老後は京都で !

京都の町中(堺町六角)と東京(青山)を気ままに行き来する二地域居住を実践中。 

光る君へ 前編  NHK大河ドラマ・ガイド

2024年01月04日 | 平安時代の京都

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2 コメント

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Unknown (山城守)
2024-01-11 21:00:19
初回の藤原道兼の描き方はとても褒められたものではありません。
藤原道兼は弟や従者等に乱暴を働き、更には紫式部の母親を些細な事で殺害する粗暴狂癖の人物として描かれています。
しかし、『大鏡』をみると、それとは全く違う人物像が読み取れます。
以下、『大鏡』の当該部分を引用します。
「あはれなることは、おりおはしましける夜は藤壺の上の御局の小戸より出でさせ給ひけるに、有明の月のいみじく明かかりければ、「顕証にこそありけれ。いかがすべからむ。」と仰せられけるを、「さりとて、とまらせ給ふべきやう侍らず。神璽・宝剣わたり給ひぬるには。」と粟田殿の騒がし申し給ひけるは、まだ帝出でさせおはしまさざりける先に、手づからとりて、春宮の御方にわたし奉り給ひてければ、帰り入らせ給はむことはあるまじく思して、しか申させ給ひけるとぞ。さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月の顔にむら雲のかかりて、少し暗がりゆきければ、「わが出家は成就するなりけり。」と仰せられて、歩み出でさせ給ふほどに、弘徽殿の女御の御文の、日ごろ破り残して御身も放たず御覧じけるを思し召し出でて、「しばし。」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、粟田殿の、「いかにかくは思し召しならせおはしましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうで来なむ。」と、そら泣きし給ひけるは。(中略)花山寺におはしましつきて、御髪下ろさせ給ひて後にぞ、粟田殿は、「まかり出でて、大臣にも、変はらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、必ず参り侍らむ。」と申し給ひければ、「我をば謀るなりけり。」とてこそ泣かせ給ひけれ。あはれに悲しきことなりな。日ごろ、よく、「御弟子にて候はむ。」と契りて、すかし申し給ひけむがおそろしさよ。」
この「粟田殿」こそ藤原道兼です。
そして、この『大鏡』の記載からは花山天皇を出家させるために日頃から「御弟子にて候はむ。」(弟子としてお仕えします。)等と約束し、出家当日には噓泣きまでして目的を達成し、目的を達成したら日頃の約束など反故にするという、陰謀を確実に遂行する冷血漢という人物像が読み取れ、ドラマのような、何の目的もなく乱暴狼藉を働く人物とは程遠く、この点において大きな減点事由となります。
それ以外では紫式部が飼っていた鳥が紫式部あ籠を開けた途端逃げてしまうという、『源氏物語』で光源氏が若紫を垣間見た際の若紫の「雀の子こを犬君が逃がしつる、伏籠のうちに籠めたりつるものを。」という台詞を彷彿とさせる、視聴者をして、「これがかの源氏物語の有名な件の元になったのか。」と思わせる描写があり、その点は良かったです。
また、現段階で皇太子の花山天皇についても、場所柄を弁えない姦淫等を考えればさもありなんといった処でした。
道兼の人物像の描き方の粗雑さについてはNHKにFAXしようと思います。
返信する
Unknown (京カフェ)
2024-01-13 05:56:18
山城守 さま

貴重な情報ありがとうございました。
取り急ぎ御礼まで。
返信する

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