歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その6 私のブック・レポート≫

2020-04-18 17:26:33 | 私のブック・レポート
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その6 私のブック・レポート≫
(2020年4月18日投稿)
 



【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)



【はじめに】


今回は、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])の第16、17章の2章の内容を紹介してみたい。
次の2点の絵画が中心に解説されている。
〇アントワーヌ・カロンまたはアンリ・ルランベール『アモルの葬列』
〇レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』




さて、今回の執筆項目は次のようになる。



第16章 天使とキューピッド アントワーヌ・カロンまたはアンリ・ルランベール『アモルの葬列』
・西洋絵画と天使
・天使の種類
・クピドについて
・プットーについて
・ジャン・ド・グールモン『羊飼いの礼拝』について
・カロン作『アモルの葬列』について

第17章 モナ・リザ        レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』
・『モナ・リザ』とポプラの木
・レオナルドの生涯と作品
・『モナ・リザ』について








第⑯章 天使とキューピッド アントワーヌ・カロンまたはアンリ・ルランベール 『アモルの葬列』


アントワーヌ・カロン(1521~1599)
またはアンリ・ルランベール
『アモルの葬列』
1580年頃 164cm×209cm リシュリュー翼3階展示室10

西洋絵画と天使


写実主義の画家クールベは、「天使など見たことがない。だから描かない」と言った。
現実世界から遠い神々や天使、古代史の一場面などの主題にしがみついたままのアカデミーに対する批判であったようだ。逆に、象徴派のモローは「眼に見えないもの、感じるものしか信じない」と言っている。

ヨーロッパの美術館は天使にあふれており、ルーヴルで天使探しをすれば、途中で数えるのに飽きるほどであるといわれる(善天使、堕天使、顔しかない天使、キューピッド風天使など)。

天使とは何かと定義するのは、かなりややこしいようだ。
文字どおり、「天の使い」という日本語訳も混乱に拍車をかけているし、そもそも日本人にとって天使に善役と悪役がいるということ自体、形容矛盾とも感じられる。
そこで、一応の定義として、「神より下、人間より上の霊的存在が天使」としている。悪い天使というのは、かつて天使だったルシファーが神に反逆して悪魔に堕したものだそうだ。

天使の種類


紀元5世紀には、善い天使(御使い)にも階級制度が導入され、3階級9種類の天使がいたらしい。
〇第1階級~熾天使(セラフィム)、智天使(ケルビム)、座天使
 ※熾天使は神への愛で燃えているため赤い色で、智天使は智にあふれていて、色は青であり、座天使は特に色の指定がない。
 ※モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』に登場する恋に恋した若者、ケルビーノの名は、智天使(ケルビム)からきているという。

〇第2階級~主天使、力天使、能天使
 ※星と四大元素を支配するが、絵画にはほとんど描かれない。

〇第3階級~権(ごん)天使、大天使、天使
 ※大天使には、悪魔と戦うミカエル、処女マリアに受胎告知するガブリエル、若者や旅人の守護者ラファエルが有名である。美術作品への登場回数はきわめて多い。
 ※天使はたいてい群れをなしている。もともとは髭の男性がイメージされていたようだが、ルネサンス期の両性具有的で光輪を持つ姿を経て、バロック期に有翼(ゆうよく)の幼児姿へと変じたため、クピドと見分けがつかなくなったそうだ。

ここに問題点の1つがあると中野氏は指摘している。
すなわち、天使階級の末端にいる天使を、バロックの画家たちが、ギリシア・ローマ神話におけるクピド(キューピッド、アモル、エロス)と同じ姿形に描いたために、宗教画と神話画の区別が難しくなったという。

クピドについて


次にクピドとは何かというのも、ややこしい。クピドはヴィーナスの息子である。
(ただし、父は誰かわからず、戦の神マルス説、ゼウス説、また無性生殖説があるようだ)
クピドは愛を司り、その黄金の矢に射られた者は恋の虜となる。
このいたずらな愛の神は、初めのうち優美な若者として描かれたが、やがて少年となり、ついには幼児となった。
クピドは画面に増殖してゆき、彼らがいるだけで愛のテーマが暗示されるというコンセンサスもできてくる。

プットーについて


西洋人も区別するのがめんどうになったらしく、有翼幼児をひとまとめにして、「プットー(ラテン語の「男の子」が語源)と呼ぶことにしたそうだ。こうしてプットーは、ある時は天使、ある時はヴィーナスの息子、ある時は単なる愛の印となる。判別するには、聖書に関連した人物の周りにいわば天使、ゼウスやヴィーナスなど神話の登場人物の周りにいればクピドとなると中野氏は説明している。

ジャン・ド・グールモン『羊飼いの礼拝』について


グールモンのこの絵画も、ルーヴル美術館リシュリュー翼3階展示室9にある。
これは、聖母マリアが厩(うまや)でイエスを産むこと、羊飼いたちが拝みにやって来た、という聖書の一節を絵画化した作品である。
絵画では、厩ではなく、壮麗なローマ建築の廃墟が舞台となっている。そして聖家族や羊飼いより、プットーたちの方が目立っている。彼らの中には、雲霞(うんか)のごとく飛び回っている。
これらのプットーは天使である。天井近くの中央部には、顔だけの天使3人が隊列を組んでホバリングしているのが注目される。これこそ、天使たちの最高峰、ケルビムやセラフィムであるそうだ。

一方、第2章でみたヴァトーの『シテール島の巡礼』にも、画面左手、船の上を飛翔しているプットーがいた。彼らは、天使ではなく、神話の住人クピドである。というのは、このシテール島が愛欲と美の女神ヴィーナスを祀っているからである。

このようにプットーを区別しうると、中野氏は説明している。ちなみにキューピー人形につても付言している。
日本人は、羽をつけた「はだかんぼう赤ちゃん」といえば、キューピー人形をイメージする。アメリカ産キューピー(Kewpie)はスペルこそ故意に変えたものだが、もちろんクピド(キューピッド Cupid)をモチーフにしたものである。

ただ、天使の種類については、画家も間違ったり、画面の効果のため勝手に変更したりするので注意を要する。例えば、フーケの『ムーランの聖母子』(ベルギーのアントワープ王立美術館蔵)がそうである。

ここには聖母を天へ運ぶ赤いセラフィムと青いケルビムが描かれているが、本来なら顔だけのはずの第一級天使が胴体を持ち、しかも翼にまで色が付いている(ただし、この絵の場合、椅子ごと持ち上げるため、手足が必要だったかもしれないと中野氏は推測している)

カロン作『アモルの葬列』について


タイトルに天使か否かが明記されていれば、話が早い。
カロン(ないしカロン工房)作『アモルの葬列』がそうである。
原題の「アモル」は単数形であるから、アモルたちが担ぐ死者は人間ではなく、仲間のひとりだとわかる。
技術的には、下手うま絵の部類に属するようだが、その着想の奇抜さが面白いと中野氏は評している。
画面全体も葬列のわりに明るく、黒頭巾姿のアモルたちはチャーミングだし、主題は謎めいており、日本人に人気な作品だそうだ。

舞台は古代ローマで、アモルたちは死んだ仲間を、月の女神ディアナの神殿に運ぼうとしている(天空にはその処女神自らが金の橇[そり]に乗っている)。

本作の完成年は特定されておらず、1580年頃とされる。なぜなら、1560年代半ばに死去した有名人がいるからである。それは、アンリ2世の寵姫だった絶世の美女ディアーヌ(ディアナのフランス語読み)である。
またカロンは、宮廷詩人ロンサールと仲が良かった。プレイヤッド派の筆頭ロンサールは、詩集『讃歌集』において宮廷を神話世界になぞらえている。アンリ2世をローマ神話最高神ユピテル(ゼウス)に、王妃カトリーヌ・ド・メディシスをその妻ユノ(ヘラ)に、愛妾ディアヌ・ド・ポワティエを女神ディアナに見立てて讃えた。

これらの事実から、『アモルの葬列』において、柩に横たわる蒼白のキューピッドは、肌の透きとおる白さで知られたディアーヌと解釈されている。おおぜいの詩人を従え、葬列の後ろで指揮するのはロンサールであるとされる。

ところで、当時でさえ、アンリ2世のディアーヌへの執心ぶりは驚嘆の的だった。ふたりの出合いは11歳と31歳の時である。まだ王太子だったアンリの教育係として、20歳も年上の未亡人ディアーヌがあらわれた。美しさと賢さを備えた彼女に少年は恋をし、王になっても、正妃カトリーヌ・ド・メディシスを娶っても、その思いは揺るがなかった。この運命的な恋は何と30年近くも続いた。アモルの矢に貫かれた神秘のなせる愛ともみなされた。しかし、40歳のアンリ2世が、馬上槍試合で事故死し、恋人たちに別れが突然やってくる(有名なノストラダムスの予言がからむともいわれる)。

ディアーヌは田舎に退き、7年後、66歳で病死した。引き続き宮廷詩人の座に留まったロンサールは、ディアーヌがいた頃の華やかな宮廷を懐かしんだことであろう。
アンリの死後、政治の実権は妃カトリーヌに握られ、国は宗教内紛(「ユグノー戦争」へ発展)へ突入していく。
『アモルの葬列』はそんな頃、描かれた。

しかし一つ奇妙な点があると中野氏は付言している。
カロンが直接仕えていたのは、アンリではなく妃カトリーヌだった。彼女の恋仇ともいうべきディアーヌの王への讃美するのは許されるのか? それとも本作は反カトリーヌ派の貴族に依頼されたものか? そもそもこの絵はディアーヌにもアンリにも全く無関係なのか? 
実は本作も、近年アンリ・ルランベール作という説が出されているという。
(作者が確定するまでは、魅惑のディアーヌとこの死んだクピドを結びつけておくことにすると中野氏は断っている)
(中野、2016年[2017年版]、212頁~224頁)

第⑰章 モナ・リザ        レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』


ダ・ヴィンチ(1452~1519)
『モナ・リザ』
1503~1506年 77cm×53cm ドゥノン翼2階展示室6

『モナ・リザ』とポプラの木


中野氏は、『モナ・リザ』を解説するにあたり、ポプラの木の話から始めている。
周知のように、物品としての『モナ・リザ』は、カンバスに描かれたものではなく、ポプラ材である。すでに500年以上も経っているので、環境の変化に弱く、脆い。保護ガラスを付けた上、7~8センチの防弾ガラス付きで完全防御されるのも、やむをえない。
このフランスの至宝は、1962年にアメリカへ、1974年に日本と旧ソ連に貸与され、1911年の盗難事件のときにイタリアへ持ち出されたことがある。しかし、もう二度と海外へ貸し出される可能性もない。ルーヴル門外不出の傑作である。

レオナルドの生涯と作品


次にレオナルドの生い立ちを述べている。周知のように、レオナルド・ダ・ヴィンチという名は、「ヴィンチ村のレオナルド」の意で、トスカナ地方のヴィンチ村で生まれたので、そう呼ばれる。

公証人をしていた父と、若い女性の間に生まれた庶子だった。まもなく父は別の女性と結婚し、村を出てしまい、実母も2年足らずで他の男性へ嫁いだので、レオナルドは父方の祖父母のもとで正式な教育は授けられずに育った。
(庶子は公証人のようなエリート職にはつけられず、両親とりわけ母親の欠落は精神面に影響があったであろう)

中野氏は、幼い頃からのレオナルドの特徴として、姿形の美しさ、旺盛な好奇心と移り気を挙げている。好奇心とセットになった移り気は死ぬまで変わらなかった。レオナルドの関心は絵画や彫刻だけでなく、建築学など幅広く、死体の解剖も30体ほど試みた。そして左手ですらすら書かれた鏡文字で、膨大な手稿(5300ページ分が現存)を遺したことは有名である。

老年になるまで興味の的が変わり、なかなか完成させられない欠点があった。このことは、ヴァザーリも『ルネサンス画人伝』において「彼があれほど気まぐれで不安定でなければ、その博識と学問上の知識から多大な利益を引き出せたであろうに」と記している。
未完成に終わらせるこの癖は、レオナルドの完璧主義というもう一面からきているとも、満足へのハードルが高すぎたともいえる。『モナ・リザ』さえも未完なのだから。

さて、巨匠の第一歩は、14歳でヴィンチ村を出て、フィレンツェでもっとも盛名あるヴェロッキオ工房に入った時に始まる。その後、20歳で独立して画家組合に登録された。
この頃の作とされる『受胎告知』は、花の雌蕊と雄蕊を敢えて描き入れることで、聖書の処女受胎のありえなさをひそかに暴いたとされる。24歳のとき、男色容疑で逮捕されるという危機もあったが、幸い無罪放免となる。

レオナルドには、ラファエロのように大規模工房を経営して、多作に励み、後継者を育成しようという能力も興味もなかった。また生涯独身で、少数の弟子や美少年を連れ、パトロンを求めて、イタリア各地を転々とした。
(端的に言えば、変人であると中野氏はみなす)。

30歳でミラノ公イル・モーロに気に入られ、ミラノへ移住する。
ここでは、次の2点を完成させる。
〇『岩窟の聖母』
 (ルーヴル美術館、ドゥノン翼2階展示室5、グランドギャラリー)
〇『最後の晩餐』
 (イタリアのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院蔵)
ただし、どちらも大きな問題を残した。
『岩窟の聖母』の方は、依頼者である教会との契約を守らず、訴訟沙汰のあげく、もう1枚描かねばならなくなる。
(ただし、ヴァージョンをレオナルド本人が全て描いたかどうか疑問符がつく。こちらはロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵であるが、ルーヴル版より見劣りする)

最初に描いた作品は依頼者が受け取りを拒否したため、巡り巡ってルーヴルに収まった。モナ・リザにも匹敵する魅惑の天使が登場する傑作であり、教会側に見る目がなかったとしか言いようがないと中野氏はみている)

次に『最後の晩餐』については、画像消滅問題である。
本来、壁画にふさわしいのは、フレスコ画法である。漆喰を下塗りし、それが乾かないうちに顔料で描く画法である。しかし、手早さが必要な上、修正がきかないという欠点がある。レオナルドのように完璧主義者がもっとも嫌う技法である。
そこで、レオナルドは、顔料に卵や油などを混ぜるテンペラで仕上げた。案の定、完成直後から顔料が剥落してしまう。

さて、レオナルドは47歳でミラノを去ることになる。フランス軍が進撃し、イル・モーロが失脚したことによる。マントヴァ、ヴェネチアとまわり、再びフィレンツェへ戻る。かのチェーザレ・ボルジアのもと、建築総監督の職を得る。この時、次の作品を手がけている。
〇『モナ・リザ』1503~1506年 77㎝×53㎝ ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室6
〇『聖アンナと聖母子』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室5 グランドギャラリー
〇壁画『アンギアリの戦い』
政府から依頼され着手したが、またもフレスコではなく、顔料に蝋を混ぜた独自の油彩を使い、早く乾かそうと火を当てたので、顔料が溶け、大失態となり幻の大傑作となってしまう。嫌気がさしてそのまま放り出してしまう。

54歳でまたもミラノに移る。フランス人総督シャルル・ダンボワーズに庇護され、絵画はほとんど描かず、好きな研究をして過ごしたが、7年後に終わりを迎える。ダンボワーズの急逝とミラノの政治情勢の悪化が原因であった。
61歳のレオナルドは、教皇レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチの招待により、ローマに移るが、ここも安住の地にはならなかった。3年後、ジュリアーノが病死して後ろ盾を失ったことによる。

フランス王の若き王フランソワ1世が救いの手を差しのべる。右手も麻痺し、もはや大作完成は不可能なレオナルドは、ようやく放浪の旅を終える。
フランソワ1世は以前からこのイタリアの巨匠に心酔していたので、豪華な邸宅と高額の年金で遇して敬意を表した。
レオナルドは二度と故郷に戻らぬつもりで、全ての荷を馬車に積んだが、そこには、次の3点の絵画が含まれている。
〇『モナ・リザ』1503~1506年 77㎝×53㎝ ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室6
〇『聖アンナと聖母子』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室5 グランドギャラリー
〇『洗礼者ヨハネ』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室5グランドギャラリー
(※2作品の制作年代、サイズは不記載)
レオナルドは3年近い悠々自適の余生を送る。

『モナ・リザ』について


ここで中野氏は、『モナ・リザ』の解説をしている。
まず最初に、『モナ・リザ』については、語り尽くされ研究し尽くされた感があると断っている。イメージはあふれかえり、すでに大衆向けイコン(聖画像)の域に達している。詩やポップスやSF小説にまで取り上げられ、デュシャンの髭モナ・リザなどのパロディ画も多い。

こうなると、現代日本人が偏見のない目でモナ・リザに向き合うのは、至難の業だともいう。夏目漱石の小説集『永日小品』で、「気味の悪い顔です事ねえ」「此の女は何をするか分らない人相だ」という明治時代の主婦がもらした感想が新鮮に思えるほどだと中野氏は嘆いている。

『モナ・リザ』の解説は、まずモデル問題について言及している。
モデルに関しては、マントヴァ侯爵夫人イザベラ・デステだとか、レオナルド本人だとか、さまざまな説があった。しかし、2008年、ハイデルベルク大学図書館蔵書に16世紀の書き込みが見つかり、長年の論争に決着がついたとみている。
その書き込みには、
「レオナルド・ダ・ヴィンチは今三枚の絵を描いており、その一つがジョコンド夫人のリザである」
とある。
これにより、ヴァザーリの時代から言われていたとおり、モデルはフィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザで、この絵の別名が『ジョコンダ』なのも正しかったと中野氏は述べている。

しかしそれなら、なぜ注文主に渡さなかったのかという疑問がわく。
この点については、これが未完だったからかもしれないとする。
例えば、椅子の肘掛けに置いた左手をよく見ると、人差し指と中指が、まだ指としての体(てい)を成していないし、小指も不完全だとわかる。

画面では、いわゆる回廊の円柱に注意を促している。
椅子の背の向こうは手摺りになって、その厚みの部分に半円の黒いもの(画面両側)が見えるが、円柱であろうとみられている。というのは『モナ・リザ』を見て感動したラファエロがいくつか似た作品を描いており、どれにも回廊の円柱が描き込まれているからである。したがって『モナ・リザ』は両端を切り取られた可能性がある。

次に背景について目を向けている。この背景は明らかに現実の景色ではないという。
地平線が右は高く、左は低い。視線も右は鳥瞰的だが、左はそれより下からのもので、両者は繋がらない。右に古代のローマ水道橋が見えているので、左は原初の風景、右は文明時代を示すという説がある。
いずれにせよ、レオナルドが特別に好んだものは、岩石と水であった。『モナ・リザ』のドレスの複雑な模様も水の性質に関連するかもしれないともいわれている。

周知のように、『モナ・リザ』はスフマート手法で描かれている。
スフマートとは「煙」からきた言葉で、明暗の微妙で繊細な諧調によって、輪郭線を靄(もや)のようにぼかす効果のことである。
ダ・ヴィンチはその『絵画論』において、「現実の色彩には固有の色がない。物体には線としての輪郭はない」と記している。この言葉どおり、スフマート技法で描かれたリザ夫人は、まるで生きてそこにいるかのように生々しいと感じられる。

次に、『モナ・リザ』の笑みと顔について触れている。
この絵の吸引力は、彼女の不思議な笑みと顔にある。
ここで中野氏は、顔に関する心理実験を例に引いている。
つまり、個人より複数の女性の顔をコンピューターで合成した顔の方が、美人と認知される確率が高まるそうだ。それも10人20人と数多くなればなるほど魅力的と結論づけられるという。
それはつまり平均的な顔ということになり、実在しない顔ということになる。これは、モナ・リザの普遍的イメージに似ていると中野氏は主張している。

ところで、通常の肖像画では、家紋や宝石などモデルを特定するためのヒントを画面に入れるものなのに、ダ・ヴィンチはいっさいそれをしていない。というのは、たとえモデルはリザ夫人でも、ダ・ヴィンチがその先に求めたのは、それこそコンピューター合成のような、どこにも実在しない究極の美だったと中野氏は私見を述べている。
(中野、2016年[2017年版]、225頁~239頁)

【補注】

※夏目漱石の『永日小品』については、以前のブログで触れたことがあった。次の記事を参照にして頂きたい。

≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』を読んで その3 私のブック・レポート≫




≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その5 私のブック・レポート≫

2020-04-18 17:26:33 | 私のブック・レポート
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その5 私のブック・レポート≫
(2020年4月18日投稿)
 




【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)



【はじめに】


今回は、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])の第13、14、15章の3章の内容を紹介してみたい。
次の3点の絵画が中心に解説されている。
〇カラヴァッジョ『聖母の死』
〇ヴァン・ダイク『狩り場のチャールズ一世』
〇ラファエロ『美しき女庭師』




さて、今回の執筆項目は次のようになる。



第13章 不謹慎きわまりない!   カラヴァッジョ『聖母の死』
・カラヴァッジョが生きた時代
・カラヴァッジョの『聖母の死』完成まで
・カラヴァッジョの『聖母の死』について

第14章 その後の運命       ヴァン・ダイク『狩り場のチャールズ一世』
・ヴァン・ダイクとベラスケスの共通点
・ヴァン・ダイクの略歴
・最高傑作『狩り場のチャールズ1世』について
・ヴァン・ダイクの『チャールズ1世の子供たち』について

第15章 不滅のラファエロ     ラファエロ『美しき女庭師』
・聖母マリアについて
・ルネサンス三大巨匠の聖母子像
・ラファエロの『美しき女庭師』
・ラファエロという画家








第⑬章 不謹慎きわまりない! カラヴァッジョ『聖母の死』


カラヴァッジョ(1571~1610)
『聖母の死』
1601~1605/1606年 369cm×245cm ドゥノン翼2階展示室8グランドギャラリー

カラヴァッジョが生きた時代


ミラノ生まれのカラヴァッジョは、6歳ころペストで父を亡くし、13歳で家を出て、画家(ティツィアーノの弟子だった)の工房に住み込み、徒弟として腕を磨いた。1592年、21歳で一旗揚げるべくローマへ向かった。
(生来、喧嘩早かったこの問題児はミラノを逃げ出したともいわれる)

ところで、当時のイタリアはまだ統一国家ではなかった(秀吉の朝鮮出兵と時代が重なる)。
ヨーロッパの覇者は、スペイン・ハプスブルク家のフェリペ2世で、ミラノ公国など、スペインの半支配下にあった。長靴形の地域は、政情不安で、外国軍の駐留、異端審問、暴力が蔓延していた時代である。

中野氏は、幾つかの事件、エピソードを記している。
例えば、カラヴァッジョが生まれる10年ほど前に、かのティツィアーノにまつわる事件がある。
ヴェネツィア在住のティツィアーノは、大パトロンのフェリペ2世からの年金受け取りを息子オラツィオに命じた。息子はミラノで2000ドゥカーテンを受け取った後、知人のもとに泊まると、知人は剣で襲いかかり、強奪した。怒ったティツィアーノはフェリペに手紙で訴えたのに逮捕された犯人は、罰金とミラノからの追放刑で事は済まされたそうだ。

またカラヴァッジョがローマへ出て数年後に、2つの事件が起こる。
1つは、美しいベアトリーチェ・チェンチが父を殺したとして広場で斬首された(伝グイド・レーニの『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』イタリアのバルベリーニ宮殿[国立古典絵画館蔵])。また、ジョルダーノ・ブルーノが宇宙は無限と主張して異端審問にかけられ、火刑に処せられた。
(これらの公開処刑のありさまを、カラヴァッジョは群集にまぎれて見物したかもしれないという)

貴族でさえ食い詰めて山賊稼業に転じる者もいた世の中であった。カラヴァッジョは常時、帯剣しており、頭に血の上りやすいタイプであった。彼の荒々しい生き方や、生涯を貫く暴力沙汰も、生きた時代とも深く関わってくるようだ。
カラヴァッジョの絵がいやに生々しくリアルで、画中の暴力行為も(ルーベンスなどのように美的に洗練されることなく)暴力そのものとして迫ってくるのは、時代の子としての側面を抜きには語れないと中野氏は捉えている。

そのことはまた、生前あれだけ流行児として、もてはやされながら、早くも17世紀半ばには古臭い作風と斥けられ、忘れ去られた理由とも中野氏は考えている。強烈な光と闇のっ表現が後世の画家に大きな影響を与えながら、本人の作品はあまりにリアルで、世俗的である否定された。

カラヴァッジョの再評価は、意外にも、戦後1951年のミラノでの大回顧展がきっかけだったそうだ。それに対して、生前から現代に至る数百年間、評価も人気も揺るがないミケランジェロ、ティツィアーノ、ブリューゲル、ルーベンスの凄さを、改めて認識させられる。

カラヴァッジョの『聖母の死』完成まで


カラヴァッジョはローマに着くと、静物画や風俗画を描いて売り始めるが、しばらくは赤貧洗うがごとしの生活だったらしい。それでも筆遣いの見事さは次第に知られてくる。
25歳ころには、トスカナ大公国大使デル・モンテ枢機卿というパトロンがつく。自分の居城に住まわせ、創作と販売の後押しをしてくれた。

カラヴァッジョの名声を決定づけたのは、1600年、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂に収めた傑作『聖マタイの召命』をはじめとする『マタイ』三部作である。聖書世界が美化されることなく、今ある現実そのもののように描かれた。

そして『聖母の死』は、この評判を受け、翌年1601年、サンタ・マリア・デッラ・スカーラ・トラステヴェレ聖堂の祭壇画として発注された。完成に数年かかった。理由は日にわずかの仕事しかしない上に、その間に2度も逮捕されたりしていたからだという。

カラヴァッジョの『聖母の死』について


カラヴァッジョの『聖母の死』は、約3.7×2.5メートルの縦長画面の大作で、赤が効果的に使われている。
芝居の一場であるかのように、木枠の天井から豊かな襞の緞帳(どんちょう)がまくれあがり、死者の周りを男たちが囲む。

登場人物は見るからに市井(しせい)の貧しい者たちであるので、タイトルがなければ、異教徒には何が起こっているのかわかりにくい。
光は上から斜めに降り注いでおり、鑑賞者はまず手前の若い女性のうなじから背へと目を惹かれ、次いですぐ上の赤い衣の女性の顔へと移ってゆく。ここで初めて、彼女の頭部に細い金色の光輪があるのに気づき、聖母マリアとわかる。中野氏は、このように「ディスクリプション(作品叙述)」を進めている。

聖書には記されていないのに、根強いマリア信仰が生み出したエピソードである。
老いたマリアは死を予感し、使徒らに別れを告げた。その夜イエスが現れ、彼女の魂を天へと運ぶ。肉体はそのまま地上にあったが、3日目に再び魂が肉体と合体し、イエスの「蘇りなさい」という言葉とともに昇天した(聖母被昇天図は名作が多い)。
聖母は不死なので、この3日間のことは正確には「死」ではなく、「お眠り」とされるそうだ。

カラヴァッジョが描いたのは、そのお眠りのさなかの聖母である。そしてかたわらで、うなだれるのは、マグダラのマリアである。そして中・老年になった使徒たちである。
そう知って見直しても、ここに展開されているのはリアルな人間の死の様相である。
聖母のモデルに関して、テヴェレ川で自殺した娼婦の溺死体をスケッチしたと噂された。それもあってか、発注した教会は本作品の受け取りを拒否した。

しかし、別の買い手があらわれる。ちょうどローマに滞在中だったルーベンスが真価を見抜き、マントヴァ公に購入を勧めた。やがてそこからルイ14世の手に渡り、ルーヴルに収まる。

本作完成時を、1605年末とすると(1606年説あり)、カラヴァッジョは34歳である(寿命はあと5年しかない)。
画力は最盛期にあり、乱暴狼藉も最高潮である。1600年~1605年にいたるまで、ローマ警察には、犯罪歴が記録されている(剣で襲い負傷させたり、投石して建物を損壊したりしている)。
そしてついに、1606年の運命の5月には、乱闘事件でひとり刺し殺してしまう。パトロンの手立てによりローマを脱出し、ナポリ、マルタ島などへ逃げる。

画家としての人気は揺るぎなかったので、逃亡先のマルタ島では、大聖堂に大作『洗礼者ヨハネの斬首』を残している。
ほとぼりも醒めたとして、船でローマへ向かう途上で、38年の生涯を終える(死因は熱病とも殺されたとも言われ、不明である)。

カラヴァッジョは、残念ながら正式の自画像を残していない。
そのため『メドゥーサの首』や『ダヴィデとゴリアテ』が自画像ではないかとか、近年では『バッコス』の持つ特大のワイン用フラスコに顔が映しこまれているなどといわれる。
なお、オッタヴィオ・レオーニが描いた肖像画は知られているが、制作されたのが死後10年以上も経ってからのものなので、信用できるとは限らないようだ。
映画ではデレク・ジャーマン監督が、ゲイとしてのカラヴァッジョを描いた。カラヴァッジョの作品中の青年たちの肉体は、女性より艶っぽいと中野氏は付言している。
(中野、2016年[2017年版]、175頁~186頁)

第⑭章 その後の運命 ヴァン・ダイク『狩り場のチャールズ一世』


ヴァン・ダイク(1599~1641)
『狩り場のチャールズ一世』
1635年頃 266cm×207cm リシュリュー翼3階展示室24

ヴァン・ダイクとベラスケスの共通点


ヴァン・ダイクとベラスケスは誕生年が同じ(1599年)で、人生において数々の称号や栄誉、地位と富に恵まれた点も同じであるそうだ。その上、政治的能力には欠けているが、芸術的審美眼に優れた国王をパトロンに持ったのも同じである。
(その王と王家の人々がビジュアル的にさほど魅力がないのに、見映えの良い肖像画に仕上げた点も共通しているという)

傑出したこの二人の画家は、チャールズ1世とフェリペ4世というそれぞれの大パトロンによって、優遇され、宮廷内で仕えて、王侯貴族の肖像を量産した(なにせヴァン・ダイクは40枚もチャールズ1世像を描かせられた)。

17世紀にひとかどの画家となるには、有力なパトロンの庇護のもとに入るのが、もっとも近道だった。豊かな宮廷が増加し、どこも華やかさを求めていた。ヴァン・ダイクがイギリス・スチュアート王家の、ベラスケスがスペイン・ハプスブルク王家の筆頭宮廷画家となり、騎士に叙せられ貴族社会に溶け込めたのは最高の名誉であった。

ヴァン・ダイクの略歴


ヴァン・ダイクはフランドルの裕福な家庭に生まれ、早くから才能を発揮し、巨星ルーベンスの助手として働いた。
その後イタリアで6年にわたり先達の作品を研究しながら制作し、肖像画家としての名声を確立する。
ヴァン・ダイクがイギリスの招聘を受諾したのは、そこが長らく画家不毛の地であったためと推測されている。大陸ではルーベンスが立ちはだかり、乗り越えることができないとみて、新天地で頂点に立ちたいと考えたようだ。
ヴァン・ダイクは肖像画(ドイツのアルテ・ピナコテーク蔵)からもわかるように、人好きする容姿に恵まれ、言動も洗練されていた。
(後には王妃の女官と結婚したほどである)

高貴な人々は安心して彼の前でポーズがとれた(この点、カラヴァッジョやゴッホなら、そうはいくまいという)。そして彼の華麗な絵筆は、対象の細やかな感情を描きだし、実物を優に3倍アップして見せたようだ。

例えば、チャールズ1世妃ヘンリエッタ・マリア(フランス王アンリ4世の娘)像も30枚ほど描いているが(夫は40枚の肖像画)、実際に会ったドイツの貴族女性は、肖像画でイメージしていた王妃とは似ても似つかないと辛辣に書いている。
当時の肖像画を見る場合、心得ておいた方がよいと著者はいう。

最高傑作『狩り場のチャールズ1世』について


ルーヴルには、ヴァン・ダイクの最高傑作『狩り場のチャールズ1世』がある。これはイギリス肖像画の方向を決定づけた名品であると評されている。
それまでの国王肖像画と違い、王権神授を示す玉座もなければ、王笏も王冠もない。そして歴代国王がまとう重々しいガウンもない。また、イコンを髣髴とさせるフロンタル・ビュー(正面像)でもない。

一見、田舎貴族の狩猟風景かと見紛うばかりである。
公式肖像でないことを差し引いても、自然の中でくつろぐ王の姿は当時の人々の目に新鮮だったそうだ。狩猟の途中で一休みした王が、ふと視線をこちらに向けたところを描いている。肖像画に物語的要素を加え、またイギリス人のカントリーライフ好きに合致した自然と溶け合わせることで、画面を生き生きと描かせたと中野氏は解説している。

もちろん最高権力者をほのめかす小道具が無いわけではないそうだ。
例えば、王が与える狩猟権や貨幣鋳造権を象徴する手袋(とりわけ左手袋が高貴を示すとされる)。また右手に持つ杖は王杖(おうじょう)を想像させる。何より画面右下の石の上にラテン語で「Carolus. I. Rex Magnae Britanniae(イギリスを統治する王チャールズ1世)」と記されている。

王の顔も繊細に描写されている。例えば、チャールズ1世のトレードマークである、あごの山羊鬚(やぎひげ)と、先のツンと上向いた口髭(くちひげ)である。この2点セットは当時流行のヒゲの形で、後世、「ヴァン・ダイクひげ」と呼ばれるようになる。

中野氏は、この肖像画について、絶対君主にしてはロマンティックな色あいが濃く、どこか悲劇的で哀愁が漂うようにすら感じられるとみている。この10数年後のピューリタン革命で、暴君と糾弾され処刑される。
チャールズ1世が専制的だったのは間違いなく、政治的宗教的妥協を拒み、それが革命を引き寄せた。よく見れば、その眼差しは冷たく人を見下し、こちらへ突き出した肘も人を拒否しているともみえる。

ともあれ、チャールズ1世は、ヴァン・ダイクによって作られた自らのイメージを気に入ったようだ。妃ヘンリエッタ同様、本作でも巧妙に隠されていることがあると中野氏は指摘している。
例えば、王は子ども時代に患った病気のせいで、身長がかなり低かった。小柄な王を、画家は下から仰ぎ見る構図によって、その事実を忘れさせた。さらにそばの駿馬(しゅんめ)がへりくだるように、頭を垂れることで、王の体格の見当はつきにくくなっている。

ヴァン・ダイクの『チャールズ1世の子供たち』について


宮廷画家の役割には、王や王妃のほかに幼い王子王女を描く仕事も入っていた。ベラスケスがマルガリータ(フェリペ4世の娘)を描いて、少女の永遠の理想像となったが、ヴァン・ダイクも愛らしい子ども像を数多く描いた。

スペイン・ハプスブルク家は後継者問題に悩まされ続けるが、チャールズ1世と妃ヘンリエッタ・マリアは子だくさんであった。イギリスのウィンザー城には、ヴァン・ダイクの『チャールズ1世の子供たち』という肖像画があり、5人の子どもが描かれている。

中野氏は、この5人の子どもを丁寧に解説している。
まず左から長女メアリ、三男ジェイムズ(女児服を着ている)、次男チャールズ(夭折した長男の代わりに世継ぎの王太子となった)、次女エリザベス、三女アン(四男はまだ生まれていない)。
政略結婚ではあったが、チャールズ1世夫妻は仲むつまじく、父王は子煩悩だったといわれ、本作の王子王女に屈託はない(だが、このほぼ10年後、運命は暗転する)。

ところで、もともとイギリスはカトリック国だったが、ヘンリー8世が王妃を離縁して、アン・ブーリンと結婚したいがために、ヴァチカンと縁を切り、国教会を樹立した。その後、娘のメアリー女王がカトリックへ逆戻りしたり、次いでエリザベス1世が再びプロテスタントへ戻した。
そしてチャールズ1世は、カトリック国フランスから妃を迎えた。しかもヘンリエッタ・マリアは、改宗しないことを婚姻の条件にしたので、人民からは憎まれたようだ。王は宗教問題を権力で押さえつけようとし、ついにクロムウェル率いる革命派のもとで処刑されてしまう。ヘンリエッタ・マリアは実家のフランス宮廷に次女と四男を連れて亡命する。

画面中央で大型犬の顔をなでている次男(実質嫡男)が、後のチャールズ2世である。新王として凱旋するのは30歳のときである。「陽気な国王」のあだ名で、元気で贅沢な暮らしをして、在位25年間、謳歌した。ただし王妃との間に子がなく、王位は弟に移る。

その弟が本作左から2人目で、52歳で王位を継ぎ、ジェームズ2世となる。ただし、カトリック信仰を表明したため、3年足らずで名誉革命が起こり、国外追放になる。
また、左端のメアリ(クルクル巻きヘアの少女)は、オラニエ公(オランダ総督)ウィレム2世妃となる。
(彼女の産んだ男児が、兄ジェームズ2世の後継として、ウィリアム3世となるのだが、29歳で病死した彼女はそれを知らないままだった。
なお、ヴァン・ダイクの『オラニエ公ウィレム2世と花嫁メアリースチュアート』(1641年、オランダのアムステルダム国立美術館)がある)

そして画面右端の赤ちゃんアンは、ルイ14世の弟と結婚した(しかし夫婦仲が悪く、一時はルイ14世の愛人だったことでも知られる)。
さて、画家のヴァン・ダイク本人は、ピューリタン革命が起こる前、42歳の若さで死んでいる。結核だったらしい。
(中野、2016年[2017年版]、187頁~197頁)

第⑮章 不滅のラファエロ ラファエロ『美しき女庭師』


ラファエロ(1483~1520)
『美しき女庭師』(『聖母子と幼き洗礼者聖ヨハネ』)
1507年 122cm×80cm ドゥノン翼2階展示室8グランドギャラリー

聖母マリアについて


聖書には、聖母マリアについての記述が少ない。受胎告知や厩(うまや)での出産、カナの婚礼(結婚式に母子で出席し、そのときイエスが水をワインに変える奇蹟を起こす)など、わずかである。
男尊女卑の色濃い聖書および初期教会の教えでは、イエスの聖性を強調するため、母マリアは単に神の子を産む女性にすぎない扱いだった。

しかし、マリアを崇めたがる人々は増えていく。母なるものへの素朴な憧れや、かつての地母神(じぼしん)信仰の遠い記憶が、くり返しマリアと結びつこうとしたようだ。
カトリック公会議はマリアを聖なる存在と認め、マリアは礼拝の対象となる(プロテスタントはこの限りにあらず)。

画面上のマリアは、単独であったり、大天使ガブリエルに受胎を告げられる姿であったり、幼子を抱く聖母であったり、イエスを屍(しかばね)を膝におくピエタ像であったりする。
中でももっとも好まれたのは、聖母子像である。若いマリア、愛らしいイエス、時に洗礼者ヨハネ、稀に養父ヨセフなども加わった。

ところで、イタリア・ルネサンス期は、独立的な富裕市民層の台頭とともに、宗教画の世俗化が進んだ時代である。だから、家父長として威厳あるヨセフ、子を慈しむ母マリア、守られる幼子といった聖家族が、家庭の理想像としてもてはやされた。

ルネサンス三大巨匠の聖母子像


ルネサンス三大巨匠ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの聖母子像について、中野氏は比較検討している。
例えば、ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』(ルーヴル美術館、ドゥノン翼2階展示室5グランドギャラリー)は、背景が異様な洞窟であり、幼子の上で広げた指の形の無気味さとも相俟って、マリアには、モナ・リザと同じ神秘性を中野氏は感じている。母という以前に、人間を越えており、存在自体が謎で、親しみやすさは無いという。

次に、ミケランジェロによる『聖家族』(イタリアのウフィツィ美術館蔵)のマリア像も、別の意味で人間(というか女性)離れしているとみる。
ミケランジェロは筋肉フェチであったので、女性の身体をもマッチョな姿で描いている。まるで男性を変形させたかのように、不自然な逞しさがある。ダ・ヴィンチもミケランジェロも、同性愛者であったから、女性のもつ官能性をほんとうのところはわかっていなかったのであろうと、手厳しく評している。

最後にラファエロは、「聖母子の画家」と異名をとるほどで、30点近い聖母子像を描いている。ラファエロのマリアは優美そのものである。
ラファエロ自身、世に聞こえた美男で、しかも女好きであった。
(若死にの原因は女性遊びが過ぎたためという美術史家もいる)

ラファエロのマリアは、ダ・ヴィンチのように手の届かぬ天上的な存在ではなく、ミケランジェロのように筋肉を着ぐるみのようにまとってもいない。理想化されてはいるが、この世のどこかにいる、血のかよった、触れることの可能な女性である。

ラファエロの『美しき女庭師』


ルーヴル所蔵の『美しき女庭師』(ルーヴルでのタイトル『聖母子と幼き洗礼者ヨハネ』)は、『大公の聖母』や『小椅子の聖母』とともに、ラファエロの傑作聖母子像のひとつとされる。そして「ルーヴルにおける聖母子像の最高作」と讃えられている。

絵のタイトルは、当時の画家が自分で付けることはなかったようだ。後世になり、多くのラファエロ聖母子像を区別する必要ができて初めて、王室の美術品管理者、あるいは学者や学芸員がニックネームを付けた。
『大公の聖母』は大公が所有していたからで、『小椅子の聖母』は文字どおり小さな椅子に座っているからである。

この作品も最初は『農民の聖母』と呼ばれていたようだ。しかし、18世紀に入ってからは『美しき女庭師』で定着した。風景が牧歌的で、草花がたくさんあるので、農地ないし庭にいるマリアということで、『美しき女庭師』という通称になった。
(ほとんど同じ背景の別作品が、ウィーン美術史美術館には、『牧場の聖母』という名がついているので、著者は釈然としないという。近代に入って、画家が自らタイトルを決めることにした気持ちがわかるそうだ)

この絵は安定した三角形構図で、静謐な空間を作り上げ、明るく穏やかな色彩的調和が感じられる。まさに新プラトン的に呼ぶにふさわしい作品として、賞讃されてきた。慈愛そのものの優しい聖母である。

また、宗教画としての決まりもきっちり押さえられている。聖母の衣装の色については、赤は犠牲の血の色ないし深い愛を、そして青は天上の真実を意味している。そして三人の頭上には、目立たないながらも、金の光輪が描かれている。
右下の幼児ヨハネ(後にヨルダン川でイエスに洗礼をほどこす)は、聖書に記されているとおりのラクダの毛衣(もうい)をまとい、葦で作った十字架の杖を持つ。幼子イエスは救世主の受難を予告する旧約聖書に手を伸ばす。

マリアの左足の足指の上のマントの裾に「RAPHAELLO URB.」という金文字が見える。これは「ウルビーノのラファエロ」の意で、画家の署名である。
(ウルビーノはラファエロの出身地である)
またマリアの左肘のところには「MDDⅡ」とあり、1507年という制作年度が記されている。ラファエロが24歳のときの作品である。

当時すでにウルビーノからフィレンツェへ出てきていたが、この花の都には31歳年上のダ・ヴィンチと、8歳年上のミケランジェロが活躍していた。ラファエロはダ・ヴィンチからミラミッド型構図と人物の心理表現を、ミケランジェロからボリュームある人体造型を吸収したといわれる。

模倣の天才ラファエロは、モーツァルトと同じく、ありとあらゆるものを海綿のように吸い取って自己のものとした。ただし、ラファエロにはダ・ヴィンチのような執拗さや、ミケランジェロのような激越さはなく、ほどほどにブレンドして、万人向けの美しさを呈示した。

ラファエロという画家


ラファエロは、宮廷画家だった父親に手ほどきされ、幼少時からその才能は傑出し、10代でもう一人前の仕事を請け負っていた。画才に加え、人好きする容姿と、礼儀正しさがあり、陽気な性格であった。そして教皇ユリウス2世およびレオ10世という大パトロンにも恵まれ、20代後半には50人を超す工房を経営していた。

ラファエロは原因不明の熱病で、37歳という若さで急死した(しかも自身の誕生日に)。
同じく、40間近で死去した画家は少なくないようだ。パルミジャニーノ、カラヴァッジョ、ヴァトー、ゴッホ、ロートレックがいる。
ルネサンス三大巨匠のダ・ヴィンチやミケランジェロが長寿だったのに比べ、ラファエロはまだこれからの画家というイメージを持たれがちだが、それは誤解であると中野氏は釘をさしている。

大工房の親方として世俗的成功を収めていたし、名声はヨーロッパ中に鳴り響いていた。今でこそルネサンス三大巨匠という言葉があるものの、19世紀前半までの西洋絵画史において、古典的規範として渇仰され続けたのは、ラファエロだったからである。ルネサンスの典雅端麗とはラファエロ作品を指した。ルネサンスはラファエロによって完成されたとされ、400年近くもイタリア、フランス、イギリスのアカデミーのお手本であり続け、ラファエロ的円満と中庸が理想とされた。

ところが、近代以降、ラファエロ作品は批判の的となる。謎がないため、ダ・ヴィンチのような深みに欠け、過剰さがないため、ミケランジェロの迫力に及ばないとされた。
19世紀半ばのイギリスで、「ラファエル前派」という美術革新運動が起こり、ラファエロを規範としたアカデミーに対して異議申し立てをし、ラファエロ以前の芸術へ復帰することを目的とした。後の印象派へとつながる、大きなうねりの最初の波であった。そして21世紀を費やし、ついに美術界はラファエロから脱却した。

中野氏はラファエロの『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』(ルーヴル美術館 ドゥノン翼2階展示室8 グランドギャラリー)に注目して、ラファエロはもう少し別の道をゆけたかもしれないと残念に思うという私見を付記している。

この肖像画は、ルーベンスも模写した傑作である。これはラファエロの真の力量をありありと見せつける作品である。甘やかな美しい聖母子を描いた同じ画家が描いたとは思えないほどであり、レンブラントを先取りしたような表現であると賞賛している。注文作品を量産するのではなく、こうした作品をもう数点残してほしかったそうだ。
ラファエル前派にせよ印象派にせよ、このような肖像画を描けただろうかと疑問を呈し、彼らが排除すべきだったのはラファエロではなく、ラファエロを錦の御旗にしたアカデミーだったはずだという。
(中野、2016年[2017年版]、198頁~211頁)