らびおがゆく Vol.3

山形県を中心とした演奏活動等

松山藩及び築城の沿革

2013年04月30日 23時59分16秒 | 歴史探訪(山形県内)
 山形Q 第7回庄内定期演奏会の翌日もまた酒田市に行きました。午前午後の音楽鑑賞教室のためでした。

 午後は、旧松山町の中学校での開催で、今年度で統合が決まっているのでこの場所での演奏は最後になりました。毎年のようにゴールデンウィーク前後に行っているので、松山町を訪れるときはちょうど桜の季節なのです。

 少し時間があったので、近くの松山城跡を見に行きました。

 案内板にはこうあります。
「中世この地方一帯を遊佐郡平田郷中山地方と称す。江戸期初頭荘内藩主酒井忠勝公の遺命により第三子酒井忠恒公に荘内の所領の中中山村外三十五ヶ村及び村山郡の中左澤地方七十四ヶ村併せて知行二万石を与え中山に分封せんことを幕府に出願す。正保四年(1647年)十二月十一日其の許可を得たり。依って寛文元年(1661年)中山地内稲荷沢古舘の跡を選び此処のに舘を構築し中山陣所と公称し政庁を開く。よく二年忠恒公家臣団と倶に鶴ヶ岡より移住し鶴ヶ岡亀ヶ崎に因み中山を松山に改め以後松山藩と公称す。 超えて第三代藩主酒井石見守忠休公幕閣に列し若年寄の住職を歴任す。安永八年(1779年)十二月十五日幕府忠休公永年の勤功を嘉し上州の地桐生地方五千石を加増し城主を命じ松山に築城を許可す。以後松山藩二万五千石の表高となる。 依って宗藩鶴ヶ岡の軍師長坂十太夫正逸為に築城の縄張を行い執政上野織右ェ門安邦を総奉行に任命し天明元年(1787年)九月に至り本丸仮御殿を落城し第一次の築城工事を終わる。 時巳に忠休公逝去し第四代忠崇公之に替る以来荘内松山城としてその偉容を近隣に誇り幕末に至る。 時に藩主第七代紀伊守忠良公たり世情まさに王政復古の動乱期に当たり慶應四年(1868年)の春以降宗藩と共に武門の誉れを守る。 明治元年(1868年)維新後宗藩鶴岡と共に官軍に抗した理由により時の政府に城地没収取り毀しの厳命を受け遂に全城郭を破却の止むなきに至りここにその当時の偉観を全く失うに至る。 実に創藩以来二百年余築城以来八十有余年に亘る松山藩の命運であった。」
  
 

 仕事がらみとはいえ、毎年楽しみにしていた桜はなかなか見られなくなりそうです。

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