歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』を読んで その3 私のブック・レポート≫

2020-02-02 18:38:16 | 私のブック・レポート
≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』を読んで その3 私のブック・レポート≫




【はじめに】
前回のブログでは、元木幸一氏の『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ――名画に潜む「笑い」の謎』(小学館、2012年)の内容を2回に分けて、紹介してみた。
今回のブログでは、【読後の感想とコメント】を記しておきたい。なお、元木氏の著作の目次を再度、掲載して、感想とコメントを読む際の参考として頂きたい。



元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ――名画に潜む「笑い」の謎』小学館、2012年
目次
はじめに
第一章 モナ・リザは、なぜ微笑むのか?
第二章 イエス・キリストの笑い
第三章 フェルメールの笑う女たち
第四章 笑いの裏側
第五章 絵を見て笑う
あとがき
主要参考文献






※≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』はこちらから≫


元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ: 名画に潜む「笑い」の謎』 (小学館101ビジュアル新書)




執筆項目は次のようになる。


【読後の感想とコメント】
・元木氏の本書の特徴
・元木氏の≪モナ・リザ≫解説の特徴について
・≪モナ・リザ≫の微笑の捉え方の問題
・≪モナ・リザ≫を不気味な微笑と捉える見解
・夏目漱石の小説にみえる≪モナ・リザ≫
・笑いの諸相のまとめ
・ヨーロッパのペスト
・フランス中世末期を舞台としたユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』という小説
≪参考文献≫







【読後の感想とコメント】


元木氏の本書の特徴


「はじめに」(4頁)にも記してあるように、元木のこの書は、「笑いの美術史」である。笑顔と笑いを切り口にして、中世末期、ルネサンスから17世紀(とくにオランダ)までの西洋美術史を見直している。
笑顔が描かれている作品だけではなく、第二章では、笑顔が描かれない成人したキリスト像の謎についても分析している。
肖像画の歴史を簡潔に振り返り、初期の肖像画が笑顔でない理由についても言及している。中でも、とりわけ読者の興味をひくのは、第一章のモナ・リザ、第三章のフェルメールを取り扱った章であろう。日本人に人気がある17世紀オランダの画家フェルメールの絵を取り上げた第三章では、教えられるところが多かった。
フェルメールは実に多彩な笑顔を登場させている。幸せを体現する笑顔、恥ずかしさを示す笑い、皮肉な笑い、苦笑い、嘲笑、毒が込められた笑いなど。このような多彩な笑顔を、当時の歴史的状況、文化的文脈などから、元木氏は分析している。
第四章では、「笑いの裏側」と題して、“負の笑い”を取り上げている。気味の悪い笑顔、嫌らしい笑顔、意地悪な笑い、化け物や悪魔の笑い、いたずらな笑い、笑う自画像といった具合である。
第五章の「絵を見て笑う」では、絵に描かれた笑顔ではなく、見る人に笑いを生み出す絵について考えている。つまり、見る人に笑いを誘発する美術の仕掛けについて分析している。

元木氏の≪モナ・リザ≫解説の特徴


元木氏の≪モナ・リザ≫解説の特徴として、次の3つの視点から、まとめておきたい。
① レオナルドの諸作品の微笑
② ルネサンスにおける女性美についての考え方
③ 肖像画の変遷の中での「四分の三観面像」

① レオナルドの諸作品の微笑
どうして≪モナ・リザ≫は微笑んでいるのだろうかという問いに対しては、まずレオナルドの作品では、≪モナ・リザ≫だけが微笑んでいるわけではないと元木氏はしている。
・≪聖アンナ、聖母子と洗礼者ヨハネ≫の聖母と聖アンナ
・≪岩窟の聖母≫の天使
・≪ブノワの聖母≫の聖母
これらは、いずれも魅力的な微笑を浮かべているというのである。つまり微笑は、レオナルドの手で描かれる人物像のチャームポイントのひとつであるという。
ただし、人物像とはいっても、≪モナ・リザ≫以外は、聖母、聖人、天使と、すべて神聖的な存在である。ヴァザーリが≪モナ・リザ≫の微笑にも「神的」という言葉を当てはめたのは、そのような微笑を念頭に置き、≪モナ・リザ≫の表情が聖母などの微笑を連想させたからと推測している。そして、妻リザの肖像画を依頼した夫ジョコンドも、レオナルド作品の神秘的な微笑に魅せられていたとする。
(元木、2012年、38頁~42頁)

② ルネサンスにおける女性美の考え方
ルネサンス期のイタリアで現れた多彩な論評のひとつとして、16世紀イタリアのフィレンツォーラは、『女性の美しさについて』(1543年)という美人論がある。
その中で、女性の微笑というものは、「心の平静さと安らぎ」を伝える甘美な使者であると記す。加えて、微笑は「晴朗な魂の輝き」であると、礼賛している。

≪モナ・リザ≫の制作年代と、フィレンツォーラの著作の出版年は前後するが、当時の上流社会で女性の微笑が礼賛されていたことは類推しうる。微笑を浮かべる女性が美人の典型とされることを、肖像画の依頼者である夫ジョコンドも知っていたから、《モナ・リザ》に微笑が描きこまれたのかもしれないと元木氏はみている。つまり、≪モナ・リザ≫の微笑がもっている諸要素は、夫ジョコンドの妻リザに対する願望の反映と元木氏は理解している。ルネサンスに至って、微笑が「高貴」な女性の付加価値になったからこそ、肖像画にも加えられるようになったというのである。
(元木、2012年、42頁~46頁)

③ 肖像画の変遷の中での「四分の三観面像」
肖像画を顔の向きによって、「プロフィール像」「四分の三観面像」「正面像」に分けて解説するのは、西洋美術史の定番である(例えば、西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』河出書房新社、1994年、162頁~167頁など)。

元木氏もこの方式で解説し、≪ジャン・ル・ボン像≫(1350年頃)に見られるように、1350年頃から50年以上にわたってプロフィール像が一般的形式だった。≪オーストリア大公ルドルフ4世像≫(1365年頃)の「四分の三観面像」は例外的だった。

「四分の三観面像」が優勢になったのは、1420年から30年頃のフランドル(現在のベルギー)においてであった。制作年が記されている最古の作品は、1432年のヤン・ファン・エイクによる≪ティモテオスの肖像≫である。彼は、7年後の1439年に妻の肖像≪マルガレーテ・ファン・エイク像≫を描き、西洋美術史においては、「四分の三観面像」の代表的な作例としてよく取り上げられる(西岡、1994年、168頁)。
プロフィール像から「四分の三観面像」への変化には、肖似性への要求が関係しているとみられている。一方、正面観像は神の像がしばしばそうであるように、その像に威厳を与える意図のもとで選択されるが、肖似性という点では、「四分の三観面像」に比べると、顔貌の立体感などが不鮮明となり、不利となる。にもかかわらず、ルーヴル美術館にある、ハンス・ホルバイン(子)による≪アンナ・ファン・クレーフェの肖像≫(1539年)は正面向きで、本人に似ておらず、イングランド国王ヘンリー8世の不興を買い、宮廷画家として大失敗をした。
(川島ルミ子氏もこのハンス・ホルバインを例に挙げていた。川島、2015年、91頁~102頁。アン・オブ・クレーヴズの項参照のこと)。

≪モナ・リザ≫の微笑の捉え方の問題


上記のように、元木氏は≪モナ・リザ≫の笑顔を、レオナルドの他の諸作品にも見えるような魅力的で神秘的な笑顔と理解した上で、論を進めている。
そして≪モナ・リザ≫のモデルは、フィレンツェの裕福な市民フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザ夫人であるという、近年ほぼ確定した見解に元木氏は依拠している。
それに基づいて、妻リザの肖像画を依頼した夫ジョコンドも、レオナルド作品の神秘的な微笑におそらく魅せられて、そうした魅力的な微笑が描き込まれることを願望したものと元木氏は推測し、理解している。

ところで、≪モナ・リザ≫の微笑をどのように捉えるかという点については、実は難しい問題が潜んでいる。というのは、≪モナ・リザ≫の微笑を「不気味な微笑」と解釈する見解が伝統的に根強くあるからである。
元木氏は、本書の中で、≪モナ・リザ≫の微笑を、「不気味な」ものとは全く捉えていない。そもそも≪モナ・リザ≫の微笑について、元木氏は、「第一章 モナ・リザはなぜ微笑むのか?」でしか言及していない。元木氏も、絵の中の「笑顔」に関して、様々な諸相を考察していたが、先の要約からも明らかなように、「負の笑い」、不気味な笑いは、「第四章 笑いの裏側」、とりわけ「気味の悪い笑顔」(112頁~113頁)、「嫌らしい笑顔」(113頁~118頁)に取り上げていた。
そこでは、マッセイスの≪不釣り合いなカップル≫を解説する際に、レオナルド・ダ・ヴィンチの≪グロテスクな頭部≫および、レオナルド作品に基づくフーフナーフェルの≪不釣り合いなカップル≫に言及しているにすぎない(元木、2012年、112頁~118頁)。その後、レオナルド作品が取り上げられるのは、「第五章 絵を見て笑う」の「ゆがんだイメージ」の中で、レオナルドの「アトランティコ手稿」にある「目と顔の素描」について触れている(元木、2012年、158頁~161頁)。

このように、レオナルドの≪モナ・リザ≫の微笑については、第一章以外では言及されておらず、その微笑を不気味な微笑とする見解にはいっさい触れていない。その言及を控えた理由は、おそらく読者の混乱を避けたかったからであろうと私は推測している。

ただ、≪モナ・リザ≫の微笑がどのように捉えられてきたかについて、その歴史の一端を知ることも大切かと思うので、少しこの点を付記しておきたい。

≪モナ・リザ≫を不気味な微笑と捉える見解


この問題について、うまく解説した本がある。それは、
平松洋『名画の読み方 怖い絵の謎を解く』(新人物往来社、2011年)である。
≪平松洋『名画の読み方 怖い絵の謎を解く』はこちらから≫


平松洋『名画の読み方 怖い絵の謎を解く』

平松洋氏は、この著作の中で、第1章~第4章を「『モナ・リザ』の<不気味な>微笑」と題して、詳細に論じている(平松、2011年、8頁~84頁)。
簡単に内容を紹介しておく。

≪モナ・リザ≫の不気味さを感じられるようになったのは、特に19世紀半ばからである。中でも、よく知られているのは、19世紀のイギリスの批評家ウォルター・ペイター(1839~94)のモナ・リザ評である。
ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』(白水社、2004年)の中で、
「彼女は自分の座を取り囲む岩よりも年老いている。吸血鬼のように、何度も死んで、墓の秘密を知った」とある。
(ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社、2004年、128頁~129頁)

ウォルター・ペイターは、≪モナ・リザ≫に「吸血鬼(ヴァンパイア)」のごとき存在を見た。
ところで、フランスの歴史家で『魔女』の名著をものしたジュール・ミシュレ(1798~1874)は、蛇が小鳥に近づくように、自分をひきつけ、呼んで、侵入し、飲み込んでしまうと、こともあろうに≪モナ・リザ≫を蛇にたとえている(1855年)。
そして、フランスの詩人にして批評家のテオフィル・ゴーティエ(1811~1872)に至っては、≪モナ・リザ≫の微笑を「いまだに解けないひとつの謎」と呼び、その唇に人智を越えた、いにしえの女神の冷笑を見た。
そして、ゴーティエは≪モナ・リザ≫は「そのヴェールを取って彼女の秘密をあばこうとする愚かな男を狂気に追いやり、死にいたらしめるイシス神」のようだと言った(1867年)。

ウォルター・ペイターの『ルネサンス』の初版の刊行は1873年で、ペイター33歳のときの作品である。ということは、ペイターの“名文”は、こうした言説を受けた形で登場したことになる。
つまり≪モナ・リザ≫評にあらわれた男を誘い破壊させるファムファタール(運命の女)や、いにしえのおぞましい女神のイメージを集約する形で登場したことになる。

このゴーティエが≪モナ・リザ≫に見たエジプトのイシス神が、あのベストセラー小説『ダ・ヴィンチ・コード』(2003年)にも登場しているのである!
宗教シンボル学者のラングドン教授は、エジプトの男性神アモンの話をしている。この豊穣神アモン(amon)と対になる豊穣の女神イシス(isis)で、その古い象形文字は L’isaと書かれていたという。そして、この二つの神の名を並べた Amon L’isaのアナグラム(綴り変え)こそが、Mona Lisaだと教授はいう。つまり≪モナ・リザ≫は男性神と女性神の融合体として初めから描かれていて、これが「ダ・ヴィンチのささやかな秘密」という(ダン・ブラウン(越前敏弥訳)『ダ・ヴィンチ・コード(上)』角川文庫、2006年、221頁~223頁)。

小説中の主人公ラングドン教授の見解は、平松氏もいうように、眉唾ものである。端的にその誤りを指摘しておけば、この絵はイタリアでは「ラ・ジョコンダ」(La Gioconda)、フランスでは「ラ・ジョコンド」(La Joconde)と呼ばれるのが普通で、「モナ・リザ」(Mona Lisa)とは呼ばれることはない。
そもそもタイトル自体、ダ・ヴィンチがつけたものではなく、ヴァザーリの記録に由来するものであるから。
(平松、2011年、12頁~16頁、26頁、36頁。ペイター(富士川訳)、2004年、253頁)

夏目漱石の小説にみえる≪モナ・リザ≫


日本においては、夏目漱石の小説『モナリサ』(『永日小品』所収)にも、≪モナ・リザ≫を不気味とみなす話が出てくる。
明治時代の主人公井深の細君は、「しばらく物も言わずに黄ばんだ女の顔を眺めていたが、やがて気味の悪い顔ですことねえと言った」とある。
(夏目漱石『文鳥・夢十夜・永日小品』角川文庫、1956年[1989年版]、104頁)

そして、額を掛けると次のように細君は言った。
「その時細君は、この女は何をするか分らない人相だ、見ていると変な心持ちになるから、掛けるのは廃(よ)すが好いと言ってしきりに止めたけれども、井深はなあにお前の神経だと言って聞かなかった」とある
(夏目漱石『文鳥・夢十夜・永日小品』角川文庫、1956年[1989年版]、104頁)

井深の細君は正直に「気味の悪い顔」「何をするか分らない人相」「見ていると変な心持ちになる」といった具合に、心情を吐露している。

井深も、調べものの途中で、筆を休めて額を見ると、
「黄色い女が、顔の中で薄笑いをしている」(105頁)。
そして「その晩井深は何遍となくこの面を見た。そうして、どことなく細君の評が当たっているような気がしだした」(105頁)。
その後、井深が額の裏を開けてみると、四つ折りの西洋紙が出てきて、次のように書かれてあった。
「モナリサの唇には、女性(にょしょう)の謎がある。原始以降この謎を描きえたものはダ・ヴィンチだけである。この謎を解きえたものは一人もない」(105頁~106頁)。
翌日、井深は役所へ行って、モナリサとかダ・ヴィンチについて尋ねてみたが、誰も知らず、この絵を手放すことになる。
漱石は次のように述べている。
「翌日井深は役所へ行ってモナリサとはなんだと言って、皆に聞いた。しかし誰も分らなかった。じゃ、ダ・ヴィンチとはなんだと尋ねたが、やっぱり誰も分らなかった。井深は細君の勧めに任せて、この縁喜(えんぎ)の悪い画を、五銭で屑屋に売り払った」(106頁)。

結局、井深は、細君の勧めに従って、“この縁喜の悪い画”を5銭で売り払ってしまうのである。
この「モナリサ」が収められた『永日小品』は、年譜によれば、明治42年(1909)に、「「朝日新聞」に連載されたそうだ。
額の中の西洋紙に書かれた文言は、夏目漱石の西洋美術に対する見識と先見の明が読み取れて、興味深い。ただ、明治時代の一般大衆が、≪モナ・リザ≫という絵に対してどのような印象を抱いていたのか、またはレオナルド・ダ・ヴィンチに対してどれくらいの知名度があるかについては、この小説の主人公井深やその細君が代弁しているのかもしれない。
(夏目漱石『文鳥・夢十夜・永日小品』角川文庫、1956年[1989年版]、103頁~106頁、243頁)

以上、≪モナ・リザ≫の微笑が、不気味とみられた見解、見方が歴史的に存在していたことをみてきた。

笑いの諸相のまとめ


上記のことを踏まえて、元木幸一氏が「絵の中の笑顔」として取り上げた、笑いの諸相をまとめておこう。どのような笑顔と絵画を紹介してきたかが、一目でわかるようにしてみた。
※なお、カッコ()のページ数は元木氏の著作のものである。



【笑いの諸相のまとめ】
◇あっけらかんとした笑い、おおらかな笑顔、艶(あで)やかな笑い
作者不詳≪辺境伯ヘルマンと伯妃レクリンディスの像≫1250年頃、砂岩(20頁~21頁)

◇薄ら笑い、アイロニーに満ちた笑い、道化師特有の笑い
ジャン・フーケあるいはその周辺の画家≪ゴネッラ≫1440年頃(35頁)

◇可愛らしい子どもの笑顔、無邪気な笑い、幸せの表徴としての笑顔
セッティニャーノ≪笑う少年の胸像≫1463年頃、大理石(36頁~37頁)

◇神秘的な微笑、魅力的な微笑
レオナルド・ダ・ヴィンチ≪モナ・リザ≫1503~1505年頃(ママ)
レオナルド・ダ・ヴィンチ≪聖アンナ、聖母子と洗礼者ヨハネ≫1500年頃
レオナルド・ダ・ヴィンチ≪ブノワの聖母≫1478~80年頃
(40頁~42頁)

◇愛情あふれる表情の笑顔
ラファエロ≪テンピの聖母子≫1508年(48頁~49頁)

◇笑わないイエス像(笑顔とはほど遠いきつい表情)
マルティーニ≪聖家族≫1342年(52頁~53頁)

◇明るい笑顔のイエス
カンパン≪火よけの前の聖母子≫1440年頃(64頁~65頁)

◇恩恵へと誘う笑い
クレーフェ≪聖母子とクレルヴォーの聖ベルナルドゥス≫1510年頃(67頁)

◇幸せを表明する微笑
ラファエロ≪聖家族と聖エリザベツと幼児ヨハネ(カニジャーニの聖家族)≫1507年(72頁~73頁)

◇女主人と幸せを共有しているような笑顔
フェルメール≪恋文≫1669~70年頃(83頁、93頁)

◇召使いの薄笑いを浮かべた素っ気ない表情、どこか冷めた気分を漂わせた笑顔、冷たい笑顔
フェルメール≪手紙を書く女と召使い≫1670~72年頃(92頁~94頁)

◇羞恥の笑顔
フェルメール≪手紙を書く女≫1665年頃(101頁~102頁)

◇媚びた笑顔
フェルメール≪2人の紳士と女≫1659~60年頃(102頁~103頁)

◇「しめしめ」とでも言っているかのように嬉しそうな表情を浮かべている老婆の微笑み、陰湿な思惑を含んだ笑い、薄笑い、気味の悪い笑顔、人生の生を高みから見下ろして笑っているような印象、暗く、隠微で、不気味な、そして嫌みな笑顔
フェルメール≪取り持ち女≫1656年(108頁、112頁)

◇無邪気な幼子の笑顔、天真爛漫な表情としての笑い、楽士の卑屈な笑いと幼児の無邪気な笑い、家庭の幸せをうたいあげるような、単純な笑顔
ホーホ≪幼児に授乳する女性と子どもと犬≫1658~60年頃(86頁、90頁。108頁)

◇苦笑、薄笑い
マース≪怠惰な召使い≫1655年(95頁~96頁)

◇のぞき見の笑顔、のぞきの共犯へと誘い込む笑い
マース≪立ち聞き≫1656年(97頁、102頁)
◇いかにも嫌らしい笑顔、薄笑い
マッセイス≪不釣り合いなカップル≫1520~25年頃(113頁、115頁)

◇意地悪な笑い、いかにも性悪な笑い、サディスティックとすらいえそうな笑い、薄笑い、嫌悪をかき立てる笑顔
ショーンガウアー≪キリストの鞭打ち≫1470年代後半(118頁~120頁、128頁)

◇化け物の笑い、悪だくみをしているような笑顔、気味の悪い笑い、悪意の笑い、嫌悪感が背景にある笑い
ヒエロニムス・ボス≪聖アントニウスの誘惑祭壇画≫1505~10年頃(123頁~124頁、128頁)

◇気味の悪い笑い、悪意に満ちた笑い
ヒエロニムス・ボス≪十字架を担うキリスト≫1515~16年頃(126頁~127頁)

◇悪魔の笑い、もっとも薄気味の悪い笑い、薄ら笑い
バルドゥング・グリーン≪アダムとイヴ≫1531年(129頁~132頁)

◇いたずらな笑い
ヤン・ステーン≪放縦な家庭≫1661~63年頃(133頁~135頁)

◇残酷な笑い、笑いが浮かんでくるのを止められないといった表情
ヤン・ステーン≪生徒にお仕置きをする教師≫1663~65年頃(136頁~137頁)

◇笑う自画像(シニカルな道化役、笑う道化師)、絵を見る人の愚かさを笑っている
ヤン・ステーン≪リュートを弾く自画像≫1652~55年(138頁~140頁)

◇こちらを見て口を開けて笑っている、こちらを探るような笑い、こちらを向いて虚ろな雰囲気を漂わせながら笑っている、自らを笑いながら、絵を見る人をも笑うという多重の意味を担った表現、笑いが単に心を明るくするだけのものではない
レンブラント≪笑う自画像≫1685年(142頁~144頁)

◇小気味よい笑い
「ハウスブーフの画家」≪アリストテレスとフィリス≫1485年頃(149頁、153頁)

◇うら悲しい笑い
「ハウスブーフの画家」≪逆立ちをする農民の紋章≫1485~90年頃(153頁)

◇軽蔑の笑い、残酷な笑い
メッケネム≪怒る女房≫1495~1503年頃(154頁~155頁)

◇知的な笑い
ピーテル・ブリューゲル(父)≪錬金術師≫1558年(157頁~158頁)

◇にやりと笑みを浮かべる、納得の笑い
エアハルト・シェーン≪フェルディナンド王の肖像のパズル画≫1480~95年(160頁~160頁)

◇苦笑いを誘発する絵画
ハンス・ホルバイン(子)≪外交官たち≫1533年(164頁~165頁)

◇驚愕と笑いを誘う
アルチンボルド≪野菜の庭師≫1590年頃(167頁~168頁)

◇笑いは権力批判の武器にもなる
作者不詳≪枢機卿と道化の判じ絵≫1525年頃(169頁)

◇自分の誤解を笑ってしまう「トロンプ・ルイユ」、眼への仕掛けで笑いを生み出す、いかにも美術らしい笑い
ホーホストラーテン≪窓から外を見る老人≫1653年(171頁~173頁)

◇知的な笑い
アドリアン・ファン・デル・スペルト≪カーテンのある花の静物≫1658年(175頁、179頁)

◇だまされた自分を笑う「トロンプ・ルイユ」
ベトルス・クリストゥス≪カルトゥジオ修道会士の肖像≫1446年(180頁~181頁)

◇思わずニヤリとせざるをえない「トロンプ・ルイユ」、奇妙な錯覚を引き起こし、苦笑せずにはいられない
フランチェスコ・デル・コッサ≪受胎告知≫1470年(182頁~184頁)






ヨーロッパのペスト


イタリアのペストの大流行については、ボッカチオ(1313~1375)作の『デカメロン』(1348~53頃)という小説にも記してある。
1348年のフィレンツェで発生したこの疫病についての証言でもある。34歳のボッカチオが繁栄のフィレンツェに暮らして、はじめて目撃する地獄絵だった。

発病の徴候はといえば、鼠径部や腋の下にぐりぐりのようなものができ、ときには、リンゴやタマゴほどの大きさになると記す。1348年3月と7月との間に、フィレンツェ市内だけで10万人の命が失われたと推定している。

周知のように、ペストはペスト菌によっておこる感染症である。ふつうは、直接、ヒトからヒトへはうつらない。ネズミとそれに寄生するネズミノミを媒介とする。肌の黒変から、しばしば黒死病とも呼ばれ、人類史上もっとも恐れられた疫病のひとつである。ボッカチオがフィレンツェで観察した患者の様態はかなり正確であるとされる。

樺山紘一氏は、信用できるデータの例として、イングランドを挙げ、この一王国だけで、人口の45%を失ったという。14世紀後半50年間で、376万人の人口は、210万人にまで、低落した。全ヨーロッパにつき、3分の1程度、その数約3000万人が、ペストの流行やその間接の影響で、生命を失ったと樺山氏は推定している。
(樺山紘一『ルネサンス』講談社学術文庫、1993年、189頁~215頁)

14世紀のペスト大流行このかた、大量かつ迅速な死が町と村をおおう。ひとの生は、いつも死に隣接していることが、切実にさとられた。
ルネサンスは、「まさしく死の崖縁にたって、黒い暗淵をのぞきこみながら、華麗な舞をこころみていた」時代であると樺山氏は形容している(樺山、1993年、222頁)。

元木氏も取り上げていたバルドゥング・グリーンは、デューラーやホルバインと時代をともにするドイツ人画家であった(元木、2012年、129頁~133頁)。
バルドゥングは、ルネサンスと宗教改革という、ふたつの精神的沸騰の中で、鋭敏な感受性をもって、時代の暗さを感知していたようだ。
例えば、≪女の三段階と死≫(1510年頃、油彩、48×32.5㎝、ウィーン美術史美術館)という作品においては、砂時計を持った死神を登場させている。人生に残された時間は、これで計測されるので、いっときも死を忘れないようにと、忠告している。樺山氏は、バルドゥングの「人生の諸段階」という作品について、嬰児も、老醜も、そして死の瞬間すらも、生きるに値することを主張していると捉えている(樺山、1993年、56頁、216頁~224頁)。

フランス中世末期を舞台としたユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』という小説


元木氏は、「ペストという分岐点」という項目で(元木、2012年、56頁~60頁)、中世ヨーロッパは、14世紀半ば以降、ペストをはじめ疫病が流行し、10年に1度に多いときで都市人口の3分の1の死者が出て、さらに百年戦争(1337~1453年)などの戦争があり、人生は苦痛・苦悩に満ちていた。死と隣り合わせの人生だからこそ、日常のささやかな喜びや笑い・笑顔をいとおしくもあり、希求したと元木氏は指摘していた。
元木氏は、絵画を通して、ヨーロッパ中世から近世の時代状況を浮かび上がらせた。

この元木氏の本を読んで、私はユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』という小説を想起した。このロマン主義の小説は、ノートル=ダム大聖堂の鐘番であるカジモド(20歳)の物語である。時代設定は、1482年である。この年にノートル=ダム大聖堂の塔の頂からながめたパリの全景を叙述した「パリ鳥瞰」は圧巻で、ユゴーの博識と描写力は驚異的である。

物語の中で、ノートル=ダム大聖堂の司教補佐であるクロード・フロロ(36歳)は、ブルジョワ出身ながら、幼いときから僧職を志し、真面目に勉学に打ち込むが、19歳のとき両親をペストで亡くしてしまったという設定である(鹿島茂『100分de名著 ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』』、NHK出版、2018年、33頁、41頁、47頁)。

鹿島氏もこの小説の舞台となっている15世紀後半のフランスについて触れている。「ペスト、百年戦争、大飢饉などで人口が半減したあと、集団の無意識が働らいたのか、急激な人口増を迎えた時代」(鹿島茂、2018年、47頁)と説明している。

ちなみに、小説中の具体的記述を補足しておくと、クロード・フロロの両親は、1466年のペストでなくなったことになっている。
そして、ユゴーは「1466年の夏は極端に暑かったので、凄じい勢でペストが蔓延し、パリ子爵領だけでも四萬人以上の人々がこの病に斃れた。」と記している。
(ヴィクトル・ユゴー(松下和則・辻昶訳)『ノートル=ダム・ド・パリ』河出書房、1952年、154頁、168頁。Victor Hugo(éd. S. de Sacy), Notre-Dame de Paris:1482, Gaillimard, 1974[1994], p.200, p.218.)

クレーヴ広場というセーヌ河岸の広場では、エスメラルダが大勢の見物人に囲まれてタンバリンを叩きながら、踊っていた。その踊りは老婆の罵声で中断されるが、その時、道化法王に選ばれたカジモドを台の上に乗せた行列が広場に到着する。
カジモドは「笏杖を手にし、法衣を身にまとい、法王冠をいただき、意気揚々として」いる(resplendissait, crossé, chapé et mitré)。
カジモドは、台の上で「生まれて初めて自尊心の満足という喜び」(la première jouissance d’amour-propre)で顔を輝かせていたが、群衆の中からクロード・フロロが飛び出してきて、カジモドが持っていた、法王のしるしである笏杖をひったくってしまう。カジモドはひざまずき、頭を垂れて、謝ることになる。
(鹿島茂『100分de名著 ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』』、NHK出版、2018年、37頁。ヴィクトル・ユゴー(松下和則・辻昶訳)『ノートル=ダム・ド・パリ』河出書房、1952年、69頁。Victor Hugo(éd. S. de Sacy), Notre-Dame de Paris:1482, Gaillimard, 1974[1994], p.110.)

カジモド扮する道化法王という場面は、この民衆の陽気さと笑いを端的に表しており、作者不詳の≪枢機卿と道化の判じ絵≫(1525年、ドイツ)に通ずるものであると私は思った。
価値の逆転は、笑いの文化の重要な仕掛けであり、笑いは、権力批判の武器にもなるのである(元木、2012年、147頁、169頁参照のこと)。

フランス経済は、およそ1480年代より1640年代まで続く長期的好況期を迎える。16世紀は顕著な人口の膨張を経験する。
16世紀前半にフランスを統治したフランソワ1世(在位1515~47)は、きわだって強力な国王であり、王権の強化に努めた。フランソワ1世は「フランス・ルネサンスの父」と呼ばれているように、イタリア・ルネサンスの絵画や古代彫刻を収集し、多くのイタリアの美術家をフランスに招いた。周知のように、レオナルド・ダ・ヴィンチも、この国王の招きにより、フランスで晩年を過ごし、名画≪モナ・リザ≫をフランスの地に残すことになる(井上幸治編『世界各国史2 フランス史』山川出版社、1968年[1995年版]、156頁~162頁)。

≪参考文献≫


平松洋『名画の読み方 怖い絵の謎を解く』新人物往来社、2011年
西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』河出書房新社、1994年
ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社、2004年
ダン・ブラウン(越前敏弥訳)『ダ・ヴィンチ・コード(上)』角川文庫、2006年
夏目漱石『文鳥・夢十夜・永日小品』角川文庫、1956年[1989年版]
樺山紘一『ルネサンス』講談社学術文庫、1993年
ヴィクトル・ユゴー(松下和則・辻昶訳)『ノートル=ダム・ド・パリ』河出書房、1952年
鹿島茂『100分de名著 ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』』、NHK出版、2018年
Victor Hugo(éd. S. de Sacy), Notre-Dame de Paris:1482, Gaillimard, 1974[1994]
井上幸治編『世界各国史2 フランス史』山川出版社、1968年[1995年版]




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