水早 -mizuha- 神社と写真と一人旅。

カメラ片手にゆるり神社めぐり。
公共機関&徒歩での日帰り参拝記録をメインに綴っています。

吉野山 紅葉ひとり旅③脳天大神龍王院-1

2018-12-19 | ├ 奈良(ひとり旅)

 

吉野つづき。

 

 

 

 

前回、時間の都合で行けなかった脳天大神さんへ。

 

 

蔵王堂の西にある階段を降ります。

 

 

 

見えてくるのは吉野朝宮跡妙法殿)。

 

 

 

このあたりは、京都を脱出した後醍醐天皇が
金峯山寺の塔頭・実城寺を行宮と定めて南朝の拠点とした所です。

 

 

その吉野行宮跡地に立つ妙法殿。

 

 

 

後醍醐天皇は、南朝樹立の3年後には崩御。

結局、ここに行宮が置かれたのは20年弱の間だそう。

 

 

なんか、春に吉野へ来たころから、
やたらと南朝が気になります。

来年早々、豊橋市の石巻神社&浜松市の渭伊神社
セットで行く予定なんですが、
神社情報をググっていたら、もろに南朝関係だったし。

以前から行きたかった石巻神社は、社殿が超好みだからで、
NHK大河で知った渭伊神社は、主に磐座目当て。
場所的に近いから二つセットにしただけなのに、
石巻山と井伊氏が、そうだったとは知らなかったな。

 

 

ていうか、先祖代々暮らしてきた三河そのものが、
南朝方だった。(笑)なんだそれ。

「南朝」というキーワードも、
ルーツ&惹かれる神社の理由探しの一つに加えておきました。

 

 

では、脳天大神さんへ向かいます。

 

 

 

仏舎利殿

 

 

 

 

傍らに前鬼・後鬼を従えた役行者の像に見送られ、

 

 

いざ455段の石段へ。

 

 

もちろん、三輪山のキッツい山道登り1時間とか、
吉野山の登り2時間半とかを思えば易しいもんですが、
結構
急な場所もあるので、スニーカー推奨です。

 

 

 

最初の石段をクリアした所です。

どっかで見たような光景だなーと思ったら、
そうだ。伏見稲荷大社だ。

 

 

あそこによく似てる。

 

 

 

倶梨伽羅不動尊と書かれた扁額。

 

 

 

ということは、
あれは不動明王が持っている倶利伽羅剣。

 

 

 

ちゃんと倶利伽羅竜王のお姿が彫られていました。

 

 

反対側は、休憩所かな。

 

 

近づくと、物言わぬ御二人。

 

 

緑の苔の帽子みたいになってる。

 

 

そして右側の方。

年代的にはそう古くない、まだ新しい感じですが、
なんていうか、お言葉が結構な勢いで入ってきます。
ふつうに人と話してるみたいに、
頭の中に言葉が響いてくるのでちょっとびっくり。

 

 

“霊感ないけど、ちょっとは感じる”
という程度の人なら、
何かしらの会話になるかも。

お願いごと、聞いてくださいますよ。きっと。

 

 

再び下る。

 

 

ひたすら下る。

 

 

脳天さんは下りきった所に鎮座しているので、
当然ながら、帰りは455段の上りが待っております。

 

 

今はこうしてちゃんとした石段がありますが、
その昔、蔵王堂の西側の谷は「暗り谷」「地獄谷」と称せられ、
滅多に人が入込まない、不気味な場所だったそうです。

また、南北朝時代の戦いで、多くの兵が倒れた所だとも。

そんなの想像できないくらい、
素敵な場所なんですけどね。

 

 

 

踏むのがためらわれる程、きれいな落葉がいっぱい。

 

 

桜のじゅうたんも素晴らしかったですが、
地面を彩る散紅葉もまた、素敵です。

 

 

 

あ、神橋。

 

 

 

振り返ったところ。

 

 

こちらの赤い鳥居には、岩峯大神の扁額。

 

 

金峯山寺管長に行場の霊示を与えた岩峯大神が祀られています。

 

 

こんな谷深い場所に鎮座する脳天大神の縁起は、
昭和はじめにさかのぼります。

 

 

終戦後、金峯山寺の初代管長(故 五條覚澄大僧正)が、
女性行者のための行場開発に取り組んでいたところ、
頭を割られた蛇に遭遇。

これを哀れに思い丁寧に葬られたのですが、
実はこの蛇、
蔵王堂のご本尊である蔵王権現様が、
姿を変えて出現されたものだったそうです。

 

 

なので境内の至るところに蛇さん龍さんがいます。

 

 

 

脳天大神その2へつづく・・。

 

 

 


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