尾形光琳は、1658(明暦4)年、京都の大呉服商・雁金屋の次男として生れている。
琳派の祖とされる、本阿弥光悦が、1558(永禄元)年の生まれ、だから、光琳と光悦の間には、100年の開きがあることになる。
琳派のもう一方の雄、俵屋宗達は、生没年不詳とされるが、光悦とは(ともに京都で活躍した)同時代人だから、光琳との年の差は、やはり、100年近くあるのだろう。
光琳の祖父は、光悦と親交があり、幼い時から、光悦や宗達の作品に囲まれて育ったという光琳の才能は、元禄バブルのなかで、花開く。
随分、放蕩な生活をしたらしい。
有名な「東山衣装競(ひがしやまいしょうくらべ)」の逸話などを残しつつ、しだいに、先祖伝来の財産を食い潰し、1704(元禄17)年、光琳46歳の秋、江戸に下る。
しかし、江戸の水は、光琳には、合わなかったのか、その後も、しばしば、京都に戻り、1709(宝永6)年、京都に戻ってから、1716(享保元)年に没するまで、京都を離れることはなかった。
尾形光琳も、また、京都をこよなく愛したアーティストといえる。