歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで  その1 私のブック・レポート≫

2020-04-01 17:25:35 | 私のブック・レポート
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その1 私のブック・レポート≫
(2020年4月1日投稿)
 



【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)

【はじめに】


 これまで、ルーヴル美術館の作品を取り扱った著作を紹介してきた。
 今回からも、次の3冊を引き続き、取り上げて、その内容を要約した上で、【読後の感想とコメント】を述べてみたい。
 
① 中野京子『はじめてのルーヴル』集英社文庫、2016年[2017年版]
② 小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』まどか出版、2003年
③ 西岡文彦『二時間のモナ・リザ 謎の名画に全絵画史を読む』河出書房新社、1994年


 今回からは、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])という著作を取り上げる。
 この案内本は、【目次】からもわかるように、17章に分かれている。毎回、3章ずつ、要約をしてゆき、その後に、【読後の感想とコメント】を記したい。
 【読後の感想とコメント】においては、中野氏が取り上げた、ルーヴル美術館の作品について、私なりに解説を補足すると同時に、フランス語のガイド本についても、紹介してみたい。
 例えば、
〇 Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, artlys, 2001.
〇その翻訳本 フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』artlys、2001年
 このガイド本は、ルーヴル美術館で購入したものであり、ルーヴル美術館所蔵の諸作品を簡潔に解説してあり、有用である。








本書の目次は次のようになっている。
【目次】
第① 章 なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』
第② 章 ロココの哀愁       ヴァトー『シテール島の巡礼』
第③ 章 フランスをつくった三人の王 クルーエ『フランソワ一世肖像』
第④ 章 運命に翻弄されて     レンブラント『バテシバ』
第⑤ 章 アルカディアにいるのは誰? プッサン『アルカディアの牧人たち』
第⑥ 章 捏造の生涯   ルーベンス『マリー・ド・メディシスの生涯<肖像画の贈呈>』
第⑦ 章 この世は揺れる船のごと  ボス『愚者の船』
第⑧ 章 ルーヴルの少女たち    グルーズ『壊れた甕』
第⑨ 章 ルーヴルの少年たち    ムリーリョ『蚤をとる少年』
第⑩ 章 まるでその場にいたかのよう ティツィアーノ『キリストの埋葬』
第⑪ 章 ホラー絵画        作者不詳『パリ高等法院のキリスト磔刑』
第⑫ 章 有名人といっしょ     アンゲラン・カルトン『アヴィニョンのピエタ』
第⑬ 章 不謹慎きわまりない!   カラヴァッジョ『聖母の死』
第⑭ 章 その後の運命       ヴァン・ダイク『狩り場のチャールズ一世』
第⑮ 章 不滅のラファエロ     ラファエロ『美しき女庭師』
第⑯ 章 天使とキューピッド    アントワーヌ・カロンまたはアンリ・ルランベール『アモルの葬列』
第⑰ 章 モナ・リザ        レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』
あとがき
解説 保坂健二朗





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


第1章 なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』
・中野京子氏の筆の冴え
・画家ダヴィッドの諸作品
・『ナポレオンの戴冠式』について
・『ナポレオンの戴冠式』の構図
・『ナポレオンの戴冠式』の登場人物

第2章 ロココの哀愁  ヴァトー『シテール島の巡礼』
・ヴァトーと印象派のモネ
・『シテール島の巡礼』について
・ロココ様式について
・ヴァトーという画家
・ヴァトーの『ピエロ』

第3章 フランスをつくった三人の王 クルーエ『フランソワ一世肖像』
・フランスをつくった三人の王
・シャルル7世
・フランソワ1世
・劇作・オペラとフランソワ1世
・クルーエの『フランソワ一世肖像』
・ルイ14世







第①章 なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』


ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』
1805~1807年/621cm×979cm/ドゥノン翼2階展示室75

中野京子氏の筆の冴え


最初から、この美術案内書では、饒舌で、リズム感あふれる“中野節”がさく裂し、読者が圧倒される。例えば、ナポレオンの人生について、次のようにまとめ上げてしまい、舌を巻く。

「実際、ドラマティックな人生であった。ありとあらゆる要素が彼の一生には詰まっていた。辺境の地で貧乏貴族の子に生まれ、容貌はぱっとせず背も低く、差別され、学業成績はふるわず、しかし天才的な軍事の才に恵まれ、連戦連勝、壮大な野望を抱き、皇帝となり、ヨーロッパ中を戦争に巻き込み、恋人愛人数えきれず、権威付けのためハプスブルクのお姫さまを強引に妃にし、息子を得、やがて戦(いくさ)に負けはじめ、引きずり下ろされ、島流しとなり、まさかの復活を果たしてパリへ凱旋、人々を恐慌に陥れ、再度引きずり下ろされて、ついにセント=ヘレナ島で無念の死。」(13頁)

中野京子氏といえば、2007年に発表された『怖い絵』を端緒としたシリーズでよく知られた作家である。
私も、テレビ出演した中野氏を何度か拝見したことがあるが、作品解説を、立て板に水のように、雄弁に話しておられたのが印象的であった。それを文章化すると、こうなるのだろう。
そのベースには、ドイツ文学者としての素養と技量があるからであろう。あのツヴァイクの名著『マリー・アントワネット』を新たに翻訳されただけのことはある。
人の一生を簡潔に文章にまとめあげる技量は、文学者として、歴史上の人物と対峙し、表現化する努力の賜物であろう。その技量に感服する。

ところで、保坂健二朗氏(東京国立近代美術館主任研究員)の「解説」(243頁~249頁)によれば、「魅力的な作品解説」において大事なことは、ディスクリプション(作品叙述)であるという。
絵になにがどのように描かれているかについて見える範囲のことを中心に書くことである。どこを見せたいかを判断し、どのような順序で見れば=書けば効果的かを考えた上で、ちょっと主体的に叙述していくことが、「魅力的な作品解説」には求められているとする。保坂氏によれば、中野京子氏は、この「ディスクリプションがすこぶる上手い」と評している(245頁)。

画家ダヴィッドの諸作品


ナポレオンは「稀代の英雄」としてのイメージがある。幸いにして同時代には、傑出した才能を持つ画家ダヴィッドがいた。
ダヴィッド自身がナポレオンの英雄性に心酔していたため、肖像画を描くにあたって力を入れていた。
例えば、
・「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」1801年、マルメゾン宮国立美術館
 アルプス越えにおける馬上の勇姿
・「書斎のナポレオン」1812年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー
 執務室で手を上着の胸元に入れてリラックスする様子
・「鷲の軍旗の授与」1810年、ルーヴル美術館
 鷲の軍旗授与におけるローマ皇帝を髣髴とさせる姿
 
※「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」が叙事詩的英雄としてのナポレオンを、一方、「書斎のナポレオン」が立法者としてのナポレオンを表す、一対の寓意画であるという捉え方がある。この2点の肖像画は外征と内政に携わる、武人と統治者としてのナポレオンの2つの顔を描き出しているとされる(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年、185頁、229頁、233頁~234頁)。

このように、さまざまなシチュエーションでオーラを放つナポレオンを造型し、人々の眼を眩ませた。そうした絵画群のうちの最高峰として、『ナポレオンの戴冠式』を中野氏は位置づけている。


【鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社はこちらから】


鈴木杜幾子『画家ダヴィッド―革命の表現者から皇帝の首席画家へ』


『ナポレオンの戴冠式』について


ルーヴル美術館で誰もが絶対に見落とせない、三作品は、『モナ・リザ』、『ミロのヴィーナス』、そして『ナポレオンの戴冠式』といわれる。

何しろ大きい。縦6.2メートル、横9.8メートル、床に置いたら60平方メートルほどになる(日本の2DKアパート並み)。制作に3年かかったのも道理であろう。
完成作を見たナポレオンが、「画面の中に入ってゆけそうだ」と満足をあらわした。事実、最前列右の数人は身長2メートルほどの大きさで描かれているので、本物の人間が画面に入っても収まる。
ナポレオンはまたこうも言っている。「大きいものは美しい。多くの欠点を忘れさせてくれる」と。
(ただ、このサイズはルーヴルで2番目の大きさである。1番大きな絵は、6.8×9.9メートルのヴェロネーゼ『カナの婚礼』である。ナポレオンがヴェネチアを征服した際、修道院の壁からはがしてフランスへ持ち出した)

さて、このダヴィッドの作品は、まことにプロパガンダ絵画のお手本である。ヒーローとヒロインであるナポレオンとジョゼフィーヌは、魅力たっぷり描かれ、人々の視線を一身に浴びている。150人とも言われるおおぜいの登場人物も、ひとりひとりかなり克明に描き分けられている。荘厳で記念碑的なこの大作は、冷ややかで破綻がない。

1804年12月2日、パリのノートルダム大聖堂において、35歳の若きナポレオンは絢爛豪華な戴冠式を挙行する。
歴代フランス王は、9世紀のルイ1世から25代にわたり、パリの北東に位置する町ランスにあるノートルダム大聖堂で戴冠式を行なってきた。ナポレオンはブルボン家の後継者とみなされるのを嫌い、「王」ではなく「フランス人民の皇帝」を名乗った。したがって、ランスでの戴冠式など論外である。

14年前のローマ皇帝カール大帝(シャルルマーニュ)に倣い、古式にのっとった宗教儀式を行なうことにした。つまりランス司教ではなく、ローマ教皇による戴冠式である。
(ちなみにフランス語のNotre-Dameは英語のOur Ladyにあたる。「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを意味する。したがって、ノートルダム(聖母マリア教会)という名のカトリック教会はフランス語圏各地にある)。

ところで、カール大帝でさえ、自分のほうからヴァチカンに赴いたのに、ナポレオンは教皇をパリへ呼びかけた。呼びつけて戴冠式に列席サンドさせ、三度の塗油の儀だけさせると、教皇が祭壇上の帝冠に手を伸ばすより早くそれを奪い取り、自分で自分に戴冠してしまう。次いで、妃ジョゼフィーヌに、自らの手で冠を与えた(かぶせる動作のみ)。
「ヨーロッパの覇者」としてナポレオンがローマ教皇より上位にあることを内外に見せつけたことになる。教皇ピウス7世の恥辱は尋常ではなかったであろうし、式に参加した各国代表なども一様に驚いた(仇敵イギリスには、おちびのナポレオンが両手で自分の頭に冠をのせようとする諷刺画が出回った)。

『ナポレオンの戴冠式』の構図


さて、ダヴィッドは新古典派の大御所にして宮廷首席画家であるから、ユーモアなど無い。彼は英雄礼讃のための盛大なる美化を厭わなかったし、皇帝の威光を損なうものは排除した。ただ、やはりナポレオン自らによる戴冠が問題になってくる。ダヴィッドも一度はその構図で下絵を描いてみた。しかし、そうした異例を後世に残すのを、疑問と感じ、ローマ・カトリックへのあからさまな反逆を絵画化するのを危険と思ったようだ。
こうしてナポレオンが誰によって戴冠したかは曖昧なまま、皇帝による皇妃戴冠の構図が決定された。

『ナポレオンの戴冠式』の登場人物


絵の中の登場人物について解説している。
・ナポレオンは月桂冠を被り、端正な横顔を見せ、まさに古代ローマ皇帝の表情をしている。身長も数十センチは嵩上げされている。鷲の模様をちらした真紅のマント、裏が白テンの毛皮なのは、ブルボン家の大礼服用マントに似せたようだ。

・その前に跪く年上の愛妻ジョゼフィーヌは、この時41歳だった。8年前に、未亡人としてナポレオンと出会い、エキゾティックな美貌で彼を虜にして、今やフランス皇妃である。

・ナポレオンのすぐ後に、62歳のピウス7世が浮かぬ顔をして、右手の指で祝福のポーズをしている。しかし、教皇はこれ以前からナポレオンと対立しており、この所作ダヴィッドの創作である。

・もうひとつの創作は、本当はここに居なかったナポレオンの母を、描いていることである。正面2階の貴賓席で微笑んでいるが、母は息子が皇帝になるのに大反対で、戴冠式には出席しなかった(捏造写真の先取りと中野氏は記す)。

・ダヴィッド本人は、ナポレオンの母の席のすぐ上階、斜め左に描かれている。ひとりスケッチ帳を構え、式次第をスケッチ中である。

・右手前に居並ぶ男たちは、いずれもナポレオンの側近たちだが、中でも右端で真っ赤なマントを着て目立つのが、タレーランである。鼻先がツンと上向いた特徴的な横顔である。
(タレーランのこの鼻は、隠し子と言われるドラクロワに受け継がれたそうだ)

・タレーランはナポレオンの信頼あつく、外務大臣と侍従長を兼ねたほどなのに、本作完成後まもなくナポレオンを見限って失脚に追い込んだ。ナポレオン追放後も、フランス政治の中枢に居続け、40年にわたり国の舵取りを行なった。『ナポレオンの戴冠式』における真の勝者は、このタレーランかもしれないと中野氏はみている。うっすらした笑みがいかにも意味ありげである。
(中野、2016年[2017年版]、13頁~26頁)


第②章 ロココの哀愁 ヴァトー『シテール島の巡礼』


ヴァトー『シテール島の巡礼』
1717年/129cm×194cm/シュリー翼3階展示室36

ヴァトーと印象派のモネ


印象派のモネは、ルーヴルで一作選ぶなら、ヴァトーの『シテール島の巡礼』だと言った。
画面を吹きわたる風、草花の香り、けぶるような靄、えも言われぬ色調は、まさにモネが追求しようとする世界のお手本である。繊細で震えるような筆致、早描きと薄塗りも、印象派を先取りしているといわれる。

ただし、150年という時の開きがあるので、ヴァトーと印象派の主題は違う。
印象派なら描くはずのない小さなアモル(=キューピッド)が描かれている。また、この絵にみられる典雅な宴や光満ちた美しい風景も、決して現実をそのまま写し取ったものではない。そして登場人物の動きは演劇的である。まさに夢の一場である。
そして心には哀愁の残香(のこりが)が沈潜し、曰く言いがたいその物悲しさ、華やぎに添う哀感こそが、ヴァトーの魅力の核であると、中野氏は理解している。

『シテール島の巡礼』について


この絵の舞台は、伝説の島シテール(キュテラ)である。それは、海の泡から生まれた美と愛欲の女神ヴィーナスが流れついて住まう、恋の島である。
(画面右端に、野薔薇を巻きついたヴィーナス半身像が立っている)

聖地詣でをした8組のカップルが、島で熱いひとときを過ごし、帰ってゆくところである。
当時、ヨーロッパの巡礼者は、肩にかけた短いゆったりしたケープだったそうだ(ペリーヌと呼ばれ、フランス語のペルラン[巡礼者]からきた)。それから長く太い杖を持っている。これは旅路で獣から身を守るにも役立った。画面右手前、草地に置かれたものは、必携の巡礼者手帳(巡礼の証明書)であるようだ。

画面右の3組は、恋の様相の3つの形が呈示されているといわれる。物語は右から左へ進行しており、恋の始まり、成就、幸せな結婚(犬は忠実のシンボル)をあらわす。恋は、言い寄る男とためらう女の駆け引きから始まり、愛の営みを終えて男は先に立ち上がり、余韻にひたる女はどこか名残り惜しげに後ろをふりかえっている。

船着場では、早くも2組のカップルが到着している。舟の漕ぎ手は神話から抜け出たような若者であり、上空ではアモルたちが飛びかい、ヴィーナスに願いを聞き届けてもらった恋人たちを祝福している。

ところで、ヴァトーが本作を描くにあってインスピレーションを受けたのは、1700年にパリで初演されたダンクール作『三人の従姉妹』だそうだ。
劇中、巡礼の身なりをした貴族・市民・農民といった各階層の男女が、シテール島への舟に乗り込むシーンが出てくるようだ。
(本画面中央あたりの各カップルが、服装から見て明らかに貴族でない理由はこの劇に由来すると中野氏はみている)

さて、『シテール島の巡礼』は絶讃され、32歳のヴァトーはアカデミー正式会員に選ばれた。同時に、フェート・ギャラント(fêtes galentes)というジャンルが画壇に確立される(ふつう「雅宴画」と訳される)。

自然の中での着飾った男女の恋の駆け引きがテーマにもかかわらず、ヴァトーは単なる風俗画から、芸術の高みへと引き上げた。これにより、フランス絵画はようやくイタリアやフランドルやスペインと肩を並べうる独自性を主張したと中野氏は解釈している。

なお本作完成、翌年、ヴァトーは画商からヴァージョン制作を依頼され、主役の3組は変わらないが、他は大幅に変更が加えられ、オリジナルに比べ、はるかに賑やかになった。このヴァージョンは、あのフランスかぶれのプロイセン大王フリードリヒ2世の手に渡り、ベルリンのシャルロッテンブルク城に展示されることになる。マリア・テレジアから「悪魔」「モンスター」と罵られ、歴史上強面のイメージのあるフリードリヒ2世だが、フランス語で会話し、ロココの美をこよなく愛し、ヴァトーを深く理解した。大王はヴァトー最後の傑作『ジェルサンの看板』までも購入している。

ロココ様式について


ヴァトーは、それまでの壮麗なバロック様式を一掃し、ロココの最初にして最大の画家である。ただし、生前のヴァトーが「ロココ」という言葉を知っていたわけではない。
ロココとは、貝殻や小石を多用したインテリア装飾ロカイユが語源である。繊細で優美な貴族趣味だったため、フランス革命後にダヴィッドら新古典派が台頭すると、ロココは享楽的女性的感覚的退廃的と全否定され、蔑称として使われた。ただし現在は、18世紀フランス文化の主流を指す美術用語となっている。

ロココ最盛期は、ルイ15世と寵姫(ちょうき)ポンパドゥール夫人の時代である。つまりヴァトーの死後である。ヴァトーの活動期は短くわずか20年足らずにすぎない。太陽王ルイ14世最晩年から、「摂政時代」(幼いルイ15世の代わりに、ルイ14世の甥オルレアン公が摂政政治を行なった時代)に相当する。
早くから胸を病んでいたヴァトーは、ロココを切り拓きながら、ロココの爛漫を見ずに、36歳の若さで亡くなる。肺結核が悪化し、長くは生きられないとの悲観が、この世の全てを非現実的に見せたということはありうるが、ヴァトーの鋭い感受性が夢の終わりを予見したのかもしれないと中野氏は推察している。

ヴァトーという画家


ヴァトーは謎めいている。「人に隠れて生きようとした」とヴァトーの死を看取った画商ジェルサンは言っている。ヴァトーは生涯を独身で通した。女性との艶聞はひとつもなく、
辛辣かつ鬱気味で慢性不眠症であったらしい。加えて金銭に無関心で、自画像も残さず、自らを語ることもなかった。

作品における高度な洗練と、いかにもフランス的な感覚から、ヴァトーは生粋のフランス人と思われがちだが、正確にはフランドル人である。生地のヴァランシエンヌは、彼が生まれる、つい6年前にフランス領になったばかりだった。
フランドルといえば、偉大なる画家を多数輩出した。例えば、ファン・エイク、ブリューゲル、ルーベンス、ヴァン・ダイクなど。ヴァトーはこのことを意識していたようで、特にルーベンスを多く模写して学んだ。『シテール島の巡礼』における群像の配置の妙は、大先達の影響が見られる。

ヴァトーはフランドル人で、貧しい屋根葺き職人の息子であった。17歳でパリへ出て、人生を自分ひとりで切り拓かねばならなかったので、室内装飾家や舞台画家に弟子入りし、芝居の世界と深く関わった。

その後、『シテール島の巡礼』で晴れてアカデミー正会員に登録されるが、残された寿命はわずか4年しかなかった。貴族や富豪の雅な遊宴を手がけながら、ヴァトー本人が宮廷に出入りすることはなかった。ロココを引き継いだ派手なブーシェが、ポンパドゥール夫人のお気に入りとして、宮廷人になったのとは正反対である。ヴァトーは人気が出れば出るほど、画商ジェルサンがいみじくも語ったように、「人に隠れて生きようとした」。

ヴァトーは下層労働者階級出身のフランドル人であり、教育はなく、死病に冒されていた。また雅宴画の第一人者とはいっても、社会の上層部と直接交流はなかった。絵のモデルは役者なので、身分の世界はあくまで演劇上の雅にすぎなかった。

ヴァトーの『ピエロ』


ルーヴル美術館には、このようなことを物語るヴァトーの絵がある。それが『ピエロ』(旧称『ジル』)である。
画面の奥行きは浅く、戸外というより舞台が連想される。木々も空も書割であり、真正面に若いピエロがただ突っ立っている。切ない眼をしており、見る側の物悲しさは募る。服の白さはヴァトーの無垢のあらわれに思え、丸い帽子は聖なる光輪にさえ感じられる。身じろぎもしない姿勢は、ヴァトーの放心と悲哀に重なると中野氏はみている。人生は思うにまかせない。その嘆きが「悲しき道化」の姿に集約されるという。

この絵は、注文主もテーマも不明だそうだ(タイトルは後世の通称である)。
当時のパリは、コメディア・デラルテ(イタリア即興演劇)が人気を博しており、ピエロを演じた役者から、引退してカフェを開く際の看板画として依頼されたのではないかとの推測もあるようだ。ヴァトーの作品としては並外れて大きく、ピエロが等身大に描かれているのがその理由とされる。

しかし、中野氏は、この説に賛同しない。一度見たら忘れがたい、その悲しみの表情が看板画のイメージに一致しない。だから、実在の人物の肖像ではなく、ピエロに託したヴァトー自身の精神的自画像とする推測に同意している。ヴァトーにとって現世は生きにくく、このピエロのように身に合わない服を強制されるのに等しかったであろうからとする。

なお、ヴァトーの肖像画としては、死の数ヶ月前、イタリアの女性画家ロザルバ・カリエラが描いたものがある。
その『ヴァトー肖像画』(イタリアのトレヴィーゾ市立美術館蔵)を見ると、ヴァトーはまさに作品のイメージどおりの風貌だったと中野氏は述べている。
(中野、2016年[2017年版]、27頁~40頁)


第③章 フランスをつくった三人の王 クルーエ『フランソワ一世肖像』


クルーエ『フランソワ一世肖像』
1530年頃/96cm×74cm/シュリー翼3階展示室7

フランスをつくった三人の王


「フランスをつくった三人の王」と題して、フランスのイメージ(広い国土、壮麗な宮殿、英雄崇拝、ファッションや芸術といった文化的優位)をつくりあげた、歴代の国王のうち、3人の肖像画を取り上げている。

・ヴァロア朝5代目シャルル7世(1403~1461)~イギリスの侵略から国を守る
 ジャン・フーケ『シャルル7世の肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階

・ヴァロア朝9代目フランソワ1世(1494~1547)~フランス・ルネサンスの花を咲かせた
 クルーエ『フランソワ一世肖像』1530年頃/96cm×74cm/シュリー翼3階

・ブルボン朝3代目ルイ14世(1638~1715)~太陽王として君臨した
 リゴー『ルイ14世肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階

シャルル7世


・ヴァロア朝5代目シャルル7世(1403~1461)~イギリスの侵略から国を守る
 ジャン・フーケ『シャルル7世の肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階

シャルル7世は、英仏百年戦争に勝利して中世の幕を引いた。若いころは、無気力で弱々しく、外見もぱっとしなかった。
フーケによる肖像画も40代半ばだが、何を考えているか定かでない眼つきなど、どこかしら鵺(ぬえ)的な表情である。
このシャルル7世の一生は、女難と女福の両方を極端に浴びたものだったとして、中野氏は捉えている。
最たる女難は、自分の母親イザボー・ド・バヴィエールである。彼女は夫のシャルル6世が狂気に囚われたのをいいことにして実権を握ろうと、息子を廃嫡してしまう。百年戦争の真只中で、ロワール川以北のフランスはすでにイギリスに支配され、オルレアンが落とされれば南部まで一気に奪われる絶対絶命の状況である。
シャルルは戦う気力もなかったが、そこへ農家の娘ジャンヌ・ダルクが「神の声」を聞いて、奇蹟のように登場する。17歳のジャンヌは、フランス兵を鼓舞して、オルレアンを解放した。その上、ランス大聖堂でシャルル7世の戴冠式を挙行した。
(アングル『シャルル7世の戴冠式とジャンヌ・ダルク』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室77)
しかし、19歳のジャンヌが魔女裁判で火刑に処せられることが決まっても、彼は何も手を打たなかった。さぞや大きな神罰が下っただろうと思えば、これまたさにあらず、次なる女福アニエス・ソレルが舞い降りる。彼女はフランス史上、初の公式寵姫となる。と同時に、政治に関与し、軍費の増強を進言したりして、シャルル7世を「勝利王」へと導いた
(カレーだけを残して、他の全ての領地を取り戻した)。
同じフーケによるアニエスの肖像が残されている。アニエスを聖母マリアに見立ててある『ムーランの聖母』(ベルギーのアントワープ王立美術館蔵)がある。

フランソワ1世


・ヴァロア朝9代目フランソワ1世(1494~1547)~フランス・ルネサンスの花を咲かせた
 クルーエ『フランソワ一世肖像』1530年頃/96cm×74cm/シュリー翼3階

フランソワ1世は、シャルル7世から4代下り、フランスが富を蓄えはじめた時代の王である。この華やかな王様がいなければ、ルーヴル美術館に『モナ・リザ』はなかった。
(モナ・リザのいないルーヴルなんて想像すると、フランソワ1世の貢献度がわかるという)

フランソワは遊び人として有名だが、勇猛果敢な騎士でもあった。即位してすぐイタリア遠征する。神聖ローマ皇帝カール5世の版図拡大を阻止するため、イタリアを舞台とした対ハプスブルク戦を挑み、30歳で屈辱的な虜囚生活も送ったことがある。
国内的には、着々と中央集権化を進め、絶対王政を強化してゆく。いまだ文明後進国でろくな芸術家もいなかったフランスに、文化振興のため、イタリア人美術家を高額の報酬を提示して招致した。中でもレオナルド・ダ・ヴィンチを三顧の礼で迎え、館と年金によって安穏な余生を保証した(3年足らずだったが)。
レオナルドはフランソワ1世の腕の中で永眠した、との伝説さえ残ったほどである。
(その見返りが、『モナ・リザ』、『洗礼者ヨハネ』、『聖アンナと聖母子』だとしたら、イタリアは歯噛みしたくなるとも、中野氏は付言している)

また、フランソワ1世はフォンテーヌブロー宮殿を大改修して、内部装飾をイタリア人画家にまかせた。それがフォンテーヌブロー派である。
中でも、もっともよく知られている作品は、『ガブリエル・デストレとその妹』(ルーヴル美術館リシュリュー翼3階展示室10)である。

劇作・オペラとフランソワ1世


「恋と狩猟と戦争と生」を愛したフランソワ1世は、絢爛たるフランス宮廷文化の礎を築いた。美しい女性たちで、王の城は陽気さと華麗さに満ちあふれていたようだ。
だから、ヴィクトル・ユゴーは、フランソワ1世をモデルにして、劇作『王は愉しむ』を後世、書いた。さらにそれジュゼッペ・ヴェルディが『リゴレット』としてオペラ化した。『椿姫』と並ぶ、ヴェルディ中期の傑作である。

ストーリーは次のようなものである。
若くてハンサムなマントヴァ公(=フランソワ1世)が、美女と見れば見境なく誘惑し、相手の心の傷など何とも思わない。捨てられた乙女の父リゴレットが復讐しようとするが、娘は自分の命を捨ててまで公を愛し抜く。
そうとも知らず、公は、「風のなかの羽根のように/いつも変わる/女ごころ」とお気楽に歌っている。

ユゴーは王の女遊びを道徳的に許しがたかったらしい。ただ、このような自由なフランス宮廷スタイルは、いかにも、フランス人らしく、フランソワ1世の今に至る人気の高さも理解できよう。

クルーエの『フランソワ一世肖像』


クルーエ(1485/90頃~1541頃)が描いた『フランソワ一世肖像』を見てみよう。
これは30代の王の姿である。「狐の鼻」と言われた大きな鼻が特徴である。細面(ほそおもて)のノーブルな顔立ちだが、抜きん出た魅力は感じられないが、繊細な美しい手が官能的であると中野氏は評している。

内面性に乏しい肖像画だが、最新流行の豪奢な衣装はみごとに表現されており、フランソワ1世のファッションセンスの良さが証明されていると中野氏は注目している。
ヘンリー8世やカール5世に比べて着こなしも格段に粋だという。
中野氏は、このフランソワ1世の衣装について、詳細に解説している。
例えば、次のように記している。
「金糸で刺繍したサテンの上衣には、胸元にも袖にもたくさんのスラッシュ(切れ込み)が入っており、その楕円形の切り口からは中の白いリネンの下着をふんわり出して装飾にしている。このスラッシュは、もともとは傭兵たちが戦場で腕を動かしやすいようにと布に切れ目を入れたことから始まったと言われる(現在のような伸縮性のよい布は無かった)。それがこうして素晴らしく装飾へ転じたのだから面白い。
イタリアに憧れたフランソワ1世が、いつしかヨーロッパのファッションリーダーになったのがわかる。」(52頁)

中野氏自身、ファッションに対して、特に関心が強いためか、この本の中で、絵画に描かれたファッションに関する叙述は、詳細で冴えを感じさせる。
例えば、縦縞模様の衣服について、西洋文化における縞模様はふつう隷属や不名誉の印として、身分の低い従者などが身につけるとされたが、断続的に縦縞だけが、高貴な模様とみなされた。また手袋は、国王が授ける狩猟権や貨幣鋳造権の象徴とされており、片方の手袋をにぎった王の肖像画は多いと指摘している。

ルイ14世



ブルボン朝3代目ルイ14世(1638~1715)~太陽王として君臨した
 リゴー『ルイ14世肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階
フランソワ1世から百年ほど経ち、7人の王が入れかわり、王朝もヴァロア家からブルボン家に代わり、ルイ14世にいたり、絶対王政は確立する。
若き日に太陽神アポロンに扮して踊ったところから、「太陽王」の異名をたてまつられた。「朕は国家なり」、国とは自分を指すのだと豪語したと伝えられる。ルイ14世の代でようやくフランス人はスペインを凌駕し、ヨーロッパ最強国になった。

リゴー(1659~1743)が描くルイ太陽王は、この時63歳である。ルイ14世の時代は男性ファッションが女性のそれを上回った時代で、鬘(かつら)とハイヒールの時代だったそうだ。儀式用マント(青ビロード地に百合の花を散らした表現、裏地は白テンの毛皮)をはおっているため、中の衣服に付けている宝石などまで見えないが、ただ豪華を誇示し、趣味が悪いと中野氏は評している。フランソワ1世の粋はもはやどこにもないという。

ヴェルサイユ宮殿の途方もない豪奢は、ルイ14世にして初めて可能だったようだ。ヴェルサイユはヨーロッパ宮殿の模範となり、各国の王侯貴族たちはルイ太陽王に憧れた。
それでもフランスはなおまだイタリアに憧れ続けた。ルイ14世が創設した国家芸術振興のための奨学金付き褒賞は「ローマ賞」と呼ばれ、受賞者はイタリアに留学できた。この賞は20世紀後半まで存続した(アメリカ人はフランスに憧れ、フランス人はイタリアに憧れ、イタリア人はギリシャに憧れた)。
(中野、2016年[2017年版]、41頁~56頁)