水早 -mizuha- 神社と写真と一人旅。

カメラ片手にゆるり神社めぐり。
公共機関&徒歩での日帰り参拝記録をメインに綴っています。

長篠城址 <愛知県新城市長篠市場>

2021-08-14 | ├ 愛知(ひとり旅)

 

新城ラスト。

舟多神社から、長篠城址を目指します。

 

 

 

 

 

 

 

再び宇連川を渡り、

 

 

 

長篠城駅を通り過ぎ、

 

 

徒歩25分ほどで、とうちゃーく。

 

 

舟多神社から、距離にして2キロ弱です。

 

 

長篠城址

 

 

長篠の戦いで有名なところ。

 

 

たぶん5~6回は来てます(笑)

 

 

 

主な城主:菅沼氏、奥平氏

 

 

 

長篠の戦いとは、
天正3年5月21日(1575年6月29日)に起きた、
長篠城を巡る、織田/徳川連合軍 VS 武田軍 の戦いのことで、
決戦地が設楽原(設楽ヶ原)と有海原だったので、
長篠設楽原の戦いとも言われます。

結果は、織田/徳川軍の圧勝。

 

 

 

長篠城の攻城戦では、
武田軍1万5000に対し、長篠城の守備隊は、
わずか500人だったといいます。

 

 

長篠城は、寒狭川(豊川)と宇連川の交差する断崖上にある、
いわば自然の要塞。

大量の鉄砲や大鉄砲、そしてこの谷川に囲まれた地形のおかげで、
わずか500の手勢にもかかわらず、武田の猛攻を防いでいました。

 

 

やがて、
増える死傷者や兵糧不足などにより落城寸前となるものの、
鳥居強右衛門の命を賭した援軍要請に士気を高め、
織田3万+家康8千の援軍を受けて落城を免れました。

 

 

 

この、鳥居強右衛門という人物ですが、
長篠の戦においては、戦況を左右した
最重要人物といっても過言ではない方です。

 

 

落城寸前に追い込まれたとき、
城将奥平定昌は、危機的状況を打開すべく、
岡崎城の家康に援軍を求めることを決めます。

 

 

このとき、城から65キロ離れた岡崎城へ使者として送り出されたのが、
足軽の鳥居強右衛門でした。

 

 

5月14日の夜。

闇夜に紛れて城の不浄口から川へと脱出した強右衛門は、
武田軍の警備網をかいくぐって豊川を4キロほど泳いだのち、
雁峰山で「脱出成功」の狼煙を上げ一気に山道を走り抜けました。

 

 

15日の午後には無事に岡崎城にたどり着き、信長・家康に謁見。

 

 

そこで、翌日にも援軍が来る手筈になっていたことを知り、
ろくに休息も取らず長篠城へと引き返したと言います。

 

 

そして16日の早朝。

「援軍来る」の狼煙を再び雁峰山で上げますが、
長篠城まであと一歩のところで、武田軍に捕らえられてしまいました。

 

 

武田勝頼は、
「城内へ向かって、『援軍は来ないから降伏せよ』と叫べば、
命を助け恩賞を与える」と、取引を持ちかけます。

 

 

表向きはこれに応じた強右衛門ですが、
城前に連れてこられると、
「援軍がすぐそこまで来ているぞ」と叫んだのでした。

 

 

激怒した勝頼により、強右衛門は磔死。

 

 

しかしこの命を賭した行いにより、城兵たちは士気を奮い立たせ、
援軍到着までの2日間を戦い抜いたのだそうです。

 

 

 

実はもう一人。
地元出身で、土地勘と人脈をもつ鈴木金七郎が、
強右衛門とともに援軍要請の密使として送り出されたといわれます。

 

 

往復130kmの山道を、休む間もなくたった1日で走り通す。

道中、敵の間者に見つかることなくこれをやり遂げるには、
やはり、土地勘と人脈のある同行者の存在が不可欠ですよね・・。

 

 

鈴木金七郎は、援軍来るの狼煙を上げるところまでは一緒に行い、
その後、城へ帰還することは断念して最終的に帰農したとのこと。

 

 

 

表舞台に立たなかったから知らないだけで、
歴史を支え、左右した人たちは、
きっと大勢いたんだろうな。

 

 

城の仲間と大将のために、命をかける。

守るべきものがある人は、
何よりも強いんだなあと、改めて思いました。

 

 

 

せっかくなので、
以下に、周辺地図と訪問済みの社寺、
関連か所などを、いくつか挙げておきます。

全域となると、かなーり広いですけど、
ぜんぶ徒歩移動してるので、車じゃなくても制覇できます♪(たぶん)

(地図はクリックで拡大します)

石座神社 
松尾神社(岡崎信康 本陣) 
八釼神社(徳川家康 本陣)


勝楽寺

 


諏訪神社



馬防柵

 
弾正山断上山
家康物見塚 

 


信玄塚
 

 



(首洗池)

 



(佐久間信盛/馬場信房 陣地)

 



(甘利郷左衛門信康之碑)

 



(大宮前激戦地)

 



(土屋右衛門尉昌次 戦死地)

 



(武田勝頼 本陣)

 



(武田諸将訣盃跡地)

 



(石座神社)

 

 

 

 

医王寺 
長篠荏柄天神 
大通寺


岩倉神社

舟多神社

 

 

最後に、寒狭川の写真を。

敗走する武田勝頼は、この寒狭川を渡り、
田峯城で入場拒絶にあいながらも武節城へと逃れ、
信濃の高遠城へと後退したということです。

 

 

戦があったなんて想像もつかないほど、
今回訪れたどの場所にも穏やかな時間が流れておりました。

それでも、こうして川の流れを眺めていると、
不思議な気持ちになります。

 

 

たぶん1年に数回は訪れている新城。

先祖がらみを除いても、
大好きな場所です。

 

 

コロナが落ち着いたら、またガンガン遊びにいこう。

 

 

 

ルーツを辿る旅が、戦場めぐりになる事もしばしばだけど、
参拝とあわせて、これからもご先祖さんへのあいさつ回りを続けていくんで、
ご先祖さん、土地の神さん、よろしくねーー!