報道写真家から(2)

中司達也のブログ 『 報道写真家から 』 の続編です

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メディア批判の誤謬

2012年05月31日 00時26分33秒 | メディアリテラシー

メディア報道に不満を持つ人は多い。

「最近のメディアはなっていない」とか、「メディアにはもう少し、しっかりして欲しい」、
「メディアはもっと勉強すべきだ」、「メディアには失望した」といった類の記述はよく目にする。

しかし、メディア側からすると、こうした感覚や反応は、別段憂慮するほどのものではない。
メディアの本当の機能や役割については気づいていないことを示しているからだ。

トッピング

人がメディアの現状にいら立ちを募らせる背景には、「 メディアとは本来かくあるべきもの 」という理想像があるからだ。批判する側にこうした理想的雛形がある限り、どれだけ的確に難点を指摘されたとしても、メディアは決して意に介さない。人々の内にあるこうした理想像が、メディアにとっての鉄壁の防壁になっているからだ。つまり、自身の周りにではなく、大多数の心の中にあらかじめ防壁を築いているのだ。

一見、メディアは、少し条件が揃えば理想像に近い存在になりそうに見える。そこがミソだ。しかし、その日は永遠に来ない。真実の報道や不偏不党、公正中立、権力の番人などというのは、都合のよい自己申告にすぎない。そんな自己申告が通用するなら、マフィアが犯罪撲滅を謳えば、それを受け入れなければならない。

メディアの実際の機能は、人々の感覚や感情を刺激して、一定の方向へ誘導することだ。それ以外の役割はない。メディアはそのためのノウハウや組織的記憶を蓄積した専門機関だ。

何をどう報じるかは、あらかじめ別のステージで決定されている。メディアが現場へ取材陣を派遣するのは、事前のシナリオに、真実味や臨場感を加えるためだ。読者や視聴者は、プロが現地へ赴いてレポートしているのだから、真実に違いないと思い込む。本当は与えられた課題を強化できるものだけを選んで伝えているにすぎない。筋書きにそぐわないものはすべて無視される。メディアに求められるのは、白を黒に見せるテクニック、それだけだ。

「歴史的大事件」ともなると、メディア間で激しい報道合戦が起こる。手柄を急ぐあまり、粗製濫造の傾向が強くなる。唖然とするような強引な報道が平然とまかり通ったりする。しかし、受け手が真実だと思い込んでいると、不自然さまでもがかえって臨場感になっていたりする。

世界中のメディアが同じシナリオに即した報道を繰り返せば、すなわちそれが歴史になる。

メディアにとって事実や真実というのは、ウソに臨場感を加えるためにふりかけるトッピングのようなものだ。ウソで生地を練り上げ、その上に砕いた事実の断片をパラパラとふりかけ、釜に入れて焼くと報道ができあがる。

われわれは、生まれたときからそんなものを真実の報道として、日々摂取してきた。
メディアは、われわれをほぼ思い通りのところへ導く。

ファイアーウォール

メディアに操作されたり、誘導されているなどと自覚している人はいない。メディアに影響されたことなど一度たりともないと、たいていの人は考える。報道というのは、単なる材料にすぎず、常に自分自身で判断を下していると。

しかし残念ながら、メディアに影響されていないどころか、それはわれわれの血と肉そのものを形成している。それを証明するのはそれほど難しくはない。

サダム・フセインはいまやヒトラーと並ぶ人類史の負の象徴だ。
しかし彼は、国民の教育や医療に莫大な予算を投じ、近代的国家の建設を進めていた。彼が残忍な独裁者なら、国民の教育や健康のためにオイルマネーを使ったりはしない。独裁者というのは、国家予算を根こそぎポケットにねじ込むものだ。フセイン政権時代には、宗派対立もなかった。しかし、「民主化」されたいま、そこには教育や医療と呼べるものはほとんど存在しない。そして、血で血を洗う宗派対立が全土を覆っている。
この記述を読んで生じる内的反応がすべての答えだ。

この数行ほどの情報では、サダム・フセインを嫌悪する固い信念は微動だにしない。これが数千ページの詳細な報告書であっても同じだ。情報量は関係ない。サダム・フセインは、「国際社会」によって悪魔と定められ、メディアがそのための手順を的確に踏んだ。その結果、フセインを嫌悪し憎悪する感情は、いまでも人々の血管の中を流れている。したがって、フセインを擁護するどのような記述も、この嫌悪感が瞬時にブロックしてしまう。理性の入る余地はない。

湾岸戦争やイラク戦争にまつわる捏造報道や捏造情報が明らかになっても、ほとんど波紋を呼ばなかったのはそのためだ。一度植えつけられた感情の前に、正しい情報などまったくの無力なのだ。嫌悪感や憎悪は、意にそぐわない情報を自動的に隔離・消去する。われわれの中には、強固なセキュリティ・プログラムが存在 し、鉄壁のファイアーウォールを築いている。それはわれわれを守るためのものではなく、われわれから真実を遮断するための防火壁だ。

この防火機能は、大量投下されるメディア報道によって形成されたことは間違いない。われわれはサダム・フセインのいったい何を知ったうえで、彼を悪魔や極悪と決め付けたのか。実際は、フセインについて何も知ってはいない。すべては、メディアの主張を鵜呑みにした結果にすぎない。

生まれたときからメディア報道に接してきたわれわれが、メディアの影響を受けていないと考えるのは非現実的だ。自分だけはメディアの影響を受けていないと主張するのは、日本に生まれ育ちながら、日本語環境の影響をいっさい受けていないと流暢な日本語で言い張るようなものだ。一定の環境下にある集団は、共通の言語や共通認識などの文化的属性を獲得する。

社会的・文化的環境から獲得されたこうした属性は、意識的に捨てたり、変更したりはできない。意志の力で日本語を忘れることはできない。属性とはそういうものだ。われわれの中にある負の属性としての防火機能も取り除くことはできない。

メディアがわれわれの血と肉を形成しているというのは、そういう意味だ。
われわれの中には、一定の情報を遮断する防火壁があるということを知らなければならない。
それとも、上記の短い記述によってサダム・フセインに対する考えを変えてもらえただろうか?
メディアを語るとき、ここが出発点だ。

キーホール

メディアによって、望まぬ防火壁を築かれたからといって、いまさら報道を遠ざけても何の解決にもならない。また、どれだけ手厳しくメディアを批判したとしても同じだ。負の属性から逃れることはできない。それは必要に応じて無意識下で稼動する。意志でコントロールすることはできない。

では、われわれには成す術はないのかというと、そうでもない。
日々われわれを操作・誘導しようとするメディア報道を逆読みすることは十分可能だ。

報道というのは、一見、理詰めでじっくり説得しているように見えるが、実は、瞬間的な印象こそが勝負なのだ。読者や視聴者に対して、一定の印象を直感的に植えつける、そういう技術なのだ。ひとつの記事を何度も何度も読み返す読者などまずいない。見出しをざっとながめて、リードを読んで、だいたいそれで終わりだ。すべての記事が丹念に読み込まれることなどない。見出しを使って直感的に与える印象が、報道のほぼすべてと言える。本文は、この印象を補強するための保険のようなものだ。

インターネットが登場するまでは、報道は次々と印象だけを残して流れ去るものだった。そして一度流れ去ってしまうと、もはや閲覧することは不可能だった。図書館の縮小版やマイクロフィルムを利用するような読者はまずいない。日付も分からない過去の記事を掘り出すことなどほぼ不可能と言えた。しかし、インターネットの時代になって事情は一変した。

インターネット上には過去の報道の膨大なデータが保存され、いつでも閲覧可能だ。そして、それを手軽に保存できる。マウスを操作するだけで、テキスト情報だけを保存することも、あるいはサイトの画面全体を保存することもできる。ダウンロードできる動画ニュースもある。

ただし、多くのメディアが過去の記事の閲覧を有料にしているため、実際にはすべてのデータにアクセスできるわけではない。また、都合の悪い記事を即座に削除してしまうこともある。それでも、インターネット配信のニュースは利用価値が高い。

インターネットのニュース配信の場合、1 画面に表示できる文字数はそれほど多くない。画面はロゴやバナー広告などでびっしり埋め尽くされている。2ページや3ページにまたがるニュース記事は少ない。たいていは1 画面内に収めている。しかし、内容によってはスペースが不十分で無理が生じる。そうしたものは、本来の手順が踏めず、意図が先走りして、底が透けて見えるような記事になる。

また、インターネット配信の記事には、誤字脱字、変換ミスの頻度が紙媒体よりも多い。明らかにチェック体制が甘い。無料で配信するニュースサイトには人手もコストもかけたくないのだ。必然的にチェックは甘くなり、技術的に未熟な意図の透けて見えるような記事も公開されることになる。

昨年、共同通信社と加盟地方紙が運営するニュースサイト「47ニュース」のツイッター上で、不適切なツイートが繰り返され、炎上するという出来事があった。サイト側は、契約スタッフが個人的見解を書き込んだとしてツイッターを閉鎖したが、炎上するまで管理者側はまったくチェックしていなかったことになる。メディアによるサイト運営の現状を如実に物語っている。利益を生まないものに気を配ってはいられないのだ。おそらくどのニュースサイトも内情に大差はない。

ドアは固く閉じられているが、鍵穴はあいている。

アーカイブ

こうしたチェック機能の杜撰なニュースサイトには、メディアの本音や意図が露呈しやすい。
保存やその後の管理も容易なインターネット配信の記事を活用しない手はない。

日々の報道をマメに収集していれば、さまざまな発見がある。メディアがわれわれをどこへ導こうとしているのかも少しずつ明らかになってくる。ただし、この作業はひとつひとつ自分の手で行わなければ意味をなさない。他者に依頼したり、人が集めたものを譲り受けても何の役にも立たない。自らが行うことが絶対条件だ。

かといって、収集に躍起になる必要はない。やたら細かく分類するべきでもない。広範囲の情報を多量に集めるのが目的ではないし、何かを分析するためでもない。これはメディアを観察し、報道を「 俯瞰 」するための作業なのだ。

日々の報道にざっと目を通し、目に留まったものだけを保存する。それが基本だ。個々の記事の重要度や価値などをいちいち吟味してはならない。報道にはもともと何の意味も価値もない。基準はあくまで自分の琴線に触れたかどうかだ。

これは方法論ではない。果てしない時間と労力をかけて、それでも何も見えてこないのがこの作業の宿命だ。同じ作業をしても、誰もが同じ結果を得られるわけでもない。それはどの分野でも同じだ。何も見えないまま、単なる徒労で終わる可能性の方がはるかに高い。

しかし、この作業こそ、われわれが自分自身で築く本当の防火壁だと言える。
火の用心は、毎日行うから安心なのだ。





メディア批判の誤謬 : 蛇足

2012年05月31日 00時26分13秒 | メディアリテラシー

下に掲げたものは、僕のアーカイブのとあるフォルダの内部だ。
見出しに、日付を入れ記事を時系列に並べている。
末尾に情報ソースを入れ、出所が分かるようにしている。
報道を俯瞰する作業には、タイトルにこの二つを入れておくことが大切だ。
時系列でなければ前後関係が分からない。
ソースを入れることで、国や地域、メディアによるニュアンスの違いを比較できる。

英文記事が多くなると、別フォルダを作って分けている。
ソースの頭についている#と♭は、単に海外メディア、国内メディアの区別のためにつけたもの。


下はファイルを開いたもの。
保存する前に、あらかじめ記事の見出しに、日付とソースを入れている。この部分を選択コピーして、タイトル欄にペーストして保存する。その方が作業がはかどる。

本文をコピー・ペーストした際に、写真のキャプションやキーワードなどが一緒にペーストされることがある。そういうものは消去する。

記事の末尾には、必ずURLを入れる。記事が有料データベースに移行したり、あるいはサイトから削除されても、記事が実在したという一定の証明になる。


基本的には、テキスト情報しか保存していない。
写真や図、表などが不可欠な場合は、ブラウザのWebページの保存機能を使うか、サイトの画面をPDFファイルにしている。


日付とソースを入れる作業を簡便にするためには、入力支援機能を持った「クリップNOTE」などのフリーウェアのツールを使うとよい。
あらかじめ登録した項目をクリックするだけでペーストができる。