報道写真家から(2)

中司達也のブログ 『 報道写真家から 』 の続編です

創造と消費

2010年11月19日 23時30分59秒 | メディアリテラシー

 日々、間断なく寄せては返す情報の波。過剰な情報に多少のストレスは感じつつも、もはや情報のない世界は想像できない。情報の荒波の中には、きっと何かしらの価値あるものが浮き沈みしているに違いなく、波間に目を凝らし、銛を投げ、網を打ち、あるいは手づかみで獲物をしとめる。

 情報化社会とは言うが、アクセスできる情報量は幾何級数的に増加しているものの、人間行動はそれほど情報に左右されてはいない。行動を開始する前にいちいち情報に伺いを立てることはない。有意な情報を得たからといって、仕事を犠牲にしてまで行動することもない。人間生活の大部分において、情報はとりたてて重要な役割を果たしているわけではない。人間行動のほとんどはあらかじめ定められた通りにしか行われていない。現代人は情報を何かに役立てているのではなく、ただ消費している。

 情報を消費したあとには何も残らない。内容が有意であるとかないとかは、たいした問題ではない。情報はどんどんアップデートされ、次々と古い情報をごみ箱に放り込んでいく。情報は、消費され、通過し、消えていく。使用済みの情報に価値はない。新しい情報がはるか大海原から絶え間なく押し寄せてくるのだ。

 情報の荒波にわざわざ漕ぎ出す人は、きっとそこに自分の求めている、難問の答えがあるに違いないと期待する。インターネットの海域で網を打てば、雑魚もろとも大量の獲物が上がる。その中から自分が満足しそうなものを拾い上げる。答えらしきものを得ると安心して眠りにつく。あらゆる問いに対する答えのようなものを、情報の渦の中に放流しておけば、現代人は適宜それを掬い上げては満足する。もしかするとそこは大海原ではなく、ただのいけすなのかも知れない。

 情報を受動的に受信しようが、能動的に捕獲しようが、あまり変わりはない。消費の形態が違うだけだ。消費で得られるのは束の間の満足感に過ぎない。モノであっても、情報であっても、消費は一過性の快感でしかない。それゆえ消費を止めることはできない。いつしか消費は習慣となり、常に消費していなければ不安になる。朝、新聞を読まなければ落ち着かないのは、それが儀式化した習慣だからだ。新聞などなくても困ることは何一つない。モノであれ、情報であれ、消費は根本的な幸福感を人間にもたらしてはいない。


 人間が消費の連鎖に呑まれるのは、人間が常に新しい刺激を必要としているからだ。同じことの反復は苦痛なのだ。人間は変化という刺激なしには生きられない。日常生活の中で容易に手に入る変化とは消費だ。新製品や最新作、トレンドや最先端、アップデートやハイスペックという言葉に敏感に反応する。流行おくれや低スペックには生理的な拒絶反応が生じる。

 しかし、変化を求める人間の本性が、別の側面では、芸術や文学、科学や学問を生み、発展させてきた。絵画の歴史は、古典から現代美術まで幅広い変遷を目にすることができる。そこには絶対的な表現方法は存在しない。常に変化の圧力を受けている。しかし、個々の時代を彩る表現方法が別の時代に現れたとしたら、その時代から激しく拒絶されただろう。バロックとシュールレアリズムを入れ替えることはできない。変化はあまり急激すぎても受け入れられない。前のものを残しつつ、少しずつ変化させなければならない。変化のバリエーションが枯渇したら、その時ジャンプが起こる。それは芸術に限らず、科学や学問の分野でも同じだ。人間社会が天動説を捨て、地動説を受け入れるには長い年月を必要とした。時代の要求の前に、証明や論証は無力だ。

 変化は人間存在にとって必要不可欠な要素であり、一度経験したことや一度獲得したものの繰り返しは、もはや刺激も興奮ももたらさない。同じことの反復は苦痛以外の何ものでもない。人間は常に新しい発見や新奇なものに飢え続ける。

 芸術や文学、科学や学問の歴史は、この飢餓感に応える歴史だ。新しい表現方法や新しい解釈、新しい理論に新しい技術。既存のものに満足できない人間の本性が、変革への圧力となった。人間にはこの変革への欲求に応える能力が備わっている。次々と新しいものを生み出し、あるいは発見する能力、創造力だ。

 変化に対する激しい渇望と新しいものを生み出す豊かな創造力が、人間の中に同時に備わっていなければ、文明は誕生さえしなかったかも知れない。

 芸術や科学に対するあくなき探求心も、際限のない消費の連鎖も、変化を求める人間の本性に根ざしている。しかし、両者の違いは明白だ。芸術や科学は時代を越えて人間生活を豊かにしてきたが、消費は一過性の快感をもたらしただけだ。消費したあとには何も残らない。これに『消費文明』という言葉を当てるのは勝手だが、文明というならば、それは人間の精神生活をより豊かにし、幸福をもたらすものでなければならない。際限のない消費は人間本来の歓びとは無縁だ。


 人間の果てしない飢餓感を埋めることができるのは、人間の創造力しかない。本来、人間は放っておいても、創造的活動をする動物だ。すべての子供は豊かな創造力を持って生まれてくる。言葉を獲得すると、すぐにその抑えがたい能力がほとばしり、まわりの大人を翻弄する。あふれる好奇心は創造の種子だ。しかし、いまの時代、種子が大木に育つことは少ない。

 現代の学校は、人間本来の豊かな創造力を刈り取る場となっている。学校では、あらかじめ問いと解答が用意されている。問いには必ず解答があるものだという観念が生まれる。学校で重要視されているのは、考えることではなく、用意された答えを単純に覚えることだ。暗記力の測定は容易だが、思考力を客観的に測定する基準はない。教育者への負担が少ないのは明らかに前者だ。

 問いに対する解答を機械的に記憶する作業が繰り返されると、やがて、歓びの源泉である豊かな創造力は脇に押しやられ、代わって偏狭な解答信仰が生まれる。教育の階段を進むほど、解答信仰は強化される。もはや解答が存在しない状態を想像することができなくなる。疑問に対して、自分の中でじっくり考えるよりも、手っ取り早く外部にある解答を探索する。思考するとは、豊かな創造力を使って世界を理解しようとする行為であり、創造力のないところに思考も存在しない。

 われわれは洗練された消費者から創造的動物に帰らなければならない。自らの飢餓感を埋めることができるのは、自らの創造力の発揮以外にない。卓越した芸術や文学、科学や学問を生み出すことだけを創造と言うのではない。子供にとって創造とは日々の出来事であり、本来、創造はわれわれの日常生活の一部なのだ。傑出したものを生み出す必要などない。子供はそんな野心を抱いて創造の世界に棲んでいるわけではない。


 子供にとって日常にすぎない創造力の発揮も、解答信仰に浸かったわれわれには何をどうしてよいのかよくわからない。そもそも自分は何を求めているのか、何を知りたいのかもよくわからない。子供からみれば、実に奇妙な存在だ。

 ひとまず余分な情報を絶ってみるのがいいかも知れない。何かの節目に人が旅に出るのも、それまでの情報や関係を絶つための行為のように思える。古来から散歩や風呂場で優れたアイデアが数多く生まれたのも、一時的に外界から精神が遮断されるからかも知れない。少なくとも、散歩や入浴は精神をリラックスさせ、忘我の状態に導いてくれる。こころが寛がなければ何事もはじまらない。

 ただ、創造とは自覚できる行為ではない。勉強しているときには、勉強しているという意識がある。暗記や習い事などもそうだ。しかし、創造は事情が違う。創造するとは能動的行為のように思えるが、大部分の作業は無意識下でおこなわれている。意識上の役割は限られている。しかも、意識下の作業が意識上に反映されることはほとんどない。もしかすると、意識下ではすべての作業を終えてしまっているのに、意識上はまだ四苦八苦して問題の端緒に取り組んでいるということもあり得る。意識と無意識を隔てている殻は極めて堅牢にできている。自覚もできず、報われることも少ない行為が、はたして歓びをもたらしてくれるのか。

 意識と無意識は完全に分け隔てられているわけでもない。隔壁にひびが入り、閉じ込められていた膨大な圧力が開放されることがある。それは、光が通りすぎるほどの刹那の出来事で、次の刹那には、ひびは継ぎ目もなく冷淡に閉じている。閃きと呼ばれる瞬間だ。

 古来から、多くの発明や発見が閃きによって導かれた。アルキメデスやニュートンのような歴史に残る閃きも多い。しかし、案外、誰でも閃いているものなのだ。しかしそれは、あまりにも刹那で、あまりにも淡い。感知しているのに、自覚されない。

 閃きの難点は、ひどくきまぐれで、向こうからやってくるのを待つしかないことだ。追いかければ必ず逃げる。意識上での長く辛い掘削作業を続けても、いつ地下水が上がってくるかは皆目分からない。それは1分後かも知れないし、10年後かも知れない。

 はっきりしていることは、閃きは何もないところからは生まれないということだ。何にも取り組んでいないのに、浮力や引力を発見することはない。閃きは、意識上での作業に対応する意識下での作業の反映だ。自分の関心事に取り組まなければ、閃きはやってこない。ただし、どれだけの労力を費やせばよいのか、というような指針はいっさいない。望んだものがやってくるという保証もない。

 創造するとは、時間や空間、感覚や言葉を越えた世界への飛翔なのであり、時間を気にしたり、成果を期待しては、すべての努力を台無しにする。人が何かに熱中するとき、時間の感覚はなくなる。報酬を求めることもない。閃きは、見返りを求めない精神に対する、無意識下からの気まぐれないたずらなのかも知れない。それが苦労を補ってあまりあるだけの価値を持っているかどうかは、閃いてみるまでわからない。

 創造力は、特別な人だけに備わった能力ではない。自分を取り巻く世界を理解し、日々をより豊かに生きるために人間に備わった基本的能力なのだ。この能力が文明を生み、人間生活に恵みをもたらしてきた。われわれは本来あるべき創造的動物たるべきなのだ。

 


 参考図書
『脳と創造性』 茂木健一郎 PHP研究所
『知的複眼思考法』 苅谷剛彦 講談社
『思考の整理学』 外山滋比古 ちくま文庫
『ホロン革命』 アーサー・ケストラー 工作舎
『バカをつくる学校』 ジョン・テイラー・ガット 成甲書房