報道写真家から(2)

中司達也のブログ 『 報道写真家から 』 の続編です

カダフィ大佐の最期とアフリカ支配

2011年10月22日 12時00分35秒 | リビア

NATO軍による理不尽極まりない空爆からちょうど7ヶ月。
カダフィ大佐に最期が訪れた。
彼はできるだけ凄惨に殺害されなければならなかった。

国際社会が「独裁者」をどのように判定しているのかは知らない。しかしはっきり言えるのは、全国民に無料の高等教育を提供してきた人物を果たして独裁者と呼ぶべきなのか、ということだ。カダフィ政権は、最高の医療も無料で国民に提供してきた。河川が一本も存在しないリビアで、安全な飲料水を国民に供給するために、200億ドルもの予算を使って地下水を汲み上げるシステムを建設した(一部未着工)。公共のローンは無利息で提供されたし、輸入車に補助金を設けて、すべての世帯が車を所有できるようにもした。

独裁者というのは、国民の教育や医療、福祉予算を鷲づかみにしてポケットにねじ込み、タックスヘイブンに隠し持つような人物をいうのではないのか。

英国政府は、リビアで反乱が勃発するとすぐにカダフィ大佐らの個人資産200億ポンド(2.6兆円)を凍結したと発表した。しかし、次男のセイフ・イスラム氏は、我々家族はそのような海外資産など保有していないと一蹴した。アメリカ政府も2.4兆円の資産を凍結したと発表した。国民の資産を私物化する独裁者というイメージを世界に植えつけるためだ。

今後、イギリスやアメリカが合わせて5兆円にのぼる「凍結資産」をリビアに返還するかどうかモニターすべきだ。返還されなければ、そんな個人資産は最初から存在しなかったということになる。

カダフィ大佐にまつわる報道は見え透いたウソや作り話で塗り固められている。

テレビ映像では、大勢のリビア国民がカダフィ大佐殺害の報に歓喜の声を挙げている。しかし、自由意志で集まった人々だという保証はない。広場に集まらない者は敵とみなす、とアナウンスすれば、人々は一目散で広場に駆けつけるだろう。反乱軍は、民主主義や平和とは縁もゆかりもない武装集団にすぎないことを誰もが知っている。「カダフィ・ロイヤリスト」の疑いをかけられれば命はない。

外国メディアのインタビューに答えている人は、なぜか流暢な英語をしゃべっている。教育レベルの高いリビアにしても、群集にランダムにインタビューして、英語の質問に即座に英語で対応できる人に、そんなにうまく当たるものだろうか。現地語ではなく英語での受け答え、これもいつもの常套的パターンだ。

メディアの報道は、時と場所が違っても、いつもいつも判で押したように同じだ。「独裁」政権の崩壊に歓喜する群集と喜びの声。そんな映像にいったい何が代表されているというのか。しかし、世界の視聴者を欺くにはそれで十分なのだ。すでにパターン化されたものを踏襲することで、受け手は知的負担なくすべてを自然に受け入れる。

武装集団が実質的な権限を握るリビア新政府が、リビア国民の教育や医療、福祉に関心を持つとは誰も期待していない。新生リビアに待っているのは、終わりのない暗黒だということを誰もが理解している。

カダフィ政権の終焉は同時に、アフリカ大陸全体を暗雲に包むだろう。アフリカ連合が、リビア爆撃を止めようと努力したのは、これがリビア一国の問題ではないからだ。

2002年7月に設立されたアフリカ連合 (アフリカ統一機構を発展改組) は、アフリカの高度な政治的・経済的統合の実現をめざす機関だ。とりわけ重要な政策は、アフリカ中央銀行、アフリカ通貨基金、アフリカ投資銀行の設立を謳っていることだ。

その計画では、単一の中央銀行が発行する共通通貨が全アフリカで流通する。アフリカ通貨基金が通貨の安定を管理し、アフリカ投資銀行は無利息またはごく低金利のローンをアフリカ諸国に提供する。

これら三つの機関が意味するものは、アフリカ大陸の金融的独立だ。つまり、アフリカ大陸は、二度と欧米の資本を必要としないということだ。永遠に増え続ける債務地獄が終焉する。この三つの機関の運営を担保するのが、リビアの膨大な金保有(144トン)とオイルマネーだ。

アフリカの金融的独立は、欧米の金融機関からすれば、アフリカ大陸での莫大な利益と強大な権力の喪失を意味する。しかし、カダフィ大佐一人を地上から抹殺するだけで、そうした憂いを払拭できるとしたら、躊躇する理由があるだろうか。

武装集団が牛耳るリビア新政府が、統一アフリカや金融的独立に関心を持つかどうかは、考えるまでもない。

カダフィ大佐は、武装集団の手でできるだけ無残に殺害させる必要があった。
血にまみれる凄惨なカダフィ大佐の最期の姿は、全アフリカの指導者へのメッセージなのだ。