報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

「テロの世紀」序章

2005年01月09日 16時05分10秒 | ●米大使館爆破テロ
 僕は、これまでに幾度か、爆弾テロを目の当たりにしてきた。
 ただ、それらは、驚きではあったが、意外ではなかった。
 誰の犯行であるかは、すぐに予想がついたからだ。
 グァテマラのアンティグアでは、アメリカ人観光客のバスが爆破されたが、これは反政府ゲリラの仕業だった。
 ペルーでは、大統領選挙後の投票箱を狙って、投票箱を保管してあった郵便局の前で車爆弾が爆発した。これは、反政府ゲリラ、センデロ・ルミノッソだった。
 イスタンブールでは、僕の立っている位置から10メートルの近さにあったゴミ箱が爆発した。クルドゲリラ・PKKの爆弾だった。
 1998年のあの日までは、爆弾テロというのは、こうした紛争地域、、もしくは反政府活動の活発な地域で起こるものだった。紛争のない地域で爆弾が爆発することなど、まず考えられなかった。
 
 しかし、ナイロビとダルエスサラムの米大使館爆破テロ以降、そうした概念は覆された。
 あの日を境に、テロに国境はなくなった。
 そしていまや世界中の都市が、テロのターゲットなのだ。
 だが、注意して観察すると、なぜかテロは必要なときに、必要なところで実に都合よく起こる。
 昨年の、インドネシアの大統領選挙の前に、ジャカルタとバリ島で爆弾が爆発した。その結果、アメリカに都合の悪いメガワティ大統領の威信は失墜し、アメリカに忠実なユドヨノ候補が当選した。
 テロが発生すると、なぜか決まってアメリカに有利な結果が生まれる。

 21世紀になって、まだ数年しか経っていないのに、すでに、おびただしい血が流されている。
 21世紀は、「テロの世紀」として歴史に記載されることになるのかもしれない。

 20世紀は「熱い戦争」と「冷戦」の世紀だった。そしてどちらも、アメリカの覇権を拡大し、アメリカを潤す結果となった。「テロの世紀」も間違いなくアメリカを潤すことになるだろう。
 ヒットラーを悪魔と呼び、ソビエトを悪の帝国と呼んだように、北朝鮮・イラン・イラクは「悪の枢軸」と呼ばれた。

 結局のところ、アメリカが「悪」を必要としているのであって、アメリカの都合で「悪」が作られているにすぎない。
 アメリカはなぜ「悪」を必要としているのか。
「平和」はカネにならないからだ。「平和」はアメリカの覇権を低下させるだけなのだ。アメリカの覇権を維持拡大するには、「悪」の脅威が必要なのだ。

──「テロ」とはすなわちメイド・イン・USAだ──

「テロの世紀」の主役と言えば、オサマ・ビン・ラディンとアル・カイダだ。
 ナイロビとダルエスサラムのアメリカ大使館爆破テロの翌日には、新聞、テレビ、ラジオ、雑誌に「オサマ・ビン・ラディン」の名が躍った。世界がはじめて、オサマ・ビン・ラディンの名を知った日だ。
 いま考えれば、このときの報道はあまりにも出来すぎていた。人が知りたがる情報がすでに満載されていた。まるで、用意されていたかのような、くわしい記事が続々と掲載された。
 しかし、具体的な証拠など、何一つ提示されなかった。
 後のイラクの「大量破壊兵器」と同じなのだ。
 アメリカがそう言っているから「事実」になったにすぎない。
 それだけの、理由だ。
 今日に至るまで、ビン・ラディンを犯行と結びつける一片の証拠も提示されていない。

 しかし、アメリカは証拠もない相手を、犯人にする決定的な方法を持っていた。
 それは、「報復」することだ。
 アメリカは米大使館爆破テロからたった13日後に、ビン・ラディンがいるとされるアフガニスタンの軍事訓練キャンプに巡航ミサイルを70発も撃ち込んだ。ビン・ラディンの化学兵器工場だと言いがかりをつけ、スーダンの工場にも巡航ミサイルが撃ち込まれた。このとき破壊されたスーダンの施設は、普通の製薬会社だった。しかも、アフリカの貧困層に、安い高品質の薬を供給している優良企業だった。

 アメリカは、オサマ・ビン・ラディンが犯人だからミサイルを撃ち込んだのではなく、オサマ・ビン・ラディンを犯人にするために、ミサイルを撃ち込んだのだ。一発1億8000万円もする巡航ミサイルを70発も使って「報復」したからには、確実な証拠があるはずだと世界は思い込む。そういうカラクリなのだ。それまで、ほとんど無名だったオサマ・ビン・ラディンは、テロの総元締めとして世界の憎悪を独り占めにした。
 もちろん僕もまんまと、引っかかった。

 しかし、アメリカが「こいつが犯人だ」「こいつが悪だ」「こいつを叩き潰せ」と声を大にして叫ぶとき、それはいつも計画された言いがかりなのだ。イラクに「大量破壊兵器」はなかった。サダム・フセインとアル・カイダとは何の関係もなかった。アメリカには、はじめからわかっていたことだ。そしてイラク攻撃の最大の理由が二つとも、事実ではなかったことを表明した後も、アメリカ軍はイラクに居座り続け、イラク人を殺戮し続けている。すべては、サダムとイラクを攻撃し、石油を奪うためのデタラメの口実だったのだ。
 タリバーンのアフガニスタンもまったく同じ手法で、攻撃され、殺戮され、占領されてしまった。

 クリントンによるアフガニスタンとスーダンへの「報復」ミサイル攻撃は、ビン・ラディンを世界の敵に仕立て上げるためのショーだったのだ。米大使館爆破テロとは、すなわち、ビン・ラディンを世界の有名人にし、後のテロの責任をすべてかぶせるための下準備だった。

 したがって、オサマ・ビン・ラディンは、911テロの黒幕でもなんでもない。アル・カイダという組織が本当に実在するかも、大いに疑わしい。ブッシュ家とラディン家が、非常に近しい利害関係にあることは、いまや周知の事実だ。

写真:アメリカ大使館爆破テロ

2005年01月08日 09時00分00秒 | ●米大使館爆破テロ
【アメリカ大使館:ナイロビ・ケニア】
 1998年8月7日、ケニアのナイロビとタンザニアのダルエスサラムのアメリカ大使館が同時爆破テロにあった。
 僕がナイロビに着いて、一週間後のことだった。アフリカを何ヶ月かかけてのんびり撮影しようと思っていた。しかし、いきなり凄惨なテロ現場を撮ることになってしまった。瓦礫の中で押しつぶされる何人もの犠牲を目の当たりにした。これが現実の出来事だとはとても思えなかった。

 正面から見たアメリカ大使館は、とくに大きな損害を受けているようには見えなかった。
 しかし・・・


 【崩壊したビル】
 アメリカ大使館の脇を入ったとき、自分の目を疑った。
 ビルが丸ごと崩壊しているのだ。
 かなり大きな爆弾であることは、大音響と衝撃波でわかったが、
 まさかビルが崩壊するほどの爆発だとは夢にも思わなかった。
 すでに大勢の市民が瓦礫に上り、生存者を捜索していた。


               【爆心地】
 多量の爆薬を積んだピックアップトラックは、この駐車場で自爆した。
 アメリカ大使館の建物はビクともしなかったようだが、内部は完璧に破壊された。
 大使館関係者は12名が犠牲となった。







 【犠牲者】
 発見されるのは、遺体ばかりだった。
 この爆弾テロによるケニア市民の死者は約213人。
 重軽傷者は5000人を越えた。

 軍や警察はいっさい捜索の指揮をとっていなかった。
 信じがたいことだが、捜索は市民の手にゆだねられていた。
 民間人による捜索活動を、軍人や警察官が見守り、補助するという、逆転現象が起こっていた。
 軍、警察の第一の任務は、すでに破壊されたアメリカ大使館を警護することだった。










          【脅威の破壊力】
 アメリカ大使館の駐車場に隣接する銀行ビルは一階から最上階まで、完璧に破壊された。
 爆心地近くの道路にいた人々は吹き飛ばされ、走っていた車やバスは炎上し黒焦げになった。
 爆心地から離れた位置にいた人々も、オフィスビルから降り注ぐ無数のガラス片によってき傷ついた。半径300メートル以内のビルの窓ガラスはことごとく、路上に降り注いだ。



【救出された生存者】
 
 絶望的ともいえる状況の中で、生存者が発見された。
 ビルが崩壊するほどの衝撃波を受け、しかもコンクリートに押しつぶされなかったのは、まさに奇跡としか言いようがない。
 崩壊したビルの瓦礫を見て、僕は生存者がいるなどとは、まったく思っていなかった。
 これも生存者の可能性を信じ、必死の救助活動を行った多くの市民がいたからこそに違いない。
 市民による救助作業によって、瓦礫の中から4人の生存者が救出された。
  
 市民による救出作業は、暗くなるまで続けられた。
 翌日からは、外国から来たレスキューの専門チームによって捜索がおこなわれたが、生存者は発見されなかった。
 レスキュー活動は、けっしてプロだけの仕事ではないということだ。
 とにかく、一秒でも早く行うことこそが大切なのだ。
 市民は、救急隊から配られた薄い医療用ゴム手袋で、瓦礫を掘り起こしていた。
 ケニア市民にはこころから敬服した。

写真:米大使館爆破テロ現場

2005年01月08日 07時26分17秒 | ●米大使館爆破テロ
【レスキュー隊】
 テロの翌日の朝には、早くもイスラエルのレスキュー部隊が到着した。
 ケニアとイスラエルは、そんなに友好国だったのだろうか。
 イスラエルのあまりの対応の早さに、イスラエルはテロの発生を事前に知っていたのではないか、と疑う者もいる。それどころか、このテロはイスラエルの仕業だという説を唱える者さえいる。確かに、このテロのあと、イスラエルとパレスチナの和平交渉は頓挫した。