≪丸谷才一と向井敏の『文章読本』≫
(2021年5月22日)
今回のブログでは、丸谷才一と向井敏の『文章読本』について紹介してみたい。とりわけ、漢字や漢文に焦点をしぼって、その内容を解説してみたい。
【丸谷才一の『文章読本』はこちらから】


文章読本 (中公文庫)
【向井敏の『文章読本』はこちらから】

文章読本
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
丸谷才一は、漢字と漢文について、面白いことを述べている。丸谷は、文章上達の入門書の傑作として、谷崎潤一郎の『文章読本』とともに、荻生徂徠の『経子史要覧』を挙げ、伊藤仁斎を攻撃するくだりを引用した後で、次のように述べている。
「徂徠がかういふ仮名まじり文を書くことができたのはまづ何よりも漢文のおかげである。とすればわれわれもまた、徂徠の万分の一程度であらうと漢籍を読まなければならぬ。いや、のぞかなければならぬ。『伊勢』『源氏』にはじまる和文系のものにつきあふことも大事だが、漢文系のものを読むのは現代日本人にとつてそれ以上に必要だらう。簡潔と明晰を学ぶにはそれが最上の手段だからである。
ニーチェは、文筆家は外国語を学んではいけない、母国語の感覚が鈍くなるからと教へたといふ。例によつて厭になるくらゐ鋭い意見だ―別に従ふ必要はないし、従はないほうがいいけれども。森鷗外とドイツ語、夏目漱石と英語のことをちらりと思ひ出しただけで、話はすむのだけれど。そしてこの場合、幸ひなことに漢文は外国語ではない。母国語である。第一、日本語は漢字と漢文によつて育つたので、今さらこの要素を除き去るならば、われわれの言語は風化するしかない。また、ニーチェの念頭にあつたのはたぶんフランス語で、ギリシア語やラテン語は外国語にはいつてゐないはずだ。われわれにとつてそのギリシア・ラテンに当るのが漢文だと見立てれば、漢文の擁護はもうそれだけできれいに成立する。」(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、38頁)。
徂徠が名文を書けたのは、漢文の素養があったからである。現代日本人も、簡潔と明晰を学ぶためには、漢文系のものを読む必要があると丸谷は主張している。
ニーチェが文筆家は母国語の感覚が鈍くなるから、外国語を学んではいけないと教えたのは、鋭い意見ではあるが、森鷗外とドイツ語、夏目漱石と英語のことを想起すれば、ニーチェの助言には従わない方がよいとする。日本語は漢字と漢文によって育ったのであるから、これらを除き去ることは、日本語の風化につながるという理由で、丸谷は漢文擁護論の立場であることがわかる。日本語と漢字・漢文について考える際に、大いに示唆を得られる。
文書上達の秘訣はただ一つ名文を読むことであると丸谷才一は言った。丸谷才一は『文章読本』で「作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに盡きる。」と述べた。また、森鷗外は年少の文学志望者に文章上達法を問われて、ただひとこと、『春秋左氏伝』を繰り返し読めと答えたといわれる。『春秋左氏伝』を熟読したがゆえに鷗外の文体はあり得たそうだ。われわれは文章を伝統によって学ぶから、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能にほかならないと丸谷は言っている(丸谷、1977年、20頁~21頁)。
ただ、辞書で覚えただけの言葉を使ってはならず、馴染みの深い言葉を使うのがよいと丸谷はいう。各人の心のなかにある一つ一つの語の歴史が深ければ、よいという。しかし、この根本的な文章論に反して、時として文章の名人である作家といえども、あやまちを犯す場合もある。その例として、川端康成の『名人』の一節を引用している。その中で「高貴の少女の叡智と哀憐」と記すが、丸谷にはこの「叡智」も「哀憐」も、背後にいささかの歴史も持たない薄っぺらな言葉のように見えるし、そして「泥臭い悪趣味、単なる嘘つ八のやうに感じられる」と酷評している。その理由について次のように説明している。
「こんなことになつたのは、一つには、二字の熟語を四つもべたべたつづける不用意、ないし耳の悪さのせいもあらう。が、大和ことばや日常語的な漢語のときはこの種の不用意をほとんど見せず、かなり耳のいい川端なのに、日常語的ではない大げさな意味の漢語となると、どうして変な具合に取り乱すのか。これはわたしに言はせれば、「叡智」も「哀憐」も彼が日ごろ親しんでゐない言葉だからで、その浅い関係にもかかはらず強引にはめこんで用を足さうとするとき、語彙は筆者に対してかういふたちの悪い復讐をおこなふのだ。」としている(丸谷、1977年、133頁~134頁)。
さて、現代日本の文章は、漢字と片仮名と平仮名、この三種類の文字を取り混ぜて書き記すのを通例とする。場合によってはローマ字まではいるから、厄介なことこの上ない。普通のヨーロッパの言語なら、ローマ字だけ、中国語なら漢字だけで、国語の表記という点では、単純である。日本語の表記がややこしいのは、日本文化史の複雑さの正当な反映である。
丸谷はこう指摘した上で、普通なら漢字を当てるところを平仮名をたくさん用いる谷崎潤一郎の『盲目物語』の一節を引用して、日本語の視覚的な効果について考察している。この平仮名の多用により、読者は谷崎の小説をすらすら読むことができず、自ずから盲人の訥々(とつとつ)たる語り口をじかに聞くような効果があるのだといい、谷崎の技巧を絶賛している(丸谷、1977年、256頁~257頁)。
そして、日本語の文章と日本人の思考について、丸谷は面白いことを述べている。
日本語の文章は本来、ぞろぞろと後につづいてゆく構造のもので、そのため句読点がどうもつけにくい。平安朝の文章には句読点がなく、今日読まれている『源氏物語』や『枕草子』にそれがついているのは、後世の学者の親切ないし老婆心のおかげであるという。
日本語の文章に句読点がつけにくい性癖があるのは、日本人の思考の型と関係がある。つまり、日本人の思考は並列的で、さながら絵巻物のように、さまざまの要素を横へ横へとべたべたと付け加えていく型であるという。それは、何でも取り入れて、いろいろのものを包みこんでしまう思考の型で、まるで風呂敷のようである。この態度は、あらゆるものを神様にして、敬意を表するあたり、つまり多神教的思考に最もよくあらわれていると述べている(丸谷、1977年、283頁~284頁)。
日本語の文章の綴り方、句読点の付け方から、日本人の思考様式の特徴を考え、日本人の多神教的精神にまで、言及している点は、丸谷の見識の鋭さを物語るものであろう。
丸谷才一によれば、一般に達意の文章と評されるものは、細微なことや精妙なことは避け、あるいは頭から諦め、大ざっぱなことを一わたり書いて、それでお茶を濁しているものだが、これに反して名文は、林達夫の『「旅順陥落」』のように、あれこれとこみいった微妙なことをあっさり言ってのけるのであるという(丸谷、1977年、76頁)。
漢字の習得に、小中学生の学習負担の軽減が漢字制限論者や撤廃論者の十八番(おはこ)である。
井上ひさしはこの点に反対で、日本語の、重要な部分をなしている漢字だからこそ、貴重な時間をこれの学習にあてるべきだとの立場をとっている。漢字制限論者の理屈は逆立ちしていると主張している。そして漢字は数も多く複雑だといわれるが、その総数は5万もない。この5万という数字は、中国の『康煕字典』(清朝時代に編まれた42巻の漢字の字書)の親文字数40,545字と、諸橋轍次の『大漢和辞典』の親文字数48,902字を踏まえている。さらに私達は5万の文字をすべて使うわけではなく、その10分の1、たかだか5千字である。ちなみに『古事記』に用いられている漢字は1500字余、『万葉集』で2500字余である。だから5千字を読み書きできれば、たいへんなもので、3千字でも充分に間に合うというのが井上ひさしの主張である(井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫、1984年[1994年版]、98頁)。
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私家版 日本語文法 (新潮文庫)
小林秀雄は、晩年の大著『本居宣長』の中で、日本にもたらされた文字である漢字について想像をめぐらしている。すなわち、
「わが国の歴史は、国語の内部から文字が生れて来るのを、待ってはくれず、帰化人に託して、外部から漢字をもたらした。歴史は、言ってみれば、日本語を漢字で書くという、出来ない相談を持込んだわけだが、そういう反省は事後の事で、先ずそういう事件の新しさが、人々を圧倒したであろう。もたらされたものが、漢字である事をはっきり知るよりも、先ず、初めて見る文字というものに驚いたであろう。書く為の道具を渡されたものは、道具のくわしい吟味は後まわしにして、何はともあれ、自家用としてこれを使ってみたであろう。」(小林秀雄『本居宣長』新潮社、1977年、330頁。新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社、2007年、227頁~228頁)。
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本居宣長(上) (新潮文庫)
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本居宣長
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人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)
「漢語に固有な道具としての漢字」と小林が表現しているが、古代人がそうであったように、「書く為の道具」として漢字をみている。
ただ、後述するように、わが国第一の批評家の小林秀雄といえども、漢字をいわゆる“美の対象”としては見ていなかったことに気づく。つまり、小林といえども、書ないし漢字の美しさ、あるいは書の歴史については教えてくれないのである。
ところで、『古事記』について、小林は、宣長の見解を紹介している。
「口誦(こうしょう)のうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて漢字の格(サマ)に書かれると、変質して死んで了(しま)うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか。
この日本語に関する、日本人の最初の反省が「古事記」を書かせた。日本の歴史は、外国文明の模倣によって始まったのではない、模倣の意味を問い、その答えを見附けたところに始まった、「古事記」はそれを証している、言ってみれば、宣長はそう見ていた」(新潮社編、2007年、229頁)。
現代日本語の文章語の成立に、小説家の貢献がいかに大きかったかについては、丸谷才一の名著『文章読本』に記している。
「つまり現代日本文においては、伝統的な日本語と欧米脈との折り合ひをつける技術がとりあへず要求されてゐるわけだが、それが最も上手なのはどうやら小説家であつたらしい。宗教家でも政治家でもなかつた。学者でも批評家でもなかつた。歴史家でも詩人でもなかつた。小説家がいちばんの名文家なのである。当然のことだ。われわれの文体、つまり口語体なるものを創造したのは小説家だつたし、それを育てあげたのもまた小説家なのだから。」(丸谷、1977年、17頁)。
つまり「明治維新以後の小説家たちの最高の業績は、近代日本に対して口語体を提供したことであつた」(丸谷、1977年、18頁)。
そして野口武彦は、この丸谷才一の指摘を受けて、日本の言語文化史上、小説の言葉が日本語の創造的改革に貢献したことは、3度あったと理解している。
①10世紀と11世紀の変わり目、平安時代の中頃
②17世紀の終わり頃、江戸時代の元禄年間
③明治時代
これらの時期はいずれも日本語の言語史上の一種の危機の時代であった。つまり日本語の発音、語彙、用言の活用、語の意義変遷など、移り変わりのテンポがかなり早い時代であった。そして話し言葉(口語)と書き言葉(文章語)の違いが極端にひろがり、才能ある人々が言いたいことは言いえても、言いたいことは書けないという言語の危機を感じとっていた時代であったというのである。
例えば、11世紀のはじめに、『源氏物語』が出現しなかったら、当時の貴族社会の日常の話し言葉をもとにして、こまやかな情感や人間心理、思惟のひだまで、表現できたかは疑問であろう。というのは、この時代までは、宮廷の公文書はもとより、政治上の意見、男性貴族の日記、あらたまった手紙などはすべて漢文で記されていた時代であったからである(野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社、1980年、16頁~18頁)。
【野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社はこちらから】

日本語の世界 13 小説の日本語
日本では、古くから言葉のはたらきは植物の比喩で語られることが多かったようだ。たとえば、『古今和歌集』の「仮名序」では、「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける」と記している。また「ことば」とはもともと「言端(ことは)」であり、いまだ「事」と「言」とが意識の上で未分化であった時代に、言語表現の片端(かたはし)にあらわれたものを意味していたといわれる。葉もまた植物の片端であり、その比喩は、古い時代から「言葉」という漢字表記に定着している(野口、1980年、90頁)。
「文章のおしゃれ」という点では、推理小説家のレイモンド・チャンドラー(1888~1959)のように、アメリカの小説のおしゃれな会話や言葉遊びが多く見られる。それに対して、日本の現代文学ではまれであると向井敏は指摘している。
その最大の理由として、日本における文体上のリアリズム信仰を挙げている。
日本では、人間と社会の現実を現実のままに写し取ることをよしとして、細部の描写や会話の文体に関してはリアリズム信仰が広く強く根を張り、純文学系では私小説風の、大衆文学系では三面記事風の、現実に密着した話法が重んじられた。
だから、一般的に、スマートな言い回しや、機知に富んだ会話はそらぞらしいとして、避けられたというのである。こうしたリアリズム信仰は作家の中上健次にも見られ、明治の終わりから大正の初め頃の自然主義文学の再来を思わせるような窒息的な文体を好んで書く人もいる。ただ、村上春樹は、こうしたリアリズム信仰を軽く蹴とばして、しなやかな整った文体を持って登場してきた作家であるという。その小説の登場人物は、映画の名せりふにもひけをとらない気のきいた会話をかわし、しゃれたせりふを口にするとみる(向井敏『文章読本』文春文庫、1991年、182頁~187頁)。
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文章読本
元来、漢文脈は錯綜した状況を簡潔にかつ語調なめらかに集約して伝えるに長じた語法であるといわれる。
例えば、幕末以来の漢学者の家系に連なる人、中島敦の代表作『李陵』は、高々とした気品のある不壊(ふえ)の名文章として、向井敏は理解している。そこには「凛として勁直(けいちょく)な言葉の響き」があるという。
ただ、漢文脈の欠点として、日常的な情景を描くのに不得手である点が挙げられる。つまり日常の些事をつぶさに伝えるには言葉の柄(がら)が大きすぎて、語調がなめらかすぎて、とかく大げさで様式的な表現になりやすい。この点でも、中島敦は、この漢文脈の性癖を逆手にとって、平淡な口語体の散文のなかに屹立的な漢語脈の語法を意識的に織りこみ、平穏無事な日常的情景の描写にくっきりした目鼻立ちを与えたと評価している。その作例として、孔子の高弟子路の行状を題材とした『弟子』を挙げている(向井、1991年、154頁~159頁、167頁~168頁)。
(2021年5月22日)
【はじめに】
今回のブログでは、丸谷才一と向井敏の『文章読本』について紹介してみたい。とりわけ、漢字や漢文に焦点をしぼって、その内容を解説してみたい。
【丸谷才一の『文章読本』はこちらから】
文章読本 (中公文庫)
【向井敏の『文章読本』はこちらから】
文章読本
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・漢字と漢文について
・漢字の数について
・日本語と小説家の役割
・漢字に関する小林秀雄の見識
・向井敏の『文章読本』について
・漢文脈について
漢字と漢文について
丸谷才一は、漢字と漢文について、面白いことを述べている。丸谷は、文章上達の入門書の傑作として、谷崎潤一郎の『文章読本』とともに、荻生徂徠の『経子史要覧』を挙げ、伊藤仁斎を攻撃するくだりを引用した後で、次のように述べている。
「徂徠がかういふ仮名まじり文を書くことができたのはまづ何よりも漢文のおかげである。とすればわれわれもまた、徂徠の万分の一程度であらうと漢籍を読まなければならぬ。いや、のぞかなければならぬ。『伊勢』『源氏』にはじまる和文系のものにつきあふことも大事だが、漢文系のものを読むのは現代日本人にとつてそれ以上に必要だらう。簡潔と明晰を学ぶにはそれが最上の手段だからである。
ニーチェは、文筆家は外国語を学んではいけない、母国語の感覚が鈍くなるからと教へたといふ。例によつて厭になるくらゐ鋭い意見だ―別に従ふ必要はないし、従はないほうがいいけれども。森鷗外とドイツ語、夏目漱石と英語のことをちらりと思ひ出しただけで、話はすむのだけれど。そしてこの場合、幸ひなことに漢文は外国語ではない。母国語である。第一、日本語は漢字と漢文によつて育つたので、今さらこの要素を除き去るならば、われわれの言語は風化するしかない。また、ニーチェの念頭にあつたのはたぶんフランス語で、ギリシア語やラテン語は外国語にはいつてゐないはずだ。われわれにとつてそのギリシア・ラテンに当るのが漢文だと見立てれば、漢文の擁護はもうそれだけできれいに成立する。」(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、38頁)。
徂徠が名文を書けたのは、漢文の素養があったからである。現代日本人も、簡潔と明晰を学ぶためには、漢文系のものを読む必要があると丸谷は主張している。
ニーチェが文筆家は母国語の感覚が鈍くなるから、外国語を学んではいけないと教えたのは、鋭い意見ではあるが、森鷗外とドイツ語、夏目漱石と英語のことを想起すれば、ニーチェの助言には従わない方がよいとする。日本語は漢字と漢文によって育ったのであるから、これらを除き去ることは、日本語の風化につながるという理由で、丸谷は漢文擁護論の立場であることがわかる。日本語と漢字・漢文について考える際に、大いに示唆を得られる。
文書上達の秘訣はただ一つ名文を読むことであると丸谷才一は言った。丸谷才一は『文章読本』で「作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに盡きる。」と述べた。また、森鷗外は年少の文学志望者に文章上達法を問われて、ただひとこと、『春秋左氏伝』を繰り返し読めと答えたといわれる。『春秋左氏伝』を熟読したがゆえに鷗外の文体はあり得たそうだ。われわれは文章を伝統によって学ぶから、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能にほかならないと丸谷は言っている(丸谷、1977年、20頁~21頁)。
ただ、辞書で覚えただけの言葉を使ってはならず、馴染みの深い言葉を使うのがよいと丸谷はいう。各人の心のなかにある一つ一つの語の歴史が深ければ、よいという。しかし、この根本的な文章論に反して、時として文章の名人である作家といえども、あやまちを犯す場合もある。その例として、川端康成の『名人』の一節を引用している。その中で「高貴の少女の叡智と哀憐」と記すが、丸谷にはこの「叡智」も「哀憐」も、背後にいささかの歴史も持たない薄っぺらな言葉のように見えるし、そして「泥臭い悪趣味、単なる嘘つ八のやうに感じられる」と酷評している。その理由について次のように説明している。
「こんなことになつたのは、一つには、二字の熟語を四つもべたべたつづける不用意、ないし耳の悪さのせいもあらう。が、大和ことばや日常語的な漢語のときはこの種の不用意をほとんど見せず、かなり耳のいい川端なのに、日常語的ではない大げさな意味の漢語となると、どうして変な具合に取り乱すのか。これはわたしに言はせれば、「叡智」も「哀憐」も彼が日ごろ親しんでゐない言葉だからで、その浅い関係にもかかはらず強引にはめこんで用を足さうとするとき、語彙は筆者に対してかういふたちの悪い復讐をおこなふのだ。」としている(丸谷、1977年、133頁~134頁)。
さて、現代日本の文章は、漢字と片仮名と平仮名、この三種類の文字を取り混ぜて書き記すのを通例とする。場合によってはローマ字まではいるから、厄介なことこの上ない。普通のヨーロッパの言語なら、ローマ字だけ、中国語なら漢字だけで、国語の表記という点では、単純である。日本語の表記がややこしいのは、日本文化史の複雑さの正当な反映である。
丸谷はこう指摘した上で、普通なら漢字を当てるところを平仮名をたくさん用いる谷崎潤一郎の『盲目物語』の一節を引用して、日本語の視覚的な効果について考察している。この平仮名の多用により、読者は谷崎の小説をすらすら読むことができず、自ずから盲人の訥々(とつとつ)たる語り口をじかに聞くような効果があるのだといい、谷崎の技巧を絶賛している(丸谷、1977年、256頁~257頁)。
そして、日本語の文章と日本人の思考について、丸谷は面白いことを述べている。
日本語の文章は本来、ぞろぞろと後につづいてゆく構造のもので、そのため句読点がどうもつけにくい。平安朝の文章には句読点がなく、今日読まれている『源氏物語』や『枕草子』にそれがついているのは、後世の学者の親切ないし老婆心のおかげであるという。
日本語の文章に句読点がつけにくい性癖があるのは、日本人の思考の型と関係がある。つまり、日本人の思考は並列的で、さながら絵巻物のように、さまざまの要素を横へ横へとべたべたと付け加えていく型であるという。それは、何でも取り入れて、いろいろのものを包みこんでしまう思考の型で、まるで風呂敷のようである。この態度は、あらゆるものを神様にして、敬意を表するあたり、つまり多神教的思考に最もよくあらわれていると述べている(丸谷、1977年、283頁~284頁)。
日本語の文章の綴り方、句読点の付け方から、日本人の思考様式の特徴を考え、日本人の多神教的精神にまで、言及している点は、丸谷の見識の鋭さを物語るものであろう。
丸谷才一によれば、一般に達意の文章と評されるものは、細微なことや精妙なことは避け、あるいは頭から諦め、大ざっぱなことを一わたり書いて、それでお茶を濁しているものだが、これに反して名文は、林達夫の『「旅順陥落」』のように、あれこれとこみいった微妙なことをあっさり言ってのけるのであるという(丸谷、1977年、76頁)。
漢字の数について
漢字の習得に、小中学生の学習負担の軽減が漢字制限論者や撤廃論者の十八番(おはこ)である。
井上ひさしはこの点に反対で、日本語の、重要な部分をなしている漢字だからこそ、貴重な時間をこれの学習にあてるべきだとの立場をとっている。漢字制限論者の理屈は逆立ちしていると主張している。そして漢字は数も多く複雑だといわれるが、その総数は5万もない。この5万という数字は、中国の『康煕字典』(清朝時代に編まれた42巻の漢字の字書)の親文字数40,545字と、諸橋轍次の『大漢和辞典』の親文字数48,902字を踏まえている。さらに私達は5万の文字をすべて使うわけではなく、その10分の1、たかだか5千字である。ちなみに『古事記』に用いられている漢字は1500字余、『万葉集』で2500字余である。だから5千字を読み書きできれば、たいへんなもので、3千字でも充分に間に合うというのが井上ひさしの主張である(井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫、1984年[1994年版]、98頁)。
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私家版 日本語文法 (新潮文庫)
漢字に関する小林秀雄の見識
小林秀雄は、晩年の大著『本居宣長』の中で、日本にもたらされた文字である漢字について想像をめぐらしている。すなわち、
「わが国の歴史は、国語の内部から文字が生れて来るのを、待ってはくれず、帰化人に託して、外部から漢字をもたらした。歴史は、言ってみれば、日本語を漢字で書くという、出来ない相談を持込んだわけだが、そういう反省は事後の事で、先ずそういう事件の新しさが、人々を圧倒したであろう。もたらされたものが、漢字である事をはっきり知るよりも、先ず、初めて見る文字というものに驚いたであろう。書く為の道具を渡されたものは、道具のくわしい吟味は後まわしにして、何はともあれ、自家用としてこれを使ってみたであろう。」(小林秀雄『本居宣長』新潮社、1977年、330頁。新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社、2007年、227頁~228頁)。
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本居宣長(上) (新潮文庫)
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本居宣長
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人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)
「漢語に固有な道具としての漢字」と小林が表現しているが、古代人がそうであったように、「書く為の道具」として漢字をみている。
ただ、後述するように、わが国第一の批評家の小林秀雄といえども、漢字をいわゆる“美の対象”としては見ていなかったことに気づく。つまり、小林といえども、書ないし漢字の美しさ、あるいは書の歴史については教えてくれないのである。
ところで、『古事記』について、小林は、宣長の見解を紹介している。
「口誦(こうしょう)のうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて漢字の格(サマ)に書かれると、変質して死んで了(しま)うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか。
この日本語に関する、日本人の最初の反省が「古事記」を書かせた。日本の歴史は、外国文明の模倣によって始まったのではない、模倣の意味を問い、その答えを見附けたところに始まった、「古事記」はそれを証している、言ってみれば、宣長はそう見ていた」(新潮社編、2007年、229頁)。
日本語と小説家の役割
現代日本語の文章語の成立に、小説家の貢献がいかに大きかったかについては、丸谷才一の名著『文章読本』に記している。
「つまり現代日本文においては、伝統的な日本語と欧米脈との折り合ひをつける技術がとりあへず要求されてゐるわけだが、それが最も上手なのはどうやら小説家であつたらしい。宗教家でも政治家でもなかつた。学者でも批評家でもなかつた。歴史家でも詩人でもなかつた。小説家がいちばんの名文家なのである。当然のことだ。われわれの文体、つまり口語体なるものを創造したのは小説家だつたし、それを育てあげたのもまた小説家なのだから。」(丸谷、1977年、17頁)。
つまり「明治維新以後の小説家たちの最高の業績は、近代日本に対して口語体を提供したことであつた」(丸谷、1977年、18頁)。
そして野口武彦は、この丸谷才一の指摘を受けて、日本の言語文化史上、小説の言葉が日本語の創造的改革に貢献したことは、3度あったと理解している。
①10世紀と11世紀の変わり目、平安時代の中頃
②17世紀の終わり頃、江戸時代の元禄年間
③明治時代
これらの時期はいずれも日本語の言語史上の一種の危機の時代であった。つまり日本語の発音、語彙、用言の活用、語の意義変遷など、移り変わりのテンポがかなり早い時代であった。そして話し言葉(口語)と書き言葉(文章語)の違いが極端にひろがり、才能ある人々が言いたいことは言いえても、言いたいことは書けないという言語の危機を感じとっていた時代であったというのである。
例えば、11世紀のはじめに、『源氏物語』が出現しなかったら、当時の貴族社会の日常の話し言葉をもとにして、こまやかな情感や人間心理、思惟のひだまで、表現できたかは疑問であろう。というのは、この時代までは、宮廷の公文書はもとより、政治上の意見、男性貴族の日記、あらたまった手紙などはすべて漢文で記されていた時代であったからである(野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社、1980年、16頁~18頁)。
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日本語の世界 13 小説の日本語
日本では、古くから言葉のはたらきは植物の比喩で語られることが多かったようだ。たとえば、『古今和歌集』の「仮名序」では、「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける」と記している。また「ことば」とはもともと「言端(ことは)」であり、いまだ「事」と「言」とが意識の上で未分化であった時代に、言語表現の片端(かたはし)にあらわれたものを意味していたといわれる。葉もまた植物の片端であり、その比喩は、古い時代から「言葉」という漢字表記に定着している(野口、1980年、90頁)。
向井敏の『文章読本』について
「文章のおしゃれ」という点では、推理小説家のレイモンド・チャンドラー(1888~1959)のように、アメリカの小説のおしゃれな会話や言葉遊びが多く見られる。それに対して、日本の現代文学ではまれであると向井敏は指摘している。
その最大の理由として、日本における文体上のリアリズム信仰を挙げている。
日本では、人間と社会の現実を現実のままに写し取ることをよしとして、細部の描写や会話の文体に関してはリアリズム信仰が広く強く根を張り、純文学系では私小説風の、大衆文学系では三面記事風の、現実に密着した話法が重んじられた。
だから、一般的に、スマートな言い回しや、機知に富んだ会話はそらぞらしいとして、避けられたというのである。こうしたリアリズム信仰は作家の中上健次にも見られ、明治の終わりから大正の初め頃の自然主義文学の再来を思わせるような窒息的な文体を好んで書く人もいる。ただ、村上春樹は、こうしたリアリズム信仰を軽く蹴とばして、しなやかな整った文体を持って登場してきた作家であるという。その小説の登場人物は、映画の名せりふにもひけをとらない気のきいた会話をかわし、しゃれたせりふを口にするとみる(向井敏『文章読本』文春文庫、1991年、182頁~187頁)。
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文章読本
漢文脈について
元来、漢文脈は錯綜した状況を簡潔にかつ語調なめらかに集約して伝えるに長じた語法であるといわれる。
例えば、幕末以来の漢学者の家系に連なる人、中島敦の代表作『李陵』は、高々とした気品のある不壊(ふえ)の名文章として、向井敏は理解している。そこには「凛として勁直(けいちょく)な言葉の響き」があるという。
ただ、漢文脈の欠点として、日常的な情景を描くのに不得手である点が挙げられる。つまり日常の些事をつぶさに伝えるには言葉の柄(がら)が大きすぎて、語調がなめらかすぎて、とかく大げさで様式的な表現になりやすい。この点でも、中島敦は、この漢文脈の性癖を逆手にとって、平淡な口語体の散文のなかに屹立的な漢語脈の語法を意識的に織りこみ、平穏無事な日常的情景の描写にくっきりした目鼻立ちを与えたと評価している。その作例として、孔子の高弟子路の行状を題材とした『弟子』を挙げている(向井、1991年、154頁~159頁、167頁~168頁)。
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