報道写真家から(2)

中司達也のブログ 『 報道写真家から 』 の続編です

銃口と紙幣

2010年10月19日 22時37分41秒 | 中央銀行・バブル

 いま、世界は「百年に一度の津波」が残した無惨な爪痕を前に手をこまねいている。
 世界の中央銀行は、この事態にただ傍観しているだけのように見える。
 中央銀行は、それほど無力な存在なのだろうか。
 肝心なときに動こうとしない組織に、なぜ「独立性」を認める必要があるというのか。
 中央銀行はますます「独立性」を磐石なものにしようとしている。
 本当にこのままでいいのだろうか。


 国家が中央銀行に法的独立を与えるなどということを、アメリカ創成期の指導者たちが聞いたらどんな顔をするだろうか。何人かはそんな荒唐無稽なよた話は信じないかも知れない。しかし、別の人たちは、ああやっぱりか、とうなだれるのかも知れない。

 アメリカ建国の父たちが合衆国憲法の草案を創ったとき、多大な時間を費やして通貨について議論を交わした。彼らが最終的に署名した合衆国憲法によると、連邦が「貨幣を鋳造」するとなっている。つまり、通貨の発行権は連邦にこそある。

連邦議会は次の権限を有する。

合衆国の信用において金銭を借り入れること。
[第一条 第八節 (二)]
貨幣を鋳造し、その価値および外国貨幣の価値を定め、また度量衝の標準を定めること。
[第一条 第八節 (五)]
各州は……、貨幣を鋳造し、信用証券を発行し、金銀貨幣以外のものを債務弁済の法定手段としてはならない。
[ 第一条 第十節(一)]

アメリカ合衆国憲法 
在日アメリカ大使館HP
http://tokyo.usembassy.gov/j/amc/tamcj-071.html

 合衆国の法貨は金貨と銀貨である。したがって、合衆国憲法には、紙幣の発行に関する記述はない。合衆国創成期の指導者たちにとって、通貨とは金と銀であり、それ以外のものを想定する気はなかった。彼らが、兌換紙幣や不換紙幣の機能について知らなかったわけではない。知っているからこそ記述しなかったのだ。

憲法制定会議の三カ月前、ワシントンは不換紙幣を否定する理由をはっきりと述べている。

 正貨不足から生まれる必要性は、実際より過大評価されている。わたしたちを利するのはものの影ではなくて実体だ、とわたしは考える。卑見に寄れば、人類の知恵ではまだ紙幣の信用を長期的に支えるしくみは考え出されていない。したがって紙幣の発行量とともにその価値は低下するし、交換される商品の価格はそれ以上に上がるだろう。これのどこが農業者や農園主、職人の利益になるのか?同様に大きな悪は、投機への扉がただちに開かれ、陰険な企みの最も少ない者、そして共同体にとって最も大切な人々が、悪知恵の働く狡猾な投機家に食い物にされるだろうということである。

 これが憲法制定議会に集まった代議員の大半の意見だった。彼らはどの州にも、まして連邦政府自身には二度と不換紙幣を発行させてはならないと憲法に定める決意を固めていた。
p380-381 『マネーを生みだす怪物』 エドワード・G・グリフィン

 彼らは、不換紙幣や部分準備紙幣のカラクリを十分理解していた。そして、それがもたらした災厄も経験している。したがって、憲法を創り、国家を造るとき、国家と国民に対して通貨が危害を加えないよう細心の注意を払った。

 しかし、こうした認識を持っていたにもかかわらず、初代アメリカ大統領となったジョージ・ワシントンは、中央銀行の設立を認めることになる。銀行に近い初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンは、中央銀行の設立を強力に提唱した。トーマス・ジェファーソン(初代国務長官:当時)をはじめ多くの閣僚や議員は、憲法に記載のないこの構想に猛反対した。しかし、ハミルトンは最終的にワシントンの同意を得る。アメリカ合衆国はその出発点から、憲法の理念と、金融界の意志との間で大きく揺れ動くことになる。

 このとき設立された中央銀行は「第一合衆国銀行」と呼ばれ、20年間の期限付きで認可された(1791~1811年)。1000万ドルの資本金のうち、政府が200万ドルを出資したが、民間所有の中央銀行である。政府は、第一合衆国銀行からの融資で財政をまかなった。憲法では連邦政府の借金は認められているので、この方法だと憲法上の問題はない。ただし、合衆国銀行の存在が合憲であるかどうかの問題を無視すればの話だ。

 合衆国銀行は、政府預金と政府への貸付を独占したが、紙幣発行の独占権までは与えられなかった。したがって、州法銀行も独自の銀行券を発行した。合衆国銀行は、州法銀行券を受け取ると、ただちに兌換を要求し、州法銀行の準備金(金貨・銀貨)を吸い上げた。そのため州法銀行は、銀行券の発行を抑制せざるを得なかった。つまり、シェアを奪われた。紙幣の乱発傾向のある州法銀行の行動を抑制したとして、合衆国銀行は、現在の研究では評価されている。

 しかし、このマネーシステムの根本的な問題点は見過ごされる傾向にある。その問題点とは、たとえ政府収支が黒字になったとしても、政府債務を返済することができないという点だ。黒字なら返せばいいではないか、と思われるだろう。しかし、政府債務を返済すれば、マネーサプライが収縮する。倒産や失業などの混乱が生じる。このシステムの下では、政府は永遠に債務を減らすことができない。これが今日に至る中央銀行システムの根本的問題点だ。現在のアメリカ政府が際限なく債務を膨張させるに至る雛形がここにある。アメリカ創世記の指導者たちは、すでにそのことを理解し、予見し、警鐘を鳴らした。

祖国の目を覚まさせようとしたジェファーソンは、不誠実なマネーと債務の悪について語ることを一度も止めなかった。

……わたしたちは子孫に債務のつけを遺せると考えてはならないし、倫理的にも借金の返済は自分ですべきものである。……世界は生者のものであって、死者のものではない。……わたしたちは各世代それぞれが権利を有し……義務を負う一つの国であると考えるべきであって、次世代以降に負担を残してはならない。
p409-410 『マネーを生みだす怪物』

 銀行の敵を自認する第三代大統領トーマス・ジェファーソンの在任期間中(1801~1809年)、第一合衆国銀行も存在し続けた。ジェファーソンは大統領退任後も、銀行の敵であり続け、彼の闘志は多くの支持者を生んだ。

トーマス・ジェファーソンは、預金目的のための銀行には賛意を表したが、銀行が紙幣を発行することにたいしては、強く反対した。一八一六年にジョン・テイラーにあてて書いた手紙のなかで、彼は、銀行という組織は常備軍以上に恐るべきものだという考え方に同意している。またジョン・アダムズは、金庫の中の金銀の量を越えて発効されるような銀行券は、その一枚一枚が「何ものをも代表しておらず、したがって誰かをだましているに等しい」と述べたのであった。
p44 『マネー その歴史と展開』 ジョン・ケネス・ガルブレイス
    (※ ジョン・アダムズ:独立宣言起草委員、第2代アメリカ大統領)

 第一合衆国銀行の認可期限が近づくと、政府内で議論が沸騰した。認可を延長するか、それとも拒絶するか。またもや、憲法の理念と銀行の意志とが激しくぶつかりあった。結果、認可延長は一票差で否決された。こうして第一合衆国銀行は退場することとなった(1811年)。

 しかしその後、乱立した州法銀行が経済を混乱させてしまう。第一合衆国銀行の設立当時、州法銀行はたった4行だったが、認可期限の20年後には88行に増え、その後の4年間で246行に急増した。州法銀行は、わずかな準備金で、大量の兌換銀行券を発行した。正貨への兌換要求が高まると銀行は兌換を拒絶するか、もしくは銀行を閉めた。この事態に政府が取った行動は、多くの銀行はインチキの産物であると国民に知らしめることではなく、再度、中央銀行を設立して問題を手っ取り早く塗り込めてしまうことだった。

 第一合衆国銀行が廃止されてから5年後の1816年、第二合衆国銀行が20年間の期限で設立された。確かに、第二合衆国銀行の締め付けで、州法銀行による紙幣乱発はおさまった。しかし、不誠実な銀行の体質が改まったわけではない。

 この時期、アンドリュー・ジャクソンが第7代大統領となる(1829年)。ジャクソンは、正貨(金貨・銀貨)こそ真実の通貨であるとして、まっこうから第二合衆国銀行の存在を否定する。そして、頭取のニコラス・ビドルと激しく衝突する。ビドルはジャクソンの機先を制するため、議会を動かして認可期限の4年も前に認可延長の決議を勝ち取ってしまう(1832年)。これに対してジャクソンは、大統領拒否権を行使して、法案への署名を拒否する。しかし、それで勝負がついたわけではなかった。

 この二人の戦いは、その年の大統領選挙という形で頂点を迎える。ジャクソンが落選すれば、第二合衆国銀行は生きながらえる。ビドルは、ジャクソンの再選を阻止すべく、無から創造したマネーで政界、実業界、メディアなどを自陣につけ、ジャクソンへのネガティブ・キャンペーンを張った。それに対してジャクソンのとった戦法は、自分の生の声で直接有権者に訴えかけるというものだった。ジャクソンは、全国遊説を行った最初の大統領となる。交通機関の未発達な当時としては、かなりの難行だったはずだ。結果、ジャクソンの生の声が、ビドルの創造したマネーに勝った。ジャクソンは大統領に再選され(1832年)、これで勝負がついた……と思われた。

 認可期限が切れる前年(1835年)の真冬、黒光りする銃口が、狙いを外すことのない至近距離でジャクソンに向けられた。引き金がしぼられ、撃鉄が落ち、爆発音が響いた。襲撃者はすぐに、別の拳銃を取り出し、また爆発音が響いた。周囲にいた人々は騒然となった。ジャクソンは、アメリカ史上初の暗殺を企てられた大統領となった。

 襲撃者の狙いは正確だった。ただ、当時の拳銃は発火したからといって、弾丸が発射されるとは限らなかった。二回の爆発音を立てたのは、パーカッションキャップという点火用の小さな雷管だった。その火花が銃身内のガンパウダーに誘爆すると、はじめて弾丸は発射される。パーカッションキャップは画期的な発明だったが、それでも不発は発生した。キャップが発明される前は、火打石を撃鉄に装着して火花を起こした。火打式の前は、有名な火縄式だ。いずれにしろ、現代の薬莢が開発されるまでは、不発はめずらしいことではなかった。真冬の首都に降る冷たい小雨も、ジャクソンに味方したことは間違いない。

 ジャクソン大統領暗殺未遂事件の翌1836年、第二合衆国銀行はついに認可期限を迎え、中央銀行としての地位を失う。ビドルは州法銀行へ転換すべく認可申請を行ったが、申請は拒否された。やむなく個人銀行として再出発したが、しばらくして倒産した。一時期はアメリカ政財界をも支配したビドルだが、マネーの源泉を絶たれると何の力も持たなかった。逆に言えば、民間の中央銀行というものが持つ権力が、いかに強大であるかが分かる出来事でもある。

 第二合衆国銀行の退場により、州法銀行の乱脈経営が再燃したことは、第一合衆国銀国の場合と同じだった。今回は、恐慌というすさまじい代償を払うことになる。しかし、合衆国は返済を許されない債務の連鎖から解放された。ジャクソンとビドルについて、どちらを評価するかは、今日、真っ二つに分かれている。

 第二合衆国銀行の退場以降、約80年間アメリカでは中央銀行が設立されなかった(連邦準備制度の設立は1913年)。中央銀行が存在しなかったこの期間は、アメリカにとってどんな時代だったのだろうか。

 資本主義路線に基づく一国の工業化過程の中で銀行を中心とする金融システムの果たす役割は大きく、多くの先進資本主義国では、その中心に中央銀行を設置してシステム全体の調整を図ってきた。ところが、合衆国においては、イニシアル・ステージとしての産業革命を1810年代ころに開始し、その後、次第に工業化過程の進行を加速させ、やがて世界経済の覇権をイギリスから奪取するまでの期間のうち、その大半を中央銀行なしで済ませてしまったのである。
第二合衆国銀行における中央銀行機能
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000405035

 アメリカは中央銀行を必要とせず産業革命を達成し、イギリスを追い越してしまったのだが、何がその原動力となったのだろうか。

 合衆国の此の五年間に、かって類例を見ない程大量の人員、資金、資材を戦争遂行(南北戦争)の為に投入したにも不拘(かかわらず)、北部に新しい溶鉱炉、製粉工場、製革工場、新しい鉄道云々の異常な増加という如き誰の目にも明らかな富を創出したのである。……南北戦争が産業革命の速度を速め、資本主義発展の速度をはやめたのである。実際此の戦争をば百年前の英国産業革命にも比すべき産業革命の開始点と看做す見解もあり、カークランドも本格的な産業革命は寧ろ南北戦争後に於いて強力に進められたとさえ見る事が可能であるとする。
p七〇-七一
南北戦争期の「グリーンバックス・インフレーション」
http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/7649/2/HIKONE%20RONSO_040_059-081Z%20katayama.pdf

 つまるところ、南北戦争(1861~1865年)の需要が産業の拡大を促進し、戦後の本格的な産業革命につながったということだ。ここで最も重要なのは、この戦争と産業革命をまかなったマネーは、いったいどこから来たのかということだ。この期間、中央銀行は存在しないのだ。

 第16代大統領エイブラハム・リンカーンは、南北戦争の戦費調達にひどく苦労した。州法銀行は、北軍が敗北して債権の回収ができなくなるのを恐れて金を貸したがらなかった。外国政府も同じだ。残された最終的な手段は 「政府紙幣」 の発行だった。連邦政府自身が紙幣を発行するのだが、これは金銀の裏打ちのない完璧な不換紙幣だった。裏面が緑色のインクで印刷されていたので「グリーンバック」と呼ばれた。「政府紙幣」の発行は、もちろん憲法には記載されていない。しかし、明確に禁止もされていない。

 グリーンバック発行の圧力はまず議会で始まったが、リンカーンも熱心に指示した。彼の見方はこうだった。

 政府は通貨と信用をマネーとして創出、発行する権限を有し、また通貨と信用を課税その他によって流通から引き上げる権限を有しているのであるから、利子を払って資金を借りる必要もなければ、借りるべきでもない。……マネーの創出と発行の特権は、政府の最高特権であるばかりでなく、政府にとって最高の創造的な機会である。
p462 『マネーを生みだす怪物』 

 政府自らが通貨を発行して財源にあてれば、当然、政府の債務にはならない。つまり、利息など発生しない。利払いのための余分な徴税の必要もない。その効果は絶大だった。

当時の不換紙幣発行、価格上昇が投機的、非生産的刺戟を与えた事は事実であるが、それ以上に生産への効果が強調されうるのである。
 更にグリーンバックスの回収は……、実際には大いなる回収は行われず、三億五千万弗内外が長期に亘り流通を続け、七三年には更に発行されるという状態も見られた。

 南北戦争期の北部には悪性インフレは起こっていないと云えるであろう。
p八〇
南北戦争期の「グリーンバックス・インフレーション」

 南北戦争期の産業拡大と、その後のアメリカの産業革命を推進した最大の原動力は 「政府紙幣:グリーンバック」 だった。政府自らが通貨を発行し、流通量をコントロールして、経済の拡大を達成したのだ。産業拡大や経済発展のために、必ずしも中央銀行が必要なわけではないことをグリーンバックは示した。この重大な歴史的事実はあまり省みられることがないようだ。

 それどころか今日、「政府紙幣」は貨幣的無秩序の代名詞のように喧伝され、口にするのも忌まわしい貨幣的タブーなのだ。政府紙幣が経済拡大を達成できるという事実は歴史の片隅に封印された。

 金融の専門家と呼ばれる人々は、選挙で選ばれた議員が構成する議会が金融政策を執るのは非効率的であるとして、国家から「独立」した中央銀行がその任に当たるのが最適であるとする。それが現在のグローバル・スタンダードなのだ。どこをどうすれば、そんな屈折した理屈がひねり出せるのか理解に苦しむ。伝え聞くところによると、それはすでに「数学的に証明」された真理らしい。どこか遠い別の惑星の話ではない。われわれが住むこの青い地球での話しだ。

 アメリカ創成期の歴史は、政府と銀行との戦いに満ちている。多くの政府指導者は、マネーに関する深い洞察力を備えていた。ワシントン、ジェファーソン、アダムズ、ジャクソンなどなど。凶弾に斃れたリンカーンも。

 マネーの権力は平時には国を食い物にし、有事には国家に対する策略をめぐらす。絶対君主よりも横暴で、独裁者よりも傲慢で、官僚制度よりも利己的だ。近い将来、きっと危機が起こるに違いなく、それを思うとわたしは不安にさいなまれ、わが国の安全が脅かされることを考えて身内の震えるのを覚える。
リンカーン、ウィリアムズ・エルキンズへの書簡
p468 『マネーを生みだす怪物』


 新大陸に移住した人々は、何が貨幣的真実かを常に問い続けた。
 彼らの歩みは実に紆余曲折を重ねている。
 利害に流された時もあり、信念を曲げた時もある。
 しかし、時には命を懸けて初志を貫き通した。
 そこには正答は存在しない。
 大切なのは常に問い続けることだ。
 解を得たなどと錯覚した瞬間、思考は死ぬ。

 われわれはいま、歴史的な出来事のただなかにいる。
 いまほどマネーについて考えなければならないときはないはずだ。



銃口と紙幣 : 参考資料
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo2/e/4891b4236301b8184e4bc99ed020b38e


銃口と紙幣 : 参考資料

2010年10月19日 22時34分54秒 | 中央銀行・バブル

参考資料

アメリカ合衆国憲法
  在日アメリカ大使館
http://tokyo.usembassy.gov/j/amc/tamcj-071.html

Trying to Assassinate President Jackson
By Jon Grinspan
AmericanHeritage
http://www.americanheritage.com/articles/web/20070130-richard-lawrence-andrew-jackson-assassination-warren-r-davis.shtml

ワシントン政権下の連邦政府の成立と建国初期アメリカ資本主義 アメリカ経済史学会
http://wwwsoc.nii.ac.jp/aehaj/journal7/matsumoto2008.pdf
第1次合衆国銀行と州法銀行 静岡産業大学
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000969498
第一合衆国銀行における中央銀行機能 関西学院大学
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000400796
第二合衆国銀行における中央銀行機能 関西学院大学
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000405035
ビドルとジャクソン 横浜国立大学
http://kamome.lib.ynu.ac.jp/dspace/bitstream/10131/1417/1/KJ00004479893.pdf
ドル発展史上の一齣 : ビドルの国内・国際貨幣思想と第二合衆国銀行 滋賀大学
http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/3337/2/SJ21_0093_065Z%20katayama.pdf
南北戦争期の「グリーンバックス・インフレーション」 滋賀大学
http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/7649/2/HIKONE%20RONSO_040_059-081Z%20katayama.pdf


中央銀行の独立性

2010.01.12  主要国の中央銀行、金融危機で揺らぐ独立性
http://jp.wsj.com/Finance-Markets/Foreign-Currency-Markets/node_21202
2010.05.26  FRB議長、中央銀行の独立性強調 都内で講演
http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/100526/fnc1005261024010-n1.htm
2010.05.26  バーナンキFRB議長:中銀は政治の影響から隔離必要-日銀で講演
http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920000&sid=aJ9BSW6381ug
2010.05.26  日銀総裁が金融危機に言及、FRB議長は独立性維持の重要性強調
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-15511620100526
2010.08.15  政治VS中央銀行 独立性はなぜ必要か
http://globe.asahi.com/feature/081222/side/02.html
日本銀行の独立性とは何ですか?  日本銀行HP
http://www.boj.or.jp/oshiete/outline/01102001.htm
日本銀行の「独立性」と「透明性」――新日本銀行法の概要 日本銀行HP
http://www.boj.or.jp/type/exp/about/expdokuritsu.htm
日本銀行法改正の理念――「独立性」と「透明性」 日本銀行HP
http://www.boj.or.jp/type/exp/about/law01.htm
日本銀行法(平成9年法律第89号) 日本銀行HP
http://www.boj.or.jp/type/law/bojlaws/bojlaw1.htm


参考図書

『マネー その歴史と展開』 ジョン・ケネス・ガルブレイス ティビーエス・ブリタニカ
『マネーを生みだす怪物』 エドワード・G・グリフィン 草思社

 


国際決済銀行 : ナチスに協力したセントラル・バンカー

2010年08月30日 17時54分33秒 | 中央銀行・バブル

「銀行の銀行」は中央銀行と呼ばれる。
さらに「中央銀行の銀行」と呼ばれるものがある。

国際決済銀行The Bank for International Settlements だ(以下、BIS)。

BISは、その名の通り国際決済業務を行なう銀行である。基本的には政府間の決済しか扱わない。BISは政府間の資金の流れを逐一把握している唯一の機関であり、最も透明性を要求される機関である。にもかかわらず、BISは歴史的資料の情報公開を長らく拒んでいた。

BISの設立は1930年。
本部はスイスのバーゼル。
設立の目的は、第1次世界大戦の敗戦国であるドイツの戦争賠償金を、円滑に戦勝国に分配することだった。

1919年のヴェルサイユ条約で、敗戦国ドイツには過酷な戦争賠償金が課せられた。最初の割賦金を支払ったあと、ドイツはハイパーインフレに見舞われる(’23年)。そのため賠償支払い能力を失う。国民生活は困窮を極めた。’23年にはナチスがミュンヘン一揆をおこす(未遂)。ドイツ国内の不穏な政情を解消するため、アメリカの民間資本がドイツに投資され、ドイツの経済回復をはかることになった(ドーズ案、’24年)。その後、賠償額も減額された(ヤング案、’29年)。

ヤング案では、賠償金問題から政治色を排除するため、政治的に中立な賠償銀行の設立も提案された。これが、BISの設立につながる。

したがって、BISの設立には、ヴェルサイユ条約で戦争賠償の分配にあずかっていたイギリス、フランス、イタリア、ベルギー、日本が中心になった。アメリカはヴェルサイユ条約に調印せず、賠償請求権を放棄していた。アメリカ政府内では、BISの理事会に参加するかどうかで紛糾し、結局、見送られた。BISの理事国は、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、ベルギー、日本、オランダ、スイス、スウェーデンの9カ国となった。

理事会の勢力構成は、ドイツ、フランスが各3、イギリス、イタリア、ベルギーが各2、日本、オランダ、スウェーデン、スイスが各1となった(ただし、オランダ、スイス、スウェーデンは議決権を持たない)。日本の理事には日銀ロンドン駐在の二見貴知雄が就いた。

賠償銀行としてのBISが新設されたものの、翌1931年には世界金融恐慌が発生し、ドイツは再び賠償金の支払いができなくなる。そこで、1年間の支払猶予協定が結ばれた。しかし、ドイツの経済力が回復する見込みはなく、’32年7月9日、結局のところ、ドイツへの賠償請求の放棄が決定した。BISは設立から2年ほどでその存在理由を失った。

ドイツへの戦争賠償請求が全額放棄された背景には、ナチス党の台頭がある。苛酷な賠償金支払いの重圧によって、ドイツ国民の生活は極度に圧迫され、ヴェルサイユ条約に対する反発と憎悪を深めた。そして、報復戦争の機運さえ高まった。ナチス党はこうした国民意識を捉え、勢力を拡大した。こうしたドイツ国内の不穏な情勢を沈めるため、ついに、戦争賠償金は放棄されたのだった。そして、ドイツへの制裁から、一転して、宥和政策へと転換する。

存在理由を失いかけていたBISは、そのネットワークを宥和政策に役立てることになる。しかし、その努力が実を結ぶことはなく、世界は再び戦争に突入する。ついにBISは存在理由も存在意義も失った。今度こそ本当に無用の国際機関となるはずだった。

大戦の真空地帯

第2次世界大戦が勃発すると、結果的にBISの理事会の内訳は、枢軸国のドイツ、イタリア、日本と連合国のイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、そして中立国のスイス、スウェーデンで構成されることになった。

BISの職員構成も同様である。イギリス14、フランス13、ドイツ11、イタリア8、ベルギー3、アメリカ2、日本、スウェーデン、チェコ各1となっている。世界大戦が勃発して、この機関がまともに機能するはずがなかった。

しかし、いままで単なる中央銀行家の「紳士クラブ」的な意味しかなかったBISは、第2次世界大戦の勃発によって、始めてまともにその業務が稼動し始めたのだった。

スイスのバーゼルに本部を置く国際決済銀行(BIS)。「中央銀行の銀行」とも呼ばれるこの由緒ある国際機関は、第二次世界大戦中、敵対する連合国と枢軸国のきわめてハイレベルの代表が公然と協力し合う場でもあった。敵味方の立場を越え、緊密な関係にあったのは、各国の通貨・金融政策を担う中央銀行総裁である。もちろん、このことはそれぞれの陣営を代表するドイツのヒトラー総裁、米国のローズヴェルト大統領、そして英国のチャーチル首相も承知のうえであった。

前線においてはそれぞれの国の兵士が生死をかけた戦闘を繰り広げているというのに、スイス・バーゼルにあるBISでは、ライヒスバンクのヴァルター・フィンク、イタリア銀行のヴィンツェンツォ・アツォーリーニ、イングランド銀行のモンターギュ・C・ノーマンという各行のトップが敵味方の関係を越え、意思決定の最高機関である理事会のメンバーを努めていた。
Ⅴ 『国際決済銀行の戦争責任』ジャン・トレップ


第2次世界大戦の主役であるアメリカは、BIS理事会には名を連ねていない。しかし、第2次世界大戦の期間中、BISの総裁を務めていたのは、アメリカ人である。

アメリカの銀行家トーマス・H・マキットリクは、1940年1月から46年7月までBIS総裁を務めた。米財務長官ヘンリー・モーゲンソーは、マキットリクの総裁就任に猛反対した。だが、米国務省はマキットリクに渡航許可と外交官パスポートを発給する。

マキットリクのBIS総裁就任には、米金融界の思惑が強く働いていた。ウォール街は、戦後のヨーロッパの復興を担うであろうBISに影響力を築いておきたかった。片や、モーゲンソー長官は、金融支配権をウォール街とシティから奪い、ワシントンが握るという野望を抱いていた。第1ラウンドはウォール街が取った。

BISに着任したマキットリク新総裁をサポートするのは、フランス人の総支配人ロジェー・オボアンとドイツ人の総支配人補佐パウル・ヘヒラーである。

この米・仏・独トリオによるBIS運営は、ナチス・ドイツが崩壊した後も継続し、欧州の終戦から八ヵ月が経過した四五年十二月二九日、ヘヒラーが他界するその日まで続いたのである。
Ⅵ 『国際決済銀行の戦争責任』

また、日本人の吉村侃 (よしむらかん、横浜生金銀行出身)が、BISの為替課長として業務に当たっていた。

吉村は真珠湾攻撃に始まる日米開戦後も引き続き、米国人の上司から職務上の指示を受け、これに従っていた唯一の日本人だったと思われる。スイスに駐在する日本および米国の大使は、BIS内での二人の奇妙な協力関係を知りながらこれを黙認していたのである。
i-ii 『国際決済銀行の戦争責任』

ヨーロッパ情勢が不安定になると、BISの日本人理事は日銀ロンドン駐在の二見貴知雄からベルリン駐在の山本米治に代わった。さらに山本米治の職務代理としてチューリッヒの北村孝治朗(横浜正金銀行)が任命された。

ただし、大戦中はBIS理事会の開催が見合わされていたので、山本や北村が他の理事と直接顔を合わせる機会はなかったようだ。重要事項の裁決は文書で各理事に諮られた。

BISは、理事会も執行部も各部門も、連合国と枢軸国の寄り合い所帯で構成され、運営されていた。しかし、彼らは決して反目することなく、粛々と業務を遂行した。BISは、戦時にありながら、対立する空気の流れていない真空地帯だったというしかない。国際連盟が各国の対立の場となり、崩壊したのとは対照的である。

ナチス・ドイツの金庫番

枢軸国と連合国のメンバーで構成され、アメリカ人総裁を戴くこのBISの大戦中の主要業務とは、ナチス・ドイツのための国際決済だった。

ドイツの戦争賠償を分配するために設立されたBISは、いまやナチス・ドイツのための国際決済業務を遂行する機関に変貌した。ナチスからの血も凍る脅迫や強制があったわけではない。それどころかナチスは、決済業務によって派生する手数料をきちんとBISに支払っている。しかもその手数料設定は、相場よりもずっと割高だったにもかかわらずだ。

BISは、ごく自然にナチスの決済業務へと移行した。そこには、アメリカを含め世界の金融界の思惑が強く働いていた。彼らは、BISを通じてナチスと良好な関係を維持しておきたかった。

ナチス党が政権を取った1933年、社会主義的な金融政策が起草された。もしそれが法制化されれば、外国の民間銀行の対独債権はすべて不良債権と化すはずだった。しかし、BIS理事に就いていたライヒスバンク(ドイツ中央銀行)のヒャルマール・シャハト総裁は、ナチスの試みを阻止し、外国銀行の債権を守った。この海外の対独債権は、大戦中、毎年支払猶予が更新され、それは’44年まで続いた。

シャハト総裁は、ナチスの利益よりも、世界の金融界の利益を優先したと言える。BIS理事会での密接な交流がなかったとしたら、シャハトがそのような措置を取ったかどうかはあやしい。後にシャハトは、ヒトラー暗殺未遂に連座して逮捕される。

BIS総支配人補佐パウル・ヘヒラーも、

「よしドイツが勝利を得るもBISにおける英人の権益は極力尊重」する。
p92 『国際決済銀行の20世紀』 矢後和彦

と吉村侃に語っている。

連合国の民間金融機関が対独債権を守るためには、BISの存続が絶対的な条件だった。ナチスのBIS利用は、世界の金融界にとって有利に働いていた。

また、ルーズベルトやチャーチルも、戦争がどれほど苛烈を極め、どれほどの犠牲を出そうとも、自国の銀行関係者が、ナチスに協力するBISの理事や執行部を務めることに反対しなかった。

ドイツの思うがままになるBISの存続を、ヒトラーが望んだのは当然だった。だが、第三帝国の無条件降伏を戦争遂行の目標に掲げた連合国のチャーチルやローズヴェルトに、BISを支援するどのような理由があったのか。

民主党出身のローズヴェルトは戦時中、伝統的に共和党を指示するウォール街から金融界の人材を積極的に取り込み、政府の役職に重用していた。そして、こうしたウォール街出身者らは、米民間資本を使って欧州の戦後復興を進めるに際して、彼らのよく知るBISの利用を望んだのである。

一方、チャーチルはなぜ、目指すべきドイツ打倒とは逆の方向に作用するのを知りながら、イングランド銀行がBISにとどまることを受け入れたのだろうか。……… 一つは米国に対する大英帝国の対抗意識、もう一つは共産主義への恐怖である。
p253 『国際決済銀行の戦争責任』

こうした連合国側の金融界や政府の思惑により、ナチス・ドイツによるBIS利用は、事実上妨害されることも制限されることもなかった。

ナチスの決済は主に金で行われたが、実際に金で支払うのではなく、各国中央銀行がBISに開設した口座間で金を移動させる。より正確には、BISの帳場の上で金が移動する。イングランド銀行内のBIS口座の中で金を移動させることもあった。これも、帳簿上の話だ。金そのものは、1ミリも移動しない。このBISの国際決済業務が機能していなかったとしたら、ナチスの戦争はそれほど長続きしなかった可能性が高い。

基本的には帳簿上の金決済だが、相手国の事情に応じて、実際に金塊を移送することもあった。BISはポルトガルやユーゴスラビアなどに金塊を運んでいる。戦時中の混乱の中、何日間にもわたって金塊を長距離移送するのは危険が伴ったが、BISはナチスのために、この危険な金移送も確実にこなした。

金による決済業務を行なっていたBISだが、実は、金の保管庫は持っていなかった。実際の金塊の保管はスイス国立銀行(SNB)が協力した。ナチスの要請があれば、SNBに保管された金塊を、BISがヨーロッパ各地に運んだ。そしてBISは、ナチスが各地で略奪した金塊の移送や保管にも従事している。

アメリカ人総裁をいただくBISは、まさに「ヒトラーの金庫番」として機能していた。

再度生き残ったBIS

ナチス・ドイツのために、あらゆる便宜をはかったBISも、ドイツの敗色が濃厚になると、業務を停止し、隠蔽工作を行なう。連合国の黙認により公然と活動していたBISだが、戦後はナチス協力の罪を問われることになる。

ウォール街とシティの打倒を目論む米財務長官ヘンリー・モーゲンソーは、BIS解体の急先鋒だった。そして、1944年のブレトンウッズ会議で、BIS解体の決議を勝ち取る。その代わりに米財務省がコントロールする、IMF(国際通貨基金)とIBRD(世界銀行)の設立を提唱する。IMFと世銀の本部がワシントンに置かれたのは言うまでもない。金融支配権をワシントンに奪取するというモーゲンソー長官の野望の実現はほぼ確実となった。第2ラウンドは、モーゲンソーの圧勝だった。

しかし、今日でもバーゼルにはBIS本部ビルがある。BISは解体されるどころか、「中央銀行の銀行」として不動の地位を築いている。

結局のところ、ウォール街やシティ、そして世界の中央銀行や金融界は、一致団結してブレトンウッズの決議を有名無実化した。戦争責任を問われたBIS関係者はほんの数名にすぎない。戦後もBISの理事や職員はほとんど変わらなかった。為替課長の吉村侃も、終戦後数年間BISにとどまっていた。

ただし、日本とドイツは理事国から外された。日本人理事の山本米治と代行の北村孝次郎は終戦後、日本に帰国した。日本がBIS理事国に復帰したのは敗戦から約半世紀経った1994年だが、ドイツは1949年には早くも理事国に復帰している。

勝利を確信していたモーゲンソー長官の野望は土壇場で頓挫した。

中央銀行家の友愛精神

BISのナチス協力は驚くべき歴史的事実だが、同時に、敵味方を越えたセントラル・バンカーの不思議な友愛精神と強い絆にも驚かされる。

ヒトラーのナチス党が政権をとった1933年、ライヒスバンク総裁のヒャルマール・シャハトがBISのドイツ理事に就任し(1933-39年)、バーゼルに赴いた。

これに対し、イングランド銀行のノーマン総裁はじめ欧州各国の中央銀行総裁は、シャハトを独裁国家ナチス・ドイツの代表というよりも、同じ仕事仲間つまりはギルドを構成するメンバーの一人として迎え入れた。
p18 『国際決済銀行の戦争責任』

中央銀行家というのは、何か特殊な絆で結ばれているのだろうか。5000万人もが戦死する苛烈極まりない戦争の最中に、枢軸国と連合国の中央銀行首脳がBISの理事会を構成し、アメリカ人総裁以下、敵味方同士の職員は何のわだかまりを持つこともなく、同じ建物の中で業務をこなした。

後の冷戦期も、彼ら中央銀行家の友愛と絆は、国境も立場も主義主張も超えているようだ。

東西の対立が一段と先鋭化する五〇年代において、BISは、東欧諸国の中央銀行代表がソ連の監視の目を逃れ、西側の同僚との自由な意見交換を享受した唯一の国際機関でもあった。
p254 『国際決済銀行の戦争責任』

セントラル・バンカーにとって、それぞれがたまたま所属することになった国家の体制の違いは、彼らの友愛の障壁とはならないようだ。ファシズムであろうが、コミュニズムであろうが、資本主義であろうが、彼らにとって国家や国家体制は、もともと意味のない存在なのかも知れない。

BISは、各国政府やIMFなどに対して一致して結束する「クラブ」であるとともに、その内部にも重要な対抗関係を秘めた「場」でもあった。
p278 『国際決済銀行の20世紀』

彼らが戦後に勝ち取った最大の成果は、BIS解体を免れたことだ。
そして第二に、中央銀行の「独立性」を確立したことだ。

解体の危機を乗り切ったBISは、今度こそ何ものからも干渉されることのない絶対的存在であろうと決意したことは想像に難くない。

そして、いまや、中央銀行の「独立性」は世界中の政府の常識であり、グローバル・スタンダードである。それは中央銀行を国家の権力の及ばない聖域にしてしまった。それは、BISが聖域中の聖域になったということを意味している。

果たしてそれは、未来に対して正しい在り方だと言えるだろうか。
世界は今、1931年以来の金融危機の中にある。
この危機に際して、世界の中央銀行はほとんど何の手も打とうとしていない。
実際は、打つ手はいくらでもある。
しかし、世界の中央銀行は歩調を合わせて、津波に呑まれる木の葉のフリをしている。


参考文献

『国際決済銀行の戦争責任』 G・トレップ
http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%B1%BA%E6%B8%88%E9%8A%80%E8%A1%8C%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E2%80%95%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%81%A8%E6%89%8B%E3%82%92%E7%B5%84%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%81%9F%E3%81%A1-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3-%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%97/dp/4818812986

『国際決済銀行の20世紀』 矢後和彦
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4901916270/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_1?pf_rd_p=466449256&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=4818812986&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=1A3MK9BWR9RGE9CQ6APF

The Bank for International Settlements
http://www.bis.org/

 

 


中央銀行とは何ものなのか

2010年08月16日 00時13分02秒 | 中央銀行・バブル

 現代の通貨供給システムは、ほとんどの国で同じ形態をとっている。どこの国にも中央銀行と呼ばれるものがある。中央銀行はベースマネー(現金通貨)を経済に供給し、商業銀行は預金通貨を経済に供給している。

 中央銀行は国家の通貨政策を担っているにもかかわらず、今日、中央銀行の政策には政府の意向はほとんど反映されない。中央銀行は、政府にも国民にも干渉されず、完全なブラックボックスの中で通貨政策を決定している。「中央銀行は政府から独立している方が物価の安定が確保される」、というのが世界の共通認識となっているからだ。

 しかし、ごく単純に考えて、国家の通貨を発行している機関が、政府から干渉を受けない存在というのはあまりにも不可解だ。はたして本当にそれが望ましいあり方と言えるのだろうか。「政府から独立することによって物価の安定が確保される」というのは、まったく合理性を欠いた主張としか思えない。

独立性を保ち、物価の安定だけに傾注している中央銀行の方がこれらの肝心な点で優れた実績を上げているという証拠はほとんどないのである。
p71 『スティグリッツ教授の経済教室』 ジョセフ・E・スティグリッツ

たとえば労働者は、中央銀行が過度の金融引き締め策を採ると失うものが多いにもかかわらず、そうした決定の場に代表を送ることができない。その一方で、失業が増えてもたいして失うものはないが、インフレには大きな影響を受ける金融市場の声は、概して十分に代表されている。
p74 同上

こうした仕組みから利益を受けるテクノクラート(高度の専門知識を持った官僚など)や市場参加者は、この仕組みの素晴らしさと、金融政策を政治を超越したところに置かれるべき専門的事項として扱う必要を説いて、多くの国に見事にそれを納得させてきた。
p72 同上

 中央銀行というのは、特定の利権集団の利益を代表している機関である可能性が非常に高い。だとすると、中央銀行を政府の干渉も及ばない機関に祀り上げてしまえば、恒久的にその利益を維持できることになる。そしてその目論見はまんまと成功しているようだ。

 世界中のほとんどの人々は、自国の中央銀行は政府機関だと信じ込んでいるはずだ。それはごく自然に、中央銀行とはそうあるべきものだと人々が考えているからだ。しかし実際は、中央銀行のほとんどは政府から干渉を受けない、法的に独立した民間機関なのだ。そして、人々の手の届かないところで、その生活に多大な不利益をもたらしている。

 この不適切で不公平極まりない仕組みは、どのようにしてできたのだろうか。


金細工師の錬金術

 現在、世界で流通している通貨は、価値の裏づけのない不換紙幣が一般的だ。これは国家の信用を裏づけとして発行されている。それ以前の紙幣は、価値との交換を約束した兌換紙幣だった。兌換紙幣が登場するまでは、価値そのものが通貨として使われていた。つまり、金や銀、宝石だ。通貨としてこれほど確かなものはない。

 ただし、金や銀などの金属貨幣は、その重量と保管の難しさが問題だった。安全な保管庫がない時代は、価値の保存は庶民にとっても金持ちにとっても大きな悩みだった。今日でさえ、金の保管は厄介事だ。かつてのヨーロッパでは、王侯貴族以外で、安全な保管場所を持っていたのは、金細工師くらいだった。日常的に金を扱う金細工師は、頑丈な保管庫を造っていた。必然的に、金細工師は金保管の社会的役割を担うようになった。

彼らの経営は、その取引の公正さよりは彼らの金庫の堅牢さに、より多くを依存していた。
p50 『マネー その歴史と展開』ジョン・ケネス・ガルブレイス

 金細工師は金を預かると、「預かり証」を発行した。預け人は必要なときに預かり証を金細工師のもとに持参して金を引き出し、商取引などに使った。取引で支払われた金は、すぐにまたどこかの金細工師のところに預けられ、預かり証が発行されただろう。引き出された金が、まったく同じ金細工師のところに舞いもどってくることも多々あったはずだ。彼らは、それならわざわざ危険を冒して金で取引をする必要などないという考えにいたる。預かり証に裏書をして渡せばいいのだ。取引のコストも時間も節約できる。この「預かり証」がヨーロッパでの紙幣の起源となった。

 預かり証による取引の安全性と利便性の認識が広まると、金が引き出される割合はどんどん減っていく。所有権が巷で移動しているだけで、よほどの必要がない限り、金は引き出されなくなる。その大前提は、金細工師が確実に金を保管しているという「信用」だ。もし、一人でも金を勝手に流用するようなふとどきな金細工師が現れると、業界全体の信用が崩れる。金はたちまち引き出されて、保管料というコストのかからない貴重な副収入を失う。ギルドの伝統が、金細工師たちの意思統一と規律を守った。

 金細工師全体で保管している莫大な金は、金庫の中に鎮座し続けた。5年、10年、15年……。彼らはその総量を計算したかも知れない。もしかするとそれは、国王の財貨をしのいでいたかも知れない。あるいは、数回の戦費に匹敵する額だったかも知れない。とにかく、目もくらむほどの莫大な財貨が自分たちの管理下で、引き出されることもなく、ただ静かに眠り続けているだけなのだ。ようするにその金は、そこになかったとしても何の影響もないのだ。そして、代々金細工一筋に生きてきた実直な職能集団の心に……

 金属貨幣の時代は新たに金銀が採掘されない限り通貨は増えない。社会の中で流通するおカネの量がほぼ一定であれば、新しい生産を行なう余地はあまりない。新しい生産には、経済の中を流通するお金が増えなければならない。椅子取りゲームのようなもので、ゲームの参加者が増えれば、椅子の数も増やさなければならない。人口が増えると需要が増える。増加した需要を満たすための生産には、その分の通貨の追加が必要になる。しかし、金属貨幣は人為的に増やすことはできない。人口が増え続ける社会では、金属貨幣はつねに不足することになる。

 おそらく、金細工師の元には、常に通貨供給の依頼があったはずだ。金を貸出せば金利収入が入る。しかし、保管庫の中の金は、他人のものだ。貸したくても貸し出せない。ただし、彼らは長年の経験から、金が引き出される割合や季節的パターンなどを把握していたはずだ。一定の金を貸出しても決して発覚しないことを彼らは理解していた。問題は、単独で行なった場合、一回でも想定外の大量引き出しが起これば、犯罪が発覚してしまう。そのとき、金細工師全体を道連れにしてしまう。

 しかし、グループで行なうなら、想定外の大量引き出しにも対応できる。一定量の金をグループで備蓄しておけばいいのだ。この組織的犯罪を決行すれば、金細工師たちはまったくコストをかけずに莫大な金利収入を得ることができる。それともまじめに日々コツコツ、コツコツと金を叩きながら、保管料という副収入で満足するかだ。さあ、あなたならどうする。

 ほどなく彼らは、あなたの期待をあっさり裏切って、ほぼすべての金を貸出してしまった。この犯罪を可能にしたのが、ギルドの存在だ。彼らには専門技術を何世代にもわたって秘匿継承してきたという伝統があり、その結束力は血よりも堅い。ギルド内の秘密は絶対に外に漏れない。ヨーロッパにギルドの伝統がなければ、金細工師のこの危険極まりない組織犯罪は成立しなかっただろう。

 金細工師たちは、金の保管料を得る一方で、同じ金から高金利を稼いだ。最も旺盛な金の需要者は王侯貴族であり、そうした金は外国の奢侈製品の購入などに当てられ、流通から消えた。金は金細工師の元には還流しなくなり、貸出す金が底をついたところで、この犯罪は終わる……はずだった。しかし、金細工師の犯罪の本番は、貸出す金がなくなったときにはじまった。

 金がなければ、金があることにして「預かり証」を貸し出せばいいのだ。預かり証を発行する制約などない。その気になれば無限に発行できる。その事実に気づいたとき、彼らは呆然としたに違いない。金細工師は、錬金術をあみ出したのだ。預かり証とはすなわち、金の等価物にほかならない。

 金細工師は、金が引き出される割合やパターンを把握しているので、預かり証を増刷した分、市中から一定の金を回収して金準備を増やせばいいだけだった。金細工師たちは、無限に増刷できる預かり証で暴利を得た。

 経済の中の通貨は常に不足していたので、預かり証がどんどん増えても何の問題も起こらなかっただろう。それどころか、経済は活性化したはずだ。産業規模が拡大し、新しい産業も興っただろう。金細工師はそのことにも気づいていたかもしれない。もしワインの供給が不足していれば、ぶどう農園に預かり証を配分してやればよい。農園が拡張され、雇用も増える。

 ペンをすらすら走らせるだけで、時間もコストもかけず、莫大な富を築いた金細工師たちは、家業を廃業して、金貸しを専業とするようになる。そして銀行業に発展する。銀行家となった彼らは、預った金をもとに、兌換紙幣を発行して貸し付けを行った。しかし、金細工師の時代と同じで、預った金の総量などにはまったく制約されることなく、多量の紙幣を発行して金利を稼いだ。インチキの仕掛けはまったく同じなのだ。少しだけ違うのは、預った金に対して利息を支払うという点だけだ。人々は、銀行家は預った金の総量を超えて、兌換紙幣を発行していないと信じた。

 自由に通貨を生み出せる彼ら銀行家は、その時代の支配者と言えた。王侯貴族が銀行家のおカネを必要としたのは、金細工師の時代と変わらない。徴税は常に上限に達しているため、王は銀行家の資金なしには、国家の運営ができなかった。王がもっともおカネを必要としたのは戦争の時だ。

 もしかすると戦争をお膳立てしたのは、銀行家だったかもしれない。たとえ敵同士であっても、秘密を共有する銀行家はギルド的友愛精神で堅く結ばれている。戦争は彼らの勢力を拡大するチャンスだった。彼らは、どちら側を勝たせるかを簡単に決定することができた。資金が底をついたと告げられた王が敗者だ。金細工師の末裔たちは、経済や戦争を自在にコントロールしながら、権力を掌中に収めていった。銀行家にとっておカネは、好き勝手に生み出せる文字どおりの紙切れにすぎない。そんなものは富ではない。彼らが欲したのは絶対的な権力だ。

 ヨーロッパの王室が没落したのは、銀行家の単純なトリックを見抜けなかったからだ。「無」から生み出されているだけのおカネを借り続け、領土も財貨も権威も失っていった。その気になれば、王自らがおカネを生み出せることに最後まで気づかなかった。 


 この単純なトリックは、次々と世紀をまたいで行く間に、公的な通貨システムに姿を変えた。金細工師が近代的銀行になり、ギルドが中央銀行になった。しかし、どのように姿を変えてもインチキの本質は変わっていない。銀行は預かったおカネを貸し出して、金利差を得ているのだと人々は信じている。しかし、実際は預かったおカネを貸出しているわけではない。銀行は、「無」から預金通貨を生み出して、貸出している。

 しかし、そうしたことは経済学の教科書には載っていない。
 現代でも、おカネが誕生する単純な仕組みは公にしてはいけないのだ。

経済学の他のいかなる分野にも増して、貨幣の研究は、真実を明らかにするためではなく、真実を偽装し、あるいは真実を回避するために、複雑さが利用されている分野なのだ。
p9 『マネー その歴史と展開』 ジョン・ケネス・ガルブレイス

 
なぜ真実を偽装し、回避する必要があるのだろうか。
 おそらくそれは、この驚くほど単純な仕組みが、経済に対して絶大な影響力を持っているからだろう。バブル景気から恐慌まで。しかし、中央銀行は、マネーは中立で無力だと装っておきたいのだ。そうすれば、誰もマネーに注目しない。中央銀行が独立性にこだわるのも同じ理由だ。彼らは他者を排除したブラックボックスの中にマネーの真実を閉じ込め、密かに経済をコントロールしたいのだ。

 世界的不況下の今日、国債や歳出削減、増税といった項目に議論が集中しているが、それは見え透いた煙幕にすぎない。
 この事態に、世界中の中央銀行は無力を演じ続けている。
 しかし、セントラル・バンカーは本当は何をすればいいかを熟知している。

 

 


<参考資料>

『マネー その歴史と展開』 ジョン・ケネス・ガルブレイス
『スティグリッツ教授の経済教室』 ジョセフ・E・スティグリッツ
『円の支配者』 リチャード・A・ヴェルナー
『戦後日本の資金配分』 岡崎哲二/他
『通貨・金融の歴史と現状』 新宅彰
『現代金融と信用理論』 信用理論研究学会
『決済システムと銀行・中央銀行』 吉田暁
『貨幣と銀行』 服部茂幸
『銀行業序説』 辻信二

教えて!にちぎん 日本銀行の独立性とは何ですか?
http://www.boj.or.jp/oshiete/outline/01102001.htm
日本銀行法改正の理念――「独立性」と「透明性」
http://www.boj.or.jp/type/exp/about/law01.htm
日本銀行の「独立性」と「透明性」――新日本銀行法の概要
http://www.boj.or.jp/type/exp/about/expdokuritsu.htm
2010.01.12  主要国の中央銀行、金融危機で揺らぐ独立性
http://jp.wsj.com/Finance-Markets/Foreign-Currency-Markets/node_21202
2010.05.26  日銀総裁が金融危機に言及、FRB議長は独立性維持の重要性強調
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-15511620100526
2010.08.15  政治VS中央銀行 独立性はなぜ必要か
http://globe.asahi.com/feature/081222/side/02.html

信用創造について
当ブログ記事 『そもそもおカネとは何なのか』②~⑤
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo2/e/472b893a115ba84fba9fcc715d5f2287
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo2/e/191061a2a824d42c12f8a8f431307a0c
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo2/e/36b401ec10b4fb0fe43bb475b6ca2b04
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo2/e/8c52f56fcccbdd53678637be2e466568


バブルマスター ・ グリーンスパン

2009年08月12日 12時04分36秒 | 中央銀行・バブル

 世界はいまだ「金融危機」の余波の中でゆれ続けている。しかし、この危機を引き起こした張本人は、あらゆる責任から逃れて悠々としている。おまけに、この男の経済予測がいまだに大手メディアの経済欄に載ったりしている。

 アメリカの住宅バブルは、日本のバブルが豆粒に見えるほど膨張し、成層圏にまで噴き上がったあと、きりもみを描きながら地面に激突した。これがもし航空機事故なら、考えられる限りの角度から徹底した調査検証が行われることだろう。そして、原因を究明し、二度と同じ惨事が起こらないように完璧な対策がとられるはずだ。航空機業界はそうして空の安全を守ってきた。しかし、未曾有のこの金融危機に対して、はたして交通事故程度の検証が行われたかどうかもあやしい。ろくな調査もないまま、“強欲”というキーワードを編み出して、責任を投資銀行になすりつけ、それで決着してしまった。投資銀行は、確かに強欲な存在だったが、それは百年も前からの話だ。何をいまさら。これは意図的な責任のすり替えだ。

 バブルは、“強欲”によって生まれるわけではない。勝手にぶくぶく沸いてくる自然現象でもない。「過失」によって引き起こされた人災でもない。バブルとは、れっきとした「経済政策」であり、確立された技術だ。今後も必要に応じて繰り返されることは間違いない。だから、調査も解明も必要ないのだ。というより、解明されては困るのだ。

    10年にも満たない期間に2つの巨大なバブルが発生したわけだが、グリーンス
    パンがFRB議長に就任する以前は、1979年後半から80年前半まで日用品と貴
    金属の投機熱が高まった以外、アメリカは50年以上バブルを経験していなかっ
    たのだ。

    p12 『グリーンスパンの正体』
    ウィリアム・フレッケンシュタイン、フレデリック・シーハン著

 グリーンスパンがFRB議長になってから、なぜかアメリカ経済はジェットコースターのようにヒートアップを繰り返すようになった。二つのバブルとは「ⅠTバブル」と「住宅バブル」のことだが、その前にもうひとつ「債権バブル」が発生している。あとになるほどバブルは巨大化した。アメリカの住宅バブルが航空機事故なら、日本の「狂乱バブル」は高速道路の玉突き衝突というところだろう。

 2006年1月、アラン・グリーンスパンは、18年6ヵ月務めたFRB議長を退任した。その直後に、巨大化した住宅バブルがきりもみを描きながら、真っ逆さまに墜落した。なんともよくできた話だ。はたして単なる偶然なのか、それともよほどの強運なのか。


バブルに関するグリーンスパン発言

 三つのバブル期のグリーンスパンFRB議長(当時)の発言は、そのときどきで大きく変化している。矛盾に満ち満ちていると言った方がいいだろう。しかし、議会もメディアも彼の発言を本気で追及することはなかった。ひとつにはFOMC(連邦公開市場委員会)の議事録は5年経たなければ公開されないので、矛盾が発覚しにくい仕組みになっているからだ。また、アメリカ経済はインフレもなく、表面上成長しているように見えたので、発言の矛盾は問題視されなかった。FRBの第一の責務である、物価と雇用が安定している限り、文句を言われる筋合いはなかった。

 グリーンスパンがバブルに関してどれほど矛盾した発言を繰り返していたかを、金融危機の只中にいる我々は、きちんと把握しておくべきだ。すべてが終わった今、グリーンスパンの発言の極端な矛盾は重大な事実を示している。

まずⅠTバブルに先立つ債権バブル(91~94年)におけるグリーンスパンの発言を見てみよう。彼は、はっきりと「バブル」を「解消」したと繰り返し発言しているのだ。これは非常に重要な証拠だ。

    前回の会議以降、株価と債券価格が急落したことで、それまで肥大化していた
    バブルの大部分は解消されたと思われます。言ってみれば、タイヤからかなり
    の量の空気を抜いたということです。
(1994年4月18日、FOMC会議)
    p32 『グリーンスパンの正体』

    私たちはかなりバブルのガス抜きをすることができました。(中略)まだバブルは
    多数残っていると思います。すべてを取り除いたわけではないのです。それでも
    目下のところ、金融システムを破綻させることなく、従来よりも強硬な手段に出
    ることができるようになったと言えるでしょう。
(1994年5月27日、上院での証
    言)
    p32 同

    「5月の引き上げ(0.75%の利上げ)により、あらゆる観点から考えて、バブルが解
    消されたことを明確に示せたと思います……」
(1994年8月16日、FOMC会議)
    P36 同

    私たちは市場から多くのバブルを取り除きました。現にこれまでの政策で成功し
    た点のひとつは、人々が感じていた株価の不安定性を大幅に軽減し、懸念度合い
    を格段に下げたことでしょう。
(1995年2月1日のFOMC会議)
    P37 同

 グリーンスパンは、債権バブルをみごとに解消しているのだ。つまり、バブルが「破裂する前」に鎮静下したということだ。グリーンスパンとFRBは、こうした経験と実績を持っていたのだ。グリーンスパンはバブル解消の手段についても言及している。

    バブルを解消したければ、それがどのようなバブルであれ、委託保証金率引き上
    げが効果を発揮することは間違いありません。
(1996年9月24日)
    p168

 委託保証金率だけで、巨大化したバブルまで解消できるかどうかは疑問だが、方策のひとつではあるだろう。グリーンスパンはバブルをコントロールする手段を知っていたのだ。そして、実際に債権バブルに適用して、みごとに成功しているのだ。この事実を念頭において、その後のⅠTバブル期(96~00年)のグリーンスパン発言を見てみよう。
 
    「……バブルが確認できるのは、過去を振り返った時だけです」(1998年12月)
    p80 『グリーンスパンの正体』

    「バブルがそれとわかるのは、ほとんどの場合、終わってからです。事前にバブ
    ルを感知するには判断力が必要となりますが、事情に通じた何十万人もの投資家
    が全員誤った判断をくだしました。」
(1999年6月17日、連邦議会)
    p89 同
 
    ……株式バブルのガス抜きができるかと問われて……
    
「その質問は、私がバブルを認識していることを前提としていますが(中略)、私
    はバブルは終わるまで感知することはできないものだと考えています。バブルが
    存在するということを今感知できると仮定しますと、それは間もなく株価が下が
    ることを予感しているということになります」
(2000年4月13日、上院銀行委員
    会)
    p125 同

 何とも奇妙な主張というしかない。バブルというものが、「終わってみないと感知できない」ものだとしたら、グリーンスパンはなぜ最初の債権バブルを解消できたのだろうか。債権バブルを感知したからこそ、対処ができたはずだ。バブルは感知できないという、この主張は、彼自身の経験と実績を完全に無視している。それとも、ⅠTバブルは感知できない何か特殊なバブルだったのだろうか。

    この時つけた最高値は、それまでの市場より65%高かった。これはまるでヒマラ
    ヤ山脈の頂上のようだが、それだけではなく、統計学的に言うと第3標準偏差で
    あり、100年分だ。感知するのが難しいどころか、見逃すことさえ不可能だと言え
    るだろう。
(2007年10月 資産運用会社GMO会長、ジェレミー・グランサム)
    p205 同

 債権バブルを手際よく解消したグリーンスパンとFRBが、ヒマラヤ山脈のようなⅠTバブルを感知できなかったはずがない。グリーンスパンは、不自然きわまりない説を持ち出してでも、バブルが見えないフリをしなければならなかったのだ。つまり、バブルをそのまま放置したかったのだ。放置されたⅠTバブルが破裂すると、グリーンスパンはまたしても事実と矛盾する発言をする。

    「最近の経験から、大きなリスクをともなわず、膨大な費用もかけずにバブルを
    解消できるような政策など存在しない──これは、ひとつの法則と考えてもよい
    のではないかと思われます。しかし、そもそもバブルの規模を縮小し、その壊滅
    的な打撃を和らげられる政策などあるのでしょうか? これまでの足跡を見る限
    り、答えは『ノー』です」
(2002年8月30日、カンザスシティ連銀の年次総会)
    p167 同

    「投機的資産バブルが発生している時、政策立案者がそれに気づき、これらの資
    産価格の不均衡を成功裏に解消できる時宜を得た政策を実施するよう期待するの
    は、断じて現実的ではありません」
(2005年9月28日、スピーチ「経済の柔軟性」)
    p197 同

 かつて、委託保証金率がバブル解消に効果があると、はっきり述べていたグリーンスパンは、まるでその事実をすっかり忘れてしまったかのようだ。しかし、たとえ彼が忘れてしまったとしても、バブルをコントロールする手段があるという事実は変わらない。グリーンスパンの記憶とともに、事実までが消えてしまうわけではない。バブルは感知できるし、対策もあるのだ。

 これら一連の矛盾する発言から分かることは、グリーンスパンとFRBは、意図的にバブルを放置し、巨大化させたということだ。ⅠTバブルが破裂してしまうと、それを引き継ぐように住宅バブルが発生した。グリーンスパンとFRBはこの住宅バブルも当然、放置し続け、そしてⅠTバブルを上回る巨大なバブルに成長させた。


バブルにいたる道

 アメリカで発生したバブルには、いくつかの共通する要素がある。すべての条件が整うと、投機が過熱し、最終的に破壊的なバブルにまで成長する。バブルの発生と膨張にはおおよそ四つの要素がかかわっていた。
1.魅力的な投機対象の出現 (IT株、ローン担保証券など目新しい商品)
2.商品開発を促進する環境 (金融規制の撤廃、新規規制の排除)
3.投機の危険性に対する感覚麻痺 (格付会社の格付け、会計事務所による監査、ある
  いは土地神話など)
4.投機を爆発的に燃焼させる燃料 (際限なく供給されるマネー)

 まず、投機の対象がなければ、そもそもバブルどころか投機熱さえ発生しない。既知の金融商品は、リターンもリスクもすでに既知であるがゆえに、投機が過熱することはない。投機心に点火するためには、未知であることが条件となる。未知なものは想像力を掻き立て、成長とリターンに対する期待感を高める。ⅠTバブル期には、雨後の竹の子のようにⅠT企業が誕生し、まだ実績もなければ実態さえ明らかでないⅠT企業の株に人々は殺到した。住宅バブルでは、中身がさっぱりわからない証券化商品に、投資のプロが熱狂した。未知なものは、まだ損失の実績もないため、リスクに対する実感がなく、期待感が先行する。未知なる幻惑的投機対象を市場に送り出すことが、バブルへの第一歩だ。

 しかし、既存の土壌には、未知なものを誕生させる余地がない。未知なる投機対象を市場に誕生させるためには、できるだけ規制も監視もない自由な環境が望ましい。既存の規制をできるだけ撤廃し、新たな規制は阻止する必要がある。そもそも法的規制や監視があっても、抜け穴を探して、金儲けの新しい手段が編み出されるものだ。規制が緩和・撤廃されることによって、当局は味方であるという認識が生じる。そのため、健全な商品よりも、リスクの高い、あるいは詐欺同然の商品が大量に市場に投入される結果となる。

 規制撤廃によって誕生した玉石混交の未知の金融商品を、単に市場に投入しただけでは、投機に点火することは難しい。未知なものに手を出しやすくする環境が必要だ。その代表的なものが、「格付け」だ。金融商品は、格付会社によって、投資に適格であるかどうかがランク付けされる。ムーディーズ・インベスターズ・サービスやスタンダード&プアーズなどが行なう格付けに対して、金融のプロも初心者も、高い信頼を寄せていた。しかし、二つのバブルが破裂した後、不良資産と化した膨大な金融商品は、本来「ジャンク級」だったことが判明した。そんなものに「投資適格」の高い格付けがなされていたのだ。格付会社に公正さや客観性を求めることはナンセンスだ。なぜなら格付会社に報酬を支払うのは、格付けを依頼する企業だからだ。報酬を支払う側の不利になるような評価をするわけがない。格付けというのは、安全性の客観的な基準を提示するのものではなく、投資家の警戒心を取り除き、リスクに対する感覚を麻痺させるのが目的なのだ。

 ここまでの三つの要素に、グリーンスパンは無縁ではない。当事者と言うべきだろう。在任中、グリーンスパンは積極的に規制緩和を進め、新規の規制案には反対している。こうした自由市場政策によって、新しく誕生した金融商品を、グリーンスパンは積極的に国民にアピールしている。グリーンスパンは、ⅠTバブルを「ニュー・エコノミー」ともてはやして、「生産性神話」を創り上げ、ⅠT企業への投機をあおり続けた。住宅バブルでは、デリバティブやローン担保証券、そしてサブプライム・ローンまで賞賛している。“マエストロ”グリーンスパンの発言と詐欺的な格付けによって、未知なる商品に対するリスク感覚は取り除かれたと言ってもいいだろう。“マエストロ”の発言は安全保証も同然なのだ。

 バブル期にグリーンスパン率いるFRBは低金利政策も実施している。金利の低下によって預金金利の魅力は減少し、預金を投機に向かわせる動機となった。グリーンスパンはバブルのための土壌を実に丹念に整備し、そして投機に点火すると、あとはひたすら炎をあおり続けたのだ。

 これらすべてが偶然だったすると、本当によくできた偶然というしかない。しかし、仮に偶然だったとしても、最後の要素は偶然ではすまされない。これがなければ、投機熱はバブルにはならない。投機を爆発的に燃焼させる燃料、マネーの供給だ。マネーを管理しているのは、言うまでもなくFRBであり、グリーンスパンはその議長だったのだ。


グリーンスパンはすべてを知っていた

 本来、投機ブームはどれだけ加熱しても破壊的なバブルにはならない。なぜなら、健全な経済の中の余剰マネーの量は限られているからだ。食費まで投資してしまう人はいないし、従業員の給与分まで投機にまわしてしまう企業もない。経済の中の余剰マネーには明らかな限界がある。銀行貸出しを利用して投機を行なこともできるが、銀行の信用創造にも預金準備による量的制限がある。つまり、金融当局が適切な金融政策を行なっている限り、バブルが成長するための余剰マネーは経済の中にはないのだ。燃料に限りがあるのだから、燃焼にも限界がある。では、なぜ二つもの巨大なバブルが発生したのか? 答えは分かりきっている。

 投機ブームが過熱し、成層圏にまで噴き上がる巨大なバブルに成長するためには、爆発的なマネーの増加がなければならない。そのようなマネーを生み出すことができるところはただひとつだ。中央銀行を頂点とする銀行システムだ。中央銀行がベースマネーを増加させると、それが銀行に対するシグナルとなり、銀行は信用創造量を増やす。つまり、貸出し量を増やす。これらのマネーは、無から新しく生み出されたマネーなので、経済に流通するマネーはその分純増する。中央銀行が際限なくベースマネーを増やせば、銀行システムが生みだすマネーは洪水のように経済にあふれ出す。バブル期にインフレが発生していないのは、こうした銀行貸出しが投機に集中していたことを示している。

    経済情勢が正常な時に、強引な中央銀行がやたらと紙幣を増刷する傾向がある
    と、実に大規模で途方もない破壊的なバブルが生まれる。1920年代後半にアメリ
    カで起こったのがまさにこれで、ついには29年に株式市場の暴落を引き起こした。
    このバブルの成れの果てが大恐慌である。
     しかし1990年代後半、グリーンスパンは、狂乱の20年代のどのFRBメンバ
    ーも及ばないほど積極的にバブルの形成に関与した。金融緩和というかたちで火
    に油を注ぎ、人々が投機に走る口実として必要な理屈を提供したグリーンスパン
    こそが、バブルを助長した張本人だったのだ。

    p45 『グリーンスパンの正体』

中央銀行の緩和政策によって、銀行システムが創造した爆発的なマネーこそが、バブルを際限なく膨張させるのだ。中央銀行家で、この単純な事実を知らない者はいないだろう。ましてやアラン・グリーンスパンならなおさらだ。

    一九六七年に発表した「金と経済的自由」と題する論文のなかで、彼 (グリーンス
    パン) は中央銀行に行き過ぎた権力が集中することに反対している。さらに、セン
    トラル・バンカーが通貨を支配しているかぎり自由はない、とまで言い切った。
     一九二〇年代の連邦準備制度理事会の政策を分析したグリーンスパンは、FR
    Bが過剰なお金を創造し、銀行の信用創造を刺激し、それが「証券市場にあふれ
    出て、すさまじい投機ブームに火をつけた」と気づいた。
    彼の鋭い分析の結論は、バブルと大恐慌の責任はFRBにある、というものだ
    った。

    p330 『円の支配者』リチャード・A・ヴェルナー著

 グリーンスパンは在任中、際限なくマネーを増加させた。彼は、それが何をもたらすかを知っていた。それとも、グリーンスパンは自分の研究結果を18年と6ヶ月もの間、うっかり忘れていたとでもいうのだろうか。疑問の余地はない。グリーンスパンの在任中に発生したすべてのバブルは、グリーンスパンとFRBが意図して引き起こしたものだ。彼らがバブルを生み出し、成長をコントロールしていたのだ。

宣伝相グリーンスパン

 2008年10月23日、グリーンスパンは議会証言で、自身の「過失」を認めた。グリーンスパンの権威は地に堕ちたと言われた。しかし、グリーンスパンの責任を問う声はいっさい出なかった。「無能」を裁くことはできないということなのだろうか。しかし、単純に考えれば分かることだ。20年近くも間違った政策を行なってきたとしたら、それは「過失」ではなく「方針」なのだ。グリーンスパンは無能どころか、比類のない才能の持ち主と言える。

 グリーンスパンは政策立案者というより、ある種のアジテーターに見える。革命に向けて、バラ色の幻想を描き、人々を目標に向かって一直線に進軍させるのだ。それができる人材は歴史上それほど多くはない。グリーンスパンは饒舌家ではないし、明瞭な言葉を発するわけでもない。しかし、ゲッペスルのような熱情家タイプだけがすぐれたアジテーターというわけではない。グリーンスパンの不明瞭な言葉は、かえって暗号のように慎重にあつかわれ、結果、多大な影響力を持った。彼の微妙な言葉づかいひとつで金融市場は一喜一憂、右往左往した。グリーンスパンの持つカバンが厚いか、薄いかで、金利の上下を予想する金融関係者もいたとか。

 グリーンスパンは在任中、間違いなく市場と投資家を自由に操っていた。政府や議会も煙に巻いた。グリーンスパンが18年6ヵ月もの長期間、議長の座にいられたのは、金融に対する彼の経験や知識のためではなく、アジテーターとしての卓越した能力のためだろう。“神” と呼ばれ“マエストロ”と呼ばれたグリーンスパンは、アメリカをバブルの奈落へと一心不乱に進軍させた有能な宣伝相だったのだ。

 すべてが終わり、魔法が解けてみるとアジテーターの発言というのは、ペテンにしか見えない。グリーンスパンの発言も同じだ。グリーンスパンが矛盾する発言を平気で行えたのは、彼の役目は、人々を奈落に向かって進軍させることであって、発言の内容に整合性はまったく必要なかったからだ。いかに内容が矛盾していても、確実に目的が達成されればそれでいいのだ。露骨と言える程の矛盾する発言を平気で繰り返せたのも、ひとえに任務遂行のためだ。もちろん、すべてが終われば矛盾は露呈する。しかし、心配はいらない。歴史がグリーンスパンに鉄槌を下すことはない。歴史は彼らが創っているからだ。

 この金融危機は、決して「過失」や“強欲”による人災ではない。
 もちろん、人知の及ばぬ自然災害でもない。
 これは、明確に意図された人類に対する犯罪行為なのだ。



バブルマスター・グリーンスパン:資料編
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo2/e/22fa6cd36c52ad38a853ec00326c955c