2月11日に東ティモールで発生した、ラモス・ホルタ大統領とアルフレド・レイナド少佐銃撃事件についてのWSWSのレポートの第三弾を訳しました。
世界のメディアが、真相を知りつつ、意図的に報じない内容です。
メディアとは大国とその背後に控える多国籍企業や石油資本、国際金融資本の不利益になる報道は一切しません。
メディアとは、こうした巨大な勢力の利益代表でしかないことを、東ティモールでの事件が物語っています。
※ 訳文は素人によるものであり、不備があることをご了承ください。
東ティモール政府、「クーデター」説後に抑圧強化
原文
East Timorese government steps up repression in aftermath of alleged “coup attempt”
By Patrick O’Connor
1 March 2008
http://www.wsws.org/articles/2008/mar2008/etim-m01.shtml
東ティモール首相シャナナ・グスマンは、2月11日に発生した危機 ─ ラモス・ホルタ大統領が負傷し、アルフレド・レイナド元少佐が死亡した ─ を、彼の不安定な政権を強化するための抑圧的措置の口実にした。グスマン政府の報道官は月曜、「戒厳令」 ─ 午後10時から朝6時までの外出禁止令とデモ・集会の禁止を含む ─ は3月23日まで延長されたと発表した。すでに200人以上の人々が主に外出禁止令違反で逮捕されているが、野党議員やジャーナリストもまた標的にされている。
レイナドの殺害をめぐる出来事に関して、いまだ多くの未解決の疑惑が湧くため、グスマン政府は独裁的手法の行使を急いだ。政府とオーストラリア、そして国際メディアによる公式説明によれば、反乱兵は(失敗したクーデターの一環として)ラモス・ホルタ大統領とグスマン首相の殺害または誘拐を企てたが、銃撃によって死亡した、ということになっている。この説明は、2月11日に起こったことの、もっともありそうもない説明である。
詳細はいまだ不明であるのに、レイナドによる暗殺計画だという可能性をいったい何が示しているというのか。2006年の兵士の反乱(いわゆる「嘆願者」)を、グスマンが直接的に扇動していたという事実の詳細を公表したことによって、反乱兵は早くからグスマンに脅威を与えていた。反乱によって、最終的に数百名のオーストラリア部隊の介入を招き、前フレテリン政府の失墜という政治危機を引き起こした。レイナドによるこうした告発は、1月に公開されたDVDによって東ティモール全土に広く行き渡った。
古いことわざ、cui bono(誰の利益になるのか?)は、いまでも犯罪捜査の標準手法だ。過去二週間で、何が起こったかを参照して見ると、レイナドの死による明白な受益者は、東ティモールに駐留するオーストラリア主体の外国軍とグスマン自身だ。
首相による独裁的権力の行使は、国内議会のするどい批判に遭った。議会において、多くのフレテリン議員は、憲法が規定する「民主憲法の行使に対する重大な騒乱または重大な騒乱の脅威」は、もはや存在していないとして、「戒厳令」の延長に反対した。討議中、グスマンの政党CNRTの中からさえも反対意見が現れた。CNRT国会議員セシリオ・カミーニャ(Cecilio Caminha)は「私と友人は”非常事態宣言”の行使には本当に失望した」と語った。「非常事態宣言下では、夜間、治安機関による市民の住居に対する捜査を規制する項目はない。また、会合やデモも禁止される」と。
フレテリンは、グスマンがこの危機をフレテリンの地位を傷つけるために利用していると非難した。申し立てによると、2月19日、フレテリン党の議員でメディア報道官の Jose Teixeira は、六台の車に分乗した武装ティモール警官に家から連れ出され、ディリで拘置された。警察は逮捕状を持っておらず、その捜査は警察調査官としての知識さえ欠いていた、と彼は非難した。フレテリン書記長で前首相のマリ・アルカティリの抗議によって、翌日、彼は釈放された。「これは政治的迫害なのか? Teixeira は影響力のある報道官なので、有力者の誰かが彼の口を閉ざしたかったのだ」「これは、警察権力を政治利用し、大統領銃撃の調査を自党の政治的前進に利用する恥ずべき計略だ」とアルカティリは語った。
ティモール警察とオーストラリア兵は、ジャーナリストをも標的にした。
2月23日、東ティモール・ポスト紙の割付担当 Agustinho Ta Pasea は、新聞の週末版のコンピュータファイルを持って、ディリ印刷所へ向かう途中で逮捕された。Ta Paseaは午前2時に停車させられ、憲兵に殴打され、警察署へ連行され、再び暴行を受けた、と同ポスト紙の編集者 Mouzinho De Araujo はオーストラリアン紙に語った。彼の部下は、夜間外出禁止令違反で11時間床に繋がれ、釈放される前には、顔に切り傷と打撲傷を負った。「おそらく、それはわれわれの新聞が権力に対して不屈だったからだ」と編集者は語った。Ta Pasea の拘留によって、その日のポスト紙の発行は遅れた。安全保障事務局は後に、これを警察官による「不当な暴力」の行使とみなして、正式な謝罪文を発行した。
数日後、タイム誌のレポーター Rory Callinan とカメラマン John Wilson が、ダレ村に向かおうとしたとき、ディリ郊外でオーストラリア部隊によって3時間銃を突きつけられ拘束されるという事件が起こった。オーストラリアに支配されている国際治安維持軍(ISF)は、この地域で、ラモス・ホルタの銃撃に関係しているとされているレイナドの部下の追跡任務を展開していると思われる。彼ら二人は、ISFの検問所の通過を拒否され、ここは「メディア自由地区」ではないと言われた。それで、Callinan と Wilson は徒歩でジャングルを抜けてダレに行こうと1時間歩いた。
Callinan は村に近づいたときの事を、後にオーストラリアン紙に語った: 「迷彩服を着た二人のオーストラリア兵が藪から飛び出てきて、銃を突きつけ、私たちに地面に伏せるよう命じた。私たちは、携帯電話、撮影機材すべて、パスポートを引渡し、黙って座っているように言われた。兵士は、『われわれは、あなたたち自身の安全のために拘束する。それ以上のことは言えない』と言った。私が『それでは私たちは移動できないのか?』と訊くと、『私はあなたを拘束中だと言っているのだ。私が望めば、あなたを物理的に拘束することもできる。しかし、そうはしたくないのだ』と言った。私たちは不思議だった。彼らは、明らかにティモール人の安全には無頓着で、何十人ものティモール人を自由に行き来させていたのだ」
彼ら二人は3時間ジャングルに留められ、日没になると、ダレに入る許可を言い渡された。彼らは、後にディリに歩いて戻ると、再び外出禁止令違反で拘束された。「私たちの装備は再び没収された」と Callinan は述べた。「私たちは、『すでに私たちを三時間も拘束したではないか。そのために外出禁止令違反になってしまったのだ』と言った。一緒に同行していた東ティモール人は、これはまさにインドネシア占領時代に起こったことそのままではないか、と言った」
この事件は、「独立国家」東ティモールに対するオーストラリア支配の新植民地的性格をよく表している。ラッド労働党政府は、オーストラリア自身の目的のために東ティモールの政治的危機を利用した。駐留軍の規模を増強し、オーストラリア軍は「東ティモールが要請する限り」留まり続けるだろう、と宣言した。先立つ1999年と2006年にもオーストラリア軍が配備されたが、とりわけ今回の配備は、戦略的要衝であり資源豊富な地域に対する支配力を維持し、また、中国やポルトガルのようなライバル国家を封じるというキャンベラの決意の体現だ。ラッドとグスマンは、お互いに有益な取り決めにたどり着いたようだ。ティモールのリーダーはオーストラリア軍に自由裁量を与える見返りに、オーストラリア政府の継続的政治支援を得る。ラッドと彼の大臣たちは、グスマン政府の最近の独裁的手法には、厳格な沈黙を守った。
メディアの監視を望んでいないISFのダレでの活動もまた、オーストラリア部隊はそこで何をしているのかという疑問を起こさせる。オーストラリア軍の任務が、指名手配されているレイナドの部下の追跡であるかどうかも不確かだ。少なくとも80名のエリートSAS隊員を含む、1100名のオーストラリア部隊が到着し、沖合いには海軍戦艦が停泊している。伝えられるところによれば、グスマンはこれらの部隊に火器の使用を認めている。オーストラリア軍の多岐にわたる監視技術とこの二年間に収集されたレイナド部隊に関する広範な知識にもかかわらず、この占領部隊は、ラモス・ホルタの襲撃者だと言い立てられている人物の誰をも追跡できていないように見える。
グスマン政府は解散に直面している?
2月11日以降の出来事は、レイナドの死が、グスマンとキャンベラにとって、どれほど都合がよいかを明らかにした。
首相は2006年の嘆願者の抗議を意図的に扇動した、という元少佐の告発によって、もともと不安定だったグスマンの三党連立政府をさらにぐらつかせた。レイナドの告発が広く東ティモールに行き渡るころ、政府は最初に通過させた予算案で、10万人の国内避難民への食料配給を大幅に減らし、年金も削減した。しかし一方で、世界でもっとも低い水準の法人税と投資税であることを自慢したりもした。
深刻な貧困国での社会的不平等をさらに増加させることになるこれら法案は、ティモール民衆からの広範な反発を引き起こし、政府内部でも緊張と内輪もめを燃え上がらせた。民主党の幹部で現在の党首代理である Fernando “La Sama” de Araujo は連立政権から離脱する、という噂がディリに広がった。一方、グスマンはレイナドの告発を事実無根と否定し、この件をこれ以上追跡取材すれば逮捕するとジャーナリストを脅した。アルカティリは、グスマンの辞任と新たな選挙を要求した。
このアルカティリの要求を、ラモス・ホルタ大統領が公式に是認する準備をしていたことを示す証拠がある。ティモールのメディア報道を英語翻訳しているティモール・ニュースラインというウェブサイトによると、2月11日(レイナドが殺害された同じ日)、ザ・ディアリオ・ナショナルは: 「フレテリン書記長マリ・アルカティリは、ラモス・ホルタ大統領と国連事務総長がフレテリンの提案する新たな選挙の実施に同意した、と語った」と報じている。
インドネシアのテンポ誌の最新号は、2月11日の出来事とその一週間前にラモス・ホルタ大統領によって召集された会合との因果関係を主張している、前首相マリ・アルカティリのインタビューを特集した。
「銃撃の一週間前、ホルタの邸宅で政治家の会合がもたれた」とアルカティリは語った。「出席者は、シャナナ・グスマンの東ティモール再建国民会議(CNRT)、社会民主党、ティモール社会民主党連合(ASDT)、そしてフレテリン党・・・そこでホルタ大統領は、フレテリン党による国連事務総長への提案を歓迎した。その会合は、議会多数連合(AMP)とフレテリンの下にすべての政党を結集する、まさに国民統一政府の形成だった。ただ、フレテリン党自身は、そのような国民統一政府への参加を見合わせた。アルフレド・レイナドやガストン・サウシーニャ率いる離脱者、そして難民問題の解決が先決だったからだ」
東ティモールの「党幹部」が、もしかしてレイナド殺害に関与しているのかという質問に対しては、アルカティリは直接答えることやグスマンを名指しすることは避けたが、「私が言えるのは、ホルタへの銃撃の背後にいる人物は、たぶん新しい政府の設立と新たな選挙実施を提言する大統領に反対なのだ、ということだけだ」と述べた。
もし、アルカティリの話が本当ならば、反乱兵が殺害されるちょうど四週間前にラモス・ホルタとレイナドの間で交わされた秘密会合での合意に、新しい見方を提起することになる。1月13日の会合での取り決めとは、レイナドはまず自宅軟禁を承諾し、その後ラモス・ホルタによって赦免される、という内容だ。ラモス・ホルタ大統領(以前はグスマンのごく親密な共闘仲間だった)は、自分がグスマンに要求した、フレテリンやASDT、そしてCNRTの一部も(?)による新しい連立政権樹立への同意は、グスマンにとって承服できないものであり、それによって、レイナドとグスマン首相との関係は崩壊した、と考えたかもしれない。
もしそうなら、レイナド殺害の公式説明は、ますます信じがたくなってくる。元少佐は、彼の自由を保証してくれただけでなく、犯罪者で売国奴であると彼が告発しているグスマンの失脚に、精力的な準備をしていたラモス・ホルタを、なぜか殺害もしくは誘拐しようとしていたことになるのだ。他方で、もしアルカティリの声明が提唱している筋書きが事実ならば、グスマンがレイナドを除去したい、さらなる強い動機を提供する。そして、この政治危機を利用すればグスマンの権限を強化拡大することができるのだ。
そのような謀略の可能性は、同時にオーストラリア政府の役割に関する疑問をもおこさせる。オーストラリア当局 ─ 政府高官や軍のアドバイザー、諜報員、情報提供者の広範なネットワークを含む ─ が、ディリでのさまざまな政治的動向について無知であるはずがない。フレテリンに率いられた東ティモール政府の再来は、オーストラリアにとっては悪夢だ。前ハワード政府は、オーストラリアの報道界と野党労働党の惜しみない援助によって、2006年のアルカティリ政権追い落としに相当な労力を費やすことができた。フレテリン政府は(オーストラリアの)ライバル国家に接近しすぎていたことと、ティモール海の石油とガスの大部分を占領しようとするオーストラリアの要求に同意しようとしなかった。こうした前例によって、今回のアルカティリによる「政権交代」の提言は遅延された。グスマンの最近の動き ─ 2月11日以前とそれ以降の両方 ─ は、間違いなくキャンベラは、もし直接関与していないとしても、熟知していたことは確かだ。
オーストラリアの新聞がこれらの論点を詳細に調査することはなかった。テンポ誌でのアルカティリの声明は何一つ検証されなかった。さまざまな政治的思惑によって、ラモス・ホルタ銃撃事件を行ったレイナドの潜在的動機は、単純な狂気よるものだとされた。それゆえに、公式発表の説明は論理的信憑性を欠いている。1999年と2006年でのメディアの役割と行動は首尾一貫している。「人道介入」と「民主主義」の旗印の下に、ハワード政府による軍事介入の主要な旗振り役を演じたのだ。
http://www.wsws.org/articles/2008/mar2008/etim-m01.shtml