日曜日、少年野球の大会の時は、何人かの親がおにぎりと幾つかのおかずを作ってくれて試合の合間に食べた。その中でも、一番人気のおにぎり。梅干しが苦手だったので、中には胡瓜のキューちゃんが入っていた。パリパリの海苔が好きだったので、食べる時に海苔を巻いて食べた三角のおにぎり。大して上手くないので、活躍する所を見せる事はなかったけど、自慢のおにぎりをいつもありがとう。
この本を読むのは2回目です。
前回読んだ時よりも、登場人物の細かな描写までじっくり読めました。
言葉は、生まれ、去っていく。また、進化、変化し、時には大きな変貌を遂げる。しかし、辞書は、これらの流れに巻き込まれながら、正しく導いて行かなければならない。その作業は、ある意味浮世離れした人間にしか出来ないと思う。また、この烏合の集団を束ねる結束力、団結力の元にしか、完成しない。
切ない。ただ切ない。
何か間違えている。そう思いながら読み進める。
人を助ける制度を色々と備えているのは、良い国ではない。
例えば、大海の真ん中で溺れている人が居る。その人は、沈まないのに必死なのに、その人がレスキューを呼べるだろうか?
今日を必死で生きて、明日の事も分からないくらい憔悴仕切ってる人が役所に行くだろうか?近所付き合いの全く無いこのご時世、気付いてくれる人も居ない。
でも、僕は、人からいくらお節介だと言われても、おかしいな?って思ったら声を掛ける。それでいいと思う。
北海道が蝦夷と言われていた時代、日本人と言う概念はまだ無く、和人が侵略していく。そんな中、さらわれる形となってしまった、武家の姫。蝦夷の地を転々とする間に、武家の先住民に対するおよそ武士と思えぬ振る舞いを目の当たりにして、蝦夷側として、和人との架け橋とならんと奮闘する。その真っ直ぐな心に両者が打たれ、永遠の和睦を成す。
どうでしょうか?この先、歴史から観るにこの和睦は守られただろうか?
初めて納得のいく壺が焼き上がった主人公。しかし、その壺を手放してしまう。この青い壺が、様々な人の人生に寄り添いながら、でも、次々と手放されてしまう。日本からスペインへと渡り、そして、最後に作者の手に。
様々な人生を見つめ、戻って来た時には、まるで別物の様な値打ちになっていた。作った本人が名乗っても、信じて貰えないくらいに。