報道写真家から(2)

中司達也のブログ 『 報道写真家から 』 の続編です

自由な思考のために

2011年01月19日 00時55分46秒 | メディアリテラシー

情報分析とは

 この世界には、情報の分析を行なう専門の機関がある。
 多くの国が、情報局や情報部隊といういかめしいものを持っている。
 世界のあちこちでは、今日も熾烈な情報戦争が展開され、国家の中枢の深部では、高度な情報分析が行なわれ、重要な国家戦略に活用されているに違いない。
 しかし、そうしたイメージを抱くのは、単なる映画の観すぎなのかも知れない。
 米中央情報局の顧問を務めた経歴をもつ故チャルマーズ・ジョンソンは、次のように述懐している。

 わたしはきわめて高度の機密取り扱い許可を与えられていたが、じきにうっかり国家機密を漏らしてしまう心配をしなくてもいいことに気づいた。わたしはかつて、国家情報評価を秘密にする最大の理由はその完璧な陳腐さにある、と妻に話したことがある。たぶんこれが高度の機密事項に指定されているのは、こんな新聞雑誌にのっているようなありふれた雑文が大統領執務室で戦略的な思考として通用していることが知れたら恥ずかしいからだろう。
p17 『アメリカ帝国の悲劇』 チャルマーズ・ジョンソン

 映画に出てくるような場面とは少々様子が違う。情報機関が大統領に提出する機密文書が、ありふれた雑文並だとは……。手に汗握る情報戦争も頭脳明晰な情報分析官の存在も、映画の中だけの話のようだ。しかし、雑文が作成されるだけまだマシな方なのかも知れない。

二〇〇二年九月、ブッシュ政権がサダム・フセインの秘密兵器とイラクへの予防的な侵攻の必要性を訴えて世界を毎日恐怖におとしいれていたとき、CIAはイラクに関する国家情報評価が存在せず、二年以上にわたってそうした評価を作成しようとは思っていなかったことを明かした。
p18 同上

 91年の湾岸戦争以来、イラクのフセイン政権は、『大量破壊兵器』の開発で世界の平和を脅かすアメリカの敵ナンバー・ワンだったはずだ。アメリカ政府がそのイラクとの開戦を画策している時期に、中央情報局はイラクに関する情報評価を行なっていなかったのだ。これはいったいどういうことなのか。

第二次世界大戦のとき、ウィリアム・J・ドノヴァンはCIAの前身であるOSS、戦略事務局を設立した。……「ドノヴァンが局に残したCIA内部の言い伝えによれば、彼は情報の分析を海外での破壊活動の便利な隠れ蓑と考えていたという。この口実は長年にわたって有益である事が実証された」……。
p17-18 同上

……、CIAでは主客が転倒している……、アメリカが本当にやっているのは情報の収集と分析ではなく秘密活動である……。
p17 同上

こんにちCIAは政府が擁するいくつかの秘密コマンドー部隊の一つにすぎない。
p18 同上

 アメリカの中枢は、情報の収集や分析が重要だとは考えていないようだ。情報の収集分析は単なるポーズなのだ。早い話、情報分析など無意味だということだ。開戦前のイラクに対してさえ情報の収集も分析も行なわれていなかったのなら、その他の国はまったくの論外であるはずだ。

 国際社会の水面下では、熾烈な諜報戦争が展開され、情報を制するものが世界を制する、というのはやはり映画の中だけの話なのだ。情報というものに対する見方を根本から考え直した方がよさそうだ。

 諜報戦争は実際には行われていないが、それが存在すると信じ込ませることには大きな利点がある。アメリカは、他に比類のない優れた諜報機関を持っているのだと、世界に信じ込ませることによって、ある国はアメリカを畏れ、また別の国はアメリカを頼るだろう。外交交渉も有利に展開する。あるいは、イラク戦争の時のように、存在もしない『大量破壊兵器』の秘密情報をほのめかして、協力を強要することもできる。諜報機関を神秘化することのメリットは非常に大きい。実際には行っていない諜報活動を世界に喧伝することによって、コストをかけずに、世界を好きな方向に誘導できるのだ。これは極めつけの情報操作というしかない。

 情報分析とは、ふたを開けてみれば、お笑いぐさの絵空事でしかない。
 情報とは、操作し、加工し、信じさせて、はじめて意味を持つ。


情報の意図を読む

 操作され、加工された情報は害毒以外の何ものでもない。われわれも日々、メディアが散布する加工された情報に晒されている。メディアは一見、無害な情報を垂れ流しているだけに見える。しかし、メディアの使命とは、人びとの関心が不都合な方向を向かないように飼いならし、必要に応じてその思考や感情を特定の方向に誘導することだ。

 ソビエト連邦が世界を真っ赤にしようとしているぞ!極悪フセインが生物化学兵器をばら撒くぞ!アルカイーダが爆弾を背負ってやってくるぞ!コワいぞ!アブナイぞ!でもご安心、世界の警察アメリカがみんなを守ってくれるぞ。メディアがやっているのはそういうことだ。脅威でもないものを脅威だと騒ぎ立てて、世界を恐怖に慄かせ、スーパー・ヒーロー登場のお膳立てをする。

 メディアが周到に加工した報道は、理性を麻痺させ、感情の奥深くに訴えかける。世界中のメディアが一斉に、あの手この手でサダム・フセインを悪だと連呼すれば、フセインは永遠に悪魔として心に刻み込まれる。サダム・フセインに一瞬たりとも嫌悪感を抱いたことがないという人がいるだろうか。世界中のメディアが縦横に隊列を組んだとき、すさまじい効果を発揮する。

 報道を通して特定の個人や組織、国家などに嫌悪感を抱いたときは、十分注意する必要がある。また、メディアが誰かを英雄に祭り上げるときも用心が必要だ。

 ただし、メディアは情報操作のプロフェッショナルだということを忘れてはいけない。巧みに加工された報道は、真に迫った臨場感があり、真摯な姿勢で真実を伝えているようにしか見えない。しかし、技術的には架空の物語を造る映画製作と同じなのだ。映画にできることは報道でもできる。記事でも映像でも、簡単に時間や空間を操れる。時系列の同一地点だという印象を受けても、日時も場所も異なっているかも知れない。大群衆に見えても、実際は50人程度かも知れない。CGや高度な画像編集など必要ない。キャプションやナレーション次第で写真や映像の印象を180度反転させることもできる。ちょっとした細工から本格的な捏造報道まで実例はいくらでもある。ときおり捏造がバレることもあるが、まったく気にはしない。一定の感情を植えつければ、それで目的は達成されている。

 原油まみれの水鳥の報道やナイラ証言が捏造であることを知っても、それで、サダム・フセインへの憎悪を解消した人はほとんどいないはずだ。たいていの人は、たまにはそういうこともあるさ、それよりも極悪フセインが打倒されたのだからめでたいではないか、と感じるだろう。メディアが植え込んだフセインへの憎悪は、信念のように固い。いわれのない戦争で100万ものイラク国民が命を奪われた事実は隠すようにしか報道されず、犠牲者に心を痛める人は少ない。

 いつも露骨な操作や加工がおこなわれているわけではないし、個々の報道は無味乾燥な伝聞にしか見えない。しかし、報道全体を一定の時間軸で俯瞰すれば意図が透けて見えてくる。重要なのは全体から意図を読み取ることだ。ただし、それを読み取るための有効な方法論などない。知識や理論はほとんど役に立たない。

 この作業を助けるのは感受性だ。感受性とは、既成概念に囚われない心の働きだ。本当の思考力を養うのは知識ではなく、感受性だ。


思考を阻害するもの

 われわれは自分で考え、感じているつもりでも、実際は、先入観や固定観念に縛られている。うまく思考できないと感じるのは、知識不足のためではなく、先入観や固定観念が邪魔をしているからだ。これらによって自由な思考や発想は阻害され、考えが堂々巡りを繰り返してしまう。

 考えがまとならないとき、新たに知識を詰め込んで打開しようと試みることが多い。われわれは知識を万能だと考えがちだが、思考にとって知識の役割は大きくはない。知識が不足しているから考えられないのではなく、知識にこだわるから考えられないのだ。ものごとの本質を読み解く力は、詰め込まれた知識からではなく、もともと人間に備わっている感受性から生まれる。しかし、先入観や固定観念が感受性の働きを著しく阻害している。考えに行き詰るとすぐ知識不足のせいにするのも、固定観念のなせるわざだ。先入観や固定観念にとらわれている限り、感受性は働かない。思考は堂々巡りを繰り返す。

 先入観や固定観念は、思考回路の中に敷かれたレールのようなもので、強い指向性を持っている。思考や発想の脱線はまず許されない。何かについてよい発想を得たとしても、次の瞬間にはたいてい自動消去されてしまう。それが何であれ自由な思考や発想の芽は、常に阻害され否定され踏み潰され、レールに引き戻されてしまう。

 人間は誰でも自由奔放な創造力を持って生まれている。本来、人間は自由に思考し、発想するのが得意なのだ。豊かな創造力の源は感受性だ。しかし、成長の過程で感受性は急速に失われ、創造力はしぼんでいく。替わって、先入観や固定観念という強固なレールが敷かれる。その結果、刺激に対して同じようにしか反応しない。メディアや学校教育による輝ける成果だ。

 先入観や固定観念に囚われるなという言葉はよく目にし、耳にするが、それは言葉ほど簡単ではない。そもそも自分の中の先入観や固定観念を明確にリストアップすることなどできない。存在を確認も、自覚もできないものを修正消去することは不可能だ。それどころか、われわれを取り巻く情報の渦は、先入観や固定観念を常に上書きし、アップデートしている。レールは常に点検整備され、歪みひとつない。このピカピカのレールから降りるのは至難の技だ。

 残念ながら、先入観や固定観念に囚われない有効な手段はないと考えた方がよい。何十年もかけて上塗りを繰り返えされてきたものを、そう簡単に剥がせるわけがない。

 先入観や固定観念というものが自由な思考と発想を阻害しているのだ、というイメージを持つことがたいせつだ。

 われわれを操作誘導しようとする潮流から自由になるには、見えない敵、先入観や固定観念に対して、雲をつかむような格闘を挑むしかない。導いてくれる者はいない。自分ひとりの孤独な作業だ。しかし、誰の前にも大地は平等に広がっている。

とまどえる群れは厄介者でしかない。……われわれは彼らの関心をそらしておく必要がある。(中略)
 彼らを常に怯えさせておくことも必要だ。自分たちを破壊しにやってくる内外のさまざまな悪魔を適度に恐れ怯えていないと、彼らは自分の頭で考えはじめてしまうかもしれない。(中略)
 これが民主主義社会の一つの想定なのである。
p30-31 『メディア・コントロール』 ノーム・チョムスキー

 この世の中には、われわれが普通にものを考えることを恐れ、阻害したがっている人たちがいる。
 ならば、ゆっくりとでも考える。

 

参考図書
『アメリカ帝国の悲劇』 チャルマーズ・ジョンソン 文藝春秋
『メディア・コントロール』 ノーム・チョムスキー 集英社新書