水早 -mizuha- 神社と写真と一人旅。

カメラ片手にゆるり神社めぐり。
公共機関&徒歩での日帰り参拝記録をメインに綴っています。

吉野山 紅葉ひとり旅②金峯山寺(再訪)

2018-12-12 | ├ 奈良(ひとり旅)

 

金峯山寺 再訪。

 

 

 

 

 

 

金峯山寺 仁王門前にとうちゃく。

まだまだ大修理の真っ最中ですね。

 

 

 

 

仁王門より。

 

 

 

 

本堂

 

 

 

しかし、落ち着くお寺だなあ。

個人的に大好きで、
すごく惹かれる場所です

 

 

何故こんなに惹かれるのか、この時は分からなかったのですが、
一週間後に訪れた京都の醍醐寺で感じたことが
たぶん答えのような気がします。

 

 

 

『神仏習合』、『山』、『桃山・室町建築』etcのキーワードが
神社めぐりに付いて回るようになって、
いつしか、自分が本能的に惹かれるものの大元がはっきりしてきました。

それが、ここに見え隠れする『修験道』です。

山伏だった御先祖さんは多分いないと思うけど、
潜在的な何かが、それに惹かれているのは間違いない。

そしてここも同様に、修験道の聖地です。

 

 

で、醍醐寺もそうで、
今回は三宝院や、下醍醐の加羅を訪れたんですけど
同じ修験の地なのにほんの少しだけ、
惹かれ具合が違う気がしたのね。

 

 

 

その理由を考えたとき、
もしかして私は、修験は修験でも
特に『天台宗』系の社寺に惹かれているのではないかと
ふと思ったのです。

 

 

 

思い返せば、

大瀧神社若狭神宮寺(福井)
大矢田神社洲原神社(岐阜)
熊野三山(和歌山)
戸隠(長野)
日吉大社(滋賀)
吉野(奈良)

・・・などなど、
やたら惹かれる場所は、みんな天台宗系だったしなぁ。

 

 

なわけで、
答えの明確化を期待しつつ、
来春あたりに比叡山延暦寺へ行ってまいります。

 

 

さらに、来夏こそ行くつもりの九州旅に、
さっそく国東半島の両子寺をプラス。

もちろん真言宗系も好きなので、
いずれ石川県の那谷寺へも行こうと思っています。
(しかも本堂が大好きな懸造だしー)

 

 

 

そうそう、京都の東寺で国宝の仏像群を前にして思ったことが一つ。

 

 

度々記事にしている、神社とお寺のこと。

今では別のものとして存在している二者ですが、
長きに渡り続いた“神仏習合
”という独特な結びつきがあります。

 

 

神と仏が混淆する時代に、
人々は神に日ごろの感謝をし、仏に救済を求めた。

あまつさえ、神々ですら仏に救いを求めているとされました。

習合の話は何度か書いたので詳細割愛するとして、
日本古来の神々と、渡来系の仏。
明治になるまでの1,000年以上もの間、
二つは両立しつつ混合されてきたけれど、
人々が、両者に求めるものの違いは一体何なんだろうって、
長らく疑問でした。

 

 

で、東寺の堂内で仏像群を見上げているうちに、
なんとなくその理由が明確になっていきました。

 

 

慈悲深さに溢れていようが、憤怒の表情であろうが、
物言わぬ仏像のすべてが、自分に語りかけてくるような気がするんですよね。

だからついつい、あれこれとお話したくなる。
話を聞いてほしくなる。

あーもしかして、昔の人もそんなだったのかなって、
ふと思いました。

 

仏像は、いわゆる偶像崇拝とはまた別の、
神仏と会話するための手段であり、
いわば窓口的なもの。

・・と割り切ってる自分ですら、ダイレクトに流れてくる意識に驚いたんで、
もっと純粋な目で神仏を見ていたであろう人々にとっては、
きっとなおさらのこと。

神を降ろす依り代である御神体も似たようなものだけど、
やはり、人の形をしてるかどうかって結構大きいと思うのよ。

 

 

神道の神は八百万(やおよろず)という言葉が表わすように、
自然界のあらゆる所にいらっしゃる抽象的なもので、
目には見えない。

人は山や川に向かい、日々の安寧を感謝し、
あるいは、神の怒りを鎮めようと日々祈る。

とても身近な存在だけど、
どちらかと言えば、想いは一方通行。
それゆえ遠くもある。

そもそも神を降ろすなんて誰もが行えることじゃないので、
救いを求めるにしても、一般人には容易ではない。

 

 

そこへ、海の向こうからやってきた仏教。

その教えもさることながら、
目の前に人の形をした偶像があるということは、
とても大きなことだったんじゃないかな。

もちろん、人の手による仏像も、仏そのものではないから、
像を通じ、あるいはそこに宿るであろう何かに向かって、
仏に話しかけるだけですが。

 

 

象徴となるものを通じて祈りつながろうとする行為は、
いずれも似たようなもの。

しかし少なくとも山や磐に向かって神に話しかけるより、
人の形をした仏像を通して救いを求めるほうが、
容易だったのではなかろうか。

実際に姿カタチが見えるのは大きいと思う。
イメージのし易さって大事よ。

死者や御先祖さんと話をするのに、
ただ空を仰ぐよりも、
仏壇やお墓に向かって手を合わせるほうが、
より気持ちが伝わる気がするし。

 

 

日々の暮らしのなかで、
自然の背後にいる神々へ向かい、その恩恵に感謝する。

そして悩みや苦しみを抱えた時に、
仏像を拝み、仏に救いを求める。

まさに分業。

そのどちらも大切だったからこそ、
日本古来の神さんと、渡来の仏さんをミックスさせてしまうという、
神仏習合なんて離れ技が成立したんじゃないのかな。

政治レベルの思惑は別として、
もしどちらかで事足りるなら、きっと習合なんてなかった。

 

神も仏も、心の中にいる。
その存在を信じ、
人生は常に修業の場なのだと心を強く持てば良い。

・・でもそれだけじゃどうにもならない時が人にはあって
いや、きっとそんな時のほうが多くて、
大半の人間は、悟りを開いた聖人のようには生きられない。

心が弱った時にすがりたくなる先は、
ヒトの形をした、目に見える具体的な存在なんだろう。

 

 

神仏習合という考えは、個人的には理解しがたい(したくない)んですが、
今回の事で、そんな土壌が生まれた理由がすこしだけ分かったような気がしました。

 

 

 

さて、金峯山寺記事の最後に、
こちらで頂いたお守りをご紹介。

 

 

こちらは「五嶽神鏡」といって、
裏面が鏡になっています。(授与料 3,000円)

金峯山寺と脳天大神でしか領布されていないお守り。

ご神鏡袋(授与料 800円)への収め方は授与時に教えてくださいますが、
基本、鏡面を外に向けて身につけます。

袋のサイズが、タテ11センチ、横7センチと結構大きめ。
鏡自体の重みもそこそこあるので、
身につけるといってもバッグに入れるしかないかな。

 

 

『この鏡を持つ者は、海、川、海を渡れば水神が之を守護し
山岳を超えれば山神之を守護し、
一切の悪獣の害なく、妖邪妖毒は怖れて敢えて近づかず』

とあるように、厄除け的な力の強いご神鏡です。

やって来た災厄を追っ払ってくれるというより、
降りかかる害をあらかじめ除去してくれる系。

実際、吉野旅のあと2週間の間に5回ほどそういう事があったので、
もうこれのお陰と思うようにしてる。

 

 

こっちは最多角(イラタカ)の桜腕輪念珠(授与料 5,000円)。

ご神木の桜で作られたもので、赤いのは瑪瑙です。

これもご神鏡と同じく、目にした瞬間に買わなくちゃと思ったものです。
パワーストーンとか念珠の類は、あまり好きじゃないので持ってませんが、これは別。

すごいなー。

鏡同様に、肌身離さず持ち歩いてる。

次回は翡翠バージョンも購入する予定です

 

 

その3へつづく。

 

 

 


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