも仮想現実の構成要素だ。
われわれに必要なのは知識ではなく嗅覚だ。誰しもメディアの報道に胡散臭さや白々しさを感じるときがある。その感覚を得たときを逃すべきではない。そこには何かがある。
目に留まった情報は、すべて保存する習慣をつけておいた方がいい。役に立つとか立たないとか、価値があるとかないとかのくだらない基準で情報を選別すべきではない。所詮すべては仮想現実のサンプルにすぎないのだ。心に引っかかったものだけを残すことだ。そうして保存したものを俯瞰していると、ぼんやり浮かび上がってくるものがある。あるいは突然のインスピレーションの場合もある。仮想現実の裏側に現実の一端を垣間見る瞬間だ。
われわれはすべからく仮想現実の住人でしかないことを自覚できたら、あとはそれほど難しいことではない。メディアが加工した仮想現実を利用して、逆に現実を読み取ることができる。もちろん、すべてを読み取れるわけではない。迷宮をさまよい、泥沼に足を取られることも多い。しかし、少なくとも牧羊犬にあしらわれ、体よく柵に追い込まれることはない。
今から何世紀か後の人々は、われわれの時代をどのように捉えるだろうか。
「民主化」という欺瞞が跋扈した暗黒時代として正しく認識してくれるだろうか。
それとも、彼らもまた仮想現実の中で暮らす虜囚だろうか。